私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

遠野物語最終

2010-06-30 09:46:32 | Weblog
 100年前の6月14日に出された遠野物語ですが、最後に、その(五四)にあるお話を書いてみますので、読んでみてください。

 「閉伊川の流れには淵多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近き所に、川井という村あり。其村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取落としたり。主人の物なれば淵に入りて之を探りしに、水の底に入るままに物音聞ゆ。之を求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機を織りて居たり。そのハシタに彼の斧は立てかけてありたり。之を返したまわらんと言う時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我が此所にあることを人に言ふな。其礼として其方身上よくなり、奉公をせずともすむようにして遣らんと言いたり。その為なるか否かは知らず。其後胴引など云う博奕び不思議に勝ち続けて金溜り、程なく奉公をやめて家に引込みて中位の農民になりたれど、此男疾くに物忘れして、此娘の言ひしことも心付かずしてありしに、或日同じ淵の辺りを過ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思い出して、伴なる者に以前かかることありきと語りしかば、やがて其噂は近郷に伝わりぬ。其頃より男は家産再び傾き、又昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思ひしにや、その淵に何荷(なんが)ともなく熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、なんの効も無かりしとのことなり」

 
 このお話からもわかるように、これなどのお話は勧善懲悪的であったり、また、仏教的な匂いがしたりするようなお話ではなく、どこか縄文の匂いがするようなお話ではないかと思います。

「遠野物語 現代の呼応」

2010-06-29 11:33:35 | Weblog
 昨日の朝日新聞に早稲田大学の鶴見教授の「遠野物語 現代の呼応」と言う記事が出ています。
 彼は、この中で
 「名もなき民衆が個人の内面に宿した感情がいくつもの層をなして積み重なっていき、そこにひとつの物語が形成されていき」、実像ではない影となって生まれてきたのではないかと問うています。更に、鶴見氏は「民譚」をその担い手となった無数の群像という形で焦点を合わせて見ると、そこには直情怪行の人柄(自分のありのままに行動すること)、温和な人柄(ちょっと控え目に一歩後ろから物事を見守ること)など様々な感情のある事などを考慮しなくてはならない」
 と、述べています。
 民譚とは、遠い昔から言い伝え語り告げられてきた民話を言います。
 幻聴や幻視た予知夢な不可思議な語りばかりです。その生まれた根源は何処であるかは、現代のわれわれには、到底理解できないことばかりのようですが、当時の人々は、そこに現実性というか真実としてそのもの自体が存在していたのです。疑う者は救われずの感覚があったのだろうと思われます。この世で、仮に見たり聞いたりしたように思ったことでも、総て、在ったことは存在すると云う疑う事を知らない純粋無垢な心を人々が持ち得たのです。人の思いが実存になった時代なのです。曖昧模糊とした事でも、誰かが、その事の、または、そのものの存在をきっぱりと否定しないかぎり、すべて存在が可能となるおおらかな時代だったのです。科学が発達した現代では、というよりか、ひかりがそこら辺りに散らばっている世界では、到底、思いも寄らないことなのですが。

 そこには精神的な強さがありました。信じることへの信頼感を持っていたのです。
 
 そんな心強い人から生まれた民譚です。すぐに消えいるような薄っぺらなものではありません。何百年に渡って言い伝えらたた伝承文学です。いや、物語です。だから100年経った現代でも、結構、他の物語と並行して、通用する読み物になっているのです。それに着目した柳田の偉大さがあるのです。単なる民譚を、日本の文学の確乎たる位置に入れ込んでしまったからです。それは明治以降、今昔物語やおとぎ草子など、それまでは、単なる子供向けの取るに足らないような低級なおとぎぞうしであったものを、日本文学としての確乎たる位置にまで押し上げたのも、すべて、此の「遠野物語」を書いた柳田国男という個人の功績ではないでしょうか

