私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小伝馬町の牢払い

2011-06-30 11:58:22 | Weblog

 仙果先生は、この安政の大地震の時の小伝馬町の牢獄の噂についても、次のように簡単に書いています。

 「誠や獄屋そこなわれて、かの牢払ありなどという。いとおそろしい。こは浅草の溜のあやふかりければ、病たる罪人をとり出したるを、きゝひがめたるなんめり」
 と。
 
 「そんなことが本当にあったのだろうか。誠だろう」という書き出しで、時代小説などにでも出て来そうな兇悪罪人の一時の「ろうとき」が、この時、行われたのではないだろうかという噂が、江戸の町に流されたのだそうです。それについても、江戸の人々、大いに恐れたと云うのです。でも、それは浅草あたりの比較的軽い罪人を収容する、現在の留置場のような溜まり場が、次の余震で壊れてしまいそうな状態になっていたので、中にいた者の内、病気の重い罪人を連れ出したとこと聞き違えて、人々が恐れ慄のいたと云うことだったようです。
 記録によりますと、しばしば起きていた江戸の大火事の時などには、罪人を一時牢獄から解き放つことはあったようですが、この地震の時には、そのような措置はとり行われなかったと云うのが真実です。
 でも、このような些細なことにでも江戸の人々が神経をとがらせていたと云うことが分かります。そのような非常時には、人々の心も異常に高ぶり平常心ではいられない状態になったおり、噂が噂を呼び、恐怖心を己たちで、更に、高めて高パニックになることが事、是が非常時の人々の心なのだと云うことがよく分かります。

 俗に言う「あらぬうわさ」に惑わされると云うことです。高情報化社会の今日でも差こそあれ見られる現象ですが。ましてこれが書かれた時代は江戸期の科学的知識の乏しい時代です。平生の生活の中では見られない種々な面白い噂が色々な所から起きて、それがたちまちのうちに、一気に江戸中に広がるのです。噂とは面白いですね。風評被害ということとはまた違った単なる「うわさ」なのですがね。

 


よしはらのあそび女、猶いずこにも〆ちぼりあるき

2011-06-29 09:27:14 | Weblog

 地震発生後5日も経過すると、死傷者などの人的被害の状況もようやく分かってきます。

 なかでも、仙果さんが注目したのが、死者を葬るための棺桶に付いてです。
 「早桶も用ゐつくし、酒樽の明きたる、天水桶の不用なる、あら木にてさしたる箱もありて、亡骸の收べき限りのものは、悉これを用ゐおしいれてさしになひ、野にもあれ寺もあれ。心々におくり行か、五ツ七ツ乃至十十五とゆきかひひきもきらず。身がらよき人のはかごにものすれど、五人七人送りゆくはたえてなし。五六日過ぎてぞ武家などは、はずかに葬式めいたる事してゆくもあり。」
 死者の数が多かったために棺桶が不足して、その代用品として酒樽や天水の不用品を使ったのです、葬式も出さずに、埋葬だけする人は後も切らずと云う状態だったのです。武士などの上条階級の者でも、五人七人して送る人はなかったと書いています。

 仙果さんは、此の外、地震後の興味ある事項についても記しています。一つ目は、よしはらのあそび女に付いてです。
 「いづこにもいづこにもちりぼひあるき、中には美服目をおどろかしたるが、手拭もてかしらつゝみ、供の男具したるなど。こころあてのまろうどたづね行、ものこふとぞきく」
 と。
 よしはらのあそび女が、地震後五日には、贔屓筋の旦那衆を訪ねて、物乞いをしに道を歩いているのです。歩くと云っても「ちりぼひあるく」というのですから、あてもなくぶらぶらとさまよいあるいたのでしょうか。中には、普段着も失ってしまったのか、あでやかな客引き用の衣装そのまま、多分「太夫」と言われた高級娼婦さんが、慣れない足取りで、街中を歩いていたと云うのです。目に付きます。それを見た職人たち、平生は高根の花と見ていたあそび女が、顔は隠しているのですが、物乞いに歩いているのです。その姿を滑稽として見たのでしょうか、それとも、哀れなまなざしで見たのでしょうか、そんな風景を書いています。
 なお、是はよざん事ですが、仙果さんは、よほどこの吉原の事が気になっていたのかもしれませんが、二日の地震の記録にも「新吉原潰れ」という文字が見えます。
 
