私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

国王猪鹿狩りをする

2011-10-31 10:08:58 | Weblog
 このビスカイノ一行は東北日本の太平洋岸沿いに各地を探検しているのですが、世界中で最も善い港だと褒めた、この雄勝で、国王、即ち伊達政宗がこの近くで猪や鹿狩りをしていると聞いて、早速、ビスカイノは政宗宛にその探検報告書を贈ります。それに対して、政宗から、「伊達藩内に善い港が沢山ある事を聞いて嬉しく思う。今は野営しているので会うことができないが、いずれ仙台に帰られた時は是非会いたい」と書いた返書とともに、捕れた鹿などの得物を贈って来たと書かれてあります。

 なお、この時、政宗がこの狩猟の為に引き連れて行った従者について、
 「家士並に附近の農夫の此の為め集りたる者は百万にも達したるべし。多数の人山を囲み獲物を追出し又長銃或は手を以て之を獲んとせし技術は見物なりしという」
 と、記してあります。

 四月初めにこのブログに書いた司馬江漢の「春波楼雑記」の中にあった足守藩主の鹿狩りの時には、足守藩主が連れ出した勢子の数は家来やその近隣の百姓でしょうが、「数十人」であったと書いてありましたが、此の伊達侯の鹿狩りは、多分、大げさに書いたのではないかと推測されますが、百万もの武士や農夫が動員されたと書かれています。足守藩と伊達藩の大小の違いはあるにしても、そんなに百万なんてのは、この数どう見たって怪しいのではないかと思われますが。それにしても百万と言う数はどこから出たのでしょうかね。

 まあその辺りの数字は兎も角として、政宗と言うお人の力がいかにあったかと言う事を知るうえでも大切な資料ではないかと思われます。

 

雄勝

2011-10-30 16:47:10 | Weblog
 今回の大地震によって壊滅的な被害にあった雄勝ですが、1611年ビスカイノはこの街の印象を次のように書き残しています。

 「雄勝の湾の端に在り、其内に一港あり、世界中最も善く又一切の風より保護されたるものにして、此の如きは未だ他に発見せられたることはなし。何となれば出入口甚だ深きのみならず、海岸に着きても海底まで十尋以上あり。此処に多数の村落及び金鉱あり、住民の数多く糧食は豊富にして値も亦廉なり。水を以て囲まれたる寶庫にして薪其他の必需品の供給を自然界に仰ぎ得べき物を産出し、我等の希望する事に付最も適したり。」

 天然の良港にして食料も豊富でしかも安価であり、世界中で一番良い港であるとも褒めています。
 ここには、又、金鉱があるとも書いていますが、これはどうも怪しいのではないかと思います。硯の産地としては日本では有名で、其の硯の原料は粘板岩によるものですから、普通なら金鉱があるはずありませんが。

 なお、この雄勝も今回の津波の影響で大被害を受けたと云うことは報道で知っていましたが、若し、今のこの町の壊滅状態の様子をビスカイノが見たとしたら何と云うでしょうかね。「あれほどの良港が、どうしてこうまで悲惨な状況に追いやられなくてはならないのでしょうか。おお神よ」と、甚く嘆いた事だろうと想像がつきます。それくらい今回の地震はひどかったようです。なお、その津波の様子が映像として残されています。インターネットで、「雄勝」で見ることができます。此処だけではありませんが、本当に今回の地震は言語を絶するものだったと云うことが分かります。

ビスカイノ金銀島探検報告に戻ります

2011-10-29 12:07:36 | Weblog
 松嶋を見てその多嶋美を無視するかの如くに、ただ仙台藩主伊達政宗から「特に観覧すべしとの注意ありしに依てなり」と、しぶしぶではないにしても、彼等の日本建築に対するその美しさと言うより、誰からか云われたので見た程度の、至って他力本願的な感じの見学であったのでしょうか?「宏壮なる建築」とのみ書いています。普通なら、屋根瓦と周りの松の緑と、時はあたかも晩秋です、その木々の紅葉とが互いに映えあっておりなす艶麗な風景にその美的感覚を震わせるはずですが、此の荘厳なお寺からは彼等には聊かもそのような東洋的身美を感じさせるような物とは映らなかったのでしょう。彼等はその自然の中に漂う日本の美的空気が、きっと読めなかったのでしょう。

