私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

廉池軒

2009-10-31 08:56:42 | Weblog
   “名にしおふ にしきか岡は 花もなし
              秋来てめでん 木々の錦を”
 と、詠まれた二色ヶ岡の秋の錦が、もうすぐ傍にまでやってきています。
 そんな景色の漂う徑をそぞろ行けば、突如として錦鯉の泳ぐ明るく開けた感がする「廉池」が目の前に現れます。その池には、「くの字」をした真っ白に浮き立つ石橋が架かっています。石の白と水の青との中を、点々とした錦鯉の赤が、あちらかと思えばことらへと無時間的な流れとなって縦横無尽に静寂なる幻想の世界を映し出しています。その描く赤が、特に、何か悠久の時間をその有限の池の小さな世界にの中に閉じ込めているような錯覚さへ覚えるように思えます。
 その石橋の向こうにある草葺柿葺の建物が「廉池軒」です。

        

 案内板によると、この廉池軒は綱政侯がよく使われた亭舎で、戦災からも免れた建物の一つで、園中の諸勝を望むには、最も優れた場所でもあります。

     一掃塵懐奨如水 清風時起自廉池
 と、詩にも詠われています。


  なお、綱政侯は歌人としても多くの歌を詠んでいますが、そのほか岡山藩では七代の藩主斉敏侯も、又、歌を沢山詠んでいます。
 その斉敏侯の二色ヶ岡の歌。
    “花もみぢ 変るながめの あかざりき
              誰もにしきの 岡というらん” 

二色ヶ岡花(にしきがおかのはな)

2009-10-30 15:44:51 | Weblog
 素朴にして雅致ありと言われる茂松庵の横の小徑をしばらく行けば、その南に四天王堂があり、さらに東に進むと旧藩主の鎮守神である地蔵堂があります。その側らに御影石の石標があり、「二色ヶ岡」の字が彫られています。傍の石道を下っていくと花葉の池の岸辺に出ます。ここからは対岸にある栄唱や延養亭が見渡せ、流れ落ちる渓壑の瀬韻の趣をも臨む事が出来ます
      

 伝え聞くところによると、往時は、この辺り一帯には花樹が多く見られ、「二色ヶ岡花」として後楽園十勝の一つに数えられていたのだそうです。なお、この「二色」を「にしき」と、読ましています。
 現在では楓樹が茂鬱して、それこそ晩秋には、あの燦爛とした錦を織るがごとくの奇観を見せます。まあ、勤労感謝の日頃が一番の見頃ではないかと思います。これも、又、私の、秋の豪渓や寶福寺とともに後楽園を楽しむ年中行事の一つになっています

花葉の森

2009-10-29 11:16:24 | Weblog
 大立石を通り越し、更に、池に沿って奥へ進むと、其の辺りはやや小高い岡になって、「喬樹千章、蓊鬱枝を交え、四時日光を遮り、緑苔地を蔽て」と、詳誌にかき著されている、また、珍木「ちさの木」があるといわれている「花葉の森」が広がっています。
 ここまではめったに人が訪れることはなく、「幽邃高遠にして、深山幽谷の趣」が味わえる、後楽園の雅趣を賞玩できる最も適した場所で、特別な隠れ名所になっていています。

 
 更に進めば、小石を敷き詰めた徑(こみち)に出会え、その畔に小さな庵がひっそりと佇んでいます。それが茂松庵です。旧藩主の茶事を修めた場所です。
    


   おひしける そのの木の間を 分けゆけば
             深山にも入る 心地こそすれ 
  古田まき子の、まさに、この「花葉の森」そのままを詠んだ歌も残っています。
  また、岡 直盧の茂松庵を詠んだ歌もあります。 
   しけりおふ 深山のおくの 一家(ひとつや)に
             ただ松風の 音のみぞする 

