私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

まことにあやし

2011-07-30 08:04:39 | Weblog
 仙果先生の、何でも見てやろうと云う、飽くなき探究心は何処までの続きます、というよりは職業柄かもしれませんが。東都周辺に限定はしているのですが、各地に出向いては震災後の町々の様子を観察して書いています。その中に「まことにあやし」と書きこまれている場所もあります。

 「・・・八名川町邊すべて潰れたり。八幡御たびの門内も皆つぶれたるに、高橋瑞庵のみ、つゆさわりなし。御みやも鳥居も、例の損じ所なし。まことにあやし。神田平右衛門町をすぐるに、ここは新に造りたるとはいへ、両側すべて露のあやまちもなし。地震こゝにはゆらぬにやと。ゆきゝの人のいう。・・・」

 当たりの町々は「すべて潰れたり」とか「みなたおれ」とか、大変な被害に遭った様子を書き留めているのですが、「地震はここには起らなかったのか」と、人々が、随分と、不思議がっていたと云う話も載せています。なお、ここに有ります「八幡御たび」「高橋瑞庵」というのは、今は地図からも完全に消えてしまっていて、どんなものだったのかも分かりません。

ものひとつもとりださず

2011-07-29 17:55:48 | Weblog
 巴人亭一家は押し潰された家からどうにかして這い出て命は助かりますが、その後すぐ火災で、総ての物を失います。勿論、彼の持っていた書物もです。仙果先生、面白いと思ったのか巴人亭の持っていた書物の総てをご丁寧に書きとめてくれています。おかげで、当時、文人と呼ばれていた知識人は、一体、どんな書物を読んでいたのか、一人の例ですが、記録にと留めてくれているので分かります。
  
 「左伝二家注唐本十二冊、五雑俎八冊、蠅打六冊、遠州拾遺十冊、一目玉鉾六冊、路程全図一、南海道々中記一、九州図一、崑山集五冊、唐詩解頤三冊。皆焼失ぬ。いかにともすべないという。・・・・・おのが身圧つぶされたらんにくらべては、何条ことかあらん」

 とあります。巴人亭と云う人は、大層、書物の焼失を残念がっていたのですが、「己が助かっただけでも良しとしなくては」とあきらめたと云う話です。なお、ここに書かれている書物の内、「左伝」は孔子は著したと云われる中国の歴史書「春秋」の解釈書です。「五雑俎」は明末の随筆です。「蠅打」は江戸の俳諧書で、「一目玉鉾」といいのは、井原西鶴が書いた全国名所旧跡案内記です。崑山集と云うのは俳句集です。
 この時代の文人と呼ばれていた人々は、中国を始め日本各地の様子、更に俳諧・俳句まで、いろいろな方面の知識を相当幅の広く身に着けていたと云うことが分かります。特に、一目玉鉾などの旅案内記などの書物が、どうして必要だったのかわ分かりませんが、幅広い教養を示すためにというか、その人の箔を付けるためにも知っておく必要があったのかもしれませんね。勿論、中国の歴史や論語や漢詩もですが。

地震遭遇記

2011-07-28 10:08:58 | Weblog
 仙果先生のお仲間でしょうか巴人亭と云う人の名前が「なゐの日並」の中に出て来ます。ちょっと調べてみたのですが、此の名前は仙果先生の5,60年前に活躍したあの太田南畝が一時使ったとされる号です。だから、安政年間に、その名を使っているのですから、この南畝の流れを引く狂歌の仲間か、それとも江戸末期の戯作者かの、当時、この人も相当有名な文化人だったのではないでしょうか。

