私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

大晦(おおつごもり)です。

2008-12-31 18:29:21 | Weblog
「泣いても笑っても」という言葉が今日ぐらい多く使われる日はないと思います。
 おおつごもりです。大晦日です。何かし残したことが身の回りに一杯にあるように思えるのですが、ではそれが何ですかと、尋ねられても、「はいこれです」と、はっきりと応たえられないのが「12月31日」おおつもごりでです。現代人である私には、あの西鶴の世界には入り込めないのですが、押し詰まった思いをいっぱいに感じています。
 今日のまずの仕事始めは、例年の通り山神様の清掃から始まります。
 誰から言われたというわけではないのですが、もう何年も前から祠のお飾りを作って奉納しています。真新しい青いわらで作ったお飾りのなんとも言われない気持ちよさが山の朝の気から漂ってきます。
 冬眠ノヤモリがうようよと祠の扉の後ろにはいつくばっています。そのヤモリを驚かさないようにそっと扉を開けて掃除をします。一通り祠の清掃が終わって、榊とお餅を上げてます。
 飾り付けが一通り済むと
 「ああ、やっと無事に今年も終わることができました。ありがとうございました」と一礼して、向畑町内の掃除仲間と一緒に山から降ります。
 山から下りると、今度は、我が家での「大歳様」(正月の神さんの名前です)をお迎えする準備です。
 最初に、玄関口にお飾りを飾ります。
  
 
 次は玄関です。 
  
 玄関を済ませて、いよいよ床の間の飾り付けです。来年は丑年です。私の宝物の太田喜二郎の描いた田を耕している牛と農夫の絵を今年は飾りつけます。
   
 

 これが私の年末の大仕事です。
 夜は早めにお酒と年越し蕎麦を頂いて、紅白も何もありません一直線に寝床が待っているだけです。


 なお、私の鏡餅の供え方も見てください。ご批判があれが幸いです。
 

お飾り作り

2008-12-30 18:06:50 | Weblog
 昨日、正月用のお飾りを作りました。私しか知らない独特な神棚用のお飾りです。父が祖父から伝授してもらったのを作っていたのですが、そのやり方を見ながら、教えてもらったという記憶はないのですが、何時のころからかは定かではないのですが、その作り方を覚えていました。兄も弟もいたのですが、作ることはできないようです。そななものに興味がなかったか手出しをしなかったように思います。
 ちなみに息子たちにも教えてはいませんので、私の兄弟のように興味もないのか端から作ろうとはしません。だから、今でも作ることはできません。
 いつの頃でしたか高校生の頃だったのではなかったかと思いますが、父が作っているそのお飾りを、私も黙って父の横で作ってみました。二人とも無言で作ります。やがて、父も私もほとんど同時に仕上げることができました。私が仕上げたお飾りを、父は黙ってしばらく眺めていましたが、無言で、他のお飾りも作るのをやめて、それなり何も言わないで家の中に入っていきました。私の方が出来栄えがよかったのではないかと思います。それ以来、我が家のお飾り作りは私が専門にやるようになりました。寂しかったのか嬉しかったのかよくわかりませんが、息子と交代したのです。でも、藁の袴だけはきちん取り除いてくれていました。そんな父の年齢はとっくに過ぎたのですが、いまだ私は毎年作っています。

 その時の父の気持ちをいつか聞いてみよう、聞いてみようと思いながら年月が流れれ、聞かずじまいで父は黄泉へ旅立ってしまいました。

 私には孫娘がいます。この子がなかなか器用でも知るると言えば教えてやりたいと思っています。

板口冨美子という人ご存じですか ⑥

2008-12-29 18:00:03 | Weblog
 今日は師走の29日です。お隣からは威勢のいい餅つき音が聞こえて、年末もすぐそばです。 私はお正月用の私だけのお飾りを作りました。我が家だけではなく、向畑の山神様や観音堂のも作ります。一日かけて全部で13個も作るのです。特に観音堂のお飾りは私特有の凝ったものに仕上げます。横幅が一間もあり青竹をしつらえ、仕上がりまで1時間半もかかります。写真で明日にでもお見せします。
 そのお飾り用の青竹を山に取りに行きました。
 雑木林が葉っぱをすべて振り落とし、少ない冬の陽がそこらじゅうに一杯に広がっています。ヤマガラでしょうか、ちゅちゅとその枝を飛び交いしています。吹きすさぶ北風に木々の枝が重なり合ってピシピシという音を立てながら、そのヤマガラを驚かしています。
 冬でないと見られない山の景色が辺り一帯に広がって、人っ子一人いない静けさの中で、私はしばらく、ヤマガラと木々か擦れ合う音を聞いていました。誰にでもない私だけの楽しみの一時でした。