栄唱橋異聞

2009-10-28 14:18:54 | Weblog
 後楽園十勝の栄唱橋についてもう少しお話します。
 この橋は、それまで随分久しく、原因やその時間のほどは不明ですが、とっぱられていてなかったのだそうです。それか、明治27年になって、昔そこに架かっていた橋が、そのまま元の通りに復元されたと言う事です。それが現在ある橋です。
 そんなん事実を裏書するような一枚の絵が、「後楽園真景及詳誌」に載っていました。

 

 この本が出版されたのは明治24年ですから、その当時には、この絵からも分かるように、栄唱橋はなかったのです。

 なお、この橋についても、藩主綱政侯が詠まれたお歌が残っています

      花の香は むせぶ許りに たちこめて
                霞ぞ渡る 谷のつぎはし

 この綱政侯は、前にも説明したとおり、岡山藩主であるとともに、一角の歌詠みでもあったのです。
 
 これも、蛇足ですが一言。
 この橋が架かっている池の畔にある大立石の西側一帯にあるこんもりと茂っている森が「花葉の森」と呼ばれています。この森の北西隅に、いわゆる「チサの木」と呼ばれる珍しい木があると聞いているのですが、何回訪ねてみても、私には、まだ、見つけることは出来ません。念のために、此の木は、あの「伽羅先代萩」にも出で来る「こちの裏のちさの木に」の木なのだそうです。
 なお、伽羅は「きゃら」でなく、「めいぼく」と読ませています。ちなみに、伽羅は香木で名木の別名を持っている木ですから、この場合、敢て「めいぼく」と読ませたのだそうです。

後楽園十勝ー栄唱橋

2009-10-27 13:54:19 | Weblog
 又、本題に戻ります。
 延養亭の軒続きで、西北にある建物が、別名、望湖閣と呼ばれている「栄唱」です。
      
      
 この栄唱の前下に花葉の池があり、その池に斜めに架かって二色の岡に通じていいる橋が、後楽園十勝の一つの「栄唱橋」です。
        

  
 この橋を渡れば、すぐ目の前に、高さは約7.5m、周りは約23mもある巨石が池臨みて屹立しています。
 この石は、この園が出来た時に、瀬戸内海にある犬島から綱政侯が運ばせた花崗岩だそうです。その時、この石があまりにも大きすぎて運ぶことができないため、石工に大きな石を90個に砕かせ、小さくして持ち運び、ここで元のように組み立てられたものだそうです。
          

 この大立石より栄唱を見れば、その側に「和楽(わがく)」と呼ばれる、お能が催される時に使われた楽屋となった建物もあります。
      


吉備のへんてこりんな土器についてー土と火のオブジェ展より②

2009-10-26 20:00:38 | Weblog
 現在開かれている岡山県立博物館での「土と火のオブジェ展」で、吉備地方から出土した種々な土器を紹介しているのが第2室です。その部屋で、特に異彩を放っているのが「特殊器台」と呼ばれる土器です。
 これは、弥生式墳丘墓や前期古墳時代の祭礼時に使ったと考えられている、吉備地方だけにしか見られない特殊な土器なのです。
 なお、この土器は、その後の研究で、例外的に、日本最古前方後円墳(3世紀末)ではないかと言われている大和の箸塚古墳や出雲の古墳などでも、数例見られると言われていますが、吉備地方発の文化の日本各地への伝播を物語る証拠ともなっている物の内の一つでもあるのです。又、そのことは、それだけ古代の吉備が、大和等と並ぶ日本でも有数の強力な勢力を保持していたことを物語る物的証拠ともなっているのです。
 そのように考えると、この「特殊器台」と呼ばれる土器は、単なる吉備と言う一地方の古代を物語る一遺物ではなくて、岡山県人として日本に、いや世界に誇れる重要なる歴史的文化遺産なのです。
 その写真です。
   
 なお、蛇足ですが、この特殊器台が元になって、後に、造山古墳等で一般的に見られる円筒埴輪に変わって行ったと言われています。
 

縄文のへんてこりんな土器についてー土と火のオブジェ展より

2009-10-25 09:38:33 | Weblog
 後楽園の県立博物館で、今、「土と火のオブジェ」と題する展覧会が開催されています。
 オブジェ。辞書によりますと、幻想的抽象的な芸術作品のことだそうです。

