私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

熊沢了介の略伝 5

2010-09-30 09:12:40 | Weblog
 「蕃山」、一般には、そうです。「ばんざん」です。しかし、この「常山紀談」には、ちゃんと「しげやま」とルビがふってあります。その書に

 「かくて和気郡寺口村は其禄地なれば蕃山(しげやま)と名を更世を遁るヽこヽろざしあり」
 と。

 この「蕃山(しげやま)」というのは、源重之の

     “つくば山 は山しげ山 しげヽれど
              思ひ入には さはらざりけり”
 と云う和歌の心から名付けたのだそうです。
 それから、その年、明暦三年には、この蕃山は禄を辞し、京に出ています。そこでも、蕃山の道を慕い多くの門人が出来ます。
 中院大納言通茂卿、同通躬卿、野々宮中納言家縁卿、清水谷大納言資照卿など多くの公家たちから師として教えを請うておりました。
 しかし、京都所司代牧野佐渡守親成が、人の云う讒言を信じ、又、蕃山の才を妬む者等によって、寛文七年(1668)、大和の芳野に匿れます。蕃山の49歳の時です。京にある事11年でした。
 
 その時、吉野で読んだ歌に
       
      この春は よしのゝ山の 山もりと
               なりてこそ知れ 花のこゝろを

 があります。

 芳野の桜、何と見事なもんでしょうか。人の世の醜いいざこざなんかは一つも知らないふりをして、確実に春が来ればきちんと花は姿を見せてくれます。その咲く花の心はどんなものでしょうかね。
 「そんなにあくせくせんで、まあゆっくりと桜の花でも見て、浮世の憂さを払い去ってくれませんか」
 と、語りかけてくれているようです。
 「アア、本当に芳野の桜を眺めていると憂さが何処へ飛んで行ってしまいます。此処へ来てよかったな。このさくらも、そんにあくせくせずに、ゆっくり世の中を生きて行こうではありませんかと話しかけてくれているようだ」
 と、桜しか話相手のいない我が身を、自ら慰めているような心境の歌ではないでしょうか。         


   この春は よしのゝ山の 山もりと
               なりてこそ知れ 花のこゝろを

熊沢了介の略伝 6

2010-09-28 08:06:04 | Weblog
 熊沢了介の備前藩での功績は、何といってもその水理の論に従って建造した、国中に張り巡らされた運河や沼です。旱魃を無くするためにどのような水利施設を設けたらよいか、視察します。その馬上から指示して造らせたものは、その後、数十年 「其言中らざるなし」と云われています。
 明暦2年まで、岡山藩に勤めています。

熊沢了介の略伝 5 岡山藩の危機をを救う了介

2010-09-27 20:14:38 | Weblog
 この了介は、参勤交代の時に、しばしば、光政に従って江戸に赴いています。その江戸に於いても、了介の良知、博学は大変な評判となり、多くの大名だけでなくが、将軍家光さへも、「一度、熊沢了介に会ってみたいものだ」と、お思いんになられたほどです。
 そんな彼は、又、大変偉大な為政者で、藩主光政公を助けて、数々の功績を残しています。その一つを、「常山紀談」で、常山は次のように紹介しています。それによると


 「承応3年備前一帯は洪水に見舞われ、それが明暦元年の備前藩では大変な飢饉が起こっています。その時、
 「日夜国中を巡り撫育に心を尽す」
 と、了介のしたことをこう説明しています。
 日夜です。昼間だけしか見て回ったのではありません。夜にも行けるところは、足を延ばしたのでしょう。その必死ぶりが読み取れます。その後にある、この「撫育」と云うたった2文字の言葉の中に、了介の心は、ありありと伺い知る事が出来ます。
 どのように人々が困っているのかよく見聞きして、今、それらの人たちが一番欲して居る物は何か、親身になって人々の声を十分聞いて、援助をしていたのです。「撫」ですがら、一方的な上からのお仕付けがましい援助ではなかったのです。そこには、飢饉で困っている人に対する慈しみの心が見える援助だったのですから、援助を受けた人々も、その恩に十分に報いるだけのお返しを、当然と言えばそれまでですが、しています。