 板口冨美子の歌の中に

  “雑木山に 陽のおよぶとき 天地(あめつち)は
              なべてあたらし 人世の遠し”
 
 というのがあります。
 「人世の遠し」とは、何を言っているのでしょう。
 人が右往左往している窮屈なこの社会にあって、自然のなんて豊かで新しいことだろうと、冨美子はベットの中から遠くの向こうの裸木の山を見て思っているのです。
 人に比べて、自然のありのままの姿に、ただただ感心してばかりです。そしてその偉大さに今更のように思いを馳せているのです。それが「人世の遠し」という言葉の中に含まれている意味ではないかと思います。
 現代、いや、2008年12月29日、今日を詠んでいるのではないかとさえ思える新しさがあります。

板口冨美子という人ご存じですか ⑤

2008-12-28 17:41:28 | Weblog
 調べてみますと、板口冨美子という詩人は全国的にいって、そんなに著名な大詩人ではないようです。てっきり朝日新聞に載るような人ですからと私の早合点でした。
 でも、だからと言って、そんな名もないようなどこにでもいるような薄っぺらな詩人では決してありません。私の目から見ると、異色ですが偉大な詩人(同郷ということもあって歌人尾上柴舟に師事する)だと思えます。
 書くのもままならない寝たっきりの人がこれだけ沢山の歌や詩を創っています。香月泰男の絵をこよなく愛した冨美子の気持ちが分かるように思えます。自由のない厳しい環境に耐えて、それでも、なお明るい色彩、光といった方がいいのかもしれませんが、を失ってない泰男の絵に冨美子のその思いが重なり、生きることへの底知れない喜び、いや、希望です、をくみ取ったのではないかと思えるのです。
 僅かばかりに取り付けられている部屋の窓から見える小さな世界か冨美子の目にできる総ての世界なのです。360°の視野ではないのです。限られたスペースからの目にできるその何十分の一かの世界なのです。それも何時もというわけにはいかないのです。障子が閉まっているときは外界から遮断されてしましますし、庭樹が茂ると見える範囲が狭まります。まして空まではなかなか見ることがなかったと言われます。
 冨美子は書いています。(「うぐいすの巣」より)

 “私の部屋からむこうの山がこんなに近いのに、その山を私はめったに見ることがない。・・・・・
 でもときたま、何かのはずみに、その山の色におどろいたり、二つにわかれた峰の稜線のやさしさ、おおらかさにあらためてしばらく見入ることもある。・・・”

 その山の峰の先に輝くベガを正月の空に見つけ、本田先生(当時の倉敷天文台長)にいただいた双眼鏡でのぞきます。子供の時に見た七夕の織姫を見ます。
 “・・・ベガに、あの山の上で出会えたのである。・・・・・・・
 世界中のそれぞれのところで、それぞれのとき、多くの人がベガを見ているであろうが、あの山のベガは、やっぱり私にだけいただいた、そらからの、そして本田先生からの贈りものだったように思われる”

 高梁川が嵌入して流れ、わずかばかりの平地が広がっています。そんな山峡にある街をぐるりと急峻なお山が取り囲んでいます。その北にあるお山に、冨美子が「なんと美しいのだろう」と、見つけたベガの光っていたのです。西に傾いて出た真冬の星です。このうえなく美しい空のペーゼジェントです。7月の織姫とは、また異なった冬の美しいベガが空に繰り広げています。美袋でしか、また、冨美子の寝たっきりのベットの中からしか見られない、特別の美しさだっただろうと想像がつきます。

