私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

ビスカイノの旅の終わります。

2012-03-31 18:43:15 | Weblog
 金銀島が太平洋上に有ると云う水夫たちの噂を確かめるために、イスパニア王が、ビスカイノをキャップとして太平洋の探検航海に出します。その途中、太平洋で遭難していた日本人を救助して、その人達を本国へ帰られせる目的もあって、日本に立ち寄り、日本各地を見学したり、港の実測したりして、この航海日誌を著したのですが、終に、金銀島発見という、その目的は果たされずじまいで彼等は帰国しています。

 これは1614年の昔々のことなのです。慶長19年です。この年は大坂の陣もあり江戸幕府の確立の重要な年でもあったのです。なお、家康が死去したのがそれからわずか2年後の1616年、元和2年の事です。
 

 まあ、こんな昔話を、ああでもないこうでもないと、何時ごろからか忘れたのですが東北地方の大地震を本にして、このお話を書き始めたのでしたが、もう、その書き出しすら記憶が薄らいできています。書き出した時は、せいぜい、10回もすればこのお話は終わるのではないかと、思っていたのですが、ついつい、話があちら飛び、こちら飛びして知らない内に、正月は遥かに飛び越え、ひいなのお祭りも過ぎてしまいました。
 もう、この季節になると吉備津神社のシダレザクラも、早、満開に近ずいている頃だと思われるのですが、今年に限って、未だつぼみのままんす。そなん桜が気になって、まだ北風が卓越している中を、今日、散歩でもと洒落てみました。しかし、その「しだれ」は、未だ、硬い蕾のままでした。咲きたいという己の思いをいっぱいに吉備津の宮に語りかけているかの如くに、その全身をさくら色に染めて、期の到来を今か今かと待ちわびているようでもありました。

 その木の下に佇むと
 「そげへえにせくもんじゃあねえ。春は、あめえらの人様の為にあるんじゃねえど。わしの好きな時に好きなようにさくもんじゃ。あるがままじゃ。そんな時がまてんようじゃあ、まだまだ、おめえは人間ができとらんのお、あめえあめえ」

 と、嘯いているように思われました。


 どうです。その姿を、是非一度見てみませんか。今が一番です。今年しかないその美を目に出来るチャンスです。桜の木がいっぱいに己を、そうです。咲く前の己の美しさが一番だと語りかけてくる絶好な時です。その花がもの言う声を己自身の、ぜひ、見てください。
 “ちればこそいとどさくらは”なんていったと云う昔の人に此の咲く前の桜をお目に懸けたいものだと、一人いいきになって思いに嵌まっています。

 次回からは、少し吉備津の生んだあの栄西と並び称される藤井高尚を取り上げてみたいと思います。

慶長年間の日本について

2012-03-25 18:29:41 | Weblog
 1611年、今から400年前の日本についてビスカイノは書いています。

 「日本の土地は肥沃で、年中何らかの収穫があり、8日以上雨が降らないことはなく、悉く灌水しておる。そして、言語は一にして文字の書き方も一様であり、男女ともに読み書き又計算ができ商売の事について機敏にしてユダヤ人も彼らには及ばない。又神は此の悪しき国民に其の希望する所を悉く与え給えるが如く、甚だ優雅にして疫病の何なるかを知らず、病の流行することなく、内科医又は外科医の必要なし」

 と書いています。

 ユダヤ人より悪賢く、それだけ商売もうまいのに、どうしたことか神は彼等を優雅にしかも親切に扱って、病気など無いしているのです。何処でこんな情報を得たか分からないのですが、非常に天国のような国だと書いています。

 税金も無く病気も無い豊かな生活をしている国だと日本を見ていたのです。おどろきですよね。江戸の初め頃のお話ですが。

税金について

2012-03-23 11:02:46 | Weblog
 今野田総理を先頭にして、民主党首脳は如何にして消費税の増税をするか躍起になっておられますが、江戸初期、慶長年間に見た日本の税制についてビスカイノは書いております。