 


江戸大地震の4日目

2011-06-28 20:10:55 | Weblog

大地震より4日が瞬く間に過ぎゆきます。

 今日、早くも、「地震火事方角づけとて所々にうる」と記されています。この方角づけというのは、10月2日の安政江戸地震後、その被害状況が「かわらばん」によって市民に知らされたようです。その多方面かあの情報源によって、江戸の人々の間には、此の度の地震によってその被害がいかようあったか知らされたと云う事がわかります。それだけの大事ゐとしての機能が既に江戸という街には確立されていました。ヨ-ロッパなどの当時の先進西欧諸国にもなかったような社会構造の組織が確立されていたということは、驚くべき社会に外ならなかったのではないでしょうか。
 このような情報化社会を魁とした江戸の町でも、やはり依然として古い人々の生活様式は残っていたのです。その代表的な物が「鯰絵」ですが、それについては後で御紹介することにして、この地震発生の4日目の江戸の人々のその恐怖の様子を御紹介します。

 方角付けによって人々の地震に対する恐怖は日に日に高まります。あらぬうわさとともにです、

 「きのふもけふも三四度四五度、はげしきばかりのゆりたらん。あゆみてはしりがたし。両三度はたしかにおぼえたり。例の事ながら、たれいうことなく、こよひは大なるが震べし。観音の示現、八幡のみさとしなど、いひさわぎておそるゝにも、さりともとおもへど心も心ならず。」

 ひとびとのうわさが一層激しさをもします。所謂、此の度の地震でも見られました風評被害です。
 「観音さん言っておられたとか、八幡さんおさとしだ」と、かという、根も葉も無い、単なるうわさに。人々が振り回されているのです。「そんなことがあってたまるかいな。嘘に決まっている」と、誰もが思っても、「心も心ならず」だと云うのです。いつの世の中でも同じことです。特に、未だ近代的な科学の未発達な江戸末期の社会では、その噂に翻弄されたと云う事が手にとつように開けらかです。

 こんな記録を読んでおると、人間の社会ってたわいもないもんだなということが感じられます。


もう少し安政大地震に付いて

2011-06-26 11:37:48 | Weblog

 この地震と吉備とは関わりはないのですが、、「地震」については、今しかそのチャンスがありませんので。もうしばらく「なゐの日並」を追うことにします。
 
 さて、10月2日に発生した大地震の余震に付いて

 「・・昨夜大ゆりの後、おもひしよりは小ゆりしげからず、五六度に及びしが、されば人もわれも安き心さらになく、やうやうに人のゆきゝし、又、そのつてつてにて、所々のつぶれたる、またやけたる人馬の死傷など、ようようさまざまかたるをきくに、身の毛たちおそろしく、眼しばだゝかれてかなしく、われどちの無事を悦ぶの外他なし・・」

 と、書いて、次第に周りの町々の様子もわかったのでしょう。どこも壊滅的な被害に遭い、隣のなどは、「ひさしの落たるは家並のようなり。壁土はいづこにもいづこにも山のごとし。圧死十三人とぞきく。」

その三日は、あまり大揺れの余震はなかったようですが、人々は家に入ることもしないで、道のほとり垣の根付近に、格子、雨戸、しょうじなどで仮屋を作り、しきむしろ布団食器、また火ばち、大切なものを運び出しその中に入れ、当座の生活の場を確保したのだそうです。


まめやかには火鎮めんともせざるなめり。

2011-06-25 08:22:38 | Weblog

 そこら辺りに逃げ出てきた人たちの幾人かが高台に上がって四方を見ると、およそ24,5か所から火の手が上がっています。
 「・・・家つぶれ火を出し、おほひたる木どもに、もえうつりてやくなり。半鐘をもならし、人もおそるおそる出れど、ただものおそろしくて、まめやかには火鎮めんともせざるなめり。このよ、風しずかなるにぞ、すみやかにはもえ来らぬ・・・・・」
 火が出た所の人々は、最初は半鐘も鳴らさなかったのだそうですが、やがて半鐘も鳴りだしたのですが、そこにいた人たちは、その火の燃え方が恐ろしくて、どうすることも出来なく一生懸命に消火活動をしなかった、というより、出来なかったのが本音ではないでしょうか。我が身の安全が、まず、第一ですからね。
 「まめやかなる」と、いうたった六字の中に、その時の人々の右往左往ぶりが、まるで絵でも見るように、はっきりと読み手の脳裏に伝わるから不思議ですね。