   元旦を 仰ぐむこうの 山はだは 
               うすら陽さして ゆたけき枯色
 

板口冨美子という人ご存じですか ④

2008-12-27 14:29:56 | Weblog
 昨夜、不思議な夢を見ました。
 私は大正時代に発行された一冊の絵本を持っています。大正ロマンがひしひしと感じられる大変懐かしいにおいのある絵本です。この本の中に竹久夢二の画いた絵が載っています。下の絵がそうです。
       
 そうです。この絵の女の子が夢枕に立ったのです。寝ているはずなのですが、きちんと立ち上がってきて言うのです。

 「あなたが平方政代さんの甥っ子ですね」
 「・・・・・・」
 「もう大分前ですが、あなたは桐の花の枝を折ってきてくれた。あやちゃんの子でしょう」
 「・・・・」
 「どうして桐の話が出たのかはわからないのですが、桐の紫が美しいという話になり、どうしても見たくなって、つい、政代さんに話してら、次の日あなたが届けれ呉たのです」
 「・・・」
 「それから、あなたにはホトトギスの声を聞かせてもらいました。これはあなたのお父様と話していた時のことです。よく美袋ではホトトギスが鳴くという話になり、あれが多分と、私は思っていたのですが、それを確かめる機会もなく時が流れていったのですが、何時だったかわ定かではないのですが、麦秋のせわしい時分だったと思います。夕闇が迫りかけた部屋に、あなたが突然に駆け込んできたかと思うと、いきなり、『あの声がホトトギスです』と、教えてくれたのです。あれ以来私は夏が大変好きになりました。あなたのおかげです」
 「・・」
 「でも、今度ばかりは、ちょっと私は怒っていますのよ。だって、あなたが書いたあれはなんです、どうして私が薄倖なのです。私は自分自身をそんふうに考えたことは一度もなかったのですよ。むしろ、あなたたちよりは幸福な人生だったと言えるのかもしれません」
 「・」
 「だって、ここからは悪は見えませんもの、全て善ばかりですもの。あなたの桐の花も、ホトトギスも全て善ですもの。悪い人は見たことありません。例え終身刑の囚人であろうと。私の周りにいる人は全て善人なのです。悪い人を知らないで、世の中で暮らせるってとっても幸せじゃないと思わない。だから幸せな人生なのです」
 「・」
 「人はだれでも生きています。人が『生きる』という事に関しては薄倖も幸福もありませんよ」
 「?」
 「こんな私の歌がありまます。
     死ぬまでは 生きねばなるぬと いうことば
               長病むわれに 鉄則のごとし

    ひとりでに 生きらるるとふは 病むわれに
               いくたび思ふも すばらしきこと 」
 
 これだけ云うと、その冨美子の夢二の少女はどこかへ消えていきました。

 これが私の夢なのです。不思議な夢でしょう。

板口冨美子という人ご存じですか ③

2008-12-26 12:02:15 | Weblog
 私の古里が生んだ、一生涯をただベットの中で生活した、薄倖の天才歌人「板口冨美子」をもう少しご紹介します。
 何せ、あの朝日新聞の天声人語欄に載るぐらいの日本的な大詩人なのですが、悲しいかな、今では、古里美袋でさえも、ほとんどの人が「板口冨美子」という名すら知らないのではと思えます。知る人ぞ知るという状態です。まして総社市ともなると、なおのことだと思えます。有名になったからとて、叔母や母がいつも呼んでいた「ふみちゃん」は、決して喜ばれなかったと思いますが。
 小さい生き物にまでインコやブンチョウにまで限りない愛をお与えになった詩人なのです。
 接することがごく限られたこの薄倖の詩人は、限られた情報源から多くのものをどん欲に吸収して、自分の生への証を確かなものにされていたのではないかと思われます。接する甥や姪とのほんのわずかな時間さえも、すべて自分の生活の一部のように感じながら大切にされたのではないかと、書き残された随筆からもひしひしと伝わってきます。

