私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

土田と云う地名

2010-11-30 21:42:37 | Weblog

 我が町吉備津と同じ、高松町内に「土田」と云うがあります。例の秀吉の高松城の水攻めの時の足守川からの水の取り入れ口の少し上に上った辺りの地名です。

 この「土田」が、まだ、吉備の国が大和に統一されない以前に、中国の秦から亡命してきた帰化人が入植した土地であるというのです。現在は、土田は「つちだ」と呼ばれていますが、この人たちが入植した弥生の時代には「はた」と呼ばれていたと言われます。秦です。日本書紀の応神天皇の時、兄媛の住んでいた「葉田の葦守の宮」に行幸されたという記事が見えます。この葉田が土田と何らかの関係があるのではないかとされていますが。今のところその証拠をつかむような遺物や遺跡などは出ていません。しかし、この一帯が中国や朝鮮からの帰化人が住んでいたという言い伝えは多く残されているのです。

 なお、私の住む「向畑」、すぐ隣の「辛川」も含めて、それらの帰化人との関係があったのではないかと云う人も見られます。

 まあ、このように中国や朝鮮の人たちが、弥生の終わりごろから、この当時「吉備の津」と呼ばれていた瀬戸内海の大きな港を中心にした(高松や一宮を中心とした)この吉備の土地に多く移住して来ていたのではないかと思われます。
 なお、当時の倭の国を代表するような港は、浪速の津(大阪)と吉備の津と那珂の津(福岡)の3つだったそうです。


朴 天秀教授の話

2010-11-29 19:47:40 | Weblog

「古代吉備の風景」シンポジュームに参加された韓国慶北大学教授の朴先生は、そのパネルディスカッションで、次のように報告されています。

 「4世紀の朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済、伽耶の四っの国がそれぞれお互いに争乱を繰り広げ、国内が多いに乱れていて、倭国(日本)がたやすくその中に介入することが出来たのです。当時、まだ、倭では鉄の生産は行われてはおらず、専ら。伽耶からの輸入に頼っていたのです。それが、五世紀に伽耶が高句麗に侵攻されて壊滅したために、鉄製品が入らなくなったのです、そこで新たに頼ったのが新羅だったのです。何か新羅と倭の国は、四世紀ごろから敵対関係にあったと言われているのですが、吉備や大和から多くの新羅など、当時朝鮮半島にあった新羅、百済などの国に関連のある遺物が出土しております。特に、吉備では、この四つの国、総ての遺物が出土します。と云う事は、当時、既に、吉備王国では、盛んに、これら朝鮮半島の国々と、独自に多元的な交流を行っていた。」

 と。述べられておられました。

 しかし、四世紀の吉備王国では多くの、朝鮮や中国からの渡来人による国土開発がおこなわれていたことは確かなことです。朴教授は、この場で、鉄の生産は四世紀には、まだ、日本では行われてはおらず、専ら原料は朝鮮半島から輸入していたと言われていましたが、前にこのブログで書いた高塚遺跡等からも、当時、吉備では既に鉄の生産がおこなわれていた証拠が確認されています。

 この三,四世紀ごろから吉備の国は、これら中国や朝鮮と何らかのかかわりで大いに発展して、大和と覇権を争うまでに勢力を伸ばしていったといわれていますが、その論拠を示していきたいものだと思います。それを探るには、古くから残っている地名から見分けることが出来るのです。

 その一つ、我が吉備津神社の社主は元々賀陽氏であるとされていますが、この賀陽は伽耶が変化したものであると言われます、吉備津の辺りを、昔は、加夜郡と言っていたことからも、このも、又、朝鮮半島と大いに関わりがあったのでは言われています。そんな地名地理に付いて少しばかり探っていきたいと思います。参考にしたのは永山卯三郎の「岡山県農地史」です。