 その後、仙果先生、再び我が家に入りて、取り出した御札を包む風呂敷や位牌などを取り出して外に出ます。人々はその夜はみんな道端に立ち明かします。それから、更に、近くに有ったのでしょうか、地主の土蔵の破滅状態も書きとめています。
 
 「・・・・土蔵のいとかたく造りたるが、最初にやねの瓦をみなふりおとし、はちまきおち、こしまきひらき、このかはらつちのおつる時あたりてぞ、わたやの北のかべもやぶれ、わがうしろのかべもあなあき、すべて一ト地面の家、いたくかたぶきそこなわれつる也。」

 と。その蔵はその入口の戸も壊れて入る事が出来ず、その中に有る物が取りだせないないと云う事は「誠に残念で」と、書いています。この時の火災で多くの町が焼けてしまうのですが、明け方までには、ほとんどの火は消えてしまったが、その名残の煙は、次の日とありますから、3日の正午ごろまで立っていたそうです。

 この地震によって多くの人の命が亡くなったとを伝えています。「いかなりけむ未しらず」の人が多くいたことが伺われます。そして、幸に火災に合わなかった仙果先生が住んでいる所に、焼きだされた人が迷い来る者が多かったとも書いております。

 


大地に額ずき伏拝みよろこび申

2011-06-24 10:09:23 | Weblog

 「さわあれど大地震の後は、必火の災ありなといへり」
 今までの経験から地震の後には火災が発生すること必定なりと言い伝えられておる。だから、なんだかそれも心配だと言っているうちに、まず、北の方の空が赤色に染まり、続いて西、南に、ひむがしに、「火一時におこりたち」すぐ近くというのではないが、どの辺りから火が出ているのかは分からないと、云うのです。その出火している場所を見定めようと思い、高台に行って偵察して来る人もいなかったのです。何せ、何時、再び地震が起きるかも知れません。ただ、身に怪我が一つもなく、娘とともに助かった事を神に感謝するしか他に方法がなかったのでしょうか

 「これ皆おほみかみのおほんめぐみの、、いやちこなるによりてと、大地に額ずき伏拝みよろこび申」
 
とあります。
 更に、この上とも、自分や娘の身の無事をこひねがうために、みやしろの御府を身つ付けておくために、その御符を取りに家の中に入ります。家の仲はまっ暗くて何も分かりません。人が貸してくれた「挑燈」(ろうそくの灯り)で、家の中の様子を見たのです。

 「つみおきし本棚になまろびおち、もろもろのしなうちあけられて狼藉たり。壁おち又ひわれて土砂みちみち、すべてあしふみ入るべくもあらず。・・・・砂にううまれるはしごのぼり、まず守袋をとりおろし奉り、次にみはこかき懐きおり。・・・・」

 とあります。
 現代の生活ですと、何は置いても、先ずは、お金など日常の必需品を、如何にして多くと、云う事しか頭にないと思われるのですが、江戸の昔には、まだまだ、まず、最初にしなくてはならないことは、人としてにの日常の生活の中の重要な部分として食い込んでいたと思われる神仏崇拝という人間の行き方が強く残存していたと云う事が、この記事からも、色濃く物語られているように思われます。
 「生きているんじゃないよ、我々は生かされているんだよ」と、力強く宣誓した、岡山創志学園の野山選手の開会宣言の言葉が今更のように浮かび上がってきます。
 また、これはそれとは聊かも関係はないのですが、今朝の新聞に出ていた

         “大津波 逃れし人の 避難所に
                            百余の靴の 整然と並ぶ”

 という歌を、今の日本の老いも若きもどう読んだらいいのでしょうかね??????

