私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

うすぐもり桜の精の中に入り

2013-03-31 11:34:36 | Weblog

 どこかしこさくらさくらの人だかりと云った様子の今日の吉備地方です。我が町内会でも午後から長屋の花見よろしく桜見物としゃれこみます。“たくわんの卵焼きになる花見哉”にならねばとおもっています。
 そのさくらをどうぞ。
     


さくらいろに染まる吉備津神社の回廊の柱

2013-03-30 20:53:19 | Weblog

三月の末の移りゆく桜を追いかけていますと、こんな吉備津神社お風景に出合いました。      

     

 南随神門から回廊を(お釜殿のほうから)拝殿の方に上って行くと、桜の時期には写真のような風景に突き当たることがあります。
 この回廊の左側に桜並木が続いておりま、その桜が、今は四,五分咲きですが、その桜がその色を回廊の柱に写し、柱までをほんのりと桜色に染めだしております。この時期にしか描き出せない回廊の風景です。
 見てください桜色を写した柱が見事に一列に遠近法の通りに並んでいます。六百年の歴史を一瞬のうちに染め出しているかのようです。他のいかなる場所でも見ることが出来ない、此処だけの桜色を、間接的に柱を通して、堪能させてくれています。この時期だけの限定された美しい色彩です。人の手では決して染め上げることは不可能な神秘な色相を見せてくれています。なお、目を凝らすとその色は廊下にもぼんやりと広がっているように思われます。下の方からでなくては見ることが出来ない不思議な風景です 。

 吉備津神社の七可思議な光景の一つです。
  


吉備津のさくら②

2013-03-28 10:06:32 | Weblog

 これも毎年ご紹介している桜ですが、昨日のしだれざくらと一緒に見てください。吉備津駅構内の自転車置き場にある桜です。一時駐車も可能ですから、ごゆっくりと、この桜を堪能していただけます。
 ここの桜、昨日のしだれの退紅(あらぞめ)よりもっと薄紅色でしょうか紅色が濃い桜です。昨日のしだれ桜とは変って、晴天の方が似合いそうな桜です。まさに、「晴好」そのものの風物としての桜をお楽しみいただけます。
       
 青空をバックにした方が此の桜はより美しく見ることができます。まだ、満開までには2、3日かかりそうです。

 なお、此の桜はいまだどんな種類の桜か分かっていません。染井吉野ではありません。ヤマザクラでももちろんありません、何と云う種類の桜か誰かご存じのお方があったらお教え願えませんか。


雨寄晴好!水に咲く桜

2013-03-27 11:11:35 | Weblog

 今日から2,3日間ですが、「吉備津のさくら」を見ていただきます。
 まず、その最初は、吉備津神社の龍神池の傍に立つ“しだれ”です。吉備津にある何処の桜より早くその美しさを誇るかのように、花びらを開いてくれます。昨日、ようやくお宮さんの染井吉野は二,三輪花びらをさも自分の姿を恥じらうが如くに覗かせました。でも、このしだれは早くも満開の盛況です。青空の下、開花したばかりの“そめいよし”の桜色よりやや濃く、紅梅の紅色よりもやや薄い、その中間にある薄紅でしょうか、それとも退紅(あらぞめ)でしょうか、さも誇らしげにその姿を開け広げ、それが池面に映り、空と水の両面に春を演出しております。これぞ、将に、吉備津第一の桜です。水に咲く姿だけでも一幅の絵に成るのですが、空と水にある実と虚の桜をこき混ぜた風景は、これぞまさいく日本一の桜の風景だと、私は毎年思っています。
              
 でも、この水に咲くさくら花は、今朝の雨紋で、風に依る如くに散り散りに蹴飛ばされ、また、掻き乱され、水の中に留めてはいません。
 
 どうです。雨も又いいでしょう。 これぞ、まさに「雨寄晴好」の吉備津の桜です。
        “晴れもよし 雨もまたよし まかねふく 吉備津の桜 輝きにけり”
この日曜日頃が一番見ごろですよ。ぜひ一見は如かずを!!!!
               


吉備津の桜の開花宣言

2013-03-24 10:44:46 | Weblog

 東京などでは早や桜が満開との報道が新聞等でにぎやかに騒ぎたてられておりますが、ここ吉備津では例年とほぼ同じで25日にやっと開花しました。

    