 この巴人亭から聞いたのでしょうが、この地震遭遇の模様について、次のように記しています。

 「巴人亭六十にあまり病身。こぞよりあしもよわくなり遠くへはいでず。しかるに二日の夜、直蔵(二男です)翁と枕を並べ、お浜(妾)は枕にそひ、よこに寝たりけるに、一ゆりつよくゆするとひとしく、家つぶれたりとおぼしく、翁も直蔵も二階のねだに圧され、いとくるしけれど、頭ばかり外に出たり。燈火は、はやくゆりきえて真のやみなり。お浜はものにはさまりたるままなれば、はやくむぐり出たりとぞ。ふたりは少々づつかたみにはひいづ。からくして身のぬけたる時、となりの摩利支天の堂、ゆりつぶれたるいきほひに、雨戸仆れて少しあかるくなりぬ。巴人亭手さぐりするに、ものにとりつきたるを見れば、いせのおほんかみの大宮のみはらいなり。直蔵もまた、千度のみはらいにさぐりあて、いといとたのもしく、四人手をひきひきはだしにて、瓦のつもれる上をふみふみ立退に、はやちかきわたりより火おこり、ようよう一面あかくなりぬ」

 ここにも神の御加護があったと書かれています。この時の地震でも相当数の死者が出ているのですが(約四〇〇〇人とも言われています)、この巴人亭一家のようにまんよく助かった多くの人もいたことは確かです。

長風は万里の涛を破らんと欲す

2011-07-27 09:34:51 | Weblog
 今の永代橋は、写真によると、ビルの谷間に埋もれるように架かっていますが、わずか150年昔の永代橋には、詩人をして自然に詩を生ましむような情緒がそこに存在しているかのように思われます。

    

 それでと云う訳ではありますまいが、江戸名所図絵にある永代橋の絵には服部南郭の詩が付けてあります

       東望天邊海気高
       三叉口上接滔々
       布帆一片懸秋色
       欲破長風万里涛

 詩の内容は、
 「永代橋から東を望めば、天高く海の香りがいっぱいに立ちこめている。しかも、隅田川等の川が三つも流れ込み水がみなぎっている、そんな広大な川の中を、たった一艘の帆懸け船が、ゆっくりと秋色を醸し出すように進んでいる。そのような海の上を吹けている風は、見渡す限り何処までも続くかと思われる様な大波を打ち破らんとするかのようにゆったりとを流れています。秋たけなわの候です」
 と、まあ、これくらいな情感を歌った詩だろうと思います。

 それがどうでしょうか、現代の文明は近代化と云う名の元に、そのような人の情感すら完全に打ちのめすだけではありません。総てを、そこにある総てを打ち消してしまっています。 
        

 これが現代という時間です。風情なんてくそくらえとばかりに前進あるのみと、一途に邁進する現代なのです、何か心寂しさがこの絵を見るたびに感じてなりません。

 何か人間の自然に対する不敬みたいなものが感じられ、誰かが言ったように「これは天罰だ」をという感じがしないでもありません。皆さんはどうお思いですか

永代橋

2011-07-26 08:25:02 | Weblog
 仙果先生は、隅田川に架かっている「永代ばしわたりて」と、書いておりますので、この地震で永代橋は壊れることんなかったのでしょう。でも、この橋の周りの町々の様子を次のように書いております。

 「永代橋に臨むに、小あみ町も南部堀あたりも全き家蔵まれ也。いづこもいづこもかきむしりたらんようなり」と、更に橋を渡った「相川町みなつぶれてや、冨吉町・・・・・・・黒江町ものこらず、一の鳥居もやけおちたり」

 とあります。総てが潰れて焼け野原のようになっていたと思われます。でも、橋だけば大丈夫だったようです。その橋を画いた図がありましたので、載せておきます。(この図は天保年間にかかれたものです】下の写真は、今の永代橋です。

      
           
    

 

誕辰

2011-07-25 18:44:58 | Weblog
 「十二日、けふは彦太郎の誕辰なれば、あづき飯ふるまわんと・・・・、赤飯に銀杏大根に、あさりのむき実の汁のみ也。心ばかり無事を祝うにこそとなり。」