 そこを出発して三陸海岸を進み、小さな港湾を測量しながら北上しています。大塚、湊、月浦、大原、石浜等の港を調査しながら、10月23日には雄勝についております。

沖の石

2011-10-28 12:00:14 | Weblog
 「末の松山」で道草を終わり、再びビスカイノに戻ろうかと思ったのですが、久しぶりに、例の筆敬氏からメールが届きました。

 「末の松山をけえてえて、せえでおわりょうたんじゃあおえんど。おめえもしっとろうが、末の松山とくりゃあ、どうしても、そのあてえ、あの沖の石にちいても、かかにゃあおえりゃあへんど」

 と、是又、誠に貴いご忠告です? 相変わらず「ひつけえなあ」と思いながら、其の沖の石について、又、ちょぴり調べてみました。

 まずは「奥の細道菅菰集」から
 芭蕉の奥の細道に書いてある「野田の玉川沖の石を尋ねる」の解説を曽良が書いています。

 「野田の玉川本朝六玉川のうちにて名所なり。「夕されば汐風こしてみちのくの野田乃玉川鵆なく也」 能因 沖の石は末の松山のうちにあり 千載集「我が恋はしほひに見えぬ沖の石の人こそしらねかはく間もなし」 二条院讃岐 按ずるに、ここの沖の石はこの歌により後人附会して付たる名なるべし。讃岐の歌は、ただよのつね海洋ある所の石を云う。この末の松山の石に限るには非ず。」

 曾良が言うように「沖の石」は、後の世の人が無理にこじつけて、そうです。「府会」して付けた名前なで、二条院の讃岐は、末の松山の傍にある沖の石を詠んだのではないようです。

 筆敬さんのお陰で、こんな事実が分かりました。私は末の松山と沖の石は陸奥の国の歌だとばかり思っていたのですが、そんな新しい発見でした。

 昨日取り上げた「和歌名勝志」には、末の松山はありますが、この沖の石はでていません。念のために。なお、今回の大津波でこの沖の石までは浪が押し寄せたのだそうです。

またまた、ええ気になって

2011-10-27 16:28:02 | Weblog
 わたしのブログで、昨日の閲覧数が前代未聞の1800PⅤにも達成しました、どうしてこんなにと聊か驚いてもいます。そこで、又々ええ気になって、何かこの松島に関するえヽもんはないかと捜してみました。

 私の本棚には、言っては何ですが、江戸時代に出版された貴重図書と言われる本が少しではありますが並んでいます。その中で、何かこの松島と関わりがありそうなものはないだろうかと探してみました。すると、中にちょこんと並んでいるではありませんか。明和7年(1770年)に出版された「和歌名勝志」
       
と言う本です。
 其の中の陸奥の国の欄に、あの「末の松山」の歌が説明してありました。

 君をおきて あだし心を 我もたは 末の松山 波もこへなん

 「若し私があなたを裏切ったりするとしたならば、決して越えないと昔から言い伝えられてきたようなう海の波が末の松山を易々と越えるでしょう。それぐらい私はあなた一人を大切にしますとお誓いします。我が恋は只あなただけのものなのですよ」と、です。

 さて、あなたしか愛せないと言うテレサ・テンの歌ではないのですが、今まで一度も越えた事がないと云う「末の松山」を、今回の大地震による津波は越えたのでしょうかと、聊か、気になりました。どうだったのでしょうかね。?????
 