また、やっちもねえことを綴ってまいります

2010-11-28 18:20:01 | Weblog

 今朝の山陽新聞に、「古代吉備の風景」と題する記事がありました。その中で、上田正昭氏の基調講演の記事が載っていました。この講演はさる11月3日に、総社市で行われたシンポジュウムの紹介でした。この講演会に是非ともと思っていたのですが都合で出席できなかったものですから、大変面白く読ませていただきました。この中、上田先生は

 「日本史上、吉備がどれほど輝いていたか」と云う事で、あの楯筑墳丘墓や特殊器台に付いて、更、造山古墳や鬼ノ城等を紹介しながら、広く東アジアの中で特異な文化を形成していたと説かれたという事でした。この吉備の文化が、アジアとの係りを見せながら発達したとありました。

 その古代吉備の文化と中国や朝鮮半島との係りがどのようになっていたのか「おめえのブログで書きゃあええんじゃねえか」というのが、この度の御忠告でした。そういえば、まだ、その点については、私もよく分からないので、何とか図書館の本にでも頼って、勉強してもいいのではと思い、もうしばらく、このブログを続けてまいります。
 でも、よくがんが得てみると、私見たいおなど素人の者が、4年半も書いてきたのですが、まだ、その書く材料があるなんて、本当に吉備の国って奥の深い国ですね。上田先生がおっしゃった「広く東アジアの中で光っていた」のですね。

 と云う訳で、明日から又それに付いて書いていこうと思っています。


“そげえな、やっちもねえ ええかげんなことばあ”

2010-11-27 08:53:49 | Weblog

 「ようも  そげえな やっちもねえ ええかげんなことばあ、なげえええだ けえたもんじゃのう」と、例の筆敬氏から言われそうです。でも、この常山記談も、私の暇にまかせて、「そこはかと」、そうです、とりとめもなく書こうと思って始めたのですが、気が付いてみれば、もう半年も経っていたのです。その書いたものを見ますと、我ながらに馬鹿らしくなって、兼好法師ではないのですが、どこか自分自身に「ものぐるほしき」感がしてきました。

 と、云う意味ではないのですが、記談にある吉備の国に関係のあるものは、ほとんど、すべてを書いて来ました。これ以上どうすることできません。もう書く材料がないのですから。

  これで、わたしのブログ「私の町 吉備津」を終了させてもと思ったのですが、おっとどっこい、そうはさせてくれません。「こんな材料もあるぞ」と、ご丁寧に教えて下さった人がおります。
 私自身は、つれづれなる身です。2、30分の暇は、毎日、そこらじゅうにぶら下がっております。それも手を伸ばせば何時でももぎ取ることが出来るところにあるのです。ほっておくわけにもいきませんので、後しばらくは、「かきつく」つもりですので、又、当分の間、お付き合いくださいますようお願いします。

 さて、お次は、何が出てまいりましょうか??????


頭微塵に砕て即座に死す

2010-11-26 20:02:25 | Weblog

 これも、ものの本によると、武蔵の木刀を頭に受けて岸流はその場に倒れるのですが、その倒れた岸流は武蔵の弟子たちによって切り殺されたと伝えるものもあるようですが、この常山の武将感情記には、次のように記されています。

 「武蔵足を縮めて飛あがれば、皮袴の裾三寸ばかり切て落たり。武蔵全力を出して之を打つに、頭微塵に砕て即座に死す」

 これが事実だと思います。左手に握った櫂の木刀とはいえ、飛び上がりざまに全力で振り下げられた木刀です。それが頭に命中したのです。頭骸骨が微塵になるのは当り前のことです。二刀流の使い手の名手です。狙い定めた場所を外すわけがありません。十分に計算しつくされた戦術であったことには間違いありません。この佐々木小次郎こと岸流と云う人物が、果たして実在していたかどうか分からないと言う学者もいるようですが、常山が書いているのですから、日本歴史の中で、実在の人物だったことは確かな事だと思われます。

