私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

カンカン地蔵さん

2006-09-27 21:43:51 | Weblog
 JR吉備線の杉尾の踏み切りの手前に(かっての足守往来添い)に、宝暦10年(1760年)という年号が刻まれたお地蔵さんが、お堂の中に、ご丁寧な真っ赤な涎掛けを頂いて、鎮座していらっしゃいます。
 このお地蔵さんは、この近くでは「カンカン地蔵さん」と呼ばれて、いつも花が供えられ、今でも、人々に随分と親しまれているようです。
 「カンカン」
 どうしてこんな愛称で呼ばれているのでしょうか。カンカンという音がするのかなと思ったのですが、そんなに叩かれた様子もなく、造られて250年も経過したとはとうてい思えないほど、何処にも傷のない出来た当時のお姿で、現在も鎮座していらっしゃいます。大切にされてきた証拠です。
 では、なぜ「カンカン」のでしょうか。

 地元の人の説明によると、最初は、川上にあるお地蔵さんだから「かわかみ地蔵さん」と呼ばれていたのが、いつの間に「カンカン」と呼ばれるようになったということです。
 案外、愛称というのはそんなものではないでしょうか。子供たちが、何となしに彼らの生活の中で使っていた言葉が、そのまま物の名前になった例はいくらでも見つけることが出来ます。
 このお地蔵様の横の道端に生えているイヌタデと呼ばれている草も、「アカノマンマ」という名前がついています。ままごとのお赤飯に見立てて子供たちが呼んでいたのが、そのまま草の名前になったそうです。

 でも、このカンカン地蔵が、川上にあるからという理由で呼ばれたのだったら、きっと川下にも、お地蔵さんがあるはずです。そこで、しばらく川を下って見ました。ありました。ありました。
 この前、板倉大橋のを取り上げましたが、この橋の直ぐ横にごく小さな、お顔などの形も余り残ってないようなお地蔵さんが、ぽつんと、真っ赤な秋の夕焼けを一杯に受けながら、立ていらっしゃいました。
 お花も赤い涎掛けもなく、そこにあるのすら人々から無視されているような格好でお立ちでした。
 川の側にあるということは、きっと他の例からでも分るように、昔、この川に誰とも分らない身元不明な水死体が流れ着いてきたのでしょう。心あるこのあたりの人が、この小さなお地蔵さんを立てて、この死者を供養したのでしょう。人間味あふれる、やさしい思いやりある里人の心が偲ばれます。

 こんなことを思いながら、秋のようやく訪れた吉備津の町中を歩きました。
 アキアカネも、すいすいと青い空の中を、お地蔵さんの周りを飛び回っていました。

千日墓地のお地蔵さん

2006-09-22 22:11:47 | Weblog

 一ぷく堂の前にも、6体のお地蔵さんがいらっしゃいます。が、まず、薬師さんの下の美男子のお地蔵さんから紹介します。 

 吉備津地区にも、いろいろなお地蔵さんが立っていらっしゃいますが。どうして6体とお地蔵さんがいるのでしょうか。 

    誰か教えて!!!!

 なお、こんな歌覚えています?。
 私は、お地蔵さんを見ると、どうしてか分りませんが、つい口を吐いて出てきます。ちなみに、その歌は

   村のはずれのお地蔵さんは
   いつもニコニコ見てござる
   仲良しこよしのじゃんけんポン
   石蹴りなわとびかくれんぼ
   元気に遊べと見てござる
   それ見てござる

  


石の仏さん

2006-09-22 21:33:52 | Weblog
 お地蔵さんを探しに。向畑にある千日墓地(向山)を歩きました。新しい発見が沢山ありました。それについて今日はお知らせします。