「包丁かけた」と鳴くホトトギスー遠野物語より

2010-06-28 18:32:51 | Weblog
 一昨日、吉備津神社で夏祭りについての相談会が行われました。一時間程度で、その話し合いの会議は終わり、参集殿から外に出ます。来る時は降ってはいなかったのですが、帰るときには、降りみ降らずみの柔らかな五月雨が神社のお屋根や後ろの中山の木立を心よさそうに濡らしていました。
 傘を持っていかなかったので「五月雨に 濡れけり宮の みどり陰」よろしく、ゆっくりとその日、頂いた夏祭りの書類をかざしながら、そぼふる六月の五月雨を楽しみました。
 その時、突然、神社の木立にいたのでしょうか、ホトトギスが「テッペンカケタカ」と2、3回激しく鳴木ます、「五月雨に テッペンカケタカ 声ばかり」よろしく、その姿は、夏木立が吸い込まれたように見せません。

 吉備の中山辺りで、この頃、暁時には、何時も時鳥が遠くからその鳴き声を響かせながら通り過ぎています。でも、こんなに近く頭のすぐ上で鳴くのを聞いたのは初めてです。五月雨に打たれるのも、又、こんなに、おつなもんかと、思いながら、かざした書類を下におろしながら、とっぷりと五月雨を楽しむように、「雨とホトトギスの歌はあったかな」と思いながらに、「もう一度 雨に鳴き飛べ ホトトギス」とばかりに、吉備津神社を取り巻く吉備の中山の夏木立を仰ぎ仰ぎ帰路に着きました。
 家に帰ると、早速、神さんに
 「梅雨の最中に傘ももたずに。・・・・此の雨の中を何処をうろついているの。」
 と、こっぴどくお小言を頂戴したのは当然のことですが。


  五月雨に もの思ひをれば ほととぎす
            夜深く鳴きて いづち行くらむ
 夜ではないのですが、お小言を頂戴しながら、私はこんな句を思い浮かべて、にたりとしました。

 なお、此の時鳥の鳴き方ですが、今までに私が耳にした鳴き方は、「テッピンカケタカ」「トッキョキョカキョク」とばかりに思っていたのですが、それが、例の「遠野物語」の中では「包丁かけた」と鳴いたり、「どちゃへ飛んでた」と鳴いたりするという例が出ています。(五三)。
 それぞれの地方独特の鳴き声があったはずです、吉備にも吉備のと思うのですが、まだ吉備地方独特の鳴き方には、調べているのですが、出くわしたことがありません。

ザシキワラシ考;ザシキワラシとお地蔵様

2010-06-26 08:31:40 | Weblog
 ザシキワラシっていったい何でしょうかね。

 誠に曖昧模糊として、これっていったいなんだろうかなと思いながら読んでみました。得体の知れない、何となく、われわれの身の近くにいるようでいないような、それも、人でもない、それかと云って狸かむじなのような動物でもない、ただの「もの」としか言いようのない、東北地方の、主に岩手にしか現れなかった「もの」なのです。

 「わらし」とは、何でしょう。広辞苑による「児童衆」(東北方言)子供、わらべ、と書かれています。

 では、このけったいな「もの」としか言いようのないザシキワラシがが、どうして「わらべ」、そうです、三,四歳の子供でなくてはならないのでしょうか。若い人ではいけないのでしょうか、また、私みたいな70歳ぐらいのよぼよぼのお爺さんではいけないのでしょうか???
 考えて見るに、このような、<むかしむかしあったそうな>と、云う書き出しで語られるお話の中には、どれにも共通して言えることは、その奥底に仏教思想と深く関わっている場合が多いのです。勧善懲悪の話なら分かるのですが、悪も善も何処にもない、どうしてこんなたわいもない話が言い伝わったのか分からないような、どこにでも有りそうでいて、そうでもないような摩訶不思議な物語が残っているのです。それも根強く民衆の間にです。
 