 飢饉救済の費用として徳川幕府から、急遽、特別に何万両と云う借金をして、その救済に当てたのですが、この本には、それを伺わせるような文言は何処にもありません。しかし、この了介の働きがあったからこそ、この飢饉は、他国の者が聞いて驚くような、迅速で適切な飢饉対策を講じております。
 

熊沢了介の略伝 4

2010-09-25 15:52:12 | Weblog
 熊沢了介は、藩主光政に従って度々江戸に上っていますが、その江戸でも、その良知を慕って、多くの人が教えを請うています。
 紀伊大納言頼宣卿、松平伊豆守信綱、板倉周防守重宗、久世大和守広之、板倉内膳守重矩、松平日向守信之、堀田筑前守正俊など、多くの当時の幕府の中枢にいた人たちが居ました。
 あの第3代将軍家光も、この熊沢了介の人となりを人から伝え聞いて、教えをと思っていたのだそうですが、慶安4年に死去され、謁見が出来なかったのだそうです。

 頼宣など多くの当時の幕閣の中心にいた人たちがこぞって、熊沢了介にその教えを受けていたということは知っていたのですが。将軍家光もと、云うのは此の「常山紀談」で初めて知りました。

 それくらい、この了介は、当時の江戸でも、相当の有名人であったことには違いありません。そのためであるかどうかは分からないのですが、備前藩で、三千石というば破格の録を食み藩士からは垂涎の的になっていたのは確かなことです。
 
 なお、此の紀談には書いてはいませんが、此の三千石という、その破格の待遇が、結局、了介を二十八歳で備前藩政から引退させる原因になったのだと言う学者もいるようですが。

熊沢了介の略伝 3

2010-09-24 18:01:09 | Weblog
 熊沢了介は、「ゆりのこ雑水」を飯とするような、極貧の生活をしながら、中江藤樹について王陽明の書を学びます。彼の良知は、王佐の才を供えている事を聞き知った、備前藩主池田光政は、福知山藩主京極主膳を通して、備前藩に仕える様に度々請うております。
 なお、この京極主膳は、また、中江藤樹について教えを受けていたのです。いわば、熊沢了介は京極主膳と、藤樹の私塾[藤樹書院」での同窓生的な関係があったのです。

 そして、正保2年(1645年)に、再び、光政侯に仕えています。禄は三千石を賜って、政(まつりごと)を執っております。
 和気郡八塔寺の土地を与えられ、その辺り一帯を開墾して田を開いて、備前藩士数十人を土着させています。その時、了介は助右衛門と称していました。光政の参勤交代に従って度々江戸へ行っています。

「ゆりのこ雑水」?

2010-09-23 11:40:04 | Weblog
 昨日、湯浅常山は、「常山紀談」に、熊沢蕃山の近江での生活を、「ゆりのこ雑水を飯とし」と、その極貧の様子を説明しています。
 その「ゆりのこ雑水」について、又、飯亭寶泥こと筆景氏から、

