私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備津彦神社本殿のお屋根の修復の費用は一億数千万円だとか

2012-02-28 10:49:38 | Weblog
 今朝の新聞に「桧皮ぶき屋根劣化進む」と題して、そのお屋根替えが行われるようになったと報道されていました。
 その費用はなんと1億数千円もかかるのだそうです。前回の修理からまだ40年しかたってないのにもう修理が必要なこととか、古い建造物を保存するにはそれなりの苦労が必要なのだと云うことを感じます。
 もう4年もなるのですが、吉備津神社の修復は「国宝」ということもあって、その費用の一部は国や県からの補助もあったそうですが、備前一宮の吉備津彦神社では、この建物重文にもなっていませんので、費用は、総て、神社側で負担するのですから大変です。いくらか手助けにでもなればと思い少々の寄付を私も考えています。

 なお、今朝の朝刊には、又、閑谷学校も相当「老朽化目立つ」と報道されています。ちなみに、この閑谷学校は岡山県内の建造物では吉備津神社と並んで2つしかない国宝なのです。耐震構造に問題があるとされています。「世界遺産なんてものはどうでもいい」のですがというと、関係者からは大層お叱りを被ること確かですが、国宝です。それだけの文化財としての意義がこの中にも在るのです。なにはともあれ、まず、これだけは最低限度でも、未来へ何としても残しておきたいものでなないでしょうか?????

備前吉備津神社のその後

2012-02-27 12:05:26 | Weblog
 小早川秀秋によって、金川城主によって焼かれたお宮さんは、40年後の1601年小早川秀秋によって建て替えられていますが、池田光政の時代になって、彼の神社やお宮の統廃合命令によっていったんは取り壊されたようですが、次の藩主池田綱政によって、再び。再建されます。
 なお、秀秋が再建した吉備津神社は、現在の社殿がある位置よりは違っていて、室町時代に描かれている本社の辺りで、現在、吉備津彦神社の南側奥にある忠魂碑の立っている辺りでななかったかと云われています。

 でもちょっと不思議な思いがするのは、永禄年間に焼けたその理由ですが、金川城主と関わりがあったとされていますが、この金川と相当距離的にも離れているにもかかわらずその支配下あったのでしょうかね。途中に位置している金山寺との関係はどうなっているのでしょうかね。また、その辺りの因果関係は調べてみたいものだと思っています。

備前吉備津神社

2012-02-26 21:22:25 | Weblog
 拝殿の左側にある説明板には本宮の説明で、「文明三年」と「慶長九年」という2つの年号が記されています。文明というのは室町時代のお宮さんで、慶長というのは江戸になってか等の物だと云うことが分かります。
 此のお宮さんも備中吉備津神社と同じように火災によって焼失したのだそうです。吉備津神社の方は失火がその原因ではないかと思われますが、こちら吉備津彦彦神社の方の火災については「吉備津彦神社史料」によりますと次のように書かれているのだそうです。(薬師寺慎一著「吉備の中山と古代吉備」より)

 「永禄五年十一月、法華信者であった備前金川の城主松田元賢が、備前吉備津神社の神前に日蓮上人の題目をかけて祭るよう強要したが、時の神主大守隆基が従わなかった為、神社の火をかけた結果、社殿は全焼した。この火災で神力寺なども燃えた」

 なお、この永禄五年というのは1562年の事だそうです。それが復旧されたのが慶長9年のことで、願主は当時の岡山藩主小早川秀秋だったのです

「ゲギョ」って分かりますか???

2012-02-25 09:54:12 | Weblog
 梅の開花が今年は随分と遅い感じがします。まだ、その硬い蕾を小枝の先で、北風に曝しながら来るであろう春をじっと待つようにしているいじらしい姿を目にしながら、私も、毎日、炬燵の中で「ゲギョ」????とした時間に流されながら、テレビと共になんとなく過ごしています。