 


たばこ二服も吸うほどといわまし

2011-06-23 21:01:53 | Weblog

 「そのつよくふりし間もはづかにて、たとへばたばこ二服も吸うほどといわまし。」
 
 この間、それぞれ人々は自分の家の内にてその恐怖と闘いながら過ごしたと思われますが、一端、地震の大揺れが収まると人々は大道に飛び出してきて、先ずする事は、いかなる場合でもあ同じであると思われるのですが、手を取り合って、また、大仰に抱き合ってその生存を喜び合うのが、時を問わず同じです。

 「・・・・その余あたりの人々もてさわぎ、嬉しおそろしという声かまびすし。後々はともかくも、まず平安に大難をのがれたるを互いによろこぶ」」
 
 なにはともあれ、お互いに命が助かった事をまず確かめ合い、それから、話が、此の地震の恐ろしかったことについての話になり、泣く者あり、笑う者あり、てんでに、つい先ほど、自分たちが体験した恐ろしさに付いて、聞いてくれる者がいようがどうしようがおかまいなく、じぶんかってにてんでに何時止む事もないほど話合っている様子がよく分かります。何か喋っていなくては自分自身が落ち着かないようなん気分になってお喋れが続きます。それか「かまびすし」です。そして、それが一段落してから、というより、心に余裕をが出来てから、再び、また思い出したようにお互いの無事を喜び合っているのです。いついかなる時代であろうと世界上どこでも同じ光景が目にする事がで着るのではと思われます。

 このような会話が出来るのが、又、江戸の一般庶民の社会なのです。向こう三軒両隣の意識で、江戸期の社会構造全体を物語る事が出来るであるような記事であると思われます。
 仙果さんは、その時に集まった御近所の人たちのそれらの人々の名前をいちいち挙げています。「松屋の父子、三河屋惣吉、鼻緒屋夫婦」などと。そこら辺りにも江戸期の社会構造を知る上でも、貴重な資料となるのではないでしょうか。


立てもまろばず家も事なげなり

2011-06-22 08:46:59 | Weblog

 昨日の安政大地震図と比べながら、次の仙果先生の文をお読みいただけると、その時の状況が鮮明に脳裏に写るのではないかと思います。

 「一命すくはせ給へ」と神仏に祈ることしばし、やがて、立って歩けないこともないくらいに、地震も収まり、家もどうにか無事だったので、取る物も取りあえず、
 「はやく外のかたへ出ましと、手取々々手ひきつゝいずるに」
 と、外に出ます。
 
 その出方が、又、その地震のようにふるっています。そして地震の規模をそれとなく語りかけているのです。(この時の実際の震度は6.8だったそうです)

 「日頃はゆがみそこなはれて、たやすくはあかぬくゞり戸の、さはりもなくおのづからひらけたるは、はしらかたむき、かもゐのゆがみ、雨戸と格子戸二重になりて、庭口にたひらに敷かれたるなり。この庭口に五六尺ばかりのみぞありて、ふたの板くち穴などもあきたれば、はだしにてかけ出る事なれば、踏みこみて疵もつくべきに、雨戸の上をふみてあゆみしかば、そのわずらひも釘など出ざりければ何のさわりもなく路次口を出・・・・」
  
昨日の地震の絵の道を挿んだ上側に描かれている右から2軒目の避難する人の姿を見て下さい。仙果先生が、「なゐの日並」にお書きになってりう地震後の家から脱出の様子と、全く、同じような場面が、偶然でしょうが、描かれています。
 まあ、このようにして命からがら親子は助かったのだそうです。それまでは人のことなど「心にも耳にもかからず、夢のここちにて地震とのみ心得」て」、たった煙草を二服も吸う程僅かな時間しか地震はなかったのですが、そのゆれの大小ばかりに気が取らわれて、他の事な何一つ覚えてないないというのです。

 私は、そんな大きな地震の経験は、岡山に住んでいるもので、皆無なのですが、10年前の神戸やその他今回の東北大震災までの多くの地震に対して、その災害に合われた人々がみんなそんな思いだったのだろうと、今更のように思われ、特に、お亡くなりになった方々に対して深い哀悼を捧げます。

 なお、3カ月経過したにもかかわらず、今まだに「7000人以上の人が行方不明だ」という、今回の特大地震の新聞記事を見るにつけても、被災者の方々の深い悲しみが思われて仕方ありません。
 いつまで「がんばれ」と云う声かけをすれば、この災害が完全に解決できるのでしょうかね。50~100年はどうもかかりそうだと、私は思いますが。日本政府もそのつもりでいるのでしょうかね????