 博物館に入ると、館員さんから、2階の第一室から見るようにと指示がありました。その第1室です。
 まず、怪しげとしか表現ができないような形をしているガラスケースに入った火炎土器が目につきます。その他、ポスターにある通り、幻想的縄文土器の数々が、所狭しとこれ見よがしに、部屋の中や周りに迷路のように並べられてあり、それぞれに自分の縄文特有な光を投げかけていました。半分に壊れかけた黒光りする土偶の怪しげな三角の口から今にも何かを語りかけられるような錯覚に陥りますが、何も語ってはくれません。
 
 ここに展示されている縄文の土器の一つ一つは、その土偶の口と同じように、何にも昔を語ってはくれませんが、しかし、一万数千年という時間を飛び越えてその姿のみずみずしさをわれわれ現代人に見せてくれています、そして「我々縄文人の心を読んでみろ」と、遥かかなたから呼び掛けているようでもあります。
 
 そんな第一室から2・3・4室へと展示物は続いて、岡山県内から出土した土器も数多く展示されています。その最後を飾るのが備前焼でした。この展示の企画にも大変工夫がみられて、その素晴らしさにも感心しました。
  
 これら展示されている作品の一つずつ、どれを取り上げても、あまりの見事さです。特に、縄文の素晴らしさは私の感情を通り過ぎ、そのえもいわれない、何かしら怪しげとでも表現できそうな底深い幻想の世界に引き込まれるようでした。
 過去に、東京国立博物館などでも、断片的に1,2点の縄文の国宝指定の土器は見たことはあるのですが、これだけ一堂に種々な縄文土器を展示しているのは見たことがありません。だから、余計により幻想的に映ったのかもしれませんが。なるほど、これがオブっジェかと深く息を吸い込みます。
 
 それらの展示物に釣られたのではないのですが、館を後にする時、その図録まで、つい買ってしまっておりました。
 
 そして、この幻想の世界に入り込んだままで、小林先生の縄文の世界のお話を聞きました。
 お話の中で、日本文化の持つ、縄文もそうですが、直線でない曲線の素晴らしさを強く訴えられた先生が、我が吉備津神社のお屋根の曲線を見られたならば、何とおっしゃられるだろうかと思いながらハンドルを握りました。
 

 その図録の中より

    

 何と見事な幻想的な作品と言うか、何に使った入れ物でしょうか。まさか「呪い」用の土器でもあるまいしね。よく見ると、何かの霊魂のような感じがこれらの土器から伺う事が出来るように思われますが。

 更に不思議な土器もありました。
 
 これがその土器です。いったい何のために作ったのでしょうかね。何かの入れ物としてっ作ったとするならば、これほど使いにくいものはないと思います。半分ぐらいしか器としての用は足しません。でも、その模様と言い、形と言いオブジェ、そうです、幻想そのものです。
 抽象芸術などと言う高尚な思想は、当時の人には、なかったのは決まっています。とすると、行きつく先は、どうも魔物から、この中に入れてあるものを、多分肉などの腐りやすい食べ物だと思いますが、その食べ物を腐りから守るために、縄文人が工夫した跡ではなかったのでしょうか。
 在り余る食べ物ではありません。自分たちの生死の境を分けるものなのです。獣の肉だったかもしれません。冷蔵技術もありません。これらの物の保存は、唯、ひたすら何かにお祈りする以外には方法がありません。当時の人々が考え付いた食糧保存の一番の方法ではなかったと思います。器に神を取り込もうとしたのではと思います。それがこの形になったのではないでしょうか。