 と、あります。彦太郎と云うのはおそらく仙果先生の友達か誰かだろうと思います。招待されて出かけたのでしょうか???
 江戸の昔に、人の誕生日を祝わう「誕生会」があったのだと云う事を、今まで、私は知らなかったのですが、この仙果先生の「なゐの日並」に「誕辰」が出ています。それから、江戸時代にも、現在と同じように誕生会が行われていたと云うことが分かりました。どれだけ一般化していたのかわ知りませんが。又、この誕生日に赤飯を炊いて祝ったと出ていますが、地震の後でも赤飯を炊くだけのそんな余裕がよくもあったものだとも驚いています。
 ここでも見られるように、誕生日に赤飯を炊くと云うのは、現在でもよく聞く話ですが、そんな風習が始まったのも、この時代ではなかったのでしょうか。

 それは兎も角として、仙果先生、その日はどれだけの距離を歩いたのかわ分かりませんが、方々の町々の地震後の様子を訪ね歩いて記録しております。
 「深川へゆかんとす。」小舟町、小あみ町、南部坂、「永代橋わたりて」、相川町、冨吉町、中島町、北川町、諸町、熊井町、蛤町、黒江町、大島町などの地名を上げています。どのあたりかわよくは分かりませんが、「永代橋わたりて」ということから隅田川沿いにある町々だと云うことは想像できます。

 その町々の被害の状況を書き留めております。足を随分と多方面に伸ばしていることが分かります。瓦版用記事での取材だったのでしょうかね。それにしても足も丈夫だったと思われます。
 また、此の視察記の中に、始めて「誠や永代寺境内にも、おすくひ小屋たつ」と云う記事が見えます。江戸幕府も、この頃になって(地震発生十日後ですが)<おすくい小屋>を造っています。「誠や」と云う最初に着いた二文字は何を意味しているのでしょうかね。本当だろうかなと云う疑いの目でその噂を聞いていたのかもしれません。十日後と云うのは誠に遅い感じがします。それまで多くの市民はどのようにして己の命を繋いでいたのでしょうかね。
 

地震安心記

2011-07-24 21:58:37 | Weblog
 十一日の日記

 「地震安心記」を記す。とあります。これがどのようなものかと思いちょっと調べて見たのですがありません。出版もされていない私本だったのかもしれませんが、仙果先生の、また別な面からの地震についての思いを見てみたいと思ったのですが、現存しない確率の方が今のところ多いのではないかと思っています。国会図書館にも所蔵がないようです。インターネットでも捜して見たのですが????

 また、十一日に有る様な「けふ無事の御よろこびの御酒御餅御燈奉りをがむ」と云う記事ですが、地震発生の二日より事あるごとにこの神仏を対象として文に出逢えることが出来るのです。

 この事は、また、当時の社会では、神仏と人々の生活と深く関われを見せながらに暮らしていたことがよく分かります。仙果先生が、特にと云う訳ではありますまいが、何かにかに付けても、すべて神と関わりのあるような生活ではなかったかと思えます。

 「御酒御餅御燈奉る」と云う文字が何回も何回も繰り返して使ってある事を見ると感じがします。この言葉は地震発生とともに、毎日のように書き現わされています。 二日に「みはこ物にもつゝつまで・・」とか。四日にも見えます。五日にも、更に六日にも、十一日には「けふ無事の御に御酒御餅御燈奉りいばむ」。十二日には、けさも御よろこびの御酒御燈奉る。十三日「けふも例の如く御酒御燈奉りぬ」と云う文字が殊に目に付きます。

 江戸市民の信仰心

2011-07-22 09:09:14 | Weblog
 地震発生後九日目にして、ようやく落ち着きが江戸の町にも見え始めます。「おとつい」とありますから二日前より、家主(地ぬし)が雇工を使って、地震で危うくなった所を仮に直したのだそうです。その様子を

 「二階ねだの、おちかゝるをつくろはず。すこしはさがりたれど、ふみても危げなきばかりになりぬれば、心づよくぞおもふ。入口は、柱かたむき、戸はづれてたちがたし。ただおしつけておくなり。」

 このようにして九日振りに我が家の中に寝ることが出来ます。その時、改めに、天井などを見まわしながら思ったのでしょうか、地震の時はこのようにすればよかったと、今回の地震を反省して記しています。