 最初は、石の仏さんから見て行きます。なお、写真掲載が一つずつしか出来ませんので3回に分けて取り上げます。

 JR板倉の踏切からしばらく(約20m)行くと千日墓地へ上がる階段があります。しばらくその階段を上がると、道を挟んで両側に石仏が並んでいらっしゃいます。
 まず、目に付くのが、道の右側に、右肩から腹に掛けて痛々しい割れ目が目に付く、観音様が座っていらっしゃいます。お顔は、慈悲の心に包まれて、気品が満ち満ちあふれていらっしゃいます。どうして、こんな場所にと驚くばかりです。どこかのお堂に安置されていても決して可笑しくないように思えます。
 右手平を頬に優しくお触れになり、左手は左膝の後ろに何気なく置いて、人々の煩悩を打ち砕いてくださり、人々のすべての願望を成就させてくださる二臂の坐像(右足を立て、両足裏を合せた座り方(輪王座))の如意輪観音です。向畑の観音堂の仏様と同じです。
 この仏様は、物質的・精神的な人々の願望を成就させてくれる仏様です。例えば、強盗にであった時など、観音の名を唱えれば助かるという、そんな願いなのです。
 その仏様を挟んで、階段の右側に、お地蔵様とお薬師様がおられます。
 薬師如来は、人の持つ四苦八苦の苦しみの内の、「病」を直して、長生きをさせてくださる仏様です。
 この仏様の、観音と同じく人々の願望を叶えてくれる仏様です。右手の天平を上に向けて捧げ、左手には薬瓶を御持ちになり、微笑みながらお座りになっていらっしゃいます。その直ぐ下には、お地蔵様もお立ちになっていらっしゃいます。
 沢山いらっしゃいます如来・菩薩の中で、特に、日本人に人気の高いこの3体の仏様が、この墓地の入り口付近で、人々を待っておいでなのです。
 ここにお参りする人たちは、「ああ、我観音様がいてくださる」「ああ、我お地蔵さんがいてくださる」と、自分の信じている仏様を目にすることによって、より高い安堵安心感が、強いて言えば、自分にご利益を多く与えて下さるような心が自然に起こり、「ああ、お参りしてよかった。又今度も来るよ」というような、信心ごころ沸き立たせてくれるに効果十分な心憎いまでの演出ではないかと思います。
 一度見てみてください。本当に優しさのある慈悲深い仏様たちです。
 この石の仏をみていますと、一体いかなる人が、いつ頃、どんな思いで造ったのかと、作者の心を慮りです。
      
       

吉備津神社の研修旅行

2006-09-20 20:18:26 | Weblog
 今日20日、吉備津神社では秋の氏子研修会で、美保神社に行き、正式参拝を行いました。
 巫女のお神楽舞等の儀式を通して、自然に、神々しい神代の世界に引き込まれて行きました。
 神殿は「比翼大社造」と、呼ばれる、吉備津神社と同じ二つのお屋根を有する独特の神社建築でした。建てられたのは、江戸時代の終わりごろだということで、国の重文に指定されているという事です。
 この神社に参拝して、今更のように、大きさ、古さ、建物の様式、使われている材木等は勿論として、周りの総てのものを圧倒するような建物自体が持つ力強さを吉備津神社に感じました。
 この神社の拝殿は、吉備津神社の拝殿と同じく天井はなく、野屋根をそのまま見せ、化粧垂木の美しさに見とれました。神主さんのお話ですと、天井を張らない野屋根構造にしたために、建築費が相当要ったという事でした。
 なお、2つのお屋根に鎮座まします神は、「事代主命」とその母君でいらっしゃる大国主命のお后神であらせられる「三穂津姫命」だそうです。
 漁業と農業を司る出雲の神で、山陰は勿論、遠く北陸・九州辺りからもお参りがあるそうです。
 
 毎年、各地の神社に参拝して、その地方それぞれの人々の、その神社に対する熱き思い入れをひしひしと感じ、それが「我が郷土だ」という誇りにもつながるのではないのかなと思いました。
 いつまで、もいつまでも永遠に、この思い入れが郷土の支えにならんことを祈りながら、いつも、その神社を後にしています。

秋の交通安全が始まる

2006-09-19 15:34:58 | Weblog

 今年の、秋の交通安全市民運動が、
  スローガン「秋空とともに広がれ交通マナー」
の元に、21日より始まります。 

 それに先立ち、吉備津町内でも、交通安全ののぼり旗を区々で、一斉に立てました。駅の周りにも、真金十字路にも、小学生の通学路にも、神社にも。 交通事故が起きないようにという願いを込めて立てました。 神様にもお願いしながら鳥居にも立てました。鳥居と秋の心地よい風に翻る安全旗の取り合わせも又、違った趣を感じさせられました。                    

  「どうぞ ご安全に!!」                   

 