 「おめえがけえとった、常山の「ゆりのこ雑水」のことにちいてじゃがなあ。わしもようわからんのじゃが」
 
 と云う、例の通りのメイールが届きました。彼は言います。

 「ゆりのこ」?あの百合ではないと思うんじゃが。そのゆりのねは、正月に、わしの家じゃあ、雑煮の中に入れる、なくちゃあいけん、でえれえ、てえせつなもんじゃが。・・・・どうも、そのゆりとはあんまり関係はねえたあ思うが?・・・・じゃったら、なんじゃろうかなあ。この「ゆりのこ」は、なんぼうかんげえても、どげんなもんか、ちいともわかりゃあへんのじゃ。となりにおる、よう、なんでもしっとるおばあにきいてみたんじゃが
 「そげんなわけもわからんようなもなあ、せえまで、ここらへんじゃあ きたこともありゃあへん。わしゃあしらん」
 と、つっけんどうにいいんさるんじゃ。・・・・辞書をひいてみてもありゃあへん。勿論広辞苑にもじゃ。しかたがねえけえ、試しに、小学館の「ことわざ辞典」を見てみたんじゃが、そこにも、でとりゃあへん。わきゃあわかりゃあへんのじゃ。そげんなもんはねんじゃなねんか。常山が、勝手に、造ったもんかもしれんな。「ねえなあ、あきらめにゃあおえんなー」と、おもうたんじゃが、つぎにけえてあった「ゆるい」のとけえ、なんちゅうこたあありゃあへん、目が行ったんじゃ。そけえ、『緩いものは飢渇時(けかちどき)の稗粥(ひえがゆ)ばかり』と、けえてあるのが目にちいたのじゃ。とたんに、目から鱗じゃ。それをよんでみてびっくりしてしもうた。緩いもんは、飢饉の時に食べる稗の粥ぐらいなものだと言う意味なんじゃそうな。
 この「ユルイ」が「ユリ」にかわったかもしれんのう。まあ、そこら辺が「ゆりのこ」のもとになったんじゃあねんかとおもよんじゃが・・・・。「こ」は「えどっこ」なんかへ、つこうとる「こ」とおんなじあねえかなあ。「稗だけがちょびっとへえておる水みてえなぞうしい」のことを、近州辺りで「ゆりのこ雑水」というておったんじゃあねんだろうかなー

 と。

 このお説、誠に、此れ言語学的民俗学的な博学しい御説であるなあと、「たいしたもんだなー」と、今朝からひとしきり感心ばかりです。
 そうすると、この前にお付けした、筆景、本当はうすっぺらな、吹けば飛ぶような軽いと言う意味から「軽」とでも付けようかとも思ったのですが、あまりにも、たびたび御忠告下さる事に感謝して、あえて「景」とお付けしたのですが、今日のようなお説を頂きますと、それも大変失礼かなと思い、「景」は、以後、「敬」に置き換えなければいけないのではと思っています。
 「筆敬」「ひつけえ」です。その筆を敬う。いいニックネームがつきました。外は、秋分に日の朝の激しい雨が、勢いよい降り続いています。明日からは、本格的な秋になるらしいです。

熊沢了介の略伝 2

2010-09-22 07:05:10 | Weblog
 「常山紀談」に出ている熊沢蕃山について、暫らく書きます

 熊沢蕃山事次郎八は寛永8年(1634)16歳の時に備前に来て、光政に仕えています。寛永13年に島原の乱が起こった時は光政侯は江戸にいたのですが、もし、この戦が終わらない時には出陣しなくてはんらないので岡山に帰ります。しかし、その時、次郎八は、まだ、元服してなかったので、江戸に留置かれていました。しかし、何を思ったのかまでは記されてはいないのですが、次郎八は、俄かに、元服して、密かない岡山に戻っています。
 学問も武術も、未熟な自分には備前藩に仕える価値がない、もっと自分を磨いて仕えるべきであると思い、寛永15年には岡山を去って、近江の桐原と云う所に移り住んでいます。そして、24歳の時、中江藤樹を師として弟子入りしています。父野尻氏は、家族の面倒を次郎八に任せて、江戸に、職を求めて赴きます。
 残った家族は母と妹です。家は貧しく、江州の至って貧しい農家と同じような生活だったそうです。「ゆりのこ雑水を飯とし」と記されていますが、どのようなご飯であったかは分かりません。多分、お米などろくに入ってない芋や粟などの雑穀が入っている極貧の者が食するような雑炊だったのでしょう。『糠を食して魚肉酒茶の味を知らず。やうやう帋子を着て寒を防ぐ』とも、その生活の様子を伝えています。帋子とは、これも、又、貧者の着る表面を柿渋で加工した紙製の防寒用の衣服のことだそうです。
 其のような暮しが5年も続いていました。廻りの人は
 「ああ、可哀想に。あの家の者は、いつか飢え死にするよ」
 と云われるぐらい、貧しかった、と、此の常山紀談には書かれています。