 「売上税輸出入税等の税金は一切之を納めず。土着人も此の国に来る外国人も皆自由に販売し、全国を往来し、何人も売買往来又は出入りに付議論することを得ず」

 とあります。「入り鉄砲出女」という厳しい掟の事も箱根などの関所についても触れられてはいません、1611年頃です。江戸幕府が出来てから数年しかたっていませんでしたので、その辺りの法規制は全くなく、商業に関しては、総て、個人的な小規模な商売が中心で、貨幣経済は未発達で、商業活動も活発ではなかったのでしょうか。そこには消費税等という込み入った経済活動上の問題として、政治の中にというか、日本の社会の中に出てくる余裕もまだ十分整えられていなかったのではないでしょうか。

 当時の日本の経済活動は、依然とした米を中心とした活動だったのです。問屋とか金融機関だと云う高度な経済社会に成長するにはもう少し時間が必要だったのです。
 そのことをビスカイノが此処で書いているのです。

ビスカイノが見た日本

2012-03-22 20:48:55 | Weblog
 1611年頃、慶長年間です。其の当時の日本の国の統治について、ビスカイノの報告がこの金銀島探検報告書の中に書いてありますので、それをご紹介して、長い間お付き合いくださいました、ビスカイノ報告書とのお別れとしたいものだと思っています。

 まず。最初に
 
 此の国に於いて皇帝(将軍)も領主(大名)等も少しも確定安全なることなし。蓋し他の人々の官職を有するは暴力に拠る所にして、力多き者多く達成するが故なり。」

 と、この報告書には書かれています。

 この報告書が書かれたのは1611年のことです。江戸幕府が家康によって開かれてから、いわゆる徳川政権に代わって間もなくのことです。世の中は、いや徳川だ、いや豊臣だと、依然として旧体制の持続か否かということについて、国中を上げて、議論沸騰の世でして、誠に不安定な戦国末期の社会なのです。
 戦国の名残りを引いた、力によって、依然と、世の中の地域的な安定が保たれていた時代です。統一日本何て事は考えていなかった時代なのでう。正義だ、倫理だ、道徳だ、そんな社会実序の道徳が、端から世の中にあるなんてことが誰も考えてはなかった時代の出来事です。兎に角、力がものを云う社会です。

 そん様子をビスカイノは「官職を有するは暴力に拠る」と言わしめたのだと思います。武士が支配する下剋上の混沌たる力の支配する無秩序な世の中です。その力を暴力という言葉でビスカイノは表現したのでしょうか。現代のわれわれが使っている暴力という観念と同じような感覚でその暴力という言葉の意味をビスカイノは捉えていたのではないかと思われます。的確な世相の観察眼だと思われます。
 そのな下剋上の社会でもやはり古代からの日本文化の伝統が根強くあったからこそ徳川幕府も成立できたのだと思われますが、その辺りの歴史観は、イスパニア人には、到底、理解できなかったことではないかと思われます。


 

再びビスカイノ金銀島探検報告

2012-03-20 16:41:24 | Weblog
 長らくお休みしていたのですが、再び、ビスカイノの探検報告に戻ります。

 一二月末からお休みが長引いたので、お忘れのお方もいると思いますので、ちょっぴりおさらいをしておきます。

 この「ビスカイノ」という人はイスパニア人で、江戸の初期、1611年と言いますから慶長16年の事だそうです。その頃イスパニアでは、日本の近くにあると伝えられている「リカス・デ・オロイプラタ」という島には金銀が非常にたくさんあると伝えられていました。その島を探検して、其の話がほんとうかどうかたしかめるための探検に、大使として、ビスカイノを日本に派遣したのです。当時、そのイスパニアはフイリッピンとメキシコをその植民地として支配下に置いていたのです。そのため、この二国を航海するための太平洋航路を開いていたのです。すると、嵐等により、どうしても日本に寄港する必要が生じます。その為の日本各地の港の様子も調べると云うこともその使命の中に入っていたようです。
 当時、日本では、将軍は二代秀忠の時代ですが、家康が依然として其睨みを十分に聞かせていた時代です。偶々、その時立ち寄った日本で慶長の大地震に遭遇したことがその記録の中に見えたので、今回の地震と対比して書いてみたのです。それも「ないの日並」という城戸千楯の江戸末期の地震体験記に続いて書いてみました。
 なほ、何回も言うようですが、この千楯先生は、「鐸屋』という私塾を作り、備中宮内の国学者藤井高尚と一緒に京都で本居宣長亡き後の国学をリードした一人としても知られています。