 

松嶋勝譜

2011-10-26 12:46:17 | Weblog
 松嶋を紹介した明治のこの本に付いてもう少々書いてみます。昨日のこのブログへのアクセスが余りにも多かったので、またもや「ええ気になって」その続きを書いてみます。

 「世に八百八嶋ありというは大小の島々数おほきをいふ詞なるべし。みな海面に相ならひて碁盤に石をもりたるが如く、いずれも争いて奇状を呈す。中にも古より名高きは雄嶋なり。名なき小嶋は幾何なるをしらず。その嶋みな天造の自然に出で、前より見ると後ろより詠むると、さまざまな形をなして棹をすすめ、梶をめぐらすに随いて千態万状かぞへ尽し難きが故に里人といへともあまねく其名を知らざるもあり、されば其見ゆる姿を以ていはば八百八はいふもおろかなるべし・・・」

 と。

 なおこの本には、挿絵として、次のような絵も載せてありました。

   

 

もう一冊の松嶋

2011-10-25 10:36:41 | Weblog
 もうこれで松嶋について終わり、ビスカイノの次なる土地への旅をと思ったのですが、私の本棚に、明治41年に再版された「松嶋勝譜」と言うをあるのを思い出しました。この中に松嶋を紹介した名文があったのを思い出し、早速、開けてみました
            
 この本の最初のページには川端玉章が描いた松嶋の図が出ています。

   

 この本の最初の文章も至って名文です。序での事に、今日も、その一部を御紹介しておきます。

 「我が邦内山水の美をいへば松嶋を以てその冠絶をなす。然れどもその東陬にあるを以て此に遊ぶ者多からず。偶遊ぶ者あれど其区域広大なれば一朝一夕に其景を尽す能はずして纔に其一部の美を観て喜べるのみ。世に松嶋と安芸の厳島と丹後の天橋立とを日本三景と称すること始て日本事蹟考に見えたれども所謂衆盲摸象の言にして決して比肩すべきものにあらず。荒い白石先生甞て松嶋を以て古へに称せし処の蓬莱なりとせり。南山禅師詩あり
  天下有山水 各擅一方美 衆美帰松洲 天下無山水 と。」

 此の詩で、南山禅師は「松嶋を見ずして松嶋を語るなかれ」と言っているのです。日本三景の中でも、その美しさは松嶋がダントツだと絶唱しているのです。
 
 その松嶋が今回の地震や津波で、どうなっているのでしょうかね。震災当時は、時々テレビなどでも報道されていたようですが、近頃はさっぱりお目に懸かれませんが。早い機会に是非訪れ、どのようになっているか此の目で実際に確かめたいものだと思っています。

 それくらい気のかかる松嶋ですが、1611年にここを訪れたビスカイノ達イスパニアの人達はどう思っていたのでしょうか、其の感激については一切語ったってはいません。決して、彼等は朴訥な人ではなかったとは思いますが。

我が家の秋色

2011-10-24 18:20:39 | Weblog
 松嶋もお休みして今我が家の秋のまっ盛りをお見せします。
 今年は柿が豊作です。たわわに実った柿の実を取ってきて吊るし柿にしています。その枝々には柿衛門の真っ赤がここを先途とその覇を競うが如くに秋の色を競演しています。その赤をちょこっとお見せしたくてカメラを向けてみました。

                      
    
              
 

ええきになって

2011-10-23 10:12:51 | Weblog
 この一週間、私のこのブログへ多くの訪問者に来ていただいております。何と一週間の総計が始めて8000の大台に乗りました。それで、ついつい「ええきになって」ではないのですが、私の持っているもう一冊の本を自慢がてらにご紹介します。まあ、そんじょそこら転がっているような本ではないと内心では思っているのですが?。それは

     安永7年に出た「奥の細道菅菰抄」と言う本です。
       


 昨日紹介した芭蕉の「奥の細道」と今日取り上げた「奥の細道菅菰抄」と、どう違うのかと言うと、この松島の部分だけを見ても、この2つの書物の間には随分と違いがあります。それをええ気になったついでに書いてみます
      

 (なお、この菅菰抄は芭蕉の旅に付き添った曾良の書いたものだそうですが。)
 