吉備津宮日参札がやってきました

2010-09-20 11:59:29 | Weblog
 昨日、我が家に「吉備津宮日参」と、誠に堂々と書かれた木札が、4か月ぶりに届いてきました。

 此の木札は、日本広しといえども、我が向畑町内だけしかない吉備津神社の氏子としての面白い風習を今に伝える珍しいものです。昔は、吉備津神社の氏子として、吉備津神社周辺の各ごとにあったのではと想像されるのですが、現在残っているのは、自慢ではないのですが、我が向畑だけにしか有りません。それぐらい大変珍しい風習なのです。なお、此の木札には造られた年号「宝暦八年」が刻まれています。1750年頃に出来たものです。
     

 此の木札は、120軒ある向畑の一軒一軒を、毎日、順々に廻って来るのです。
 言い伝えによりますと、廻って来た木札は、先ず、家の床の間に恭しく置かれます。それから、
 「木札が今日我が家にやってきました。どうぞ我が家の家内安全をお守りください」   と、吉備津神社に報告方々お参りに行くのです。もう250年以上も、戦後の一時期を除いて、続けられてきた大変に珍しい向畑町独特の風習なのです。無形文化財にでも指定されてもいいような文化的な無形の寶でもあるのです。
 でも、いいことか悪いことかは分からないのですが、現在は、此の札の持つ意味については、向畑町内の人でも、知らない人の方が多く、廻って来ると、即、翌日には、お宮さんにお参りすることもなく、そのままお隣へと廻して、「それで終わり」とする人が多いのではと思います。

 昨日、我が家にお出で頂いた此の日参札の報告方々に、私は、今朝、吉備津神社にお参りしてきました。
 広々とした神殿に、型通りに深々と敬礼し大きく拍手を打ちました。その音は拝殿の中いっぱいに響いて、壇上にあるきらびやかな神殿の中に吸い込まれるように入っていたのではと思えました。一瞬、その音を聞いている時が、仏教などが言う、あの「無我」ではないだろうかと云う気になるように思えました。
 お参りを済まして帰りがけに、信仰心があるかないかに関わらず「おじぎ」をするという事は何か考えてみました。
 どうして、お宮さんの前に来た時は「おじぎ」をするのでしょうかね??????
 
 お宮からの帰り道で、田圃のあぜ道に彼岸花が咲いているの出会いました。9月に入っても、連日30度を越す「暑い暑い」夏日です。もう日本には、秋は来ないのかなと思っていたのですが、やっぱり秋はありました。彼岸花が、その秋に自分を忘れさせないように、そっと畦道にあの真っ赤な花びらを開いて、確実に秋を歓迎しているように優しく向い入れていましたでした。 
 なんだかほっとした気分になり、思わず「咲いてくれてありがとう」と、無意識のうちに彼岸花にお辞儀をしていました。

 そうか。お宮でする「おじぎ」も、これとよく似ている感情かもしれないと?

    

