私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

葷酒肉はお断り?

2006-10-29 18:43:02 | Weblog
 
      

 宇賀神社のある島を渡って、普賢院の境内に入りました。鐘撞堂からゴンーという鐘の音が響いてきました。このお寺さんは、来年の春の落慶法要に向けて、今最後の仕上げにかかっているそうです。立派な客殿に仕上がっています。
 特に、唐破風の玄関が、寺全体をより荘厳に映し出しています。新しさの中に何かしら気品に満ちた趣が、お寺全体の中に漂っています。それは一寸古びた山門が転生として大きな働きをしているように思えます。
 この山門の直ぐ脇に、たかさが2m弱ほどの石碑が建っていて、それには『不許葷酒肉入山門』と記されてる。頼山陽の書だということです。この中“葷”という字は「クン」と読み、にんにくなど臭みのある食べ物をいうのだそうです。 
 これは、この地で造り酒屋を営んでいた文化人である真野竹堂という人が依頼して書いてもらったということです。
 真野家のお墓については、千日墓地で説明しました通りです。

      

 

宇賀神社って知っている。

2006-10-27 22:16:20 | Weblog
 松並木の参道を神社に突き当たり、右に回ると道の右側に御手洗池が見えてきます。この池の中に、真っ赤なやけにはではでしい小さなお社があります。これが宇賀神社です。
 元禄4年(1696年)の吉備津宮御絵図によると、このお社を「弁財天」と、また、現在の案内板には、最古の稲荷神社だと記されています。
 宇賀神社、弁財天、稲荷神社、果たして、いずれが本当の名前なのでしょうか?

 喜田貞吉の本、「福神研究」によると、結局、この宇賀神は、もともとは、穀物の神であったものが、次第に食物の神に、又食膳の神に、さらには衣食を給する神に、果ては、広く福神にまでその信仰が広まったようである。
 それが日本各地に広まるにつれ、蛇神、弁財天、稲荷神、更に狐神茶吉尼(だぎに)天とも無理にこじつけられて、その区別が、甚だ複雑怪奇に、また、曖昧になって信仰を得るようになったのだそうです。
 それが、七福神信仰が広く定着すつ様になった室町以降は、福神として呼ばれることが少なくなったようですが、依然として、一部には稲荷人を始として、福神としての民間信仰を保っているようです。

 この宇賀神社が、始は「弁財天」「稲荷神」と呼ばれていたのも間違いではないようです。

 日本各地の宇賀神社
 ・大和の広瀬神社、別名;広瀬坐和加宇加乃売神社
 ・伊勢桑名の宇賀神社
 ・滋賀県神崎郡の宇加神社
 ・島根県出雲郡の宇加神社などがあります。

 吉備津神社内に、どうして宇賀神社が祭られたのか、まだまだよくわからないことがたくさんあります。
 なお、直ぐ後ろにある普賢院の住職さんは
 「元々、水を司る仏、弁天さんがお祭りしてあって、それが、宇賀神社に変化したのでは」
 と説明しておられましたが、それが正しいのかもしれませんが。
 

これなんでしょう

2006-10-25 18:32:52 | Weblog
 

 これ石仏かな。正体は何でしょう。石仏にしては、一寸変ですね。見たことありますか。

 答えは、又、何時かに。まさか、お釈迦様の臍ではないようです。

 町中を歩いていますと,こんな珍しいものにちょくちょく出会います。
 今日はこれで

    

 

宮内を歩く

2006-10-23 20:37:47 | Weblog


 宮内を自転車でぐるりぐるりと、暇に任せて訪ねて見ました。
 中山に、秋が少しずつ押し寄せてきています。はっきりとそれとは分らないのですが、なんとなく薄ぼんやりとしたあるかなしかの秋色が、いくつかの木々の中に見つけ出すことが出来出しました。
 これから11月の終わりごろまで、一日一日と、日々変化していく自然の色を、あたり一面に描き出してくれます。
 いよいよ里の秋を、本当に和楽しむ事が出来るようになりました。