 ところがです。昨日の事です。古女房の声がします。

 「随分と温かい朝ですよ」
 と。

 その声に誘われてですが、「そうか、そんなにぬきいか」と、久しぶりの朝の散歩と洒落てみるかと、玄関を出ました。3月中旬の気温だそうです。コートも必要ないぐらいの温かさです。私の家のすぐ前の山は吉備津一帯の墓地でもある「向山墓地」です。此の墓地にはあの藤井高尚のお墓もあります。其の裾野を通っているのが旧山陽道です。近くには一里塚も近くにあります。
 久しぶりにあの高尚先生のお墓にでもお参りして見るかと墓地の山坂に歩を進めます。その山道に入った途端です。是も今年は少々遅めですが、未だ耳にしたことのないあの懐かしい鳴き声が藪の中から聞こえてくるではありませんか。4月になった頃のあの元気良い「ホーホケキョ」という美声ではありません。たどたどしい恰も遠慮がちに、それでも春を告げる今朝の空気を体の中にいっぱいに吸い込んでいるのでしょうか、それとも、来た春を幾度となく確かめるのでしょうか、何回となく鳴き続けていました。
 
 「初音」という言葉のイメージからすると、春は名のみの風の寒さの中で小さな声で、ほんの数回ぐらいしか鳴かないウグイスの声ばかりと思っていたのですが、実際は何回も何回も、それこそ「どよめくばかり」にではないのですが、春を歓迎しているよう何回も何回も、これもウグイスの「囀り」かと思われる様な鳴き方で鳴き続けておりました。「笹鳴」という言葉がありますがそれがどのような鳴き方かはしりませんが「ホーホケキョ」ではなく、今朝の鳴き声はどちらかというと「ホーボゲギョ」に近い初音のように思われました。

 でも、随分と暖かい日です。今日は久しぶりに炬燵の中から外に出て、「ケキョ」「ケキョ」と飛び跳ねてみたいような気分になります。

備前吉備津宮のもとの主神は温羅では?????

2012-02-24 19:55:54 | Weblog
 古い備前吉備津宮については、此のお宮さんに伝わる「古代御社図」に描かれています。この図には「康永元年」「文明三年」「慶長九年」等という年号が並んで、其々の年に建築されたお社の説明のある案内板が設置されています。例えば「御本社」については

 「文明三年、本社、八間八間、丑寅向也、但し椙わだぶき也」
 
 とあり、此の外、神宮寺など四十幾つかの建物の名前が書かれてあります。なお、この「社図」に描きこまれている年号ですが、康永元年というと1342年で、慶長九年というのは1604年の事ですから、250年間の建物の有様を示した図です。
 

 なお、この社図で面白いのは「本社、丑寅向」と書かれていることです。
 備中の吉備津神社は北向きで、どうしてかわ分からないのですが、その神殿内部の「丑寅向き」の方向には、朝廷から派遣されてきた吉備津彦命と争った例の温羅を祀ってる祠が有ります。でも、古い時代の備前吉備津神社では、本殿その物が、わざわざ「丑寅向」であったと書かれているのです。
 備中の吉備津神社にある「丑寅向き」と備前の吉備津神社の「丑寅向き」何らか関係がありそうだと思われませんか。
 これは私の勝手な想像なのですが、此の備前吉備津神社が出来た最初は、やはりあの温羅がお祭りされていたお宮さんだったのではないでしょうか。それが、何時の頃からかは分からないのですが、今までお祭りされていた温羅ではんくて、吉備の国を征服した吉備津彦命に変わり、この国の一宮になったのでなないかいなと想像しているのです。そうでなかったら、わざわざ丑寅向き何て説明は不要なのではないでしょうか。吉備の国に伝わる温羅に関するお宮さんを尋ねてみてもそうなのですが、伝説として伝わる悪い鬼「温羅」ではなく、この人物は、当時、この吉備国を支配していた相当な勢力を持っていたこの地方の豪族で、吉備の国の人々から大いに尊敬されていたのではないかと思われるのです。それは大和朝廷からすれば統一国家制定に向けては邪魔になる鬼のような人物と見られていたのではないでしょうか。それでわざと鬼のような悪魔だと宣伝する必要があったのではないでしょうか。だから、此の備前の吉備津神社が吉備の国に最初にあった吉備の国の首長お祭してお宮さんではなかったのでしょうか。起源からいいと備前の吉備津神社の方が古いのではないでしょうかね??????