 弥生になると、コメの生産が始まります。貯蔵が簡単にできるようになりますから、物を腐らしてしまう魔物から入れ物の中身をを守る必要がなくなります。その為に、機能的に便利な土器が作られるようになったのです。単純に手早くできるだけ大量の土器の生産方法が考えられたのです。魔よけなどと言う「お呪い」用の複雑怪奇な土器は必要でなくなったのです。
 縄文のように、半分も不要な部分をくっつけたりせずに、丈夫で持ち運びに便利な軽い土器が作られるようになったのです。同じ形のものを大量に作る専門職人みたいな人も現れたようです。それが縄文と弥生の土器の違いです。だから、縄文のそれには魂をゆするような、その中に吸い込まれてしまうのではないかと思われるような不思議な感覚が生まれてくるのです。
 そんな時代が1万数千年の間続くのです。縄文とは大変興味深くて、変に面白い人間臭い時代なのです。

 ドラエモン的な発想が可能なら、私は縄文の世界を夢見ます。

後楽園の写真を写しに

2009-10-24 17:12:03 | Weblog
 後楽園にある岡山県立博物館で、今、「土と火のオブジェ」展が開かれています。今日、その一環として、国学院大学名誉教授小林先生の講演会があるというので、早めに出かけ、ついでにと言っては何ですが、「十勝」の写真も撮ってきました。

     
 
 入場口をはいると、まず、鶴鳴館が目につきます。その正面玄関です。
 
 今日は、ここで一組の結婚式が執り行われていました。新郎新婦のおばに当たる方でしょうか、
 「もう一度、ここで結婚式を挙げてみたいよね」
と、今日の結婚式に満足なさっているような、さも睦つましそうな初老のご夫婦のひそやかな会話が聞こえてきます。平和な大きな後楽園での絵になるような小さな風景です。

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 もうこれで何代目かは不明ですが、例の村主「平四郎の松」は、冬支度も、すっかり済まして、裏玄関横に見え、ご丁寧なる説明板までが、そこにしつらえてありました。
 という事は、この松は、津田永忠の深い思い(心)ではなくて、藩主綱政自らの思いであったほうが強いのではないか。その為に、特別に言い伝えとして残って、現在まで続いるのではないかと。
 そんな思いをえがきつつ、庭園内に入ります。
 
 まず、目についたのが、園内の松の木、総てに、もう早々と冬支度が施されていました。
 曲水の流れと松と菰がちょっとした後楽園の冬の初めの風物詩を画きだしていましたので、ちょこっとカメラを向けてみました。

 
 
 その冬支度の整った松の下を流れて曲水は、すぐに延養亭へと誘ってくれます。艸葺と柿葺が交って、園内の正堂としての威容を誇らしげに現わします。
      

 なお、この延養亭の鶴を詠った詩も沢山ありますが、その内の一首

    一従鸞輿過 恩光溢草塘 如今池水静 仙鶴一声長    西川春峰  

 鸞輿は天子の乗り物、恩光はのどやかでいつくしみのある陽光、草塘は青々とっした草に囲まれた堤、仙は美しいというぐらいの意味になると思います。

 詩全体の意味について、詳しくは、例の漢文の先生に尋ねたいこと山々なのですが、彼もよる年波には勝てず、近頃、床に伏せっている時間が多いとのことで、少々訪ねて行くのを遠慮しています。だから、はっきりとした意味は、今は分かりかねますが、いずれ、また、彼の健康が回復した暁にはと思っています。

 

藤井高尚の“きつつ馴れにし”

2009-10-23 10:16:58 | Weblog
 ここで、また少々横道に反れます。

 それにしてもコンピューターなる者?は便利ですね。「横道にそれる」の、「それる」は、いったい、どんな字だったかいな?と思っていても、即座に教えてくれるもの。人より偉いんだから「物」ではない「者」だと思った次第です。どうお思いですか。

 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、「きつつ馴れにし」と言う言葉自体は「伊勢物語」にあることぐらいは知っていましたが、寶泥氏からのご指摘をいただいたおかげで、後楽園延養亭の綱政侯の歌とこの言葉を結び付けることができたのです。
 