 


「6月18日の地震の絵がはっきりと見えない」

2011-06-21 16:01:46 | Weblog

 「18日に おめえが でえておる地震の絵じゃがなあ、ありゃあ えがこもうてよう ようわからんのじゃ 。どうにかせえ」
 とお怒りのメールです。と云うわけでもないのですが、そこで再度挑戦してみました。これならお分かりいただけますか。

 なお、此の安政の大地震の規模は6.7程度のものだったそうですが、直下型の地震だったため大災害を及ぼしたのだそうです。


こよいかぎりの命ならむとおもひなげく

2011-06-20 20:04:40 | Weblog

 階段を転げるように下りて、そのゆりの大きさに、立つことも歩むことも出来ないような地震です。このまま家が崩れて親子ともども圧死してしまうのではないかと思った時、いかなる思いが、人には胸に迫り来るのでしょうか。震災に遭われた人に聞いてみたいと思うのですが。それもままんならず。新聞でも、その心境を聞きだすことは憚られたのでしょうか、何も報じてはいません。3月11日以来、新聞記事をしっかりと注意しながら読んでいるのですが、それに関する報道はなかったようです。これがこの世の最後かと思う危機一髪が迫る体験をした人がいたことが確かですが、それらの人たちの思いを報道した記事は見なかったように思われます。
 だが、それに付いて、仙果先生や前の千楯先生は、ご自分の体験として、その危機一髪の時の心境を、その日記に書き現わしています。

 まず、千楯先生は:

 「・・・吾常に頼む神仏を声をあげ唱えるもあり、只泣きさけぶもありて・・・・・」

 と書いています。それに対して、仙果先生は

 「・・さりともわれらはあつたのみやしろをうぶ神として、つねにうやまひねぎまつりて、万にたのみのゆふかうぶる、あかばねのみやしろのおほんたすけもかならずやとおもうにたのもしく、声をかぎりに一命すくはせ給えと、繰返し繰り返し祈り参らすほどに・・・」

 と。

 いざと云う時は、何れにしろ、やはり神仏のすがるしかない人のどうしようもない姿が、ここによく出ていると思われます。
 2万数千もの人が犠牲になられた今回の災害。それらの人々の死の直前の思いは、いかほどのものでだったか、生き伸びている我々の想像を絶するのもが、そこに存在いしていたのではと、改めに御冥福を祈らずにはおれません。

 人間とは悲しい者です。その忘却が再度の悲劇を常に生んでいるようです。災害は決して忘れてはいけません。もう何回となく繰り返されている言葉ですが、寺田寅彦ではないのですが、人は、時の経過とともに、悲しいかな、それを忘れるのです。人の宿因でしょうかね????
 


なゐの日並

2011-06-19 12:19:51 | Weblog

 安政2年10月2日、「夜に入定のかねをききつつ」とありますが、たぶん「いりあいのかね」の時刻ではないかと思います。午後6時か7時頃でしょうか??その時刻に、仙果先生は、2階で、その日の日記をつけていたのです。すると、突然に、
 
 「物の砕けるようなる音のして、ゆさゆさとする。すは例の地震にこそと驚き、両人ひとしくのぼりばしごかをかけおりけるものか。天地も崩るるやうに響き渡り、身も上下にあげおろしせらるるようなり。・・・・・活きたるここちもせず。はしご三四きだは転ぶが如くおりて、其ままにうつぶし臥、上より女もおほひかかる。この時、行燈の火もゆりけたれつらん。露もののあやもわかれず。いよいよつよくふりて立べくもあらず。たてりとてあゆまるべくもあらねば、もし家のくずれ圧死せば、父子ともこよいかぎりの命ならむとおもいなげくに・・・・」
 
