仙果先生も痛く吉原の様子が気になったものと見え、この『なゐの日並』には、昨日の日本堤を入れて3回も書いています。その記事を少々追ってみます。
まずは地震発生時(十月二日)の、先生の記録から
「・・・新吉原潰れ、やがて所々火おこりたれば、死傷のものいくらとはかりなく、中にも岡本はわづか三人存命たるよし、また金久は若者ただひとり即死のよし、かかるはめづらし事といへり。札木や、いかなりけぬむ未しらず。玉やも・・・、よるのほどより翌日も次々も、あそび等めもあてられぬさまして、まよひ来るいとおおし。」
ここみえる「あそび」とは遊女の事で、何処をどう歩いているかも分からないような様子で平生の目にするような姿とは打って変って「めもあてられぬさま」と云うのですから、着物など気にもかけないで其処ら辺りをうろうろしていたと伝えています。それが五日には、この遊女について、更に、次のように書いています。
「よしはらのあそび女、猶いづこにもいすこにもちりぼひあるき、中には美服目をおどろかしたるが、手拭もてかしらつゝみ、供の男具したるなど、心あてのまろうどたづね行、ものこふとぞきく。」
これは人伝に聞いた話を記しているのですが、やっぱり現場の吉原がどうなっているのか、この先生もそうですが、当時の一般の男性諸氏としてはと云うより贔屓筋として使っていたと思われるこの吉原を、百聞は一見に如かずと、早い時期に訪れて見たかったには違いありません。
そんな理由があったのでしょうか、友達の一人が先生の所に尋ねきて、「吉原あたりとぶらわんとす」と云う言葉に誘われて出かけたのです。それが地震発生一週間後の十月九日なのです。それは「日本堤」と云う言葉の中に隠されていて、この時その中にまでは入っていなくて、側を通っただけのように思われます。
そんな吉原の廓の中の地震発生直後の様子が、また、瓦板などには出ていたらしいのです。その絵がこれです。
裸で逃げ惑う男のあわて振りには、真に迫った緊張感のありあます。なお、階下の女たちのス方を比べてみると、その面白さが伺われるように思えます