 さて、このザシキワラシの歳は童子、そうですワラシなのです。物欲も何もない本当に無垢な汚れを知らない小さなと云っても、4.5歳以下の子供しかワラシにはなれなかったようです。その様な幼子の姿の中に、大人たちは仏を見いだしたのです。仏に限りなく近い純粋な存在として見ていたのではないでしょうか。十才の子供であっては、もはや俗念のとりこになってとうの昔に仏の姿から離れてしまった姿に変身して、ワラシにはなりえないのです。
 そんな意味で、われわれのごく身近に居らっしゃる菩薩や明王などの眷属も童子と呼ばれていますので、その姿とザシキワラシを重ねて考えたのだと思います。この菩薩様は、われわれ人間が、手を差し伸べると、何でも、信じる信じないは関係無く、悉く救ってくれる有難い仏でもあるのです。だから余計に親しみが籠っているのです。
 お地蔵様も菩薩です。東北地方にもお地蔵さまはおられると思うのですが、案外、このお地蔵さまの化身みたいなものを、「わらし」と置き換えて作り替えたのではないかと思われます。
 誠に可愛い二,三歳くらいのわらべ、子供、それがいつの間にか菩薩に代わって人の心の中に住みついたのではないでしょうか。ワラシが尋ねてきてほしい。来てくれると暮らしが楽になる。そんな人々のささやかな願いみたいなものが、いつの間にか出来上がって、それが昔語りと云う姿に変化して物語になったのだろうと思うのです。
 服は赤いものを好む等、お地蔵さまのよだれかけと似ていませんか。ザシキワラシは小豆類を好まれます。私が小さい頃、よく祖母などが近所のおばあさんなんかと一緒に、お地蔵さんの日には、小豆ご飯を炊いて、道端におわしますお地蔵さんに、(私の家の近くに有ったお地蔵さんはどうしてか分からないのですが二体対になって並んで立っておられました)おにぎりを上げましにお参りしていました。お参りが済んだ後に食べる小豆ご飯のおにぎりが魅力で祖母たちの後をついてまいったことが記憶に今でも残っています。
 これなどもザシキワラシとお地蔵さんを結び付ける証拠になるのではとも思うのですが。

 そのような幻の世界を自分の身の近くに置く事によって、厳しい自然と戦い抜くための手段として、というか、人々が生きて行く為の仏教などと云う難しい信仰ではない、自分たちのすぐ目の前に有るに誰でもが気軽に頼れることができる「もの」として、いいかえると、過酷な生活を耐え抜く為に作りだされた、素朴な自然的宗教の一つではないかとも思われます。
 また、しばしば、ワラシがその家をさると、如何に裕福な長者であっても、たちまちに不幸のどん底に突き落とされるになるのですが、長者がいつまでも永遠ではない、「禍福は糾へる縄の如し」の諺通りで、油断はいけないよと云う格言みたいなものにも利用されたのではないかと思えます。

 ザシキワラシ、現在では漫画などで妖怪の一部として取り上げられ「怖いもの」「恐ろしいもの」というイメージを子供たちに植え付けているようですが、「それでも構わない。表現の自由だ」と、云えばそれまでですが、昔語りとしてのザシキワラシのイメージを、一人の漫画家の勝手な創作で、今までに長年に渡って言い伝えられているイメージをまったく壊してしまうような近代的な創り話を作っていくことに、私は大いに憤慨しているのですが。 そんな全く新しい独自な、それでいて今までのイメージとは全く異なった思いを子供たちに強烈に植え付けるのは、とんでもない、誠に憐れな神をも恐れぬ不遜の輩のように思えるのですが。どうでしょうかね 。
 「それがなんだ。それこそが新しい芸術だ。文化だ」と、うそぶきそうな漫画家に対して
柳田国男がこの漫画を読むと何といわれるかなと思ったりもしている梅雨最中です。私の心がすっきりと晴れ切らない、今日も降らず降らずみの一日でした。

ザシキワラシの話

2010-06-25 21:02:52 | Weblog
 ザシキワラシの話は、東北地方にだげあって他の地方には其の例がないと云われています。しかし、「高野山にもある」と、南方 熊楠が言ったとか言わなかったとかと云う噂もあるようです。そのほとんどは遠野村のある岩手県が最も多いのだそうです。