 この花の中にも神様がいるようにも思われるのですが。

熊沢了介の略伝 1

2010-09-19 19:49:02 | Weblog
 「常山紀談」にも、あの熊沢蕃山の関する記事も見ることが出来ます。2,3回に分けてそれを紹介します。

 「池田の家にて政を執り四海のほまれ高き熊沢次郎八伯継了介は本姓野尻なり。」から、熊沢蕃山の略伝が始まります。
 それによると、彼は加藤義明に仕えていた野尻藤兵衛一利の子で、母方の父、熊沢半右衛門守久の養子になります。この守久は福島正則に仕えておりました。正則が安芸備後から信州の川中島に流されます。その時に、正則は江戸藩邸にいました。幕府の役人たちが、その屋敷を取り囲み、
 「幕府の命に従わない時には、藩邸にいる者はことごとく討ち滅ぼす」
 と、言われます。その幕府の命に恐れおののいた藩邸にいた者は、ほとんど、総ての人が逃げ去ってしまいます。しかし、たった七人だけだったのですが、最後まで主君正則のお側に仕えたのだそうです。その一人が、後に蕃山の養父となる熊沢半右衛門守久でした。
 その後、正則一行は江戸から川中島へ流されます。この旅の途中で、「正則一行は総て暗殺されるだろう」と江戸中に噂が立っていたのですが、この熊沢守久は、殺されることを覚悟して、最後まで、福島正則に付き従い川中島まで行きます。その時、正則は
 「日頃、そんなにお前を寵愛したとは思わんのだが、それほどまで尽くしてくれるのか」
 と、涙したのだそうです。
 その後、守久は水戸家に仕えています。
 一方、父である一利は鍋島家に仕え、島原の乱の時武功があり、唯、「岡山に卒し、蕃山に葬りぬ」とのみ記されています。池田家とどんな関係があったかは全くの不明です。

 まあ蕃山と岡山の関係は、この父一利を通して何らかの関係があったのではないかと想像することもできます。

八丈島の浮田秀家

2010-09-18 19:57:37 | Weblog
 関ヶ原の戦いの後、徳川家康に引き渡された秀家は死罪を一等減じられ、源義家と同じ八丈島に流されます。
 ある時、備前藩は池田光政侯の時代です。児島の(西大寺かも)商人の舟が嵐にあって八丈島に漂着したことがありました。その時、秀家は90歳でした。古里の備前の商人の舟が漂着したと聞いて、その人を呼んで色々古里の事について尋ねたのだそうです。
 其の商人を待ち構え、早速に尋ねます。
 「今、備前には誰が有るか」
 と。その商人は「新太郎少将です」
 と。
 「新太郎少将?誰だろう。家老の名前は。・・・そうか。池田の家が岡山を納めているのか。昔は、戦に備えて岡山にも出城が方々にあり、それを守るために兵士がそれぞれの城に出向いていた為,岡山の城下には人はそれほど多くはいなかったのだが。・・・・そんな城は、今はどうなっているのか。また、岡山のお城の北に伊勢の宮があったのだが、それは今でもあるのか。それから、町はどうなっているか」
 と、次々にお聞きになられます。
 「伊勢の宮は、今でも昔ながらの所に、確かに、あります。しかし、徳川様の世になってから、戦いはなくなり、出城もいらなくなり、そこに駐留していた兵士達がみんな岡山の城下に帰り来て、その伊勢のお宮の周りにまで、今は昔と違って、家がたくさん建っています。それぐらい、今の岡山は、家も沢山出来て、人々も多く住んでいて、大いに繁栄しています」
 「そうか。それほど岡山の町は賑わっているのか。浮田の時代は、戦いに明け暮れ、武士は、ほとんど出城に出向いておったのだ。そのため、岡山の城下には、それほどの家も人の姿も見えなかったのじゃ。そうか、今、城下には人々が多く集まって繁昌しているのか。それだけ世の中が落ち着きを取り戻して、平和な世の中になっているのじゃな。」
 と、云われたのだそうです。

 それから、秀家は
    “われこそはにひ島もりよおきの島のあらき波風心してふけ”
 と、短冊に書いて、其の舟人にお渡しになられたそうです。
 これは、一体、何を意味しているのでしょうかね。
 高松城の水攻めに始まって、太閤の五奉行、そして、関ヶ原を経て八丈の島に至るまでの長い波乱万丈の一生を生きた秀家の悔恨でしょうか。その短冊も、歴史の重みに耐えかねてか、どこかに消えて完全になくなっています。しかし、その話だけは、常山紀談の中だけにその息吹を残さずに保っているのです。


 「常山紀談」には、これだけの記述で終わっています。
 此の90歳の、かっては太閤の五奉行として、中央政権の中にいて、その権勢をほしいままにしていた人です。これが終焉の姿なのです。
 「人の一生とは、一体何でしょうかね」
 と、問いかけない所に、「常山記談」の面白さがあるのだと思うのですが。