 さて、皆さんはどうお思いでしょうか。ご意見が是非聞きたく、今この文を綴っています。 

 今朝、私が安全旗を立てていますと、ある一人の紳士がやってきて、前置きも何もなく、こんなことを言われました。 

 「こんな所へ旗を立てて、もし旗が倒れて車にでも当り、事故でも起きたら、それは誰が責任を取ってくれるの。」 

 と。 一瞬、何を言っているのだろうかと思いました。が、よく聞けば、結んである紐が緩んで、旗が倒れる事があるのだそうです。その倒れた旗で車が傷つくのを言っているということが分りました。そして、その紳士は、どうも、

 「その保障は誰が取ってくれるのか。責任は誰がとてくれるのか」

 と、言っているらしいのです。
  結わえている紐が緩んでいて、旗が倒れかかっているいるのを見たら、気付いた人が直せば住むことではないでうか。ほんの数秒で済む事なのです 
 この旗を立てることは市民みんなの運動なはずだと思います。まだまだ、この運動はお役所の仕事だ。我々の問題ではないみたいな意識が多くの市民にはあるのではないでしょうか。 
 そこら当りの庶民の心が、警察を初め、お役所も十分掴み切れてないように感じられます。掛け声を上げれば黙って付いてくるとでも思っているのでしょうか。
 只、長年、形だけの運動に終わってしまっているようにしか思えません。 そこらあたりがうまくかみ合ってないのが、いくら経っても事故が一向に減らない大きな原因ではないでしょうか。  
 

 我々市民も、お役所も、今、何をしなくてはということを根本的に考え直す必要がありはしないでしょうか。


「癒し」 さて何がありますか

2006-09-16 10:15:47 | Weblog
 
 さてと・・・・・・
 歳をとりますと、癒しが必要なほど人生の葛藤はもう存在しません。なんとなく余生を送っているような毎日です。
 「癒し  ?」、敢えて挙げるとすれば、何になりましょう????・・・  まあ、しいて探せば、猫の額ほどの畑で採れる野菜を、近所に住む孫が、
 「じいちゃんの作った野菜は、ピーマンでもうまい。」
 と、もりもりとはいかないまでも、一応満足げに頬張ってくれている時かな。
 そこで、曙覧風にちょっと。      
 

 たのしみは 幼子たちが もりもりと
          畑で取れた 野菜食うとき      
  
   乞う。 ご批判  


 それはそうとして、ニンジンが出来ません。昨年、500円の種を二回買って植えたのですが、全然芽が出ず(二本だけを除いて)じまい。結局、一本500円のニンジンが2本取れただけです。芽が吹いてくれないのです。
 誰か教えて!!

お地蔵さんって、なんでー

2006-09-12 22:21:18 | Weblog
 先に、向畑の観音様を取り上げました。お地蔵さんが合祀されてました。

 いった、お地蔵さんってなに?
 
 「お地蔵さん!」
 殆どの日本人の生活の中に完全に入り込んでいて、誰にも最も親しみやすい、懐かしみすら感じられる、我々に一番身近な仏さんです。
 お釈迦さん、大仏さん、お薬師さん、観音さん、阿弥陀さん等と同じ種類の仏さんですが、どうして、お地蔵さんだけが、こうも我々の生活に、何かほのぼのとした温かみを感じさせる仏様になられたのでしょうか。
 田圃の畦道にも、路地のあちらこちらにも、中には民家にも、町外れの一本松の下にも、船着場にも、峠の頂上にも、中には、大都会の交差点にも、所構わず至る所に立っていらっしゃいます。
 昔から、このお地蔵さんの周りは比較的広い空き地が広がっていて、いつも子供たちの格好の遊び場となっていたようです。
 
  「泣けた泣けたこらえきれずに泣けたっけ」と歌っていた春日八郎の中にもいらっしゃいます。また、「いつもニコニコ見てござる」と歌っている童謡にもいらっしゃいます。また、大岡裁判にもでてきます。その他、田植えを手伝ってくれたの、年越しのお餅を持ってきてくれたのと、数え切れないぐらいのお話も日本全国に民話の中にも残っています。
 どうしてこんなにも「お地蔵さん」だけが人気が高いのでしょうか。