 そんな色艶をゆっくりと楽しみながら、自転車を漕いで探索してみました。
 
 まずは吉備津神社から始めます。このお宮さんのことは吉備津神社専用のホームページがありますので、それをご覧ください。

 わたしは、そこにない隠れた宮内を探して見ることにしました。
 最初に。ちょっぴり古臭いと思われそうなことから始めます。と言うのも、宮内探訪も、古い本を参考にしなくてはならないと思い、色々な所から、参考書をお借りしました。

 その中の一つに、明治38年発行の「上代の吉備」(著者;沼た頼輔)と言う本を読んでみました。その本に、こんな難しい文がありましたので、まず、それからご紹介して、史蹟を巡ることにしました。

 “嗚呼、蔚蒼たる吉備の中山の麓、潺湲たる細谷川の邊、巍然たる社殿の松樹の間に隠見するを遥拝する毎に、悚然として、轉、敬礼の念を起さざるを得ず、聴けよ吉備国人爾等は名誉あるこの祖神の恩沢を忘れたるか、爾等が其の祖神に対して敬礼の意を致すは、これ謂はゆる報本反始の道にして、当然の義務ならずや。”

 と。
 ちょうっと仰々しすぎると思うのですが、皆さんのご意見は?
            
                      


 




徳政・喜智夫妻の墓を見つける。

2006-10-16 20:55:16 | Weblog
 10月5日に、徳川末期の尊王攘夷の波に諸に洗われた悲劇の徳政・輔政夫妻の墓が発見できない事を書きましたが、飯山の麓にある片山墓地に見つけることが出来ました。
 「どうして、こんな所に?」と、少々新しい疑問もわきましたが、急峻な坂道を降りながら、「喜智さん」の悲哀に満ちた晩年を思いやりました。
 その坂道を降りたところに、六体のお地蔵さんの慈愛に満々したお姿がありました。
 それを見ると、今まで、私の胸底に溜まっていた、なんとなく物悲しげな、もやもやとした晴れきらない気分が、急にぱっと啓けたように感じられました。
 その側に、また、これも珍しい石造の閻魔様が鎮座ましまして、極楽往生を約束してくれているようでした。
 
 

 片山墓地には、晩秋の早い夕暮れが、知らない間に、もう其処まで迫ってきていました。
 でも、向山の墓地は、まだ真っ赤な残り夕焼けに染まっていました。
      

板倉筋の最後に

2006-10-14 22:05:30 | Weblog
 さて、「わが町 板倉」も、最後に真金十字路の側に立つ「板倉地蔵堂」を最後とします。
 現在、国道180号線の交通のネックになっている板倉交差点の北西の隅に、こじんまりとした、お堂が見えます。
 現在は、自動車が頻繁に行き交う交通の要所であるため、余り目立たないのですが、山陽街道として栄えた江戸の往昔には、相当目立ったお堂ではなかったかと思われます。
 このお堂を建てたのは、この中に安置されていらっしゃる延命地蔵尊の台座にある、惣右衛門等9名の人です。また、建立は宝永元年(1704年)とも記されています。
 この一番初めにある惣右衛門は、当時、この板倉本陣(大名の宿泊所)の当主である。板倉の主だった人が、何らかの理由で、このお堂を建立したと思われます。
 このお堂の中には、延命地蔵尊像、地蔵菩薩胸像、観音菩薩像、不動明王像、弘法大師坐像の五体の石像がお祭りしてあります。
 弘法大師像や延命地蔵尊像の右下に、「真言講中」とありますので、何か「法華」との関連も、この中から読み取れそうな気もいますが・・・・?。(大覚大僧正碑が近くに二箇所もある)
 なお、延命地蔵像は、カンカン地蔵のお地蔵さんでもあります。「延命」とはいかなる仏でしょうか

 なお、このほか。この板倉地内には、妹尾兼康の首が懸けてあったとされる場所も、伝説として残っております。

 これで板倉筋の主だった旧跡の紹介を終え、次回からは、宮内地区を紹介していきたいと思います。
 
 

お地蔵さんだけが知っている?