浮田秀家の最後

2010-09-17 11:07:15 | Weblog
 此の紀談の中で、常山は浮田秀家の事についても書いています。 

 秀家は、家康共々太閤の五大老の一人でありました。関ヶ原の戦いでは、秀頼に味方して、備前藩1万8千の兵を率いて参戦しますが、豊臣方は敗れます。この戦いの後、厳しい徳川方の追求をのがれ、伊吹山に、又、美濃の白樫村にと点々と身を隠しながら、どのような経路をたどったかわ分からないのですが、最後は薩摩に逃れ着かれます。薩摩に着いたと、言う事がどうして分かったかは分からないのですが、兎に角、浮田秀家が薩摩にいる事を聞いた徳川家康は、それまでの死罪を一統減じて、秀家を八丈島に流しに処します。

 その八丈島での秀家の様子について「常山紀談」では、次のように記しています。

 「まことに苦(とま)ふく菴竹あめる戸に、雨もたまらず風もふせがねば、黒木の柱を削りて書き付けらる。

   もしほ焼く うきめかる身は 浦風の
               とうはかりにや わぶとこたえん

 「苦ふく」ですから、屋根は、当然、菅で葺かれています。そして、「菴竹あめる戸」と云うのは、どんな戸か知らないのですが、竹を割ってそれでこさえた、誠にお粗末な隙間だらけの戸ではないかと思います。そんなの粗末な家ですから、当然、雨が降れば、雨漏りはごく当り前です。吹く風までもが、遠慮会釈なく菴竹でできた戸の隙間から吹きこむような貧しいあばら家です。当然、柱も真っ黒に汚れていたのでしょう。紙も自由に手には入りません。しかたなく、真っ黒に染まった柱を「かんな」か何かで削って、そこに和歌をしたためる以外に、字など、まして和歌など書く所がなかったのでしょう。当時、紙など、八丈でも、なかったのではないでしょうが、それくらい貧しい生活をしていたのだという事を大げさに書いているとしても、32万石の大大名が戦いに敗れると、此のような悲惨な目に逢うと言う、浮世のはかなさを、間接的に物語っているのです。

 この歌の解釈は、よくは分からないのでが、

 「このような辺鄙な島に流されて、誠に侘びしい生活をしている我身に、『どうですか此処の生活は』と、浦風に尋ねられたなら、私は、ただ、「わぶ」そうです。今、私は、あれこれ考えてもどうにもならない自分の運命に対して、本当に打ちひしがれ嘆いているのですよ」
 と、答えるしか方法はありません。

 それぐらいの意味がこの歌には込められているのではと考えられます??、が、どうでしょうか

   古は 奢れりしかど わびぬれば 舎人が衣も 今は着つべし
 
 と云う、古歌のような心境ではなかったのでしょうか。

清正の虎退治

2010-09-16 20:04:12 | Weblog
 清正が、朝鮮の役で、槍で虎退治をしたと言う話は、日本人なら、多くの人は知っているのではと思います。それぐらいなポピュラーな話ですが、その出所となったのは「常山紀談」が基ではないかと思われます。その紀談には、次のように記されています。

 「朝鮮にて何れの所にてかありけん」と、何処かその場所は分からないのですが、と常山は書いています。
 
 清正の陣は大山の麓に陣を敷いていました。ある夜の事、この陣に、虎が来て馬を喰い殺し、挙句の果ては、清正の小姓上月左膳と云う者をも噛み殺しています。それに怒った清正は、早速、夜明けと同時に、その大山を取り巻いて虎狩りをします。清正は大いなる岩の上で陣頭指揮をとっています。それをどこかで見ていたのでしょうか、虎が、突然に、萱原を掻き分けて、清正めがけて飛び出してきます。清正は鉄砲を以て虎を狙っていました。清正のいる岩までは20間(36m)ばかりです。その周りには御家来衆が、これもてんでに鉄砲を持ってその虎を撃ち落とさんばかりに構えていたのです。
 清正は叫びます。
 「ものども。撃つな」
 と。
 そして、自らその虎を撃つべく狙いを定めます。虎は猛然と、清正めがけて口を開けて猛り来たります。その虎の喉をめがけて、清正は鉄砲を撃ちこみます。そのまま虎はどうと倒れ、起き上がろうといますが、痛手ゆえ、そのままついに死す。