 そのビスカイノの「探検報告」も後少々になりましたが、また、お付のほどよろしくお願い申し上げます。

今日は鯉山小学校の卒業式でした

2012-03-19 16:20:32 | Weblog
 12月より、一時中断して、吉備の国の正月行事について書いてみたのですが、書けば書くほどこの記事は、私の悪い癖でのんべんだらりと長くなってしまい、知らない間にいつの間にか3月の半ばを過ぎていました。
 再び、ビスカイノの旅の最後を書いてみます。
 と、思ったのはいいのですが、ちょっと待てよという声が何処からともなく流れて来ます。「嗚呼、そうだ今日は鯉山小学校の卒業式です。」それをほっておくわけにもいきません。ちょっくり、鯉山小学校の卒業式の様子をお知らせします。
 卒業生は40人です。夫々の卒業生が12年間の成長の証しを卒業証書の中に取り込んで大変立派に小学校を旅立って行きました。昨年は、その式の中で「仰げば尊し」の歌声が聞こえてきたと記憶していたのですが、今年は、また別の別れの歌を歌いながら卒業していきました。全員で静かに語りかけるようにお別れの言葉が会場いっぱいに流れます。その中に、6っか年の自分たちの思い出を語りかけてくれました。40人の子供たちがそれぞれに自分をいっぱいに表現した卒業式であったように思われました。何時もそうなのですが、なんとなく卒業式の哀愁が胸をついて何だか一人で涙しながら彼等の巣立ち見送りました。大空に旅立って大いなる人生を生きてほしいものです。

これが野々口隆正が建てた碑です

2012-03-18 14:59:59 | Weblog
   

 2つの写真を見くらべてください。昔から吉備津神社のほとりに、写真のような立派な石碑が建っているます。何で、今更、こんな本当に下らない碑(?)を、わざわざ、お金をかけてまで造らなければならないのか、その意味するところが分かりません。やっかみ半分の輩の仕業としか思えませんが。太平洋の真ん中で小便をして、ああ、これで太平洋の塩分が多くなったと思っているような碑ではないかと思いますが、どうでしょうかね。

  
 少々勝手なおしゃべりはすぎたかもしれませんね。こんな下らない私のブログが、この碑を建てた人達の目に留まらないことを祝りつつ書いています。

それもええじゃあね

2012-03-16 18:46:27 | Weblog
 筆敬さんから、案の定、メールが届きました。「それもええじゃあねえか」と言われるのです。
 確か、細谷川が何処にあったかという問題は、今に始まったことではないらしいのです。江戸の昔からそんな話はあったのだそうです。
 「ちなみに」と筆敬さん。彼が言うには、この前、この欄で取り上げた高尚先生の幼少時代に師であった小寺清先の長男に、清之がいますが、彼も父親の筋を受けたのでしょうか国学者になります。後に福山藩主から招かれ藩士の子弟の教育に携わったりもしますが、この人の著書「備中名勝考」の中には
  
 写真に見えるように有木神社の横にある谷川に「細谷川」と書かれており、彼は備前と備中の国堺にある谷川を細谷川だと思っていたのだそうです。でも、野之口隆正という有名な国学者が建てたと言われる吉備津神社横の石碑の傍を流れる谷川が、これこそが「細谷川」だとしている人達も大勢いたそうです。瀬山陽もその内の一人だそうです。
 
 「どちらが、本当の細谷川か知らんが、そねえなこたあどうでもええことじゃあねえか。こっちが本当だと思う方が細谷川でえんじゃなねえかいのう。おめえが言うように両国橋のそべえ、真新しい石碑をたちょうとそりゃあかまわんのじゃあねんかな。それもええんじゃあねえかな。そげんにおめえみてえに、目くじら立てておこらんでもええじゃあねえかな。そげん、どうでもええことで吉備の中山がなげきゃあへんど」