 板口冨美子の随筆「うぐいすの巣}より

 “最も深く”より
 
 ずっと以前のことである。
 小学五年生の男の子kが、受験のため、私のベッドのそばに机を置いて勉強するようになったことがあった。
 声を出すことの苦しい私は、ただ勉強の仕方を誘導するていどのことだったが、自然児そのもののようなその子は、まるい、あかい頬をほころばせながら、毎日学校から帰るとかばんをかかえて通ってきた。
 ことばのややどもるような、口かずの少ない子が、何となく楽しそうに勉強してくれ、成績もよく伸びて、その母親にも喜ばれた。
 ある日私はかくべつに苦しかった。その子は心配そうに、「苦しいの?」とひとこと言った。毎日人知れぬ苦しみとたたかいながらひそかに生きている私は、このとき何ともいえずあついものを思った。
 その子は中学へ入学した後も、なおしばらく勉強にも通い、それから後もときどきおとずれて、私の郵便局へのおつかいをしてくれたり、ちょっとちからのいる雑用などもしてくれた。
 無限時間と思われるほど長いかわきの中で私の身にしみて知ったこと。
 「人は苦しみの底にあるとき、人の心を最も深く受けとめる」
 厳しい人生の中で学んだ一つである。

 冨美子は、こんなごくごく小さなものにまで、しっかりとした人の営みの深さを感じながら生きてきたのです。ごく当たり前の、普通の人では到底感じることができないような「苦しいの?」という言葉のなかにも深い感動を持ったのです。この時、詩人は、感じたのではなく「思った」のです。
 「感じた」と「思った」の違いは、この詩人にしか分からない感情なのです。真剣に感謝しながら相手を思うことの深さが伝わっています。
 自分が見聞きする総てのものに。星でも、小鳥でも、草木も山までにも。 

板口冨美子という人ご存じですか ②

2008-12-25 20:24:55 | Weblog
 「板口冨美子」について、もう少し語ってみます。
 まず、冨美子さんがそのほとんどを寝たっきりでお過ごしになったお家からお話ししてみます。
 今でも「美袋」の町中(3区)に、静かに佇んであります。白の漆喰を塗った壁とこの地方特有の瓦から描き出されるなんとも侘しげな、昔を語る何かが、そうです、備中松山の御殿様が「下にい下にい」と、今にも飛び出してくるのではないかとさえ思えるような感覚が、この狭い何も無いまっすぐに伸びた街道の両側に広がっているのです。
 その松山往来のせせっこましい通りに白い土塀がその板口家を取り囲んでいます。その中から伸びた赤松の庭木が2階にまで達して、その前にある江戸時代の庄屋の家だったと言われている、いかつい玄関とすぐ横に伸びた広い縁を持つお家とが相重なって、わびしさを余計に演出しているような風景です。

 そんなわびしげな町中の古い民家の2階で、板口冨美子さんは80年に近い生涯を、ただ、ところどころにペンキがはげ落ちているような時代が相当立っているアールヌーボー風な、それとなくおしゃれな鉄製のベッドの中で、そのお兄上一家のお支えになりながらですが、生涯をお過ごしになったのです。
 ほんの8畳にも満たないようなごく狭い自分の世界にだけ住んでいながら、朝日新聞の記事に載るような汎世界的な視野を持ち続けられていたのです。
 ただ、毎日の新聞とラジオの世界から届くごくわずかな狭い情報から、あの素晴らしい確かな創造の世界が、思いが次々と生まれ出てきたのです。人間の神聖さも一緒にです。その思いがクリスチャンとしての冨美子さんを生んだのです。もともと板口家は真言のお家ですが。

 「板口冨美子」の歌を3首挙げておきます。どうぞ、声に出して読んでみたください。冨美子さんの思いを一杯にこめて
 
    ・病処(やみど)にも 一日一日の あわただし
                今日何と何 ありしかと思う
    ・背をいため 身動きかたく なりたれば
                ベッドの幅の 俄かに広し
    ・意のままに 手を伸ばし得ねば これほどの
                不便あらむと 思はざりしを

板口冨美子という人ご存じですか ①

2008-12-24 20:08:10 | Weblog
 今朝の朝日新聞の「天声人語」に、こんな記事が出ていました。

 キリスト教徒の詩人、板口冨美子の作「クリスマスを祝う}の一節を引く。
  
 “みんなお互いにぬくめあおうと
  みんなお互いによろこばしあおうと
  どんな苦しい日の中も
  この日だけは
  そのことばかりを考えている”