 こののいじらしい一輪のはなびらをさも初々しそうに青空に向けて咲かせていました。これから1週間ぐらいはそうでしょうか、雨や風のねぐらを尋ね、恨み事を云わねばならない心境にさせられます。此の桜から受ける人の心は、本当にあった言う間の出来事のようにあちらに行ったりこちらに来たりしながら様々な紋様を描きくように揺れ動きます。そこに何か春のぼんやりとした愁い有るからだろうと考えられます。昔から続いてきた日本人にしか描き出せない精神的な情景を此の桜は見事描き出してくれるのです。桃色と空の青さが織りなす妙であるといってもいいの下はないかと思われます。その摩訶不思議な世界を日本人の雅心は沢山の文学作品を、また、この世に送り出したのです。篁、小町、惟喬親王、業平は言うに及ばず西行も芭蕉も蕪村など多くの日本人がその歴史の流れの中に春愁と云う独特の思いを多くの字数にして、あくがれ出してきたことには間違いないと思います。
 でも、不思議なことではですが、此の開花したばかりの花弁には、そのような精神的日本の歴史を震撼させるような感傷的な感情は一つありません。清楚と云う言葉はぴッたしの風景です。“花の本にて春死なん”の西行の心を揺れ動かしめた思いは開花したばかりの花びらの中にあるのではなく、満開の花の中にこそ有るのだと思いますが、どうでしょうか??????

 まあそんなことはどうでもいいのですが、明日から当分の間、「宮内の今昔}から離れて吉備津の美しい桜の数々を今年も紹介していきたいと思いますので見てください。


情かわざか。「落葉の下草」のおわり

2013-03-24 10:11:24 | Weblog

 中村歌右衛門は答えています。

 “昔と今と世かはるといへども、情を主とするぞよろしく侍る。おもしろくすること、芸のようによりては、よろしきこともはべれど、おもしろくせんことを事としてはあしかりける。芸をおとなしくして、情よくわざにうつり、わざよく情にかなふ事肝要にはべれども・・・”と

 でも、それが「しがたく」難しくて、ただ役者は自分を含めてみんな、ただ面白ければよいと云う演技に流れてしまっているのですと云っています。
 文政十年の秋の事でした。此の二人の会談を記録した人は、高尚の弟子である倉敷の橋本信古と云う人です。念のために。


 なお、この様な傾向は歌舞伎界のと云うより演劇界全体でまだ十分に残っているのではないかと思われますがどうでしょうか。団十郎は今は亡き人ですから不可能なのですが、もし、出来るなら此の事を菊五郎に尋ねてみたいのですが????


情とわざ、この二つ如何に

2013-03-23 11:51:33 | Weblog

 元禄のころ大阪で名声をはくした坂田藤十郎と芳沢あやめの芸は、情を主とした演技をしている、と云うことは女形でもですが、男優でありながら女その物に成りきろうとして演技をしていたそうですが、近ごろの役者は、そこまで芸の深みにまでは入り込まないで、その形だけを取りだして、わざとして表現する傾向にある。そうすることが観客に受けるからということで、わざを主としていると云うのです。その良し悪しを尋ねているのです。この傾向は、歌を詠む事も絵を描く事もそうなのですが、私はやはりわざより情を重んずる事が芸の本質のように思え、

“予歌をば昔にかへさんとこころざして、歌のしるべというものをあらわせり。狂言の芸は、わざを主としてもよろしきことのありや”

 と、問いかけています。


芳沢あやめの芸

2013-03-22 11:45:57 | Weblog

 この対談で、最後に高尚は梅玉に聞いております。

 高尚の言に「狂言の芸、昔の上手坂田藤十郎、芳沢あやめがいひつる言をつたへきき・・・」とありますがこの、芳沢あやめというのは、元禄の頃、大阪で、その人気を坂田藤十郎と二分した女形の人気役者でした。
 彼が芸談として著した「あやめ草」の中に次のような文章がありますが、初めに、それから見ていただきます。彼は言います 

 「所作事は狂言の花なり。地(芸)は狂言の実なり。所作事に珍しからん事のみ思うて地を精出せねば、花ばかり見て実を結ばぬに斉しかるべし。辰之助など上手は上手なれども、この場の工夫なきように見える」

 この所作事とは舞踊であり、地芸とは演技です。辰之助と云う役者は「女そのもの」に成りきることより「女らしさ」を表すことに芸の中心を置き換えたのです。男が女形を演ずるのだから、所詮女には成っこない。だったら、出来るだけ女のように見せるような様式技巧をその芸の中に取り込むべきだと主張していたのです。それを「あやめ」が、歌舞伎の女形は写実、即ち、見た目に女に見える芸が必要だと、辰之助の芸を強く批判したのです。

 此の当時の歌舞伎界の芸の方向性に付いて「芳沢あやめ」と「水木辰之助」の論争と高尚は知っていて、梅玉こと中村歌右衛門に尋ねたのです。
 なお、「あやめ」の絵がありましたので見てください。
                 