 と、考えてみたら、彼が言うように「そげえな気にもなる」ようにも思えます。流石、我が尊敬する筆敬さんです。でも、本当に、此の真新しい石碑は、貧弱で、あらずもがなという感じが私にはしてなりません。ここに碑を建てたと云うことは認めるとしても、もっとましな石碑は作れなかったのでしょうかね。造った人のこの碑に対する美的、文学的価値観のなさが伺われるように感じられます。

 

誠にお話にならない下品な意味のない石碑を建てた人の顔が見てみたい。

2012-03-15 20:57:11 | Weblog
 久しぶりに春の兆しがこの吉備の里にも降り注いできました。ウグイスの鳴く音も、早春の訛りある囀りから、本格的な春そのものの鳴き声になりました。
 そなん春の陽気に誘われて、私は今日、吉備の中山巡りの散歩でもと人並みの年寄りの仲間入りさせていただきました。今まではその寒さに身を縮めて炬燵の守ばかりしていたのですが。
 今年も又あの「ルリタキ」が、此の細谷川に彩りを添えてくれているかもしれないと、密かな期待を以って尋ねてみました。例年ならもうその姿があってもいいのですが、今年は例年にない寒さのせいか、まだ、その姿を確かめることはできませんでした。そのまま吉備のお山を一廻りしました。

 いつもと変わらぬ早春の中山の景色の中を足取り軽く歩を進めます。一周して福田海まで辿ります。約40分の私の散歩コースです。
 思ったよりも早くお山めぐりが出来たので、一寸、これも久しぶりに有朋の歌碑をと思いその場所に歩を進めます。するとどうでしょう。そこにとんでもない何ら意味もないようなお粗末な真新しい万成石でこさえられた石碑が立っているではありませんか。
 その石碑を見たとたん、今までの早春のお山の爽快さに比べて、愕然とした「今更何で―」という気分に変ります。吉備の中山のイメージのぶち壊しもいいところです。ここが本当の細谷川だと主張する一部の人々が建てたのでしょうが、なんて目ざわりな石碑かと思われます。

 一体誰が、何の為に、今更、こんな何ら意味もない下らない事をするのかと、春の中山がカンラカラと笑っているようでもあります。、なんてバカなと、一人憤慨しました。

 まあ、この写真を見てください。なんて無意味な味もそっけもないような事を、相当お金も要ったことでしょうが、よくもしたもんだなとおあきれ返っています。
 その意図は一体何でしょうかね。「細谷川は備前と備中の国堺を流れている」という何処にそんな根拠があるのか知りませんが、それを信じて、今更、新しい石碑を建てようなんて企画する輩がいるなんてことは、チャンチャらおかしいことではないでしょうか。

      

敬業館2

2012-03-14 19:04:26 | Weblog
 岡山県通史によると、高尚が吉備津神社境内に立てた「敬業館」というその名前の由来は、元々笠岡にあった郷校の名を借用したのです。
 その笠岡の敬業館の初代の教授をしていたのが「小寺清先」という和漢の先生でした。高尚の父「高久」の知人という関係で、早くから、高尚は笠岡にまで行って勉強したのです。」
 この清先は「和漢学者で詩歌を善くす」と記されております。

 多分、高尚もこの敬業館で清先先生に教えを受けたのでしょう。どのような経緯があったのかは知らないのですが、最初は「狭長屋」という名でしたが、吉備津神社境内に作った学問所を後に、この清先先生の塾の名前を借用して、同じ名前である「敬業館」として、社家の子弟のための学問所にしたのだそうです。

3・11  山は動きません

2012-03-11 18:36:30 | Weblog
 1年前の今日です。田畑や町や飛行場まであの生々しい光景は今でも忘れません。2時40分に一人畑でこの未曽有の大災害に遭遇して亡くなった人人に対して、私一人で静かに首を垂れ黙祷を捧げながら、詩を作ってみました。また、筆敬さんに「なにゅうしょんなら」とこっぴどく罵声を浴びせられることは分かっているのですが、それを覚悟の上で、ご笑読ください。