 と。その時の本当にわずかな時間、1~2分ぐらいはあたのでしょうか、兎に角、大揺れに揺れて、歩くもままならない状態だったのでしょう。自分がこの地震で体験した事をそのままリアルに書き綴っています。「三四きだ」というのは三四段です、そのはしごをおりても、一体どうなっているのかさっぱり分からず、なお強く揺れるので、立つことも歩く事も出来なく、このままこの世ともとおさらばかという思いがしたというのです。

 此の地震が起きた瞬間の書き振りを、先に挙げた城戸千楯先生は、次のように書いています。

 「・・・・忽ち風荒き舟に乗れるが如く、大に震ひて鳴動おびただしく・・・・」
 
 と、だけしか記してありません。
 これですと、その時の地震の様子を、放送か何かで、実況放送しているような客観的な書き振りになっていて、真に迫るような書き方では、こちらの仙果先生に軍配を上げられるのではないでしょうか。どうでしょう。


「笠亭仙果」が書いた安政の大地震の日記

2011-06-18 08:37:33 | Weblog

 帰りがけに渡してくれた本を帰って開いてみると、安政二年に起きた江戸での大地震に付いての日記がありました。漢文の先生がこんな古い日本の書物を持っているのかと驚きもしながら読ませていただきました。

 安政2年10月2日に夕方に起きた地震に付いて「笠亭仙果」と云う人が、その日記を、此の2日から翌月の16日まで45日間、書き綴ったものです。江戸幕府の公文書による記録によりますと、此の時の地震によって亡くなった人は正式には4000人、主に火災による死者らしいのですが,家の中にいて天井などによって圧死した者や落ちてきた瓦に頭を打ち砕かれて死んだものもあったと記録されています。でも、実際には何万にと云う人があったと記している本もあります。

 そんな地震による江戸の町々の状況をご丁寧にも書き綴っているのです。それが「ないの日並」と云う珍聞漢文先生から借りた本です。ちょっと興味がありましたので、また少々長くなると思いますが、めったに目にする機会も無かろうかと思い、明日から順次ご紹介していきたいと思います。

 まずは、その安政の大地震の絵を。なお、この絵と「ないの日並」とは関係ありませんが、読んでいくと、当時の江戸の町はどこも、こんな状況ではなかったかと云う事が想像できますので提示してみました。

                 


悟巳往之不諌

2011-06-17 07:54:02 | Weblog

 久しぶりに珍聞漢文氏から連絡がありました。

 「どねんしょんなら。ちいたあ かおをみせてえや」
 と、云うのです。体の事を心配してやって、遠慮していたのですが、そんなことはおくびにも出さず、いきなりこういうのです。わが友、まだ元気な証拠です。 

 「まあ ちいたあわりいとこもねえとなー。75にもなっとんじゃ。・・・・・・そりゃあそうと、おめえのブログを時々見て居るんじゃが、こねえだの ありゃあ何じゃ」と、早速、彼の独演会と相成ります。

 「3月に安全唱えし識者らはとかいておったろうが」
 というのです。それに付いてのどうも御説教だという事が分かりました。
 「あげんこたあ でえにでもあるもんじゃ。原子力の識者だって、万能じゃあねえど。どうしてだか分からんが、原発が絶対に安全だと、たかあくくっていったんとちがうんじゃあねえかのう。そげん事をおもようたんじゃろう。でえいち、地震なんて、どういうもんか しりゃあへんのんじゃあ なかったのかのう。また、少々、自分こそ一番偉れんじゃと、うぬぼれていたんかもしれんがのう」
 だから、そんな間違いは誰にでもある。学者だって同じなのだと、曰われるのです。

 そこまで言うとちょいと腰揚げ、「まあ、こりょうみてみいな」と、古ぼけた一冊の本を持ってきます。そして、ペラペラとページを捲って、見せてくれます。彼の説明によると、その本は、印刷じゃが「趙文敏」という元の時代の中国の名書家の書いた「陶淵明の帰去来辞」だそうです。
 
 早速に彼の講義が始まります。彼によると、この字は大変趣きが深く,自由でのびのびとした誰にも真似することが出来ない永遠の字だという評価を得ているのだそうです。確かにうまい字には違いありませんが。
                                  