高尚の六のくだり

2013-03-21 10:10:03 | Weblog

 次に、高尚が歌右衛門に、当時、大阪に浅尾為十郎と云う役者が得意としていた芸に「早がわり」と云う芸がありましたが、その歌舞伎における早替りは「いかに」と尋ねております。
 なお、此の為十郎と云う役者は調べてみましたのですが、宮内芝居には来たことがないようです。すると
、この名を高尚が知っていたとすれば、大阪で、何度か彼の芝居を見ていたのだと思われます。為十郎が得意とする早替りは「伊賀越」という狂言で見せた<稲ぐろ>からだそうですから。

 その問いに対して、歌右衛門は答えています。

 「早替りはむかしからありつれど、がくやに入てはやくいずるのみなりしに、為十郎めずらしくめの前の舞台にて、いとはやくかはれりはじめろより、いまは種々のはやがわりをして、ひとつの芸ともなりはべるなり。」

 早替りは、昔はもあったのですが、昔の早替りは、役者が楽屋に入って、そのあっという間に衣装を改め、直ぐに舞台に出ていたのだが、今は舞台におって、お客さんの前で早変わりする。それが芸となっていると説明しているのです。この為十郎はこの文政頃の役者ですから、この頃から、こんな芸が歌舞伎で行われ出したのだと云うことが分かります。


ドナルド・キーンさんの歌右衛門

2013-03-20 11:42:02 | Weblog

 今朝の朝日新聞にドナルド・キーン氏の記事がありました。彼が「文楽・歌舞伎、継がれる強さ」に付いて語っております。

 その中で彼は言います。「・・能や狂言は演目で選ぶが、歌舞伎は俳優を見に行きますから、私が一番打撃を受けたのは、女形の芸を極めた中村歌右衛門が亡くなったときでした。歌右衛門はまだ次の人に継がれていません。どんな名跡もいずれ情熱あふれる若い人が現れ、継がれてゆくでしょう。それが芸術の強さと思っています」と。

 そうです。彼が言うように、芸術には次に継がれる強さがあります。ここで彼が語った中村歌右衛門は現代の6代目中村歌右衛門です。昨今、私が書いている高尚の「落葉の下草」に出てくる歌右衛門の話は3代目なのです。文化文政の時代に大阪で活躍した名優でしたが、それが、4代目から、どうしたことかわ分からないのですが大阪から江戸に下って活躍しております。
 なお、キーン氏が言うように、現在、中村歌右衛門の名跡は途絶えたままになっておりますが、近い将来に誰かが継ぐのは間違いない事だと思われます。誰が引き継ぐか興味ある所ですが????


市川団十郎の芸の深さは、何m。????

2013-03-19 11:10:19 | Weblog

 梅玉の答えです。

 “芸をよくして、おおくのひとのこころにかなへんとして、がじめをわりことごとくおもしろくせんとするは、げによからず。ただこゝこそとひとのめのつくところを、ひとつふたつしてよかるべき事にはべれど、其要とするひとつふたつのしがたきものにおもひ侍りぬと云いけり。”
 と、述べています。
 要するに、芸の総てに全力を尽くして演じるのではなく、こここそはと思われる所を深く、その他は浅く演じるのがいいと。また、その要領を書いて何時も懐にしており、若い人に教えているのだそうです。芸は一人だけの独創な世界にあるのではなく、昔から伝わっている伝統を後世に引き継ぐことも大切な役者の使命であると云っているのです。
 高尚が言った歌の世界にもそんな心が存在いするなら、“なにごとにもさようこそ”と歌舞伎の世界だけでなく、世の中すべての事に通じる心ではないかとも云っています。

 芸談ですから、二人の会話は、あまりおもしろくはないでしょうが、芸の深さとはどんなものか今、改めてお考えいただいてもと思い、ここに取り上げました。と云うのも、この前亡くなった人間国宝「市川団十郎」の芸に付いてもそんな心があったのかどうなのか、彼の「にらみ」とは一体何を意味するのか、もう一度、彼の芸全般に付いても併せて考えてみてほしいものだと、敢て、ここに取り上げました。


五のくだり

2013-03-18 08:35:59 | Weblog

 梅玉と高尚の歌舞伎に付いての対談「落葉の下草」の5番目の話題は、役者が芸を演ずるときの心構えを問うております。すなわち、役者は最初から最後まで総てに力を入れて演技せず、力の入れる部分とそうでない部分、「おおかたはかろくして、所々に身をいれてする」から、大いに見る人が喝采をする。その是非を、高尚は新古今や狂歌の歌から例を取りだして尋ねております。そこら辺りが高尚の高尚らしい問いであると思われます。

  「つくづくとはるのながめのさびしさはしのぶにつたふ軒の玉水」と「よのなかはつれなきものとしらつゆのころりころりを見るにつけても」の中の「しのぶにつたふ」と「ころりころり」と云う言葉と同じように、全体の中の、その一部があるから、よけいに場の雰囲気が醸し出されている。歌舞伎役者の演技も、それと同じで、「おほかたはかろくして、所々に身をいれてする」から深い味わいのある演技が見えるのではないかと問いかけているのです。かって雛介(嵐小六)が言ったことがあるのを聞いて尋ねているのです。なお、ここでいう「かろくして」と云うのは、決して、いい加減に力を抜いて演技するのではなく、「心をかろくして」と云う意味らしいのですが???