 「按ずるに圧されて死ぬよりは、かけ出して物にうたれつぶされたるが多き。おされたるは聊下にものあれば、その間(ひま)あるをもて十に八つはしなず。かかれば箱火鉢本箱などだにあらば、むなぎ、うつはりおちたりとも即死はせじ。況んや、たんす小戸棚などあらば、外ににげ出て、瓦、かべつちなどうちつけられたらんに勝るべし。」

 と書いて、地震の時は、そのゆれが収まるまでは、むやみやたらと外に飛び出すのはよくない事で、箱などの陰に隠れてじっとしているのが一番いいだと教えているのです。現在でも、その地震対策が一番手早い事だと学校などでもそう教えられていると云うことです。

 なお、これは仙果先生の家だけで行われたと云う事でないのでしょうが、家にどうにか住む事が出来るようになります。そうなると、先ず、人々が行うのが、神棚や仏壇を清めて所定の所に祭りお酒やお餅などを供え、御燈明を奉ることです。それまでは、何時、余震が起きるか分からず、火災予防のために御燈明は奉ることを、心ならずも、遠慮していたのですが、今日からやっとそれが可能になったと云うのでしょうか、本来の生活に戻った嬉しさがこの御燈明の中に現われているように思われます。また、此の事は、それだけ、江戸市民の神仏に対する信仰心の深さを物語るのものです。

ちょいと吉原について

2011-07-21 10:40:59 | Weblog
 仙果先生も痛く吉原の様子が気になったものと見え、この『なゐの日並』には、昨日の日本堤を入れて3回も書いています。その記事を少々追ってみます。
 まずは地震発生時(十月二日)の、先生の記録から

 「・・・新吉原潰れ、やがて所々火おこりたれば、死傷のものいくらとはかりなく、中にも岡本はわづか三人存命たるよし、また金久は若者ただひとり即死のよし、かかるはめづらし事といへり。札木や、いかなりけぬむ未しらず。玉やも・・・、よるのほどより翌日も次々も、あそび等めもあてられぬさまして、まよひ来るいとおおし。」

 ここみえる「あそび」とは遊女の事で、何処をどう歩いているかも分からないような様子で平生の目にするような姿とは打って変って「めもあてられぬさま」と云うのですから、着物など気にもかけないで其処ら辺りをうろうろしていたと伝えています。それが五日には、この遊女について、更に、次のように書いています。

 「よしはらのあそび女、猶いづこにもいすこにもちりぼひあるき、中には美服目をおどろかしたるが、手拭もてかしらつゝみ、供の男具したるなど、心あてのまろうどたづね行、ものこふとぞきく。」

 これは人伝に聞いた話を記しているのですが、やっぱり現場の吉原がどうなっているのか、この先生もそうですが、当時の一般の男性諸氏としてはと云うより贔屓筋として使っていたと思われるこの吉原を、百聞は一見に如かずと、早い時期に訪れて見たかったには違いありません。
 そんな理由があったのでしょうか、友達の一人が先生の所に尋ねきて、「吉原あたりとぶらわんとす」と云う言葉に誘われて出かけたのです。それが地震発生一週間後の十月九日なのです。それは「日本堤」と云う言葉の中に隠されていて、この時その中にまでは入っていなくて、側を通っただけのように思われます。

 そんな吉原の廓の中の地震発生直後の様子が、また、瓦板などには出ていたらしいのです。その絵がこれです。
             

 裸で逃げ惑う男のあわて振りには、真に迫った緊張感のありあます。なお、階下の女たちのス方を比べてみると、その面白さが伺われるように思えます

鬻ぐ

2011-07-20 20:11:38 | Weblog
 「鬻」と云う字がありました。
 同じ九日の記事に、「・・の妻、大道にてあまざけ鬻ぐよし」とあります。この難しい字は「ひさぐ」と読むのだろうとは想像がつきましたが、何とこむずかしい字を知っているものかと驚きながらも、辞書を頼りに捜してみました。

 弓の間に米を置いて、その下に鬲を拝して、「鬻」<ひさぐ>と読ますのだそうです。商人の妻でしょうか炊き出しをして、災害に合った人を救済するのではなく、「鬻ぐ」です。売って、金儲けをしていたのです。