 
  まあ、これも私の詰まらないひとりごとですが。

 

吉備津彦神社 3

2012-02-23 20:05:00 | Weblog
 ちょっと、吉備津出身の歴史的人物である「藤井高尚」について、色々調べていましたので、暫らく休憩していましたが、それも本日終了しましたので、又、今日から続きを書いていきます。

 さて、吉備の中山にある備前備中の両一宮についてですが、その間の距離は1kmぐらいもないような所に位置しています。このような例は全国的に見ても、大層珍しい事だとされています。ほとんどが、各一宮間の距離は、数十km以上は離れた位置に建っていると言われています。例えば、この吉備の国の一宮についてでもですが、備後にある一宮は、現在の広島県福山市の新市町宮内にありますが、その距離にすれば5~60km以上は離れている位置に座します。また、美作にある一宮「中山神社」とさへ30kmは離れています。

 今 この備前の一宮である「吉備津彦神社」を取り上げ、お話しているのですが、此のお宮さんを語る時、どうしても忘れてはならない人物の一人として忘れたならない人物がいます。その由来は十分には説明されるまでには至ってないのですが、今、NHKの大河ドラマで放映されている「平清盛」の中で出てくるのなかどうかは知りませんが、「平家物語」の中では、その前半部分ででは、決して忘れることが出来ない重要な歴史的人物として登場する「難波経遠」と云う武将がいるのです。彼は、当時の瀬戸内海、「吉備の穴海」と言われた海上地域の支配権を掌握していた海賊的な武将でした。其の根拠地が、どうも、今の尾上辺りにあったのではないかと言われていますが、此の経遠と関係があるお宮さんが備前一宮でもあるのです。

 是も蛇足ですが、今、清盛ブームとやらで、福原だ、やれ屋島だ、厳島だとかのとその観光地がとりだたされているようですが、此の岡山の吉備の中山も、決して、それと関連付けても、決して、見劣りはしない、いや、それにも増して未だに知られざる清盛の観光スポットとして脚光を浴びていいような知られざる平家と関連ある重要な土地でもあるのです。

 これも、この大河ドラマの中では取り上げるかどうかは分かりませんが、その一つの転機になるあの鹿ヶ谷の事件と関わって、この吉備の中山に幽閉され無残にも暗殺された藤原成親の哀話とも大層関係があるお宮さんでもあるのです。

 そんなお宮さんが備前一宮なのです。それについて聊か以後触れてみたいと思います。

吉備の中山略図

2012-02-10 09:55:13 | Weblog
 備前備中の国堺にある両国の一宮は吉備の中山の懐に抱かれるように建っています。両宮とも大変美しく壮麗で、其のお姿は神聖で、えもいわれぬ聖霊さを醸し出し、太古より都の人々を始め多くの人から信仰の対象として崇められていました。

 

 此のお宮さんにある古地図(一番古い記録)によると、康永元年等という文字も見えます。1342年ですが、なお、其の時の備中国吉備津神社は相当大きな建築物があり、まだ、あの重源の記録によりますと「結縁の為に梵鐘を備中国吉備津神社に奉納した」とあります。是は1200年頃のことだそうです。

 なお、其の当時の備前吉備津神社の大きさですが、「本社八間八間、丑寅向也、但し椙わだぶき也」と在ります。

 しかし、その位置は現在の位置より違う所にあったと云うことも分かっているそうです。当時の位置は現在依り東寄りにあって、今の忠魂碑が立っている辺りに立ていたのではないかと言われているようです

吉備津彦神社 その2

2012-02-09 20:23:22 | Weblog
 桃太郎伝説の元になったと言われている「大吉備津彦命」が祭神になっているお宮さんが、吉備の中山に2つあります。それが備中の一宮である吉備津神社と備前の一宮の吉備津彦神社です。

  何処まで信じたらいいのかは分かりませんが、この神社が出来たのは崇神天皇の時だと云われています。なお、吉備津神社が出来たのは仁徳天皇の時だとされていますから、古さからいいと吉備津彦神社に軍配が上がる様におもわれます。この二つの神社で「わしの方が出来たのは古いのじゃ」と云い争っていると云う話も無いではないのですが??????