2006-10-05 19:19:14 | Weblog
 千日墓地を歩いていると、「おや、どうして?」と言うようなことや「あ、ここにこんな!」と驚くようなことが一杯落ちていました。
  
 歩いていて発見した事を2,3ご紹介してみます。

 まず、初めに行き当たったのが、曽祖父と孫のお墓があるのに、その間の祖父夫婦と親夫婦の墓が何処を捜しても見つからないのです。「徳政」夫婦と「輔政」夫婦の墓が見当たりません。養子に出した「光次郎」が不慮の死を遂げたために、敢えて、墓を造らなかったのでしょうか。「喜智」と言う字を捜したのですが、これも見つかりませんでした。また。「紀一郎」という墓もありませんでした。
 幕末の尊皇攘夷の波を諸に被った悲劇を、こんな田舎の墓地にも、語らぬ声として秋風が蕭々した哀愁を漂わせています。

 これも、元禄の映えを色濃く残した、ただ「男」としか名前が伝わっていないお坊様のお墓も多くの墓石の中に世を達観した如くに淋しくたっています。

 また、高雅(たかつねと読みます)の肖像画を描いた日本画家の三好雲仙の墓も、頼山陽や菅茶山の墓誌がある真野家の墓もありました。

 栄枯盛衰が、且現れ、且消えする人の世情を諸に語らしめている、時を超越した空間の中で、空を連れとして十分に遊びました。

 秋の風があたりを柔らかに通り過ぎています。
 

 墓から降りがけ、入り口に立っていらっしゃるお地蔵さんにお会いしました。そのお美しい微笑みかけていらっしゃるお顔に、夕陽が一杯に当って輝いていました。
 冥土は、自然の中にどこでもあるのだと思いました。

 最後に、ここは旧真金村です。この墓地には、宮内村の人々のお墓が沢山あります。
 よその村に墓を造るということがどうして出来たのでしょうか。
 これも不思議なことの一つです。

 又この墓地のある向山(又は板倉山)のある山を名越山と言います。向かいにある吉備の中山といつも争っていたのですが、勝った例がない、いつかはきっとその名を「越そう、越そう」と思って山の名前にしたと言えそうですが、実際はよくわかってはいません。文献がないのです。 

好きなご飯?

2006-10-03 15:24:35 | Weblog
 食欲の秋です。ご飯がうまい季節です。
 我家でも、つい1週間ほど前から、吉備高原の吉川地区(吉備の準平原とよがれている約2000万年前頃に出来た平地が隆起してできた標高300m程の台地)の農家より頂いた新米を食べています。このお米を食べると、他のお米は、何かどうも味が今ひとつと感じられて美味しくありません。孫にも食べさせているのですが、4、5歳の小さな子でも、それが分るらしく
 「じいちゃん、あのお米のご飯美味しいよね」
 と、ストックがなくなった8月頃より「いつできるの」と、新米が出来るのを楽しみにしているようです。
 この前結婚した長男の嫁も、「お米を頂戴」と言いますので、わざわざ京都にまで、早速送ってやりました。
 
 「御飯」やっぱり、日本人には合いますね。
 私は、何を言っても、朝は、「味噌汁・たくわん・梅干の御飯党」です。ほかは何もいりません。
 しゃりっとした、「しゃかしゃかしい」歯応え,じんわりとした仄かに匂い立つあるかなしかのお米独特の御飯の匂いが、口、鼻、頭のてっぺんへと漂い広がり、それから、やおら、やんわりと再び鼻から食道を通り下りて、しんわりとお腹に達します。そのわずかな時間の爽快さと言ったらありません。
 毎朝、この「ありませんよ」と言いたい時間を、ゆくっりと楽しんでいます

 御飯でなくては味合えない、私の朝の風景です。