 それにしても、わが郷土の生んだ兵法者の一人として、現代の生きる我々には、その生き方について学ぶべき多くのものがあるように思われます。だからこそ、常山は、特別にここで取り上げたのではないかと思われます。

 剣豪であり、文章家でもあり、しかも絵もするのです。その他、彼の人生後半部分、小倉に住んだ以降、がこの岸流との戦いの後だと思いますが、人間としての深さを感じさせられるような行動が多くあったようです。特に、絵などは何処で、誰に、何時、習ったという事は分からないようですが、一流の画家以上の作品が残っています。兎に角、大変な幅の広い人物だった事は分かります。生死を分けるような戦いを繰り広げてい間に、自然に己の身に備わった天性であったのだと思われます。

 常山が取り上げた、この「宮本武蔵岸流と仕合の事」の最後に、「頭微塵に砕て即座に死す」と書き、続いて「岸流が墓を築て今其跡あり」と、書いて終わっています。
 この最後のたった12字の中に、岸流の墓は何処にあるのか、多分この島にあるのでしょうが、ここに至った武蔵・岸流という、特別の才能を持つ剣術家としての人間の間に繰り広げられた、ほんの一瞬の戦いに、永遠の空しさみたいなものが感じられるような気がしてなりません。そこら辺りに常山の文章のうまさがあると思われます。


皮の袴を穿いたの武蔵の魂胆は????

2010-11-25 21:45:18 | Weblog

 岸流の第2刀目の横からの刀の切込みを、武蔵は1mぐらい飛び上がリ避けたます。しかし、飛び上がった武蔵の皮袴の裾3寸ばかりのところを切り落とされます。その時に、岸流の横に切リ流れた3尺の切先から伝わってくる感覚には、武蔵の肉体の一部にくいこんだにちがいないという錯覚の、というより己の勝利を確信して「してやったり」という一瞬の隙を生むに余りあるものがあったと思われます。その感覚も、横に流れた一瞬の間と共に、岸流の命の終焉を意味していたのです。この時に生まれた岸流の一瞬の隙をと云うより、「時」と言った方がいいと思いますが、武蔵は決して見逃さなかったのです。左手に持った櫂で作った1尺8寸の木刀は、その時を利用して、飛び降り様に真上から、あたかも引力を利用をするが如くに、岸流の頭に打ち下ろされます。

 その場には、3尺もの長い刀は必要ではなかったのです。たった1尺8寸(約54cm)もあれば何でもよかったのです。刀でなくても、只の木片で十分だったのです。この岸流の二振り目の後の二人の間の距離は、たったそれだけだったのです。この武蔵が考えた作戦は、正に、この皮を切らせて肉を切るのではなく、骨を砕く戦いであったのです。武蔵の場合は、皮は皮でも、袴用に仕立てた皮だったのです。時間的に言うと、ほんの数秒の戦いであったのです。あの渡辺数馬と河合又五郎の例の上野鍵屋の辻の戦いには5時間もの時間がかかったといわれています。戦国の世の剣術の達人たちの一対一の戦いはその程度の時間しか必要がなかったのです。ちなみみに、現代の剣道大会の決戦に要する時間は、真剣ではないということもありますが、数分もの時間がかかります。
 だから、この試合を見ていた下関の多くの人たちは、一まばたきをする間ぐらいの時間内に決着がついていたのです。この戦いを彼らは如何に見ていたかは分かりません。現代のように、多くの新聞記者がいなかったために民衆のこの戦いに対する思いは、残念ですが何一つ、今には伝わってはいません。当然を武蔵を応援する者も、岸流を応援する者もいたでしょうに。余りにも呆気なく終わった戦いに、その双方ともに唖然とした気持ではなかったかと思われます。その場には一瞬虚無の時が流れたのではないかと思われます。