 日本の太古から、此の地に大きな神社があったと云うことは確かですが何時ごろかということは今の段階では実証できません。

 一番古いこの神社に関しての言い伝えはあの神功皇后の三韓征伐、おっとと、こんなことを書けば日韓の間に侃々諤々の論争が起きること間違いありませんが、まあ、これは言い伝えのお話ですから無視してください。
 神功皇后が「その御乗りの船から、其の戦勝を祈願して吉備国剌史に幣帛を奉らした」と、言い伝えも残っています。

 なお、鎌倉時代には、社領が一万余町あたっとも言われています。白河院等平安期の多くの天皇から度々の勅司がこの神社に幣帛奉ったと言われています。

吉備津彦神社

2012-02-08 20:54:57 | Weblog
 吉備津彦神社の末社について、ああでもないこうでもないと、暇にまかせて書き綴ってまいりました。是もほんの2,3回で終わる予定にしていたのですが、書き出すと、あてどもなく、あれやこれやと引っ張り出して延々と一か月以上続けるような結果になりました。近頃、筆敬さんからのお叱りのメールも少なくなってしまったので、余計に、いい気になって書いてきました。
 もうこれくらいにしようとは思ったのですが、そう言えば、吉備津彦神社本社には全然触れていません。それでは、余りにも失礼になるのではないかと思い、もう少々、吉備津彦神社についておしゃべりしてみたいと思います。

月夜見尊に殺された保食神

2012-02-07 14:28:58 | Weblog
 この保食神について、更に、調べてみると日本書紀と古事記にはその書いている内容に違いがあります。

 もう一度、吉備津彦神社の南側にある牛馬神社
            
 の写真を載せます。

 この保食神は天照大神の御命令によって葦原中国に来を月夜見尊を饗応するためにその口から色々な食べ物を出します。それを見て、私が食べる物口から吐き出して並べるなんて、誠にけしからぬ不埒な輩だと言って切り殺してしまいます。すると、その保食神の頂の辺りから牛馬が、それから続いて、額から粟、眉からは蚕、眼から稗、腹から稲、陰からは麦及び大豆や小豆等が出てきたのだそプです。

 しかし、このお話古事記では、頭からは蚕、目から稲、耳から粟、鼻から麦、尻から大豆が出てきたと記されております。

 まあ、この日本書紀にある話の中から、ただ、牛馬だけを取ってきて、粟、米、麦、大豆などは全く無視して、誰の発案でしょうか、知りもしないでいい加減な知識で、この牛馬神社を作ったのでしょう。かえって保食神が迷惑をしているのではないでしょうかね。
 でも、この一宮や真金など吉備の中山を取り巻いている村々には、の至る所に、田んぼの脇とか道端なと、牛神様の小さな石碑が建っいます。ということは、この辺りの農民がいかに牛馬を大切にしていたかは分かります。その人達の為にも何かこじ付けでもいいから、この牛馬をお祭している本家みたいな神社があってもいいと云う人々のたっての願いから作られたのかもしれません。そう考えると、この神社を建てた人は相当の智恵者だと言わなければなりませんね。

 こんな下らない事を考えながら、此のお宮さんの隅から隅までを廻りました。

保食神とは

2012-02-05 17:00:54 | Weblog
 少々私の周りにお住まいの神々様の事が長くなりましたが、この保食神を最後にしたいと考えておりますのでもう少々お付き合いください。

 さて、この保食<うけもち>の神ですが、是も亦、日本書紀に、この神様の身元について詳しく記載してあります。
 それによりますと、高天原の天照大神は葦原中国に月夜見尊を遣わします。その時、葦原中国にいたのがこの「保食神」です。月夜見尊が来られたのを知った保食神はその歓迎の意を表すためでしょうか、この神さんは国に向って首を回したところ、その口から飯(いい)が、海に向えば、又また
口から鰭の広物、鰭の狭物が、山に向えば毛の麁物・毛の柔物が出て来ます。その出てきた品物を調理して百机に備えて月夜見尊に饗しまたのだそうです。
 保食神の口から出てきた物を調理して食べさせるなんて誠に無礼だと月夜見尊は怒ってその場で彼を切り殺してしまったと云うのです。歓待しようと思って沢山な机の上に並べてのですが、その材料を口から吐き出したと云うだけで殺してしまうなんて、なんて月夜見尊は乱暴な神様でしょうか。