 このように、仙果先生は未曽有の大災害時の、庶民の暮らしについて色々な角度から捉えて、人間の正体を多方面から、昨日のアメリカの測量船にしてもそうですが、記録しているのです。
 第一、まっとうな感覚なら、この先生、自分の住み家も、何時、余震で壊れてしまうかも分からない時に、商売とは言え、自分の住んでいる所から行ける範囲の街々をあちこちと云うより、その視察の主目的はと云うと、あの吉原がどうなっているかと云う事を見に出かけているのです。吉原には直接は行ったとは書いてはいないのですが「日本堤」と云う文字が見えますので、近くを通り、その街並みを横目で見ながら通り過ぎたのでは思われます。何ともの好きな人だろうと感心せずには居られません

 それからこの日の記録として
 「桜田御門邊大に破損し、大樹たふれしとも云。・・・こは土のくづれたる故も仆れしなめり」とありますが、この御門はこの地震の五年後に起きたあの井伊直弼暗殺があった所です。それをわざわざここに記されていると云うことは。そんな日本の今後の変革をまでも、感覚的に仙果先生は捉えていたからここに書いたのではないでしょうか。

 偶然だったのかもしれませんが、幕府の屋台骨がもろくも崩れ落ちて行くその過程をも、此の地震の中い薄々とながら記録して云ったのではないかと思う方がよりこの「ひなの日並」を面白く読ませてくれるだろうと勝手に思いながら読んでおります。

亜夷、長崎に舶来し

2011-07-19 11:39:44 | Weblog

 此の九日の日記には次のような気になる文が見られます。

 「・・・。また亜夷、長崎に舶来し、海岸暗礁測量の一件うけひき給はぬは盟約に背けり。さらばこなたより兵端をひらかん歟。けふより六十日かぎり返事きに来むとて、やがて出船せしよし・・・・」

とあります。この亜夷というのは、米国の事だろうと思われます。長崎に来ていたアメリカ船に、日本の海岸線の測量を依頼していたのに、この地震の影響でしょうか、その約束を違えて、突然、本国へ帰って行ったと云うのです。そんな約束が守られないような国とは戦争でもおっぱじめねばならんと、仙果先生も息巻いています。「盟約に脊けり」と、仙果先生は書いていますが、1854年に結ばれた和親条約には、そんな条項は見当たりません。第一、長崎に、当時、アメりカの船がきていたなどと云う事実もないのです。これは単なる当時の江戸での噂話に過ぎないのではと思われます。日本の開国に対して、インフレ的な傾向が見え、日本人の憤りみたいなものが、この中に見え隠れしているようにも思われるのです。それにしても、「兵端をひらかんか」と云う書きぶり、当時の社会であったら日本人として当然な思いかも知れませんが。そのような社会の雰囲気が江戸幕府の瓦解の一原因となるのです。世論調査はなくても、そんな庶民の感覚は幕府内の役人たちはひしひしと感じていたのだろうと思われます。それが安政の大獄、桜田門の変、大政奉還と、この後10年間に繰り広げられた日本のチャンチャンばらばらです。それと同じようなことが今も起きているようでもありないようでもあります

 なお、ペリーが下田に黒船でやってきて開国を迫ったのが1953年です。ちなみに、この江戸の大震災は安政2年(1855年)で、ペリーが帰国した次の年です。


ちょっとまた寄り道を

2011-07-18 10:33:30 | Weblog

 「誰か江戸の町を教えて」と、依頼したのですが“なしのつぶて”です。ところがです。やっぱり筆敬氏です。こんなメールを頂きました

 「わしも東京はようわからんでのう。もし、図書館にでもあったら、捜してつかあせえ」と云われるのです。彼によると、江戸の町の事について知ろうと思えば「江戸名所図会」と云う本を見るのが「一番ええぞ」と云う。早速調べてみました。
 名所の絵をいくつか写真に写しましたので見てください。始めに金龍寺浅草寺の二王門、五重塔、伝法院。次が因果地蔵。三枚目は今戸橋です。このような場所が仙果先生の「なゐの日並」には出ています。