 それはそうと、昨日の北朝鮮の奇襲砲撃で被害を被った延坪島(ヨンピョンド)の人々に対する新聞記者たちの、遠慮会釈ないしつこい質問のなんて多いことには驚かされましたが、武蔵と岸流が戦った当時は新聞記者何んてものがいなくて、人々の情報は少なく、歴史には書かれなかった隠された歴史のなんて多かったことか思うと、歴史なんて誠に詰まらない一面を数多く含んでいることが分かるような気がします。

 さて、余分なおしゃべりが入りましたが、本題に戻します。
 この皮製の袴を着用した武蔵には深い魂胆があったのです。岸流の襲い来る第2刀の横の流れを避けるためには、その身に着けるものは出来るだけ軽いものがいいことは分かりきっています。それを、敢て、わざわざ重い皮製の袴を着用したのです。そこに、武蔵の又なる魂胆があったのです。 


左手に持った木刀が

2010-11-24 20:40:08 | Weblog

 武蔵は岸流の第2の必殺の攻撃技、そうです。岩国の錦帯橋で考案したと伝えられている「燕返し」の刀が真横に、あたかも、直線を描くように、武蔵の腹の辺りをめがけて斬りこまれてきます。その振り払われた刀を、武蔵は、あらかじめ計算に入れていたのでしょう、咄嗟に1mばかり飛び上がります。常山は、武蔵が、どのくらい飛び上がったかは書いてはないのですが、1mぐらいではなかったかと私は想像しました。これから稲の早苗を植えようとする田圃の上を燕がよく飛ぶのを見たことがあるのです。上から真っ逆さまに、急転直下降下し、そのまま、大方1mぐらいの高さを水平に飛び去る燕の姿をよく見ていました。これを岸流は己の刀の技法に応用したのです。

 その岸流の燕返しを、武蔵はあらかじめ研究しつくしていたのだと思われます。ある本によりますと、武蔵には、この時、多くの弟子がいたと書いている者もありますから、きっと、当時、弟子がいたはずです。その弟子たちに岸流の技法を、密かに見学させて、それをもとに、岸流との戦い挑んだのではと、考えられます。孫子の兵法ではありませんが、武蔵は、十分に敵を知っていたのです。

 この岸流の横からの二振りめの刀はどうしても避けなければなりません。防ぐのではありません。かわさなくてはならないのです。岸流の刀と武蔵の櫂で作った木刀とが交わったなら、必ず、武蔵は、この戦いは負けであることを知っています。その為には。どうしてもこの二振り目の岸流の刃は避けなくてはなしません。だから、一mも飛び上がって、その刀を避けます。縱からの攻撃と横からの攻撃の、第二刀目に移る動作の時間の差を武蔵は利用したのです。横からの縦に移る時間は縱からのより、ごく少ない時間ですが、時間がかかるのです。それを武蔵は狙います。そこに、ほんの少しなのですが、一秒の何百分の一ぐらいの隙(すき)が生じるのです。
 此の時、岸流の刃は武蔵の飛び上がった袴の裾を三寸ばかり斬り落としたのだそうです。これも武蔵の計略だったかもしれません。なぜなら、その時履いていた武蔵の袴は皮の袴でした。

 


武蔵足を縮て飛びあがれば

2010-11-20 11:16:14 | Weblog

 いよいよ武蔵と岸流の戦闘になります。その様子を常山は、

 「武蔵二刀を組みでかかれば、岸流拝打ちに斬る処をうけはずしてその頭を打つに、岸流身をふりて左の肩に中る。」と、書いています。

 さて、昨日、「どうして武蔵はこんな短い、しかも、木刀で岸流に立ち向かったのでしょうか」と、書いたのですが、今日は、常山の武蔵と岸流の戦いの様子から、私なりにその答えを考えてみました。