 こう書かれています。
 これは、われわれが聞いた清正の虎退治の話とは随分違います。
 我々が知っているお話は、清正が
 「槍で、虎の喉元を一突きして討ち取った」
 と、云う話です、絵本には長い槍を持った清正が描かれているのが普通です。
 しかし、この常山紀談に出てくる話は、清正の前に姿を現した虎は、槍ではなく、鉄砲で撃ち殺されたと書かれています。

 まあ、槍か鉄砲かの違いはあるのですが、現在の人は全く誰も知らないのですが、清正の朝鮮戦役で虎退治をしたという話を、初めて我が国に紹介披露したのは、我ら湯浅常山なのです。この紀談が初めてなのです。
 先に挙げた曾呂利新左衛門の話だってそうです。そんな意味でも湯浅常山の著した「常山紀談」の果たした功績は、日本歴史の中からはほとんど消えかかっているように見えますが、随分大きかったと言っても、決して、過言ではないと私は思うのです。

またもや筆景氏からメールが届きました 12676506000228229・・・・

2010-09-15 19:59:17 | Weblog
 常山紀談にある曾呂利新左衛門のお話、あんまり長いのもと思って、これで終わりと思っていたのですが、またもや、新しいニックネームを付けてさし上げたのが、気に入ったのかどうかは分かりませんが、次のようなメールが飛び込んでいました。
 
 「おめえが言うように、新左衛門の名を借りて、秀吉の金銭欲を批判したんじゃねえかと云う話ぐれえ下らんもんはねえぞ。まあ、そんなことをくどくどと、おめえさんに言うてもしょうがねえけえど、ひねくれ男のひとり言ぐれに思うてこらえてやらあ。まあそれはそうとして、曾呂利新左衛門といやあ、おめえも、こげえな話は聞いたことがあろうがな。例の通り、秀吉が新左衛門に言うたそうな。
 「何でも言え、褒美を取らす」
 そこで新左衛門は
 「では申します、一日目には畳一畳に1粒、次の日には2粒、その次の日には4粒というぐええに倍々にして、この大広間100畳の畳分だけ米を頂きたい」
 と。
 太閤は「たいしたこたあねえ。おめえは欲がねえ」と云うたんだそうな。
 さて、おめえさんに尋ねるんじゃがな。100畳目の畳には、いってえどれだけの米粒がはいると思う。分からんじゃろうが。おせえてやらあ。
1267650600228229401496703295375粒になるんじゃと。読み方が分からんのじゃが、そんなことを物の本にけえてあったんじゃ。万、億、兆、京ときて、次が垓、杼、穣とつづくんじゃ。でえぐれえな数に成るんかわからんぐれえ、ぼっけえ、ぎょうさんなかずになるんじゃと。此の話、とどのつまり、太閤は謝って他の財宝でこれえてもろうたんじゃと。湯浅常山ともあろうもんが、どうじて此の話をとりあげなかったんじゃろうかな」

 と云うのです。1267650・・・・それをどう読むのでしょうかね。そして、実際に、どれくらいの量になるのでしょうかね。

 まあ、私も、この読み方さへ分からんような天文学的な数字を見て驚いています。そんな意味からも、筆景氏に敬意を示して、ご紹介しておきます。
 なお明日からは又、常山紀談へ戻ります。

 

新左衛門の頓智4

2010-09-13 07:43:31 | Weblog
 湯浅常山は曾呂利新左衛門の頓智を4つ紹介しています。その4番目ですが、此のお話は、これまで私は、読んだことも聞いたこともないものですから、ひつこいようですが、書いておきます。