 「二王門外の地主いなりと、奥山のくまがへ稲荷は潰れたり。三社権現少し損じて無事、石鳥居くだけたり。又弁天山のまへなるぬれ仏、くわんおんかたへ体あほのけに倒れたり。弁天社も崩れたり。因果地蔵は倒れず・・・・」

 

 こんな絵とともに江戸の名所を紹介しています。なお、この本は天保年間に出版されたものです

 


 犬小屋めいたうだつやつくり・・・

2011-07-17 09:18:13 | Weblog

 この日(8日目です)仙果先生、江戸の街々の被害の様子をと、あちらこちらと思って出歩いています。その途中で、浅草寺の五重塔も見たのです。更に足を延ばして、沢山の町を訪れています。東京の町を知らない私ですので、江戸のどの辺りになるのかわ分かりませんが、書かれている町について、多分浅草近辺だろうとは思われますが、その少しを書いみます。

 「・・・・若町、晴天横町、中谷をすこしのこして、北谷寺々凡て灰燼となる。・・・・・・誠にひろき野の如し。田町、山川町のあたりやけかわらに、みち凸凹してあゆみなやむ事ものにも似ず。・・・・田町より土手にのぼる所、巾二尺長さ五七間ななめに裂て、深さ三尺ばかり也。いとおそろし。・・・京橋のうしろよりはね橋わたりて、龍泉寺まへゝゆく。・・・金杉の町みのわへかけて大かた潰れ、あゆみなやむ。・・・ここを出、みのわより日本堤にですに、ほそくながくつちさけたり。田中にまがるにすべて倒れぬ家なし・・・・・・犬小屋めいたるうだつやつくりひそみをり。何ごゝちかすらん。かようのすまひいづこにもいづこにもいとおほし。火災後のかりゐにくらぶれば、わびしさいくらまされど、こぼたれながら、少しはものゝのこれるぞ猶よかりける。山谷町も大あれと見ゆ。あさぢが原をぬけて橋場へゆく・・・・」

 とあります。橋場の後、今戸、晴天町、河岸通り、駒形、黒船町に立寄り被害状況などを書きとめています。
 一日の歩いた距離にすると、どれほどかは分からないのですが、地震のため道も凸凹で、随分と歩きにくかったのではと思いますが。これ等の町の名前を見ていると、相当な距離を見て歩いたように思われます。なお、仙果先生の、この記録によりますと、知人宅に立ち寄った所、張紙が家の門などに貼ってあり、その紙に本人の消息や行き場所など書いてあったのだそうですが、このような方法は世界共通のやりかたなのでしょうか、現代でも、世界各地で見られる光景だと思われます。

 今回の東北地震では、多くの家屋が津波に押し流されてしまい、その為に二万数千の人が犠牲になっております。生き延びた人も、避難場所で、このような方法で自分の命のある事を伝えていました。

 そんなテレビの報道を見ていると、それを貼り付けた人々の人を思う厚い心が像でき、自然に涙が湧きだしてきました。それも時間とともに、忘れ去られるようにして、テレビの中からも消え去ってしまっています。その消息を尋ねたり、自分の存在を知らせていたあの紙を貼り付けた人は今どうしておられることでしょうかね。あの沢山人が群がっていたあの紙の辺りは、現在、どうなっているのでしょうかね。誰か知っている人教えてくれませんか。

 