 このザシキワラシとよく似た名前を持つ民話も沢山あります。
 ・ザシキワラシ、・ザシキボッコ、・ザシキボコ、・ザシキモッコ、・ザシキバッコ、・ザシキバッコ、・カラコワラシ、クラボッコ、・コメツキワラシ、・ノタバリコ、テフビラコ、・ホソデ、・ナガテ

 しかし、ザシキワラシは、決して、妖怪でもお化けでもありません。生きたり死んだりするわけではありません。そんな意味で、人ではないのです。人の害を加えることはないのです。ザシキワラシは裕福な旧家に住みついています。何と言いますか、何かの霊魂でもありません。摩訶不思議なとしか言いようのない生き物です。食べ物の好き嫌いがあると云うのですから生き物であることは確かなようです。

 明治37年頃、坪井正五郎と云う学者が、日本には、 コロポックル(「蕗の葉の下の人と云う意味だそうです)というアイヌ以前に住んでいた原日本人がいたと唱えたましたが、ザシキワラシとよく似た名前に「クラボッコ」と云うのがありますが、これなどもザシキワラシと何らかの関係があるのかもしれません。
 

ザシキワラシってどんな人

2010-06-24 19:17:14 | Weblog
 ザシキワラシについて、つい寶泥氏の口車に乗って、何やかやと、例の如くに脱線してしまったのですが、最後に佐々木氏が書かれているザシキワラシの特徴を上げて終わりにしようかと思います。

 この話は上閉伊郡附馬牛村(かみへいぐんつくもうしむら)萩原早見と云う人の話だとしてその特色を13に渡って書いています。

 一 ザシキワラシには雄雌の別があって、雌の方が数に於て多い。
 二 髪はちやらんと下げてゐて、光沢(つや)のあるきれいである。
 三 髪には綺麗な飾を付けていることがある。友禅の小布片(こぎれ)のようなもの付けていることがある。
 四 顔は赤いほうが多い、時には真っ青なものもある。
 五 身丈は二三歳ばかりの子供ぐらいである。
 六 衣服は赤いものを好んで用いている。
 七 歩く時は衣擦れの音がする。その音は丁度角力の廻しのすれる音のようだ。
 八 足跡には踵のがない
 九 歩く時は必ず連れがあって、ただ一人で歩くようなことは稀である。
 十 出現する時は多く夕方である
 十一 室内を歩くには通路は定まってゐて、それ以外には決して歩かない。人がその通路を知らずに寝るようなことがあれば、きっと唸(うな)されたり、又何か悪戯をされたりする。
 十二 食物は小豆類を好んで食する

  ザシキワラシっていったい何でしょうね。子供の夢でもないようです。電気も何もない夜は魔物が支配する遠い昔の薄暗い農家の屋根裏にでも住んでいたのでしょうか。

 そう言えば、我が町吉備津でも、これとよく似たその名前は何と言うのかわはっきりは残ってはいないのですが、そんな得体のしれない妖怪ではないのですが、人々からある程度親しみを持たれているような古い家に住みついている主みたいな話は残っているには残っていますが。
 その姿はある時は子供であり又ある時は霞みたいな姿がうすぼんやりとして定かでないような物がいたのだと云う話はいくつもあったと云う話ししか残っていません。

 「ミサキさま」そんな名前が付いていたのではと云う人もいますが、それが一体何だったかと云う事は、曖昧模糊として、その正体は捕まえることができません。
   

佐々木喜善のザシキワラシ

2010-06-23 07:01:55 | Weblog
 遠野町に伝わっていたザシキワラシの話などを、この佐々木喜善氏から聞いた柳田国男が遠野物語を書いて早くも100年がたっています。今ではその姿を見たと云うお方が此の遠野に居るのかどうかは分からないのですが、お話だけは生きて今でも漫画等に登場することがあるようです。

 この佐々木氏は70近い東北各地に伝わる話を集めてこの本にしています。どれもあまり筋の違わない、似たり寄ったりのお話ですが、佐々木氏のお集めになられたこのザシキワラシのお話をもう一つだけ書いてみますので、お読みください。電気もエアコンもない時代の東北地方に伝わっていたお話です。