 そう知ると、また、私の頭の中に、この「きつつ馴れにし」と言う言葉の語源は何だろうかなと言う思いがつのります。そうすると、否が応でも我が町吉備津最大の偉人、藤井高尚先生の「伊勢物語新釈」が思い浮かんできます。
 早速、その本をひも解いてみました。

   

 写真の字はあまりにも小さく過ぎて読めないと思いますが、この新釈によると、「から衣きつつ馴れにし」という語は万葉集にでていて、当時、奈良の里のことは「から衣きならの里」と呼ばれていて、それが、この言葉の語源になったのだと、解説してありました。
 
 そこまで綱政侯が知って、延養亭の鶴の美しさを称える歌として「きつつ馴れにし」と言う語を読み込んで歌にしつらえたのであるとするなら、昨日の寶泥氏の解釈のほうがいいように思われてなりませんが、どうでしょうかね。

 まあ、今日の私のブログは、全くの退屈しのぎの老人の戯言だと思って読んでいただければ幸いです。

きつつ馴れにし

2009-10-22 12:00:00 | Weblog
 又、今朝も例の寶泥氏からメールを頂きました。
 
 昨日、取り上げた延養亭鶴を詠んだ綱政侯の「幾千代をかさねやすらん庭の面のきつつ馴れにし鶴の毛衣」と言う歌は、伊勢物語にある在原業平の「からころも着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思う」が、その底にあったのではないか。
 「毛衣(けごろも)」は「からころも」から導き出したものと考えられる。この大変美しい鶴の姿に感動しながら、鶴の身に付けた純白なけごろもの姿と、どこか遠い過去にあった恋人との儚い逢瀬とが結びついて、その思いが「きつつ馴れにし」と、言う言葉を引き出しているのではないか。また、「着る」「来る」の意味をもつ「きつつ」という掛言葉を使うことによって、その感をより強く引き出す様な配慮もしている大変技巧に富んだ名歌だ、と彼は言うのです。

 どうでしょうかね。そこまでこの歌を深く解釈しなくてはいけないものなのでしょうかね。
 「庭の中を鶴が飛んでいる。なんて美しい姿だろう。愛しいなあ」ぐらいの簡単な解釈ではいけないのでしょうか。
 
 寶泥氏のおしかりを覚悟して、そんな思いをしながら、後楽園の鶴の写真を眺め直しています。

延養亭鶴

2009-10-21 12:16:52 | Weblog
 後楽園十勝の、その二は「延養亭鶴」です。
 延養亭は園中第一の約七十七坪の広さを持つ建物です。その大広間は44畳もあり、往時、その家臣に儒教を受講させたり、他藩の使節などを饗応したりしたところでもあったのです。又、津田永忠が園内に建てた最初の建物でもあります。
 ここからの眺望は格別です。岡山城は勿論、芥子山などの諸山が東に屏列していて、「朝夕紫翠を送り来る」と、書かれています。また、瓶井山の多寶塔も、園中の樹々の間より見え隠れして、その眺めを一層明媚なるものにしています。
 また、この亭の前には奇石が多く置かれ、短き樹が点綴し、曲水がその間を潺湲と流れ廉池に落ちています。その前は総て平地で、芝があり、そこで年数回の丹頂鶴の翺翔を見ることもできるのです。
 その鶴と延養亭の組み合わせが、後楽園十勝の一つに数えられたのです。

  

 ここでも、綱政侯は、次のような歌を詠んでいます。

   幾千代を かさねやすらん 庭の面に
             きつつ馴れにし 鶴の毛衣
  
 
 「丹頂の鶴たちは真っ白な羽を翺翔(こうしょう)しながらあの庭を悠々と飛んでいるなあ。
 悠久と言う時の流れの中に見える瞬間の何というゆったりとした美しさなのだろうか。周りの景色も何にもいらない。ただ、あの真っ白な毛衣が周りの何物にも染まらないで飛んでいる。本当に愛しいなあ」

 「毛衣」と言う言葉の中に潜んでいる、何か母親の温かみみたいなものが感じられ、そっと抱きしめたいようなそぞろなる愛しさを、懐かしさと言ったほうがいいかもしれませんが、詠みこんだ歌ではないでしょうか。名歌です。凡庸な人の歌では、決して、ないと思います。