  
 芭蕉の奥の細道の方には
 「・・・欹ものは天を指ふすものは波に圃匐<あるは二重にかさなり三重に畳て左りにわかれ右につらなる負るあり抱るあり>児-孫愛す・・・」
 とありますが、この菅菰抄では、この<・・・>の中に書かれている赤の字の部分の文章はありません。之は、「恐らく、此の旅を終えた後から、芭蕉が其の文学的な価値を高めるために付け加えたのではないか」と、偉い学者の先生が言っていたのを聞いたように思いました。

 まあ、それにしても、2つ比べて読んでみると、やっぱり芭蕉が何回か推敲して書き起こしした「奥の細道」の方がど迫力があるように思われます。

 この部分は何回読んでもよ読み飽きると云うことのないくらいにほれぼれする名文です。日本の名著の一冊であることは確かです。

 お節介かもしれませんが、再度、取り上げておきますので、もう一度御読みになって見てください。

 抑松嶋は扶桑第一の好風にしてをよそ洞庭西湖を恥ず、東南より海を入て江の中三里淅(セツ)江の潮(ウシホ)をたゝふ嶋ヽの数を尽して欹(ソハタツ)ものは天を指ふすものは波に圃匐(ハラハウ)あるは二重にかさなり三重に畳(タタミ)て左りにわかれ右につらなる負るあり抱(イダケ)るああり児-孫愛すかことし 松のみどりこまやかにして枝-葉汐風に吹たはめて窟-曲をのつからたけたるがことし其気色窅然(ヨウゼン)として美人の顔を粧ふ千早振神のむかし大山すみのなせるわさにや造-化の天工いつれの筆をふるひ詞をつくさむ・

松島の美

2011-10-22 08:25:22 | Weblog
 ビスカイノは、この雄大にして、しかもその無比なる自然の為せる造化の美に触れて、何も心に感じることはなかったのでしょうか、一行もその報告書に書いていなかったのです。と云うことは、随分と、この松島のそれを造り出した神の為せると言ってもいいような自然の妙に対する無礼なことではないかと思われます。
 折角、これほどまでに、1611年当時の日本をヨーロッパと言う外からの目でとらえた貴重な資料を残してくれたのです。この資料を、今、私は読んでいます。彼が書き現わさなかった、日本人が万葉の遠い昔から感じていただろう松島に対する思いを、此処に書き記すことは、今、そうです。あの震災から懸命に立ち上げろうとしている、そんな東北の人達に対する大きな声援ではないのですが、少しでも励ましになればと思い、敢て、書いておきます。

 これは、日本人が感じる究極の自然が作り上げた美への、松嶋と言う名を借りて書きあげた讃歌では似でしょうか。それが芭蕉の奥の細道にある松島です。

 先ずこれを見てください。

             「芭蕉自筆奥の細道」(岩波書店)より

 この奥の細道に書かれている松島に関する文を書いておきます。私の一番好きな場面です。

 「抑松嶋は扶桑第一の好風にしてをよそ洞庭西湖を恥ず、東南より海を入て江の中三里淅(セツ)江の潮(ウシホ)をたゝふ嶋ヽの数を尽して欹(ソハタツ)ものは天を指ふすものは波に圃匐(ハラハウ)あるは二重にかさなり三重に畳(タタミ)て左りにわかれ右につらなる負るあり抱(イダケ)るああり児-孫愛すかことし 松のみどりこまやかにして枝-葉汐風に吹たはめて窟-曲をのつからたけたるがことし其気色窅然(ヨウゼン)として美人の顔を粧ふ千早振神のむかし大山すみのなせるわさにや造-化の天工いつれの筆をふるひ詞をつくさむ・・・・」

 とあります。

 高校生の時に古文の先生がこの部分を暗記しろと言われ、どうしてここを暗記しなければと、随分その先生の宿題に恨み事を言ったのですが、それも今になってみれば、何て素晴らしい宿題であったかと今更のようにその先生に対して思いが顔面にほとばしるように感じられます。

 人間て、本当に、勝手なもんですな、と思いながら、声に出しながら書いています。なお、赤字の部分が写真に出ている文章です。

松島について

2011-10-21 12:37:57 | Weblog
 ビスカイノ達一行は仙台から塩釜に行き、翌日には松島に到着して、政宗に、ぜひ見なさいと云われて瑞巌寺も見学しています。