 なお、此処に出て来ます「百机」は<ももとりのつくえ)と読むのだそうです。神様に捧げものをする時に使う机だそうです。色々の物を備える為の机だと云う意味だそうです。また、鰭というのは魚の事で、広物・狭物とは大きい、小さい魚をいいます。また、毛の麁物、柔物とは獣(けもの)のことで、麁(あら)物・柔(にこ)物は、これも大きい小さいと云う意味だそうです。熊、猪、鹿などの大型の獣や兎、狸等の小さい動物を指しています。

 要するに、この「保食神<うけもちのかみ>」は、日本人の主食であるお米や副食物のおかずである魚や肉を司る神様だったということを指しているのだと言われています。

 

 

「おかず」は「お数」です

2012-02-04 14:19:20 | Weblog
 この「ウガ」または「ウケ」と読ませる神様について、記紀等の書物によると、稲倉魂神・保食神・豊宇気比売神・大宣宜津比売神・宇迦能売神・御饌津神等があるそうです。これらはいずれも「ウケ」「ウガ」と読み農業を守るための神様なのだそうです。

 この内の「保食神」は食(ウケ)を保(モ)ち給う神様の意味だそうです。

 なお、これも蛇足なのですが、我々が「ご飯を食べる」と言えば、大概、主食たるお米を食べることを意味します。しかし、そこには副食たる「おかず」も、必ず、ひっついていなくては、このご飯(お米を炊いた物)をおいしく頂く事はできません。この「おかず」ですが、字に書くと「お数」だそうです。此の「おかず」には、野菜だとか肉だとか魚だとか沢山のものがあります。主食であるお米のご飯は一種類ですが、副食の「おかず」には数々のものが出て来ます。だから、最初は、これを「お数もの」と呼んでいたのだそうですが、いつしか、その「もの」がとれて、単に「おかず」といわれるようになったとか。

 このように日本語の起原には色々と複雑なそれぞれのいわくがあり、そのようなすべての要因により成立しているのです。今現在、我々が使っている日本語には世界的な価値は認められないにしても、その美しい響きは我々日本人の基本的な無形の財産になっているのだと思えます。そこには数万年という歴史があります。
 「その国の言葉が失われる」とその一国の存在の理由がなくなってしまい、国が亡びてしまうとさへ言われています。しかし、現在、我々が使っている日本語は、「グローバル」という名の怪物に何か食い殺されてしまい、存在そのものが危ぶまれているようにさへ感じられます。まさか日本がなくなったりはしないにしても、聊か寂しい気さえします。
 
 そんなことを思いながら「おかず」という字を「保食神」と一緒にして考えました。何となく我々の日常の生活の中で、そんな起源があろうとは思わずに、此の「おかず」という言葉を使っています。此の言葉は、また、「いただきます」「ごちそうさま」と同じで、自然に対する感謝の意味がその中にはあり、自ずと、その起源を知ると、その言葉そのものに何か愛しみみたいなものが感じられるように思われるのですが。皆さんはどうお思いでしょうか。
 
 なお、この保食神は農業の神ですが、それも日本人の主食であるご飯であるお米の神様で有ることは間違いありませんが、副食である野菜や肉や魚の「おかず」の神様でもあるのでしょうね。

 さて。我が家の今晩のおかずはなんでしょうかね。今、古女房のまな板をコトコト叩く音が台所から聞こえております。まさか、「一汁一菜で結構です」「贅沢は敵です」なんて言葉が彼女の口から出はしないでしょうが。とりあえず、保食<う・け・も・ち>の神様!!!応援宜しくお願いします。

「保食神」の読み方

2012-02-03 14:35:04 | Weblog
 さてと、此の「保食」を一体どう読むのでしょうか???「ほしょく」かな?ちょっと変ですね。そこでこんな時こそ便利な近代文明の利器「コンピューターのインターネット」があります。早速。探すしました。