 なお、この岸流の拝打ちと云うのは、辞書で調べてみると「刀の柄を両手で握って頭上に高く構え、上から下へ切り下げること」とあります。

 二人の間で、どちらが先に仕掛けたのかは分かりませんが「武蔵二刀を組みかかれば」と書いていますから、岸流の方が、先ず、斬りかかったのだと思います。それを武蔵はいとも簡単にうけはづします。それは、岸流の三尺の刀が、拝打ちで振りおろされるであろう距離を、武蔵は、あらかじめ計算して、予測していたのではないでしょうか。その距離を、1.5~2mと計算して、それだけ岸流との距離を離して構えていたのです。その為にその第一撃の攻撃を交わすことが出来たのです。と同時に、武蔵は、岸流の二振り目の横からの返し切りの前に、右手に持っていた長い方の、そうです。二尺五寸の櫂の木刀を岸流の頭上めがけて打ちこみます。しかし、岸流もいっぱしの剣術者です。その武蔵の第一撃を頭は交わしたのですが、左肩に食い込みます。大分の痛手を受けたことは確かです。

 ここからが私の推量です。
 左肩をしたたか打たれた岸流は、その燕返しの技で持って、刀を横に払うこと必定です。案の定、岸流は踏み込んで返す刀を横に払います。普通の者ですと、ここで勝敗は付くのですが、それをも武蔵は計算していたのだと思います。
 「武蔵足を縮て飛び上がれば」
 と、書いています。どのくらい飛び上がったのかは分かりませんが、兎に角、飛び上がり、岸流の横に払った刀を避けるのです。その時の二人の間は、「岸流が踏みこんで」居りますから、武蔵の左手にした一尺八寸の櫂の木刀は、ゆうゆうと岸流に届く位置にいたはずです。
 この飛び上がり作戦を取って、第二刀の岸流の燕返しを避けなければなりません。その為には武蔵自身の身が出来るだけ軽くなくてななりません。そこで、武蔵は、わざわざ軽い木刀を造ったのではないかと思われるのです。
 なお、櫂に使われる木ですが、昔から、樫の木で作られるのが普通です。非常に硬い、しかも重い木なのですが、櫂にして使っていたのです。乾燥していて重量はそれほどでもありません。硬くて軽い櫂を選んだのだと思います。

 こんな下らない自問自答をお笑いください。


佐々木小次郎の刀は長いのか(宮本武蔵岸流と試合の事)

2010-11-19 13:20:02 | Weblog

 「宮本武蔵は二刀を好む」と云う書き出しで、武蔵と岸流との下関での対決を、次のように書いています。

 武蔵が細川越中守忠利に仕えて、京より豊前の小倉に赴く時です。岸流と云う剣術者、下関に待って武蔵に試合をしようと請うたのです。武蔵も「心得ぬ」と、それに応じます。まずその家来に、舟の棹を買わして、それを二つに割り、手元を削って長さ2尺5寸と1尺8寸の二つの木刀を拵え、舟より島に上がって、岸流と戦います。なお、その時、岸流の持っていた刀は3尺あまりあったと書いています。
 この二人が試合をするという事は、事前に下関の人々の知る所となり、「下の関の者ども残らず囲みて見物する」と、書いてるぐらいですから、評判になって、大勢の者達の目の前で試合が行われたことは確かです。

 でも、「ちょっと待てよ。おかしいぞ」とは、お思いになりませんか。

 そうです。その時、持っていた二人の刀の事です。この武蔵は櫂を削って作った長さは2尺5寸と1尺8寸の木刀の2本です。75cmと55cmくらいの長さの自作の木刀です。それに対して、岸流、そうです、佐々木小次郎の刀は3尺の刀です。漠然とですが、今まで我々が持っていた考えですと、彼の刀は「物干し竿」と呼ばれていたものです。5、6尺は有ってもいいと思っていたのです。
 想像してみてください。吉川英治等の物語等に出てくる岸流の刀は、腰に差すのではなく、肩に背負っているのです。2m以上は有りそうだと、当然、今までは私も思っていました。誰でもがそう思っていたのではと思いますが。でも。常山は、この岸流の持つ刀は「3尺余り」であったと、書いています。それだと、実際は1mぐらいしかありません。私が持っている時々素振りをする木刀と同じ長さなのです。これだったら、何も肩等に物々しく担いでいなくてもよかりそうなものです。普通の刀と変わりありません。