    3月の北風が振り上げた鍬の刃先を通りぬけます。
    誰もいない畑です。
    
    冬の寒風の中でじっと耐えていた
    ハコベも
    スズメノカタビラも
    ホトケノザも
    小さな小さな、名も知らない雑草達も
    3月の子供のような小さな日の光をもらって生きながらえています。
    本当の春の喜びは、未だ、知らないかように
    土地に這いつくばりながら
    わずかなわずかな希望という字を体中に浮き立たせながら
    本格的なお日様をじっと待っています

    百姓が、
    只一人
    畑で鍬を振り上げています
     
    川は涛々と流れています
    雲が足早に東へ流れています
    
    
    山は動きません

    
    ああそうだ
    きょうは3月11日だ
    あの忌まわしい記憶が
    川の水に映った
    空の雲と一緒に後から後から流れて行きます
    今、午後2時40分です
    あの日の記憶が空いっぱいに広がります
    1年の記憶が
    
     
    山は動きません
    
     
    この1年はというと
    本当にあったいう間の時間のようでもあり
    はたまた
    終わりのないとほうもなく長い幻燈のようでもあり
    特に、東北の人々には

    その光は
    今日の春の日のように
    か細く、あるかないかの弱々しいものだったのでは・・・
    
    でも、でも
    その中を生きて欲しいのです。
    私の周りにある畑の草のように
    春の日の光は、必ず、皆さんの頭上にまでやってきます    
    だって、
    動かない物の中にだって動く物は必ずあるのです
    
    ほら、あそこでもここでも
    絆という大きな力が
    人の心を動かしているではありませんか
    


敬業館

2012-03-08 10:16:54 | Weblog
 未曽有の災害が東北地方を覆って漸く1年が過ぎようとしています。
 この地震について、我が吉備津で行われた昨日の「中山尚歯会」の中心的人物、藤井高尚と随分親しくしていた、京の国学者「城戸千楯」の紙魚室雑記に書かれている地震体験を取り上げて、次に、今度は地震の記録として書かれた笠亭仙果の「ないの日並」、更に、さかのぼって慶長年間に体験したイスパニア人ビスカイノの地震記録などを取り上げてきました。それが、総て終わらないうちに、いつもの浮気性分で正月の吉備津の行事等をご紹介しているうちに、あの3・11の一周年が来てしまいましたが、あと一回だけ、この高尚先生の私塾について取り上げてみます。

 吉備津神社には、今、梅林になっている辺りですが、江戸の初期の絵地図によりますと、この辺りに三重の塔があったと書かれています。この辺りは高尚の時代には、もう三重塔はなくなっており、そこには「敬業館」という建物が立っているように画かれています。
 此の館は今はありませんが、その説明によると、ここで高尚が彼の学問所である私熟を開いていたと言われております。そのため社家の中から多くの歌文が上手な人達が多く出たのは事実です。昨日の中山尚歯会も、そのような文学的素養を付けた多くの人が育っていたために、此の狭い地域でも結構開く事が出来たのかもしれませんね。

 一人の非凡な人物はその土地全体をその人の影響で文化的な価値ある土地に高め上げることができるものだと感心させられます。当時、この宮内では遊女まで和歌を頻りに詠んでいたと言い伝えられてます。それらの女性に対しても高尚は和歌の指導をしていたようです。

中山尚歯会

2012-03-07 19:49:20 | Weblog
 高尚らは天保6年といいますから、1835年の事です。当時の宮内に住んでいたのではと思える、所謂、「尚歯」の名にふさわしい高齢者たちが一堂に会して、どんな内容を何時ごろまで続けたのかは記録にも何も残ってないのではっきりしたことは言えないのですが、会が催されたと云うことです。この本が、今でも岡山にあるのかどうかも知れませんが、高尚の弟子の中村寛というお人が書いた「中山尚歯会の記」に書かれてあるそうです。(井上通泰著「南天荘雑誌」より)。まあ、何れ機会でもあったなら、県立図書館に行って調べてみたいと思っています??
 