 「青笹村字関口、菊池某と云う人の家の土蔵に、ザシキワラシが出て、窓際に据えて置いていた糸車を、くるくると廻すこと日に幾回となく、其がかなり永いこと続いた。其当時此の家は村の役場をしていたので、屡多くの人がそれを見た。殊に春の馬検(馬調べ)などの日には、多勢で見たそうである。窓の内側には細い金網を張ってあった。其所からみると、極めて美しい細々とした手がちらちらと動き、それに連れて糸車がくるくると廻る。其当時区長を務めておった菊池登と云う人、同役の木村徳太郎という人と共に、ある日土蔵の戸前に張り番をしていると、やがて2階で糸車の廻る音がからからとする。それで二人で梯子を上って二階に顔を出すと、窓際ではまだ空車が余勢で廻り、何物か黒っぽい物が、床板にぺったりと蹲って、其まま姿を何処へか隠したと云う。何人が行って見てもそうであったという。・・・・・・・・・」

 

 

続ザシキワラシ

2010-06-21 10:33:06 | Weblog
 まあ随分と暇がありますので、柳田国男のザシキワラシは終わります。この遠野物語の最初に、柳田は、「此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」と書いています。佐々木某と云う名前は初めてでしたので、この人はどんな人だろうかと思い、少々調べてみました。すると彼が書いた「奥州のザシキワラシの話」と云う本があることが分かりました。

 その本に書かれてある佐々木氏のザシキラワシの話を、もう1、2回、くどいようではありますがご紹介します。

 柳田が佐々木鏡石君と紹介した人は佐々木喜善が本名です。彼は遠野を中心とした奥州にいたと伝えられているザシキワラシの話を七十話程紹介しています。
     

 その一つ、一番初めに紹介されているザシキワラシの話です

 「私の村に近い綾織村字日影に、佐吉殿と云う家がある。或時此家で持地の山林の木を売って伐らせたことがある。其為に家の座敷には、福木挽(ふくこびき)と云う濱者と、某という漆掻きの男とが、来て泊っておった。するとどうも毎晩、一人の童子(わらし)が出て来て、布団の上を渡り、又は頭の上に跨って唸されたりするので、気味悪く且うるさくて堪らなかった。漆かきの男は、今夜こそあの童子を取り押さえて打懲らさうと、待ち伏せして居て角力を挑むと、却って見事に童子に打負かされてしまった。其翌夜は同様にして、木挽の福も其者に組伏せられたのである。二人の男は愈驚いて、其次の夜から宿替をしたと云う事である・・・・・」


 

遠野物語 二〇  孫左衛門の家の凶変

2010-06-20 12:57:25 | Weblog
 
 茸の災いの前にも、この孫左衛門さんの家にはいろいろな凶変が見られたと遠野物語には書かれています。

 「二〇 此凶変の前には色々の前兆有りき、。男ども苅置きたる秣(まぐさ)を出すとて三っ歯の鍬にて掻きまはせしにい、大なる蛇を見出したり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打殺したりしに、其跡より秣の下にいくらとも無き蛇ありて、うごめき出てきたるを、男ども面白半分に悉く之を殺したり。取捨つべき所も無ければ、屋敷の外に穴を掘りて之を埋め蛇塚を作る。その蛇は簣(あじか)に何荷とも無くありたりといへり」

 此処でよく分からない言葉が出ています。「簣」<あじか>と、るびがふってあります。
 辞書の御厄介になりますと「もっこ」の事だそうです。土を運ぶために作った竹かごだと説明してあります。
 私の住んでいた備中では「ばいすけ」と呼んでいた竹かごがありましたが、それかもしれません? あるいは又、「へぇふご」、正しく「はいふご」ではなかったと思われますが。訛って「へぇふご」と呼ばれていたのではないでしょうか。竈の中にたまった灰を運ぶために作られた物をそう呼んでいました。ただし、これは、竹製ではない稲藁で作られていますので、この「あじか」とは違うように思われます。
 