 この瑞巌寺のある松島ですが、日本三景の一つに数えられている日本でも有数な景勝地でもあるのですが、ここに繰り広げられている感動的な絶景に付いて、ビスカイノ達、西洋人にはそれほど印象深く心に留まらなかったのでしょうか、その多島美「松島」に付いて何も書かれていません。只、そこいらの港は余りにも規模が小さく小舟の為にはいいのだが、イスパニアの船の為には小さすぎるとだけ書いてあります。
 ここら辺りにも西洋人と東洋人の物の見方と言うより美意識の相違が現れているように思われます。
 最も、この文章は、「ビスカイノ金銀島探検報告」と言う事で書かれていますから、只の旅行記ではありません。だから、日本の絶景な自然の景色までは書き留めないのが当たり前かもしれませんが、それにしても其の事に一つも触れていないと云うことは、私にっとっては、少々奇異に感じられてしたかありません。

 それだからと言うわけではありませんが、日本人の見たこの松島の美しさに付いて、一寸これも寄り道ですが書いてみます。特、今年はあの3・11の東北日本の大地震があり津波などにより相当な被害を生んだことは確かですから、そんな松島を詠んで古今からの名文をもう一度皆さんにもと思い書いてみます。

 古来、多くの日本の文人たちがこの地を訪れ、この松島に関する多くの詩歌を詠んでいます。その代表として、まず、上げられるのが新古今集の俊成の歌です。

   立ちかへり 又も来て見む 松島や 
                   をしまの苦屋 浪にあらすな

 があります。

 又、百人一首にある殷富門院大輔の
   見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
                   ぬれにぞむれし 色はかわらず
 もあります。なお、この歌は源重之の「まつしまや雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくはぬれしか」の本歌取りだとされています。

 このように松島を詠った歌は平安の時代からあり、当時から、この松島は日本の景勝地として知られていたのです。
 
 

ビスカイノ瑞巌寺を見る

2011-10-20 09:01:00 | Weblog
 仙台に来て政宗と接見した後ビスカイノは政宗に進められて瑞巌寺を見学しています。

               

 「当国の最も宏壮なる建築で以って王より司令官に対して特に観覧すべしとの注意ありしに依りてなり」

 政宗がブスカイノに是非見なさいと勧めたので拝観したのです。

 「寺は木造なれど彫刻及び手工の最も精巧なるものなり、石造にてはエスコリヤル、木造にては当寺を以て世界に並ぶものなしと言う事を得べし。・・・巡礼として此寺に詣る者甚だ多し」
 とあり、京都や奈良などの寺を見てないので為に、此の寺が世界に並ぶものがないと書いていますが、もし、その時京都の寺をこのビスカイノが見たとしたらどんな感想を持ったでしょうか。特に東大寺を見ていたとしたならですが。又、「坊主が寺を管し多くの収入を有せり」とも書いています。

 イスパニヤのような石造の寺院ではなく、木造の寺であることに驚いたのでしょう。ビスカイノは、それから、此の寺の和尚と会見して、一緒に食事をしています。

 なお、この瑞巌寺は、政宗がその父の供養のために建造したものですが、以後、代々伊達家の菩提寺にもなっています

伊達政宗を訪ねる

2011-10-19 11:45:07 | Weblog
11月5日にビスカイノ達一行は仙台に到着して伊達政宗を訪ねています。その際の贈りものとして金襴上等の黒羅紗其他三百ドカドの贈りものを用意して城に行きます。この三百ドガドと言うお金ですが、其価値がいかほどか不明です。

 その城の様子について「水深き川に囲まれ、断崖百身長を超えたる厳山(青葉山)に築かれ、人口は唯一にして大さ江戸と同じうして家屋の構造はこれに勝りたる町を瞰下し・・・」とあります。青葉城です。此処で政宗はビスカイノと親しく会見し、食も共にしていますます。その翌日には、家老の家に招かれて、そこで劇を見たとあります、お能でしょうか政宗と見たと書いております。
 この仙台でビスカイノ達一行は十五日まで滞在いております。