 この「板口冨美子」さんのこと知っていますか?
 ちょっとご紹介します。と言いますのは、この人は私と同郷なのです。叔母平方政代と随分親しかったという関係から時々噂を窺ったり、また、お会いしたこともありました。
 お生まれになったのは総社市美袋です。大正4年にお生まれになり、東京女高師に進まれますが、途中で、脊髄カリエスに犯され、以後ベットに寝たきりの人生を死ぬまで、美袋で、お送りになります。
 
 昭和27,8年頃だったと思います。東京から帰省していた叔母がその板口冨美子さんのベットを訪ねます。確かではないのでが、夕がた近くなっても帰ってこない叔母を心配した母が、私を板口家に叔母を迎えに行かせます。その帰り道で聞いた叔母の言葉が、もう60年以上もたっているのですが、今でもはっきりと残っています。桜も散って、ぼつぼつ蛍の光が皐月闇の中にぽつりぽつりと輝こうとしている時分だったと思います。叔母が彼女にしか分からない、何か感慨深そうに、涙声に近っかったのではと思いますが、話してくれました。いつも明るく陽気に話す叔母ですが、その時に限って、夕闇が迫る美袋のさびしげな通りの中でぼそりと言われたその言葉は、今でも耳に残っているように思われます。
 「どうして神様はエコひいきされるのじゃろうな。あんないい人がどうして寝たきりなんじゃろうか。どけえも歩いて行けんのじゃなんて、あんまりもみじめすぎるけえな・・・・・・。冨美ちゃんは、この辺なら、どけえでもある今咲いている桐の花を見たことがないと言われるのじゃ。死ぬまでに一遍見たいと言われるんじゃ。常光寺まで行きゃあ、なんぼうでも見られるのになあ」
 そこでぷつんと言葉が途切れ、しばらく叔母と私の足音だけが田舎のさびしげな道に響きます。街灯も何もないでこぼこ道がずっと続いているだけです。顔の辺りに手をやっている叔母を見て、泣いているのかなどうしてなのかなと、まだ青年期の入り口にいる私は、大人が泣いているのではないかと思える姿を初めて見て、何か緊張してしまってじっと叔母の足元ばかりを見ながら帰ったことを覚えています。
 しばらく沈黙が続きます。二人の足音だけがいつまでも続きます。やや、あって。
 「りょう(私の名前)。どけえかあるじゃろう、あしたりにでも採ってきてくれんか。冨美ちゃんに見せてあげるから。桐の花を。詩人には、あの紫が耐えられんのだそうじゃ」

吉備って知っている  74 和気清麻呂②

2008-12-21 21:09:33 | Weblog
 ちょっと、また、横道にそれて清麻呂の姉についてお話しします。
 この恵美押勝の乱の後、押勝に加わった主だった兵士375人の死罪か決まっていたのですが、それを聞いた清麻呂の姉「法均」は、(天皇が落餝されたため自分も出家して名を広虫から「法均」と変えていました)、戦いとは言え、敗者を勝者が一方的に死刑にするのはあまりにもむごいことであると、天皇に助命を願い出て、それらの者を各地に流したということです。当時、天皇と法均(広虫)とがいかに親密な関係だったということが分かります。
 なお、この戦いの後、天災や疫病などのため多くの孤児が都にあふれます。それをみた清麻呂の姉法均は83人の孤児を引き取って養子にしています。社会事業にも大いに力を発揮します。社会福祉事業の日本での最初です。  
 岡山は「石井十次」を生んでいますが、その先駆けが既に奈良の都の時代に早くも生まれているのです。
 誰も知らない吉備の自慢なのです。