 

綱政侯は魯か

2009-10-20 09:01:28 | Weblog
 しつこいようですが、再び、綱政侯の「魯に非ず」を、私なりに証明しておきたいと思います。
 
 後楽園十勝の一つ暫軒風を詠んだ歌を先にあげましたが、その他、この綱政は多くの歌を詠んでいます。
 その中に、岡山川口八景と題して、

 高嶋秋月 月はなほ松の木ずへに高島の波の玉藻にかげをやどして
 濱野夜雨 船かけていく夜かなれぬ雨の中はうきねの枕苫のしずくに
 常山暮雪 夕されば汐風までも寒くしてまづつねやまにふれる白雪
 上寺晩鐘 海越のひびきやいづこ夕風のたよりにつたう入相の鐘
 平井落雁 見たれすのつらも霧間に見え初めて平井の潟に落ちるかりがね
 網濱夕照 夕づく日なごりも遠くうつろふは汐や引くらん後のはまべに
 湊村晴嵐 あまの住む里の外面にほす網をあへす吹きまく嵐はげしも
 北浦帰帆 追かぜにかへる浦半のいざり船けふのしわざのかいもあればや

 この八首を詠んでいます。
 もしも、綱政侯が、徳川家の記録に残っているような魯鈍な藩主だったとすれば、決して、できなかったのではと思っています。

 もう一つ紹介しておきます。
 「御後園慈眼堂への御奉納御歌」として、次のような書きものとともに

 普門品一軸は、むそじの冬思立て、二夜のともし火の下にて書き写し、慈眼堂に奉納、心願のあらましをここに記す。国家安泰・子孫繁栄に、ながくひさしく、綱政いやしくも吉備の国の司を補し、近衛の次将に任じ随身の士卒こちたく、おふぎねがはくば、我ともにこの障りなく、邪のわざわひをしりぞけ、人民快楽にまもり給へと、弘誓ひたのみたてまつるのみ也。

  底ひなき ちひろの海に たとへつる 
            ひろきちかいの かげたのむなり

      元禄十年王眸古辛月念日    左近衛権少将源
 
 奉納しています。

 なかなかの教養人でなかったら書けないと、思います。

 なお、綱政も書き残している通り、当時は[後楽園」ではなく「後園」と呼ばれていていたことが分かります。後楽園と言うのは、あくまでも、明治以降の名称なのです。


 

藩主池田綱政侯

2009-10-19 18:04:49 | Weblog
 今朝の山陽新聞「先人の風景」によりますと、池田綱政は
 「生まれつき愚か者で、分別がない(生得魯にして、分別あたわず)」と幕府から思われたのだそうです。
 何か可笑しいですね。新聞によると、更に
 ・かくのごとく不学文盲短才もまた珍し。
 ・昼夜酒宴・遊覧を心として、政道ににいろはず。
 ・女色を好む事、倫を超へたり。

 などと、とんでもないことが書かれた書き物が残っているのだそうです。

 まあ、当時の書き残された記録であることは間違いないことですが、それはそれでいいのですが、真実は、この後楽園を津田永忠に命じて造らせたことから考んがえても、そんな幕府の記録に残っているような愚か者で出来るわけもありません。相当の知恵者とみなければならないと思います。
 当時は江戸の初期です。徳川氏が江戸に幕府を開いてまなしです。決して、安泰であるわけではありませんでした。対外様大名の対策を相当意識して考えていたことには間違いありません。「大名家のお取り潰し」などもあり、諸大名家でも自分の家を守るために必死であったことは確かです。池田家のお家安泰を図るための一つの政策だったのかもしれませんが、その真意は不明なのだそうです。
 