 不思議に思えることがもう一つあります。この絵を見て下さい。

  

 これは武蔵が描いた自画像です。
 右手には長い刀を、左手には短い刀を持っています。だから、当然、武蔵は、岸流と戦う時も2尺5寸の木刀は右手に、1尺8寸の方は左手に持っていたものと思われます。でも、この絵に描かれている刀の長さは、岸流が持っていたと同じの、3尺の刀です。絵に描くぐらいですから、それを、いつも使っていたのだと思われます
 では、武蔵は、岸流との戦いの時に限って、この絵にあるような3尺の刀でなく、平生使ったことがないような、2尺5寸の木刀を、もうひとつも木刀です。この2本の木刀を持って、どうして、戦ったのでしょうか。どう思われますか????    

 是非、ご意見をお聞きしたいものです。

 


常山紀談も終わります。

2010-11-18 13:00:01 | Weblog

 6月から湯浅常山の「常山紀談」に付いて、あちらへ行ったかと思えば、今度は、ちょこっと、こっちを覗いたり、私の思いが向くまゝに、それこそ自由奔放に書きなぐってまいりましたのですが、いよいよ今日が最後となりました。此の紀談には500編程の近世以降の武将たちの逸話を採集して並べてあります。。時間的に系統だって編集したものでもなく、手に入れた資料をそのまま書きなぐったものですが、何もかにもぐちゃぐちゃに並べたその雑然とした史実が、却って歴史的な読み物として、当時の人々の間に人気を博したのではないかと思われます。
 其の500近い武將達の中から、今回は吉備の国に関連した人物だけを取り上げ、約半年に渡って書いてまいりましたが、今日がその最後になりました。

 最後、吉備の国といえば、どうしてもこの人物を取り上げなかったら話にならない武将がおります。誰がと思われますか。そうです。あの宮本武蔵です。

 この武蔵に付いては、どんな理由でかは、分からないのですが、常山も「記談」の中には取り上げてはいません。捜してもなかったのか、それとも忘れていたのかは知りませんが。彼は「常山紀談」を書きあげ、その後に、続けて記談には取り上げなかった武将の逸話とか、更に詳しい歴史的な事実が分かったのかもしれませんが、そんな武将たちの逸話を集めたものが「常山紀談」の続編として「武將感状記」と云う書物を書いています。この中にも記談の半分の250篇のものが書かれています。この中に「宮本武蔵」の記事が見られるのです。

 


恩にてよくなづけー光政の政治

2010-11-17 18:06:01 | Weblog

 この恩と威に付いて光政は次のように説いたのです。

 「恩にてよくなづけ法度の少しも崩れざる如くに賞罰を行うを威という」
 と。更に、申されます。

 「恩信なければ威は無用の事なり。威なければ恩信も用に立ず、然れども畢竟の所はよく下の情を知ること大事なり、下の情を知らざれば恩信も用に立ず」と

 

 支配する者と支配される者がそのお互いの思う心をしっかりと見つめながら政治をしていくことが、国民を一番暮らしやすい国にする事であると説いているのです。江戸の初めに家康が民、百姓を納める為に一番大切なことは、「生かさぬように殺さぬように」と言ったと伝えられていますが、それがそのまま幕府の政治になったとは思われませんが、その家康から、わずか3、40年後にでた池田光政がこのような事を家臣に説いたと言う事は驚くべき事だと思われます。民を大切にすることこそ藩が繁栄するのだという強い確信があったからこそ、この「威」も「恩」も生まれた言葉だったのではないでしょうか。此の池田光政の政治姿勢が、それ以後の備前池田藩の基本的な政治理念となって定着していったのです。