 これは、源氏物語の御法(みのり)に出てくる紫の上の
   ”おくと見る 程ぞはかなき ともすれば 
                         風に乱るゝ萩の上露”
 の心に似ているのではないでしょうか、ふと、そんなことが私の心に浮かんできました。


高尚と梅玉の会談

2013-03-17 15:02:30 | Weblog

 高尚と梅玉の会談で四つ目に話題に上ったのは、一人の役者が一つの出し物でその所作に七化もすることがあるが、之はその芸の気とわざを見せることに主眼があり、どうしてもその一つひとつの演じる時間が短くなるのが普通のように思われるが、見ていると、たいていの役者は一つずつの演技時間が長いように思うのだが、それに付いてどう思うかと尋ねております。

 それの回答として梅玉こと中村歌右衛門は次のように答えておられます。
 「七化、九化、十二化まではする。その時一つの芸を長くするのは“役者仲間へのはれわざ”のことで、見物する人はあまりそれを面白いとして見ているとは限らない」
 と。
 ここで、面白いのは他の役者との芸の争いのために何役もするのだと答えられている点であある。この間、亡くなった団十郎にしても、一人で十二化などしたと云うことは聞いておりません、どうでしょうかね。現在するとしたら一人何役ぐらいでしょうかね。此の梅玉は九化迄したことがあり、それも、それは吉三郎と芸を争いお互いに励むためだと話しております。競争心からだとすると、これ又、大変に面白いことだろうとも思われますが。

 こんなことを高尚は尋ねて居るのです。なお、この会談では高尚は梅玉に全部で七つ質問しておりますので、後3つです。最後までどんなことを尋ねたか、あまり興味は湧かないかもしれませんが“高尚の演劇論”としても面白いのではないかと思いますので、退屈ではありましょうがお付き合いください。


坂東三津五郎の吉備津神社扁額

2013-03-16 12:43:51 | Weblog

            

 この吉備津神社にある坂東三津五郎の奉納した扁額は前に紹介しましたが、もう一度ご覧ください。この額はそこに書かれている年号から文政九年の秋だと云うことが分かります。すると、昨日、紹介した坂東三津五郎が来宮した時は文政三年のことですから、それから6年後に、再び、三津五郎は、江戸から、この宮内芝居に出演するために来たことになります。私の持っている資料には残念ですが、この文政九年の秋に付いての記述は有りません。

 これ等残されている資料から推察するのですが、この宮内芝居は御朱印の芝居として大いに賑わっていたことが分かります。江戸、浪速、京以外に、全国でたった1ヶ所の幕府公認の芝居小屋が、この宮内に有ったのですから、相当の権威のある芝居小屋だったのでしょう。だから、これらの東西の名優たちが、一回だけでなく、数回にわたってはるばる西国の鄙の町、備中宮内の、それも増設小屋でなく仮小屋での歌舞伎公演を行っていたのですから、驚き以外に何ものでもありません。


宮内芝居に出演した役者

2013-03-15 19:39:49 | Weblog

 梅玉こと、中村歌右衛門と藤井高尚が鶏頭樹園で会談した話を紹介しているのですが、この文政三年の秋の吉備津神社大祭の歌舞伎には、今ではとても考えられないような多彩な、それも超一流な、役者が来宮しております。その名を挙げてみます。

 中村歌右衛門、坂東三津五郎、市川団十郎、、関三十郎、岩井平四郎、片岡仁左衛門、松本杢四郎、嵐 小六、中村歌六、市川団蔵、沢村国太郎等の名前が出ております。大坂と江戸の大役者が大挙して出演したのだそうです。その芝居見物のための賑わいは想像を絶するものがあったことには違いありません。それも一日や二日ではありません。十六日間も連続してです。

 その合間を見ての中村歌右衛門と藤井高尚との会談ばなしが書き残されているのです。それが「落葉の下草」です。 
  余談ですが、このような大がかりな江戸大阪の役者の顔ぶれが一堂にそろって出演したのは、現在、宮内に残っている記録によりますと、この時が最初で最後であったようです。それにしてもこれだけの役者をよくぞ揃えたものであると感心させられます。そこらへんの交渉は、例の宮内の親分、岡田屋熊次郎の力があったからだとも言い伝えられております。

 なお、捜しておりますと、これらの役者の中、関三十郎、の錦絵がありましたので載せておきます。その鼻に特色があり、「鼻の三十郎、」と呼ばれていたとあります。念のために。そなん錦絵にも登場するような有名役者がそろって来ていたのです。