 その雑記によると、この時、吉備の中山の麓にあった藤井高俊の家にあつまった人達の名前とその年齢が書いてあります
 真野守貞八十歳(竹堂)、河本宣易七十六歳、藤井高尚七十二歳、岩月白華七十歳、藤井高俊六十九歳、藤井重政六十六歳、堀家常定六十五歳の七名だったのだそうです。どうです。感心するぐらい年寄りばかりでしょう????

 なお、ここに挙げられた人物についても、真野守貞以外は、何処に住まいしておって、どのような人物であったかは、今のところ不明ですが、河本、藤井、堀家というのは吉備津宮の社家だと思われます。この中一人だけ「岩月」というのはどんなお人だったか不明です。当時、吉備津津宮の社家は六十九家もあったと言われていますが。その中にも、この「岩月」という姓の社家名は見当たりません。

 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、よくもこれだけの年寄りが集まって一体何を話していたのでしょうかね???。
 
 此の事についての高尚等からの書簡も、多分、あの手紙好きな高尚先生です。きっと書き残していて、どかに、必ず、存在はしていると思われますが、未だに見つかってはいないようです。何時か機会があったら、これも調べてみたいと考えております。

 そんな年寄りによる侘び寂び等の雅の世界を中心にした語りの会が、あの華やかな当時の山陽道随一の歓楽街「遊興の町」宮内にあったと云うのも何か、この宮内という地名の中に、何かしら吉備津神社という特別な誇り高き精神性をこれ等の人々が示さなければならないという使命感みたいなものがあったのではないでしょうか。そなんことを、この中山尚歯会は暗示しているのではないかと思われますが。どうでしょうね。

尚歯会

2012-03-06 18:52:03 | Weblog
 「尚歯会」という面白い集まりが日本にあったをご存知ですか。一番有名なのかどうかは知りませんが、江戸末期にあの高野長英などが集まって世の中の事について色々と言いたい放題の事を云って楽しんだサロンなのだそうです。中国のあの白楽天がやったのが始まりだと言われています。「尚歯」とはもともと歯を大切にしようと云う意味なのだそうでが、それが、次第に広がって老人が集まってワイワイガヤガヤおしゃべりを会を云うようになったようです。要するに、高齢の隠居者の道楽のための集まりだったのだと思います。

 そんな集まりが面白い事なのですが高尚のいた吉備津でも行われていたようです。ある記録によると、天保六年正月十八日に、藤井高俊という人の家に集まって尚歯会を催したととあります。高俊という人がどんな人であったのかは分かりませんが、当時の吉備津宮の神官か何かをしていた人ではないかと思います。
 

 

藤井高久

2012-03-04 19:54:31 | Weblog
 「藤井高久」この人の名も昨日の藤井茂弥同様、あまり吉備津に於いてもその名を知っていると思われる人はいないのではと思われます。
 この人は高尚の父親です。この人のお墓も吉備津向山にある藤井家の墓地高尚の横に建っています。その墓には「前但馬守従五位下静斎藤井高久(表)文化四丁卯年四月六日卒(裏)と記してあります。
 
 井上通泰の南天荘雑記によると
 「高久初内記ト称ス。初ノ名はハ高賢。号ヲ静際又ハ細谷亭ト云ウ。歌を春秋庵満光及栂井一室に学ぶ。明和二年八月一日従五位下ニ叙セラレ但馬守ニ任ゼラル」とありあすから。この人は死後に京の吉田家から但馬守に任じられたようです。

 なお、其の子高尚も父と同じく吉田家から霊号を賜っていたのですが、父と違う所は、高尚は生前に霊号を既に賜っていということです。

 なお、この高尚の父高久も岡山県人名辞書によると、そのの妻小春とともに「和歌を能くす」とあります。このことは、この江戸末期の文化文政前後の時代に、吉備の国にあって、吉備津の地に和歌が隆盛を極めていたということを物語っているのです。昨日の高尚の妻茂弥を始めとした和歌の世界に、この吉備津の名を全国的に知らしめていた頃なのです、其のピークは云わずと知れた、あの高尚の孫娘松野の夫となった緒方洪庵の甥である藤井高雅(たかつね)の時代なのです。