 お地蔵さんとは、仏の地位としては「菩薩」で、「如来」等に次ぐ仏の世界では第二の地位のある仏様のようです。
 
 でも、この仏さんは、餓鬼でも畜生でも修羅でも人でも総ての衆生(此の世に生きとしいける総てのもの)の苦悩を救済する仏です。
 頭の髪は残さず丸く剃り円頂であり、袈裟だけを纏い、左手には宝珠を、右手は錫杖(時には、與願印のことも)もち、人々を救済するという。何か我々と余り違わない格好をしていらっしゃいます。このあたりからも、我々により親しみを感じさせ、より人気が出たのではないでしょうか。
 人気の秘訣はこのほかにもあります。
 お地蔵さんも他の仏様と同様に、今生きている人々を救済するのですが、このお地蔵さんは、その他に、既に死んでいった人も、今生きている人と同じように救済するのだそうです。
 特に、子供を亡くした親が、特に母親が、我が子のあの世での平安を願って、一心に信仰したようです。世間の煩雑さを何一つ知らない初心な我幼子を、無事にあの世まで導いてくれる唯一の仏である「お地蔵さん」に願いを託したようです。
 その願いが「よだれかけ」をかけて、亡き我子の冥福を、このお地蔵さんにお祈りしたようです。
 それがお地蔵さんの「よだれかれ」なのです。
 多くの赤子が生まれてまもなく死んでいった昔ならでのお話だろうと思います。母親の我が子を思う愛情の深さが思いやられます。
 この母親を中心とした信仰がお地蔵さんの人気を支えたもう一つの秘訣でもあります。
 それが現在では、交通事故等不慮の事故で死んで行った人たちの肉親がその場にお地蔵さんを立て、死んだ人の冥福をお祈りしています。
 JR福知山線の事故の現場にも、日本航空の墜落現場の御巣鷹山にも立てられていると聞きます。
 それだけこの仏さんは、今でも私たちの生活の中に生きている証拠です
 

板倉の石佛を探しましたー1

2006-09-10 20:47:56 | Weblog
 祠が終わりましたので、最後に板倉の石仏を探してまいりました。6っ箇所で見つけました。
 まず最初は、向畑の観音堂から参ります。
 ここは名前の通り観音さまをお祭りしてあるお堂です。観音さまといっても如意輪観音菩薩をお祭りしてあるお堂です。
 この如意輪観音は物質的・精神的な人の願望を成就させ観音です。多くは六臂(6つの手)で右膝を立て両足裏を合せて座る、いわゆる「輪王座」に座っていられます。お堂に木製の像がありますので機会がありましたら拝んでいただきたいのです。
 この像の右側にお地蔵様がいらっしゃいます。この像は、もともと岸本家の東側にあったものが、向畑の大火事の折にそのお堂が焼けて、その後、この観音堂に合祀されたものだそうです。
 このお地蔵様も、これまでに幾多の歴史の変遷があったのでしょう、腕などに相当な痛みが見られますが、そのお顔の伸びやかで温和な謎めいた微笑が印象的でした。これも一見の価値があります。
 
 なお、話は違いますが、近頃ちょくちょく、こっそりこのお堂に忍び込み、中に供えてあるお菓子やお賽銭を失敬するやからが出没しているということです。
 きっと罰が当たりますよね。お星様も見ているもんね

   

いつも、6時には起きます。

2006-09-09 19:16:54 | Weblog
 私の町吉備津には「吉備津神社」があります。そこに大きな太鼓(約1.5mほど)が正面入り口の階段を上がった直ぐ右側の置いてあります。
 この太鼓が、6時になりますと、必ず、鳴り出します。(禰宜さんが叩いているのです)初めのうちは間合いを十分に開け、段々と速く鳴りだします。
 太鼓の一音ごとに、朝の空気が、吉備の中山に反射しながら、雨の日も、風の日も、日照りの夏も、吉備の里に舞い踊っています。田圃も小川も松並木も家並も何もかにも一緒くたになって、朝の太鼓に歩調を合せているように感じられます。お寺の鐘とは、また違った何か爽やかな心地よい響きに聞こえます。
 そんな時を、誰がぐうぐうと寝ておれますか。と言いたいのですが、誰かとは言いませんが、「そんなのは夢の中だ」としゃあしゃあ言ってのける人もおるようです。
 人は色々ですね。