 昔の道具には、当然それぞれ名前が付けられていたのですが、現代では、実物も、お眼にすらかかれません、だから名前なんてとんでもないことです。「ばいすけ」なんてもうほとんと死語ですよね。
 そう言えば、人の頭ほどの石ころを運ぶための縄で編んだ大きな目の網状に組んだ入れ物がありましたが、それを何と読んでいたか名前が出てきません。もう完全なる死語に足りきったような言葉も過去にはあったのですが。
 その姿は目にすることはできません、竹を組んだ山籠の有りました。また、「おいこ」と呼ばれる「カチカチヤマ」の狸がしょってウサギに火をつけられるおとぎ話がありませうが、あの薪を背負う道具です。総て百姓が自分たちの手で作った手作りの道具でした

 これとは少しばかり違うのですが、私の子供の頃に、ちょうど今頃田植え時期等の農繁期にが田の畦などに据えられた赤ちゃんを入れた藁製のお篭がありました。「ねこ」と呼ばれていたのではないかと記憶していますが。そんな道具も此の遠野物語を読みながら思い浮かべたりもしています。

茸を食った孫左衛門

2010-06-19 10:48:43 | Weblog
 遠野物語の「一八」のザシキワラシが、孫左衛門の家から居なくなった話の続き話が「一九」と「二〇」に出ています。その話も書いておきますので時間のあるお方は読んでみてください。


 「一九 孫左衛門が家にては、或日梨の木のめぐりに見馴れる茸のあまた生えたるを、食わんか食うまじきかと男共の評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食わぬがよしと制したれども、下男の一人が云うには、如何なる茸にても水桶の中に入れて芋殻(おがら)を以てよくかき廻して後食へば決して中(あた)ることなしとて、一同此言に従ひ家内悉く之を食ひたり。七歳の女の児は其日外に出でて遊びに気を取られ、昼飯を食ひに帰ること忘れし為に助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、或は生前に貸しありと云ひ、或は約束ありと称して、家の貸財は味噌の類まで取去りしかば、此村草分の長者なりしかども、一朝にして跡かたも無くなりたる」

 どうでしょうが。遠野地方だけでなく日本全国どこでも聞くお話のようです。人の業ですか、その欲深さは、洋の東西を問わず、人の歴史が始まって以来、何処でも見られたことなのです。

 我が吉備津でも、これと同じように、一夜の内に、家財など総ての財産を失ってしまった旧家が、まことしやかに現在でも語り伝えられています。
 
 「有為転変は人の世の常ならむ」です。こんな現実と直接結びついた話も、遠野物語の中には、いくつか書き込まれているのです。
 
 今はすでに昔になった岩手地方の片田舎にある民話の中に見える人々の生き様に、日本人の源としての敬虔と云いましょうか、或いは共生と云いましょうか、生きていく為の神への最低の他力本願みたいな日本人しか持ってない独特な精神性を、柳田国男は、その中に見出したのではないでしょうか。

 そんな心を、次の歌に込めて、前書きの中に書き込んでいます。

    おきなさび 飛ばず鳴かざる  おちかたの
              森のふくろふ 笑うらんかも

ザシキワラシ又女の児なることありー遠野物語より

2010-06-18 09:59:10 | Weblog
 遠野物語の「一八」でも、柳田国男はザシキワラシの話を報告しています。その全文を、今日も、又、載せておきますので、興味あるお人は読んでみてください。

 「一八 ザシキワラシ又女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門と云う家には、童女二人いませりと云うことを久しく言伝えたりしが、或年同じ村の何某と云う男、町より帰るとて留場(トメバ)の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき様子にて此方へ来る。お前たちどこから来たと問へば、おら山口の孫左衛門が処から来たと答ふ。此から何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某は稍(やや)離れたる村にて今も立派に暮らせる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、此家の主従二十幾人茸の毒に中りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、其女も又年老いて子無く、近き頃病みて失せたり。」