 かって太閤は沢山の金や銀で蟹を作らせて、庭の泉水やその周りに置いて楽しんでいたのだそうです。ところが、その内に此れに見飽きて、近習の者に、
 「使途をはっきりさせた者には之を与える」
 と、申されたのだそうです。
 「紙押にいたします」
 「私は金の茶釜の蓋も持ってはいません、せめてこれで持って其の蓋つかみにいたしまする」
 等、てんでに、なにやかやと理屈をつけて言っては一つずつ貰って帰っていたのだそうです。
 ところが、それを聞いて新左衛門は、早速、太閤に謁見して申上げたのだそうです。

 「臣は、人が相撲を取るのはもう見飽きてしまいました。此の蟹を集めて相撲を取らせますゆえ、是非に頂けたらと思います」
 と。
 「相撲を取らすともなれば、一つや二つでは話にならんじゃろうから。全部持って行きなさい」
 と、太閤。結局、新左衛門が残った金銀の蟹を全部貰ったのだそうです。

 まだまだあったのではと、思いますが、常山はこの四つを紹介しています。
 
 これら四つの、曾呂利新左衛門と太閤との間に交わされた、頓智話は、総て、金銭に関わる経済的なものばかりです。
 曾呂利新左衛門と云う人は、現在では、実在の人物ではないといいのが通説のようです。そうすると、ひょっとして、此の物語を作った人??は、この世の中に有りもしない「曾呂利」と云う名前をひねくり出して、架空の人物として仕立て上げ、秀吉の集めたものすごい財貨や財宝に対して、第三者的におもしろおかしゅう、秀吉の金銭欲と云うか、それも含めて、豊臣政権の全経済政策を痛烈に批判した書き物ではないのでしょうか。
 そうでなかったならば、此ません。また、そんなことぐらい、あの用意周到で賢明な秀吉が見抜けないはずもありません。全部「お前に遣わす」なんて言うはずがありません。
 草履取りから成り上り、太閤にまでなった秀吉の我欲の強靭さを、新左衛門の姿を通して、示しているのではないでしょうか。

 そんな風に、此の頓智話を、私は勝手に想像しているのですが。

 そんな架空の人物であったことを知りながら、「紀談」に取り上げた常山の心はどこに有ったのでしょうか。
 もしかして、歴史上の人物たるものは、総て、此れ実話ではなく、架空の人物も沢山含まれているのだ。だから、十分、気をつけて読むのが本当の歴史家なのだと言う事を、このお話から、教訓として取り扱ったかもしれないと、聊か、常山に味方した読み方もあってもいいのではと思ったたりもしています。

新左衛門の頓智3

2010-09-12 13:36:43 | Weblog
 この常山紀談には、3番目の新左衛門の頓智として、次のような話が載っています。誰もが一度は耳にしたことのあるお話ですが、書いておきます。


 「或る日のことなりしが、新左衛門太閤の機嫌を取り、頗る其功ありける程に太閤申しけるに
 「何なりと汝の望めるものを賜らせん」
 と。新左衛門は云うへるやう。
 「臣敢て大なる望み此れなく。唯乾袋二個程米を賜はりたし」
 「こは甚々(いといと)易きことなり。余り寡欲(よくすくな)の至りならずや」
 たった乾袋に二杯分の米をくれと言うのです。常識的に考えれば、乾袋一つには、一升か二升ぐらいしか入りません。だから、あんまり欲が少な過ぎるのではないかと、太閤は考えたのです。
 「これにて沢山でござります」と新左衛門。

 それから数日が過ぎて、新左衛門は2個の乾袋を張抜き数十百人を雇ひ来りて、太閤の御前に出て、
 「前日の御約束の米、これに賜りたし」
 と云って、米倉二戸に持ってきた乾袋を蓋ってしまいます。流石に、これには太閤も呆然として、<暫し言句も無かける>。

 此の湯浅常山の「常山紀談」の話が、元になって、後の曾呂利新左衛門の頓智話が作られたのか、それとも、当時、もう相当有名になっていたのを聞いて書きとったかは分かりません。
 もし、此の話が、常山の発掘した新しいお話であるならば、彼の歴史的評価ももっと高かったのではないかと思いますが。