 ここにある「悟巳往之不諫 知来者之可追」を、取り上げて、詳しく説明してくれます。
 
 「巳往、むかし、そうじゃ、過ぎ去ってしまったむかしにしたあやまちは、いまさら、いうてもなあ、どうしょうもねえことなんじゃ。諫められんのじゃ。もてえもどすこたあできんのじゃ。そげんなことが わかったからにゃあ、これからどうすりゃあええか よう考えにゃあ おえんけえのう」
 だから、3月に福島の原発の事故が大した事にはなりはしないと、いっていた学者が「泡のごとくに」おし黙るのは当り前だ、これからどうしたらいいのかきっと考えているのだから「これえてやらにゃあ おえんのんじゃ」と。
 1600年も前の、あの陶淵明先生も云っているのだと、のたまわられます。それから「ついでじゃあけえ。帰去来辞を」と、大学教授に早変わりです。まだまだ捨てたもんではありません。隠居させておくのは「もってえねえなあ」と思いながら、聴いておりました。
 「知来者之可追」、米者は「みらい」です。「みらいの追うべきを知る」と読むのだそうです。
 
 それから、その最後にある「楽夫天命復奚疑」まで楽しく御教授を賜りました。
 この漢文先生のご高説を拝しながら、「天罰」と云ったあの御偉いさんも「天命」と云う言葉を使えば、そんなに非難される事はなかったのに思いました。小説家の癖にそんなことも知らなんだのかなとも思いました。これも、ひょっとして「悟巳往之不諫」かもしれませんね?????

 帰りがけに、「こりょう 読んでみいや」と、これまた古ぼけ一冊の本を貸してくれました。


こんなに大きくなりました。

2011-06-16 07:58:11 | Weblog

                      

 

 孫の直弥です。2006年に誕生して5年がたちました。右の絵は1歳の写真です。もう5才になりました。時間の経過は驚異の人の成長をもたらすものです。自然の不思議さと云うか偉大さに感心している今日です。

 では、その5年というの歳月の大きさを見てください。

                                 


「・・・・いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど・・・」

2011-06-15 12:24:51 | Weblog

 昨日も3・11の余震でしょうか東北地方に地震があったと報じられていました。もう3カ月たっているのにです。考えてみれば大地震の後の余震は3カ月ぐらいで総てが終息するという事はないらしいのです。
 あの方丈記にも有ります。
 「・・・そのなごり、しばしば絶えず。よのつね驚くほどの地震(ない)二三十度震らぬ日ななし。・・・・・・・おほかた、そのなごり三月ばかりや侍りけん」(22段)

 3ヶ月余震が続くのが昔から普通だったのです。
 まあ、それは兎に角として、次の「23段」で鴨長明が書いています。
 
 「地震にちいて、そげえになごう かかんでもええものお。ええかげんに しとけえよ」と、又、メール氏からのお小言を頂戴するのは明らかですが、「そげんことをいわれんで もうちょびっと きいてつかあせえ」と、書き続けます。

 「・・・・・・なお、此の度はしかずとぞ。すなはち、人みなあぢきなき事をのべて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし」

 地震直後には、だれもが、どうにもならないこの世の無常を語り、中には、それを天罰だという表現で持って語り、人々からゴーゴーの非難に合うと、慌てて訂正をしたお偉いさんもあったようですが、いささか、人間が持つ欲望が少しは薄らいだかのように思われたのですがが、それが3カ月の経過すると、次第に、そんなことを言葉にする人も少なくなったように思えるのですが。
 さて、今年の日本の夏は一体どう動くでしょうかね。また、昨日報道されたイタリアの原発世論調査の結果が世界の人民にどう影響を与えるでしょうか。フランスは、ロシアは、中国は、そして日本は。1年、2年後、
いや10年後はには、どう変化していくことでしょうか。やっぱり、「元の濁りの田沼が恋しい」とばかりに、泥鰌が田の中を跳ね廻りましょうかね。

 今後、「喉元過ぎれば」の言葉が、どう世の中を、蠢くでしょうかね。