 この民を大切にと云う藩主の思いが以後の藩政に活かされたものですから、江戸時代と云う時代を通じて、百姓一揆などの農民による反乱が岡山藩で非常に少なかったのだと言われています。
 


光政侯の政治方針

2010-11-16 14:55:23 | Weblog

 常山の記談の付録として書かれている「雨夜燈」の中に新太郎様、即ち、池田光政の政治方針に付いて記されたものがあります。

 「威恩を以て国を治められし事」として、記されている光政の政治方針があります。それによります「新太郎様常々御意なされ侯は」として、次の事が挙げられています。
 まず、家中国中をよく治めんと思えば、「威」と「恩」の二つを上手に使いこなさなければならないと、いつも申されていたと言う事です。

 その「威」と「恩」について、
     ・その政治手段として「威」なくして「恩」ばかりであれば、甘やかしたる子の教訓を聞かないのと同じで、いざと云う時のように何の役に立たず、却って、邪魔になるばかりである。政治には厳しさが必要である。

     ・だからと言って、お上の威光ばかりで厳しさを第一とすれば、人々は、いつも上に対してへいへいと形式的には平身低頭して従順ではあるが、真実には、ただ、形だけで、心からの従うのではない。「是又散々の事なり」とあります。

 そして、次に、この「威」と「恩」を組み合わせて、実際に、どのような政治を行えばよいか、その指針を、家臣に常々に仰せられていたと言う事です。

 なお、「威」とは力、即ち、法による政治を指し、一方、「恩」とは気配りのある思いやりの政治を言うのだと思います。


夏目長右衛門について

2010-11-13 21:53:05 | Weblog

 三方ヶ原の戦いで、徳川家康は危うく命を落とす所でした。それを救ったのが夏目長右衛門です。此の夏目氏に付いて、常山は、この「紀談」の後に著した「武將将記」の中でも取り上げています。

 「この戦いの時、家康が甲斐の兵達の追い来る中でに向って戦いに挑もうとしたのです。お側にいた夏目氏が『大将の身の捨てると事にあらず』と諌めたのですが、家康はそれを聞かず、なおも敵に向って馬を走らせようとしたのです。そこで、夏目氏は仕方なく、家康の馬のくつわを取って、味方が大勢いる方に向け、槍の柄で馬の尻の所を叩きます。しかし、その槍の柄が誤って家康の兜に当ったのです。それに驚いた馬が乗り手の意志などかまわずに、頭が向いた方角、即ち、徳川方の方をめがけてまっしぐらん駆けて行ったのです」
 と、書いてあります。

 此の時、夏目長右衛門は、主君を救おうとしてですが、誤って槍の柄が馬の三頭に当らず、主君の兜を打ちます。わざとではないにしても、この己の非礼に対して、その罪の深さを悟り、その罪を償うためにも、ここは自分が追い来る敵を、その場に食い止めることそが、自分が犯したお過ちを償う一番の方法であると考え、それこそが、己の一番の忠義であると考え、そのために自らの命を捨てて寄せ来る敵方に対して獅子奮迅の戦いを挑み、討ち死にします。その為に家康が九死に一生きを得たのだと言います。

 そんなことを、常山はこの「武将記」に書いていますが、戦いの最中に、そんな夏目氏が考えて戦ったのがなど、死んでしまった者です、分かろうはずがないと思うのですが、まことしやかに伝わっているのです。死んだ者の考えなど分かるものですかね。ここら辺りが、常山のどうも胡散臭さに通じるところがあるように思われます。

 此の話、結局、後から家康を取り巻く智恵者どもが、徳川の武将たちの義を重んずる心を宣伝するために、でっち上げた「作り話し」のような感じがします。その話に、光政が旨い具合に乗っただけの、おもしろげのない話ではないかと思います。
 どうしてこんな話を此の紀談に載せたのかも分かりかねるところなのです。それにしても、歴史とは、とても面白いものだとおもわれませんか。