板倉の祠を訪ねましたー3

2006-09-06 10:45:47 | Weblog
 西川の大橋の近くに子供荒神(小野家)と顕畏宮(小柴家)の祠はあります。なお、顕畏宮については、どんな神様をお祭りしているのか詳しいことは分りませんが、顕畏という文字からも、「恐れが現れる」神で、風、大水、日照り、地震などの荒ぶる神をお祭りする祠ではないかと思います。特に、川の直ぐ脇に祠が建ていることから「水のお宮さん」ではと思われます。
 次に、旧中国銀行の北裏に、板倉荒神様の祠があり、宝暦4年(1754)に建てられたと記録にあります。向畑にある大鳥居と大体同じごろに出来たそうです。(大鳥居は1762年)なお、このお社には「ちしゃ」の木は、県の天然記念物になっています。
 
 荒神様について
 火産霊命(ほむすびのみたまのみこと)をお祭りしており、火や竈の神様です。宿屋や旅館などの業者や鍛冶屋など火を使う人たちが信仰の対象にしたようです。宿場町として栄えたこの板倉にしては少々寂しい感じもしますが、昔の姿を知る材料がないのでなんともいえません。このお社がどうして北向き建っているのか不思議です。(なお、吉備津様も北向きです。歩調を合せたのかな?)
 荒神様は、中・四国など瀬戸内海地方に多くあり、この中もで、岡山が一番多く200社もあると言う事です。関東などには1社もない県のあるようです。

阿弥陀様に会いに

2006-09-04 20:30:47 | Weblog
 青春キップが余っているものですから、久しぶりに、小野市の浄土寺の阿弥陀様に会いに行きました。
 この寺は、吉備津神社と関係があるとされる重源の建てたものです。大仏様という建築様式で有名です。挿肘木の貫や三手先組物(皿斗)、木鼻、野屋根の化粧垂木、遊離尾垂木など総てが豪放磊落な建物です。
 一歩、堂内に入ると、今にも、朱の野屋根と化粧垂木まで一直線に伸びた粽の柱とそれに射し込まれた、千手観音の手のような組物に押しつぶされそうな、やけに緊張感のある圧迫が、真上から降り注いで迫りきます。時間にすると1秒か、2秒後でしょうか、今度は朱の中に描き出された一本の細い白線の延びた虹梁の優しげな、やけに落ち着いた、吐息がふっと自然に口から出るような安堵感が斜め上から突然に胸のうちに飛び込んできます。   この二つの異空間に自然に引き込まれ、時間が無限の中に消えていくようです。
 異空間の中での赤と白、まあなんと見事に美しく調和していることでしょう。
 しばらく仏様はほっといて、この摩訶不思議な空間に遊びました。
 
 それからやっと右手を下にたらしていらっしゃる阿弥陀様のにお会いしました。
この堂内にもう800年もの間お住まいになっていらっしゃることに、少々嫉妬しながら、小一時間佇んでいました。

 なお、この重源の大仏様式が、吉備津神社にもたくさん見ることが出来ます。浄土寺を見て、さらに吉備津様のすばらしさを確認しました。

なお、堂内は撮影禁止でした。残念ながら、挿肘木など詳しい内部の様子はカメラには収められませんでした。

板倉の祠を訪ねましたー2

2006-09-03 10:26:21 | Weblog
 板倉大橋を渡り、しばらく行くと、道の脇に、民家に囲まれて小さな祠がぽつんと建ています。これが板倉の『道通宮』です。
 道通宮は、天照大神の孫であられる天孫瓊々命(ににぎのみこと)が豊葦原水穂
国に御降臨の時、先導役を勤めら、道を開き奉ったみちびきの神、「猿田彦命」をお祭りしてます。道の神として、旅の安全を祈願したお社です。
 旧山陽道随一の隆盛を極めていた宿場町の道通宮にしては、何か少々貧弱すぎるきらいはありますが、元は、きっと、もっと、立派なお社ではなかったかと思うのですが?
 なお、この猿田彦は鼻高面の神様です。
 吉備津神社のお祭りに子供神楽が通りますが、その主役は、この鼻高面です。これが猿田彦命です。お神輿の渡御の先触れをして、邪悪の者を追い払って歩いているのです。

夏がどうしたって?