吉備って知っている  73 和気清麻呂

2008-12-20 11:10:40 | Weblog
 和気清麻呂は備前藤野郡(現在の和気郡)天平5年(733年)に生まれます。当時、清麻呂はその姉広虫(藤野別真人広虫女)と共に天皇に仕えていました。
 清麻呂が名を上げるのは、「恵美押勝の乱」の鎮定に際して建てた武勲です。
 孝謙天皇(女帝)の時、吉備真備らと共に活躍した人に藤原仲麻呂がいました。この仲麻呂は天皇の信頼を得て太政大臣となり、名前も「恵美押勝」と改め、政治ほしいままにします。
 藤原氏は不比等の時代から、国の政(まつりごと)を助け、天下泰平の世を実現させ、【広く人民を恵むの美】となっていて【悪人を押さへ乱に勝つ】功績が大きいという意味でこの名前を天皇より給わったのだそうですが、俗説では、常に孝謙天皇を笑わせていたので「笑み」即ち「恵美」にしたのだとも。
 しかし、その孝謙天皇の信任が道鏡に移り、恵美押勝が政治から遠ざけられるようになってから、天皇の政治に使う印(太政印)の事が発端となり恵美押勝が孝謙天皇に反旗を翻すのです。
 この戦いが、世に言う「恵美押勝の乱」なのです
 
 
 なお、これも余談ごとですが、この恵美押勝との戦いに、戦略の見事さを見せたのが吉備真備もいました。唐への留学の時に学んだ孫氏の兵法の戦術・戦略が大層役立だったと言うことです。
 また、この真備と清麻呂とは、その頃、都でどんな関係があったのかは分かりません。あまり親しく付き合っていた気配もないようです。(年齢の差は39歳)

吉備って知っている  72

2008-12-18 20:12:09 | Weblog
 自分が生まれたふる里の歴史を訪ねるって本当に面白いですね。
 「吉備真備」を調べてみると、思いがけないような、今までは知らなかった沢山な事実と直面することができました。驚いたりうれしがったりしながら、こんなこともあったのかと言う思いが次から次へと浮き上がってきます。
 先人の残した本とはありがたいのもですね。
 
 さて、この「真備」のことを調べていくと、どうしても、この人をほっておくわけにはいかない吉備出身の男にぶち当たります。

 そうです。あの「和気清麻呂」です。
 この人は、吉備真備が家庭教師を務めた孝謙天皇が重祚(天皇が、天皇の位を退いた後再び天皇になること)した「称徳天皇」から「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させられ、貴族の身分を剥奪されて大隅国に流された人なのです。

 また明日から数回にわたってお話しします。なお、この人と吉備津神社とはあまり関係がなさそうですが、まあ、吉備人なら知っているのもと思って、お話しますのでお聞きください。

私の今年の年賀状

2008-12-17 19:55:48 | Weblog
 もう今年もわずかになりました。ぼつぼつ年賀状の作成時期になりました。こんなものなければと思いつつ年だけが重なってきました。あと何回出せるかなと思いながら、今年も、今、作っています。
 デジカメなんてものを息子からもらって、それとコンピューターと印刷機を組み合わせて、使い方も教えてもらいながらですが、ようやく操作が軌道に乗り出しました。だから、近年は写真による年賀状を作っています。
 今年は新装なった吉備津神社のお屋根をデザインして造りました。
       

 国宝の比翼入母屋造りのお屋根が照り輝いていて、この里のさらなる進展を空高くから見つめてくださっています。ありがたさもひとしおです。新しいということはいいことですね。
 

吉備って知っている  71  吉備真備⑨

2008-12-16 11:01:33 | Weblog
 私は、勿論コピーなのですが、真備が記した文字の拓本を持っています。それは真備が記した母のための墓誌なのです。
 真備の母は紀州宇智郡大沢村に葬むられます。この村から、享保年間に、厚さ1寸8分、幅1尺7寸、長さ1尺9寸の瓦が見つかります。その中の一枚に真備が母のために書いた墓誌が彫り込まれていたのです。この瓦に書かれた文字が、現在ある唯一つの真備の残した筆跡なのです。
                   

 これが、その墓誌の拓本です。
 上手なのか下手のかは私にはよくわかりませんが、ある人の曰、「誠に樸実雅勁(ぼくじつがけい)にして、気品失わず」と。
 そんな感じがしないでもないと思いながら、いつも、眺めています。
 
 真備は、当時の奈良を代表する30人の文人たちに交じって、聖武天皇の主催される詩を賦す会に招かれて詠梅の詩を創ったことが記録に残っています。 真備は、それぐらい名をはせた詩人でもあったのです。だから、その詩集も相当あったと伝えられていますが、でも、おしいことに、どんな詩を詠んだのかも、今どこにあるか分かも、からきし分からないのです。