常山紀談に又返ります。池田光政のエピソード

2010-11-12 20:24:22 | Weblog

しばらく、「国民文化祭・おかやま2010」に目を向けて、とんでもない所へ行ってしまったのですが、湯浅常山にまた戻ります。と、言っても、後3回になりました。最後を飾るにふさわしいのかどうかは分からないのですが、あの池田光政のちょっとしたエピソードです。

 その1)
 常山は、光政の事を何時も「新太郎様」呼んでいました。その光政のエピソードを「新太郎様夏目氏の忠死を御賞歎の事」として載せています。

 それは、将軍家光の時の事です。何か徳川家の御歓事があった時だそうです。集まった諸大名達がてんでに徳川家の御家御繁昌を様々に相語ったっていた時の話しが出ています。
 備前藩主池田光政は、最初は、大名たちのする話を聞いていたのですが、ややあって、次のような話をされたのだそうです。

 元亀三年(1573年)、三方ヶ原で3万の武田軍と一万の徳川軍の戦いが行われ、徳川軍は完膚無きまでに敗れ、家康もあやうく命を落としそうになった戦いです。その時の話をしたのだそうです。
 家康は家来数人と馬で落伸びていたのだそうです。それをいち早く察した武田軍の大将秋山某かが追いかけてきたのだそうです。家康に付いていた家来たちも次第に少なくなり、家康も討ち死にの覚悟をしたのだそうです。その時、家康の家来に夏目長右衛門が
  「ここは殿が討ち死にする場ではございません、早御退きなされ」
と、言って、家康が乗っていた御馬の口を浜松の方へ向け、しこたまお馬のさんずを叩きます。驚いた御馬は一目散に走り出し、其のまま見る見るうちに敵から逃れて、失いかけた命を救ったのだそうです。そこに留まった夏目長右衛門は追いかけてきた多くの敵と、「槍の柄を折る程に戦いて討死しけり」と書かれています。
 「夏目長右衛門三方ヶ原にて、権現様の御命に代わり申さずば、かように御繁栄は御座あるまじき」
 と、申したのだそうです。

 この言葉をお聞きになった現将軍は家光侯は
 「今の光政殿の言葉は徳川家の士の節義の心を今更引き起こしたる詞なり、智者の一言はかかることなるべし」
 と、たいそうお悦びになられたのだそうです。

 なお、此の光政の妻「勝姫」は、あの千姫の一人娘です。家光の姪に当られるお方なのです。念のために。


岡山弁て、きたないですか

2010-11-11 22:04:16 | Weblog

 突然ですが、どこか知らない人からお便りがありました。
 「岡山弁は汚いですね」

と。

 そのお便りに反論しました。

 我々同じ日本人が使う、話し言葉には「きれい」、「きたない」の区別を付けるのは、地方差別ではありませんか?確かに、筆敬氏が使う岡山弁を見てみますと、あまり上品な品格のある言葉とは、どうしても思われませんが、いざ「岡山弁が汚いですね」と云われると、聊か抵抗を覚えます。、東北弁にしろ、九州弁にしろ、どこの言葉がきれいだと誰が断定したのでしょうか???江戸弁が上品だ何っていったい誰が決めたのでしょうか。でも、耳で聞いてみても、我が岡山弁は、日本で最も「汚い言葉だ」とはおもわれません。なかなか愛嬌があって面白い言葉と私は思うのですが。

 筆敬氏ではないのですが、こんな岡山弁もあるのですよ。

 「そげん、いっつもいっつも へりくつみてなことばあいわんと、もうちいたあ しょうらしゅう せえだして、はたらきんせえ」

 「まあまあ、そげん えんりょばあせんと、ねきいばあいかんと、もちいたあ、こちい、おいでんせえや、ぬきいひばちんそべえでもよって、ざぶとんでもつかってくだせえ」

 こげんなことを、私のおばあさんがようつこうておいでんさった。

 

 これが岡山弁です。愛嬌があっていいもんでしょう。