2006-09-02 14:07:04 | Weblog
 もう秋!。こんな歌があったような気もするのですが、どうも、この頃、過去の記録が段々と消えて行くように思われます。歳ですねー。
 頭の中は空っぽで、今年の夏がどうのこうのと言える記憶が頭に残っていません。まあ、夏の始は雨が多く、後半になって暑い日が続いたような気もしますが、どうでしょう。
 また、斉藤、中田という声が、テレビから囂しく聞こえていたようでもあり、ないようでもあり、ボーとして要を得ずです。
 だから、昨日のことをチョと書いてみます。さすがにまだ記憶に残っているのが不思議ですが。
 1日に、まず、吉備津神社の「朝詣会」に行って、9月の吉備津様の霊気を頂いてきました。それか、我家から2里ばかり西にある、足守川西岸の庚申山の磨崖仏帝釈天にお会いしたく、秋の吉備路に自転車を繰り出しました。
 さすが帝釈天です。夏を忘れさせるに十分な存在でした。人間なんて小さい小さい、ほっとけ、ほっとけといているようでした。
 
 

真金の祠を訪ねました。

2006-09-01 21:42:40 | Weblog

 「真金宿」を歩いてみますと、あちらこちらに小さな祠があります。
 9月1日のやや涼しくなった秋空を元、地元の人に尋ね尋ねしながら、また、自転車をあちこちの路地に乗り入れたりしながら、町内にあるだろう小さなお社を探して行きました。            
 残暑が厳しいとはいえ、さすがに秋です。気がつけば、あれぐらいあたりを席巻するように喧しく夏を謳歌していたクマゼミもどこかに消え去り、その声すら聞くことは出来ません。
 ただ、残りアブラゼミが、それでもなお、後僅かな己の命を懸命に生きようとして、畦道に生えているタカサブロウの黄色い花びらに必死にしがみつきながら、精一杯に自分の存在を誰かに誇りたいのか、羽を必死に抗っている姿を目にして、今の自分の姿に置き換えて自転車を走らせました。

 何気なく見過ごしてしまいそうな小さな祠ですが、確かにそこにもう何年も、いや、何百年もそこに建っているのです。
 現代の人たちには、なぜ、ここに、こんな祠がと省みることはないと思うのですが、この祠の前に佇んで、じっと静かに首を垂れてみると、このちっぽけなお社が、なんだか不思議なのですが、やけに大きく見えます。
 まず、始に探し出したのが、板倉大橋の側にある真っ赤な三間社流れ造りの「大橋稲荷神社」です。なお、この他に、180号線沿いのトマト銀行の横にも、伊丹稲荷神社があります。

 お稲荷さんについて、
 イナリとは、もともと「稲成る」で農業の神さんでした。この神様は、おろち退治で有名な須佐之命の子供で、『宇迦之御魂命』と言う神様で、人が生きて行く上、最も大切な「食べ物」だけを司る神様です。いわゆる「保食神」(うけもちのかみ)です。
 それが、次第に「農業全体の神」になり、やがて、商業や工業など殖産興業全般を司る神に変化していくのです。いわゆる、商売繁昌を司る神になっていったということです。
 だから、この神は日本全国至る所でお祭りされています。会社のビルの屋上にでもあります。
 なお、お狐様ですが、元来キツネは、この宇迦之御魂命のお使いに過ぎませんでいた。
 この神様、「うがのみたまのみこと」、ちょと長たらしく、口を噛み切りそうで、なかなか覚えられそうにありません。そこで、この「お使いおきつねさん」が代役を務めているうちに、いつしか主客転倒して、おきつねさんが神として崇められるようになったということです。

 なお、どうして、きつねが『宇迦之御魂命』のお使いになったかですが、いろいろ説がありますが、柳田國男によりますと、この神は正月早々、山から里に下りてきて、(現在の二月頃、立春)、霜月になると山にお帰りになるのだそうです。その活動時期がキツネと似ているところから、キツネがこの神様のお使いではないか、と考えられたようです。
 大歳(年)様という神様もいます。宇迦之御魂命の兄上です。一年を司る神です。お正月の神です。この神の住まいも、やはり山で、お正月に、里人の家に下りてこられ、一年の福を授けると言う事です。お飾りをつるし「どうぞおいでください」と歓迎の意を表するのです。
 昔の人は、山に大変な霊を感じていたようです。岩倉(磐座)(いわくら)思想の元でもあるらしいのです。


 なお、「お稲荷さん」と「赤色」、この関係についてご存知の方はお教え願えないでしょうか。

 なお、その他の祠は、次回へ。