私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

仁徳天皇の企み

2009-07-11 12:51:35 | Weblog
 磐姫によって船から引きずり降ろされ吉備の国まで徒歩にて帰らされた黒日売(くろひめ)を、仁徳天皇は、難波の都の高台から、ただただ見送っていたのですが、それから後も、この黒日売が愛おしく恋しくてしようがありません。どうしても、もう一度逢いたいと言う思いか日ごと募って来ます。
 そこで、古事記には書いています。

 「於是天皇恋其黒日売欺大后・・・」
 {ここに天皇(すめらみこと)その黒日売を恋ひたまいて大后を欺かして}
 「淡路島を視察するのでちょっと行ってくる」と。

 行幸なら、天皇として当然の政治行為であります、いかに皇后と言えども、それを押し止めることはできません。まんまと天皇の形略に騙されます。先の応神天皇も御狩をするために、この島に行幸された例もありますから、仁徳天皇も堂々と行ったのだと思います。その時の喜びの歌まで作りながら恋しい黒日売を目に浮かべながら、通り過ぎる瀬戸内の島々を眺めながら、吉備の国への旅を楽しんだのだと思います。
 一つ一つ内海の島を通り越すごとに、愛しい黒日売に近づいていきます。そんな仁徳天皇の弾む心を、次のように古事記には書いてあります。

 「あの向こう遥かに淡路島が見える。その向こうには淤能碁呂(おのごろ)島、あじまさの島も見える。そこを通り過ぎて、ついに「佐気都志摩美由(さけつ島見ゆ)」
 と。
 
 この「さけつ島」と言う島は、昔から、どこにあるのか分からないというのが本当ですが(古事記伝で本居宣長も言っています)、でも、「もしかして」と言う言葉を使うのを許されるなら、私は、この「佐気都志摩」と言う島を、次のように考えています。
 
 淡路島から、点々とある沢山の島を通り、瀬戸内の海を西に下り、そして穴海と呼ばれていた吉備の海に入り、最後の島「さけつ」即ち、今の「酒津」の辺りの島(福山のある大きな島)」を迂回しながら、高梁川河口を遡り、清音辺りから上陸して、黒日売がいた「山手」に入ったコースではないかと、勝手に、想像していますが?

 その時、黒日売は、吉備の国の「山方(やまがた)」と言う所に住んでいたと、古事記には書いています。
 なお、この山方は、明治37年に出た沼田頼輔の「上代の吉備」と言う本によると、総社市山手であるという説もあると紹介しておられます。

 まあ、それを論拠に推理してみましたが、いかがででしょうか。