   
 なお、この拓本の中に記されている「楊貴」と言う字は、あの楊貴妃の楊貴ではなく、「やぎ」と読みます。即ち、「八木」氏なのだそうです。
 また、天平11年とあるのは西暦739年で、真備が45歳の時です。
 その人生を紆余曲折しながら生きてきた真備ですが、ついに正二位と言う位に登り右大臣にまで出世し、ついに、81歳という当時としては珍しい高齢で亡くなっております。
 そのお墓は、現在、箭田に吉備公墳墓としてありますが、本当はどこにあるのか詳びらかでないのです。これとて、江戸になって作られたものです。

 調べれば調べるほと、「人間吉備真備」の深さが分かりますが、あまり長いのもどうかと思いこのあたりで終わりにします。

吉備って知っている  70  吉備真備⑧

2008-12-14 17:13:51 | Weblog
 優柔不断だとか因循姑息だと、一方では、この真備を悪く言う人もいました。大日本史を表した水戸光圀などがその先鋒でした。
 このような批判に対して、「そうではない。この人ぐらい世を思い、国民を思い政(まつりごと)をした人はいない」と、大層ほめている人もたくさんいます。
 その一人が、吉備津とも大変関係が深いあの「頼山陽」先生です。この他にも西山拙斎、古賀精里などがいます。

 頼 襄山陽の「過吉備公墳」と言う詩から

 “黍国は蒼茫として夕曛(ゆうくん)を帯びる”
 吉備の国に夕暮れが刻々と押し迫り、夕日がそのどこまでも続いている山里に燃え広がっています。
 広々とした大地に山谷は流れ、夕日の里に豊かな夕餉を告げるごとくに家々からは竈の煙がたなびいています。そんな吉備の夕方の田園の中に、ぽつんといともさみしげに墓石だけが立っています。昔を語る何もありません、風だけが往時をしのばすように嘯々と夕日に染まっている私の頬を吹き抜けていきます。
 と。言うぐらいの思いでしょうか。


 そんなん風景の中にたたずんで、襄、山陽は高らかに詩っています。

 “其の世を済(おも)い、民を安ずるを略(はか)る。禄を持し位を保つ計(はかりごと)に勝たず”
 と。

 まあ何はともあれ一度箭田にある真備の御墓を訪ねてみてください。なかなかいいところです。特に、今時がいいと思います。春でもいいのですが、やっぱり秋がいいですね。是非どうぞ。

吉備って知っている  69  吉備真備⑦

2008-12-13 12:13:22 | Weblog
 再び真備に戻します。
 「カタカナ」は吉備真備が考えたと言われていますが、そう言われるだけの理由があるのです。
 「右大臣吉備公伝纂釈」によりますと、この真備は皇太子となった聖武天皇の皇女阿倍内親王の東宮学士(家庭教師)になって中国の禮記や漢書を教えます。この時、漢文を日本読みにして教えるためにその補助として、どうしても「かな」が必要となり、漢字の部首などを利用してカタカナを創ります。このカタカナによる読みができた孝謙天皇に、あの難しい「禮記」を教えることが出来たのです。そのためもあって天皇から厚い信任を受けます。それにもかっ変わらず、真備は2度目の唐への留学の後にも「太宰大弐」として大宰府に都から追われています。60歳の時でした。
 再び、許されて京に帰ってきたのは70歳の時でしす。その後、藤原仲麻呂が恵美押勝と名前を変えて天皇に謀反を起こしますが、その反乱も真備の兵法などによっての鎮圧することができました。そんな活躍などで、真備は右大臣にまで上り詰め、77歳で退官します。
 学者として身を起し右大臣にまでなったのは菅原道真と吉備真備の2人だけです。藤原仲麻呂(恵美押勝)や道鏡の下で右大臣を務めていたことに対して、日和見だ、いや、因循姑息だと非難する人もいたようなのですが、それらはすべて真備には当てはまらないと思います。彼は権謀術数を用いず、権勢富貴を求めず。深い教養を元に実直に政務を司り、権謀うず巻く奈良期の政治に一抹の清風を送った人物であるのあるのは確かです。