 でも、池田綱政侯というお人は、残されている彼の和歌や書などの記録を見る限りでは、相当の教養人だったように思われます。

 今日はちょっと後楽園から離れて、綱政侯のことについてちょっと触れてみました。

鶴鳴館

2009-10-18 16:05:51 | Weblog
 後楽園十勝には入ってはないのですが、此の園一の広さを持つ建物が、現在の正門を入ったすぐ右側にあります。ここは明治初年の岡山県議会の議会場になったぐらいの大きさです。その建物が鶴鳴館です。その玄関には「鶴鳴館」と言うが古ぼけた扁額が掲げられていますが、それは、時の県令高崎某が書いて掲げたのだそうです。なかなか立派な字だと思いますが。
    
   
 なお、この鶴鳴館の入口付近に、昔は「平四郎の松」が植えられていたのですが、今では記念碑だけを残しているに過ぎません。
   
 「平四郎の松」の平四郎とは、貞享4年、藩主綱政が津田永忠に命じて、ここに庭園を造らしたのですが、それ以前、ここらあたりに住んでいた者の名前です。 その平四郎の庭にあった松を、そのままそこに残したから[平四郎の松]とばれたのだそうです。
 又、当時、その平四郎の納屋に使われていた柱も、この鶴鳴館の玄関の一部に使われて残っていたのだそうです。
 後楽園には、そんな歴史を物語る多くのもが残っていたのですが。そんなものは一切合財、総て前の戦争がきれいさっぱりと持って行ってしまって、今は、何も残っていません。ただ、言い伝えだけが、350年後の今日に残っているのです。
 
 この平四郎という人物がいかなる人であったかと言う事は、皆目、何も分かってはいません。それこそ「名のみ残る」です。
 川の中洲に住む農民です。毎年ぐらい洪水に見舞われる、それこそ貧乏水呑み百姓だったことが予想されます。
 そんな貧しい百姓の、それも納屋の柱をです。檜とかそんな高級材木ではなかったはずですが、そんな粗末な、多分、松材であればいいほうですが、納屋にあった柱を、敢て、この鶴鳴館の玄関の柱に残したのです。いったい津田永忠は何を思って、こんな粗末な柱を残したのでしょうか。
 「もしかしたら」という言葉を使わしてもらうなら、藩主たち岡山藩の為政者に
農民の心を何時も知らしめるべく、そんなん粗末な柱や松の木を、それも園の中央にです、残したのだと思いうのですが?。
 そこら当たりの永忠の心は記録にも何もありませんが、現代のここを訪れる者は、心して見学しなくてはいけないのではないでしょうか。
 
 こんなことを考えながら回るのも、後楽園を楽しむ一つの方法でもあるのです。十勝だけが後楽園ではないのです。老婆心ながら。

暫軒を詠んだ歌

2009-10-17 09:55:40 | Weblog
 後楽園十勝の一つが「暫軒風」です。
 これを、あえて「の」を省いて書いて、「ざんけんのかぜ」と読ませています。 その「暫軒風」を詠った歌を数首挙げておきます。

    ・しばしとて 立ちよる軒の 涼しきに
               うきも忘れて 今日も暮しつ
                          中塚正斎
    ・立ちよれは なかめもあかむ この軒に
               しばしてふ名は 誰(だ)か負せけん
                          小野 節
    ・しばしとて 立寄る袖に 軒の端の
               銀杏のもみじ ちりて来にけり 
                          安原多平
    ・しばしとて たちよる軒に 吹かよふ
               かせさへすすし 川つらのいほ
                          岡 直盧

 なお、この「暫軒風」を「暫軒晴嵐」としている本もあります。
 晴嵐とは、本来、春や秋、山里が山霞に煙って見える風景をいうのだそうですから、綱政侯などが詠んだ歌のように[夏風]の「涼しき」をこの庵から感じたとった景色であると考えるならば、やっぱり、「晴嵐」より「風」のほうが、より暫軒にぴったりするのではないでしょう。夏のほうが季節としては、より似合うように思えるのですが。[ざん]という響きがどうも「せい」という響きと合わないのでは・・・どうでしょう?
 

 それにしても、日本語って本当に難しいものですね。