九日の記録

2011-07-16 09:29:05 | Weblog

 仙果先生の家でも、地震から一週間目を迎えますと、家が潰れた訳ではないのですから、この日を境にして家で食事を取っています。

 「空晴たり。夕やけ甚し。小ゆすり五度ばかりありと人はいへど、おのれはしらず。けふ家のうち、あらあらはき清め、次の間へ戸棚だし、東にむかわせ家廟を載せ・・・・・御燈も線香も不奉・・・・・あさ飯ひる飯わが家にてくふ。きのふまではかりやにて、地主とともにたうべき」
 このように、地震発生後8日も経過しますと、ようやく落ち着きます。五度ばかりは余震があったのでしょうが、それも自分には感じなかった程度の微弱なものだったと書いています。そうなると、人々は安心したのでしょう、家の中に入って後片付けをします。まず、手を付けたのが家廟の位牌などを置く戸棚を整えます。「東にむかわせて」とありますから、当時では、その向きにまで配慮した配置が考えられていたのでしょうか。神仏への信仰が生活の細部まで行き届いていたのでしょうね。昼ご飯も夕ご飯も久しぶりにでしょうが、家の中で家族と摂ったのでしょう。此処には書いてないのですが、何か落ち着いた安らぎがあったのでしょうね。そのようすが「たうべき」と云うたった四字の中に隠されているように思えます。「べき」と云うのは、「べし」の連体で、「~しなければならなっかた」という意味です。いやいやながらでも、その辺りの人々との共同生活から生まれる、現代で言う「プライベート」な空間のない悲哀みたいなものがあったのでしょうね。

 この日仙果先生、友人とともに吉原あたりの様子を見にに出向いています。この時、浅草寺の
 「五重塔九輪西のかたへまがりたり」
 を確認しています。その様子を、更に、
 「塔はかたむかぬものときくに違はず、いささかのきずもなきに、九輪の折ばをるべきに勾りたるはいとあやし。物の飛行せりと云もいはれなきにあらず」
 と。

                 

 「いささかのきずもなきに」と云われる五重塔ですが、その尖塔部分にある九輪だけが、どうしてこのように西へ傾いたのかその理由が分からないと云うのです。      此の地震の最中に、何か物が西に向って飛んで行ったと噂されているが、その得体の知れない物が、此の九輪に衝突かして、このように曲がったと云うのも、満更、嘘ではないような気がすると云っています。しかし、現在の建築工学の常識からすれば、本体地震が少々の地震に耐えられるだけの構造になっているので、その先端部が、その本体に比べて構造学上弱く、そこに五重塔全体の振動がその部分集中的に負荷さて、金属製のため曲がったのではと思われますが。飛行中のな何か衝突してなんてことは考えられない現象です。

 でも、この絵に描かれている傾きようはあまりにも大げさすぎます。これも瓦版なるが故の絵ではないでしょうか????

            

 広重の絵の方が現実的ですよね。わずかに右に傾いているのでしょうかね。傾き方が二つの絵はさかさまだと云われるかもしれませんがね

 なお、このうわさを耳にして仙果先生が最初に取り上げrたのが、地震発生後4日目ですから、それから4日後にはこの噂を確かめに浅草に出向いています。といっても吉原の見学が主たる目的だったのではないでしょうかね。

 「どうでしょうか。仙果先生よ!」


菅さんよ!  キスゲの花をどうですか

2011-07-15 10:20:50 | Weblog

 ちょっくら地震のことを忘れて、美しい花でも眺めませんか?

 今、私の庭には「キスゲ」がそのシーズンを迎えています。この花は夕方から咲いて翌朝にはもう蕾んでしまうという、誠に、儚い命の植物です。ニッコウキスゲやユウスゲの仲間です。漢字で書きますと「黄菅」です。

 どういわれようが、我関せずのように振舞っている菅さんよ。「そんな付け焼刃みたいな時々に謳いあげているあなたの発言は延命対策のためのその場限りの言葉だ」と、国会内外からは勿論、同じ政党の中からさえもじゃんじゃん批判にさらされて、うんざりされているのではないでしょうか。菅さんよ。
 どうです。今晩あたりにでも、此の「菅」とあなたと同じ名前を持つ「「スゲの花」を見にきませんか。心が洗われること確かですよ。
  

 見てください。今晩だけの一瞬の命なのです。そのほのかな儚さが漂い出すかのような清楚な黄檗色の花を。地震も原発もへったくれもありません。総て忘れて宵の一時を、この花と一緒に楽しんではいかがですか。俗世間なんて何処かへふっ飛ばしてくれて、そっとあなたの胸を癒してくれますよ????