 その後、塩釜や松島を訪れております。

会津若松地方の大地震

2011-10-18 12:04:10 | Weblog
 東北各地方の港湾の測量調査のための朱印状が秀忠から便宜されたビスカイノ達の一行は、1611年10月22日から奥州に旅立ちます。

 越ヶ谷―古河ー雀宮ー宇都宮―大田原―白河と進み、10月29日には若松に到着しています。

 此の若松藩のビスカイノに対しての饗応について聊か詳しく記してあります。   
 「・・昼の九時城に着き、甚だ鄭重に迎えられたり。旅行の事我等の赴く地方の事に付談話したる後、我等の国風に調理せる肉を出さしめ・・・」
 と、あります。此の肉料理ですが、牛の肉を食する習慣は日本にはなかたっと思いますから、多分鹿か猪の肉ではなかったのだろうかと想像しています。    
 また、この時若松は、前月の大震災の為市内の二万戸以上の家屋が倒壊しており、現在、まだその修理を行っている為に、十分に饗応が出来なとなど出来ないと話したと云うことです。

 それからこの地震に付いて、「どうして地震が起こるのだろうか」知っていたら教えてほしいと藩主蒲生秀行が聞いてきたので、ビスカイノが      
 「天に在す神が天地及び人類を造り給ひ、神陛下必要と認め給ふ時空気をして地を振動せしめ、王侯其他地上の住民をして造物主を思い出し、悪行をなせる者は改悛せしめ給ふを説きたる。」   
 と、答えたと云うのです。
 

 一七世紀初頭の科学は、あまり地震に対しての研究は進んではおらず、西洋の知識人ですら、この程度の知識しか持っていなかったんではと思われます。地震は神が必要と思われた時に空気を振動させるために引き起こされるのだと説明したのです。地が揺れ、津波が起きるのも総て神の意志であると云う地震説は、日本の地下のナマズ振動説とそんなに変わらないと思いますが。

 なおこの会津若松地方の大地震に付いて、慶長一六年八月二一日に起きたと記録に残っています。      

江戸での噂

2011-10-17 16:37:40 | Weblog
 駿府から江戸に帰ったビスカイノ達は、次のような噂を聞いたと云うことが書いてあります。

 「父なる皇帝死せば彼は基督教を保護すべしと噂する者あり。何となればイスパニア国民に対し厚情を示し、又我等の神聖なる教に関する談話に於いて其心に傾きたる事を発見したれば、キリシタンとなるの望みなきにあらず。神陛下彼に真の光明を与へ給へ」

 このような事をビスカイノ達は感じていたのでしょうか。日本人が皆キリシタンになる事が有益と考えていたのだと書いています。

 私は昨夜NHKの日曜ドラマ「お江」にあったような、家康と秀忠との不和の様子が放映されているのを見たのですが、それが歴史的事実であるのかどうかは分かりませんが、家康と秀忠との間にある程度の考えの違いがあったのは間違いない事だと思われます。
 家康はその側近にイギリス人三浦安針(ウイリアム・アダムス)等を置いて、17世紀初頭の西洋の事情についても十分知っていたのでしょう、スペインに対してそんなに好感を以ていたとは考えられませんでした。1588年のアルマダの海戦等についての知識を持っていたのでしょう。
          
 だから、駿府を訪れたビスカイノ達イスパニア人を余り歓迎してはいなかったのだと思われます。それに対して秀忠は、どうしてだか分からないのですが、ビスカイノ一行を大いに歓迎しています。その違いは、もしかして、二人の仲違いが原因しているのかもしれませんね。
 でも、この秀忠が基督教を信じていたなどと言うことはあり得ないことではないかと思えます。まして、それが日本にとって有益な者になろうとは考えてはいなかったのではと推察しています。そんなに短時間の内に、わずか1回の会見で、基督教の良さが分かるわけはないと思えます。
 そこら辺りにもビスカイノ達の秀忠や日本人への情報の少なさでが物語っているのではないでしょうか????。