 何と、これを「うけもちのかみ」と読ませるのだそうです。ご丁寧にもこの神様だけにレ点を付けて読ませています。なお、この場合の「食」の読み方ですが、<うが>ではなく<うけ>なのだそうです。この「け」という読み方も、現代においても、<あさげ?ゆうげ>等の<け>に残っているので、結構理解はできるとおもわれます。
 前に書いた「倉稲魂」(下文に<倉稲魂此云宇介能美拖磨>と読み方を書いております)。この「介」を、<か>又は<け>と読む例があり、この場合にも<うけ><うが>の両方の読み方が古来から有るのだそうです。

  なお、和名抄という本には、
               稲倉  和名宇介乃美太萬(ウケノミタマ)。俗名宇加乃美太痲(ウかノミタマ)

 とあります。本居宣長は古事記伝の中で、「介」は書紀には「カ」の仮名にのみ用ひたり。「気・ヶ」に用ひたる例なし。としております。参考までに。

  まあ、そんな込み入ったことはどうでもいいのですが、要するに、保食神は「う・け・も・ち・の・か・み」と読む事があわかりいただけたらそれでいいのです。

 この神様をお祭した祠が、是も比較的新しいのですが、吉備津彦神社には座しますのです。昨日のブログの写真にあるような「牛馬神」です。どうして牛や馬なのでしょうかね。

 この神様、古地図を見てみると江戸期にはなかった神様です。

 そんなことを考えてみると、吉備津彦神社の方が、何か神様については、色々と吉備津神社より神社としての企画が、いいのか悪いのかは分かりませんが多い様に思えますが、

保食神

2012-02-02 14:41:07 | Weblog
 備前一宮に座ます吉備津彦神社を歩いていますと、昨日の倭迹迹姫を祭った珍しいお社が見つかります。この下宮のある本殿北側にある七つの末社に参拝してから、そこから本殿を通り、次に南側に廻ります。そこで、まず、目につくのが朱色の木で出来た鳥居が目に付きます。ご存じの稲荷社です。その鳥居の更に南側には此処にも末社が三つ並んでいます。その中の一つが、これまた珍しい牛馬神社です。この神様はそこの立て札から祭神は「保食神」だと分かります。

 写真を見てください。

   

 さて、この保食神とは一体どんな神様でしょうかね????どうして牛馬の神様なのでしょうか。又「保食神」とはどう読めばいいのでしょうか

わたしのブログ閲覧数が2505位に

2012-02-01 10:02:33 | Weblog
 ちょと身辺が小忙しかったものですから2日間ほどお暇を頂きました。その間に29日の日曜日の、何と私のブログの閲覧数が2504位になっておりました。それこそ「祓戸の大神たち」を「オオカミ」と感じ取った孫の顔をみて驚いたばかじいさんの顔ではないのですが、大変に嬉しがるやら驚くやらでした。6000位ぐらいにまで達したら、それこそ祝杯もんだと決めていたのですが、それも大きく超えて、なんと2500位なんて想像もしていなかったことです。

 そんな事があったからではないのですが、早速、その祠の写真を写してきましたのでご覧ください。

 

 手前が坂樹神社(句々迺馳神)で、向こう側が祓神社(祓戸神)です。前にも書いたのですが、階段を上がって子安神社があり、其の右手側にこのような全く同じ7社の祠が座しておられます。

   

 一番近くに座ましている祠が倭迹迹姫をお祭りした下宮です。次が伊勢宮で、天照大神を、3番目が幸神社で、猿田彦命をお祭してあります。どうしてこんな順番になったのかは、神社でも分からないのだそうです。

 普通なら天照大神のいらっしゃる伊勢宮が一番最初にある筈なのにです????。この倭迹迹姫を祭ったお社が最初にあるのか不明です。

 だって、この姫神は吉備津彦命の父親である孝霊天皇の、次の天皇、孝元天皇の第三皇女なのですから。その皇女が何故、縁もゆかりもない備前の一宮に座しましていらっしゃるのか、その存在の意味が分かりません????誰か教えてくれませんか。


 私の推理ですが、これは、此のお宮を建設した人が、もしかしたらですが、備中の吉備津神社の本宮にお祭している吉備津彦命の姉である古事記の中に記されている「夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそひめのみこと)」と混同し、早とちりしてたのではあるまいかともおまいます。何せ孝元天皇の皇女と吉備の国とは、聊かの関係もありませんもの?????

     ご批判ください。お願いします。