 ザシキワラシの話はこの「一七」「一八」の二話だけですが、ここに出てくる茸の毒に当って死んでしまった孫左衛門の話は「一九」「二〇」「二一」と続きが書かれています。それも、ついでの事に、明日以降、書いてみますので、ご覧いただけたらと思います。

 こんな世知辛い世の中、そんな悠長な話なんかどうでもいいと思いのお方がいるのではと思いますが、そんな世知辛い、何事も科学が第一の今の世の中に有って、百年前に出た、なんだか遠い昔に、見たり、聞いたりした事があるような夢のようなおとぎの世界を、ちょっと覗いてみるのも、まんざらではないように思えるのですが。
 そんなことから、この本が名著となって今日まで生き続けている原因ではないかと思われます
 

ザシキワラシ

2010-06-17 09:57:30 | Weblog
 遠野物語出版100周年目についてブログしたのですが、また、例の飯亭寶泥氏から、ご親切なるメールを頂きました。

 「おめえが持とると、えろう自慢げにけえておった遠野物語のザシキワラジというもんは、どげえなもんじゃ。・・・知らんもんもおろうけん、柳田国男はどげえに説明しとるんか、教せえてやったら、どげえな、もんじゃろうか」
 と。

 そんなことで、又、よそ道にそれますけんど・・・・・・

 その遠野物語には119の遠野地方に伝わる様々なお話が書かれています。その中で、ザシキワラシに関するものは「17」と「18」の2回説明がしてあります。

 まずは、その17のザシキワラシについての全文を記しておきますので、声に出して読んでみてください。特に、小学生以下のお子様のいるご家庭では。向こうの部屋からザシキワラシが顔を覗けていませんか?テレビを消してどうぞ。

 「旧家にはザシキワラシという神の住みたまう家少なからず。この神は十二三ばかりの童児なり。折々人の姿を見せることあり。土淵村大字飯豊(イヒデ)の今淵勘十郎という人の家にては、近き頃高等女学校に居る娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大に驚きしことあり、これは正しくは男の子なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物して居りしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。此の室は家の主人の部屋にて、其時は東京に行き不在のおりなれば、恠(あや)しと思いて板戸を開き見るに何の影も無し、暫時(しばらく)の間坐りて居ればやがて又頻(しきり)に鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思へり。この家にも座敷ワラシ住めりと云ふこと、久しき以前よりの沙汰なりき。此神の宿りたまふ家は富貴自在なりと云うことなり」

 と書いています。

秀吉の高松城水攻め異説

2010-06-16 13:53:19 | Weblog
 われわれ高松地域に住む者だけでなく、日本人誰もが、秀吉の高松城の水攻め(天正10年1582年)は、主君信長の一日も早く高松城を落とせと言う厳命により、黒田如水の意見に従って堤防を築き、俄かの湖を造り、その湖上で清水宗治を切腹させて、戦いを終わらせたというのが、一般常識となっているのです。太閤記などに書かれている通りのことが、その通りに言い伝えら信じられてきているのです。
 しかし、常山紀談には、此の水攻めについての異聞が、堂々と?載っています。

 「又高松の城はたやすく攻落すべきに、水攻めにして日を経たるは、信長常に大功の速やかになるを忌みねたむの心あるを察しての故なりといえり」
 と。

 どう思われますか。「ちょっと待ってください。常山先生」と言わざるを得ません。
 
 この戦いの為の戦費は、1日に何千万円も必要としたと言われます。一説によると、1億円はゆうに越していたという学者もいるぐらい莫大の戦費が必要だったのです。誰が好んで、「戦いはゆっくりすればいい」なんてことを言う者がいるものですか。人命を大切にせよといいのならともかく、自分の戦いのやり方の好き嫌いで「速やかなるを忌みねたむ」武将が有りましょうや?。それも勝ち負けがどちらに転ぶか分からない戦にですよ。

 でも、湯浅常山は、何処からこの資料を取り寄せたのかは分かりませんが、そう書いています。そこら辺りにも、この紀談の歴史的評価の低さが存在しているのかもしれません。

遠野物語100周年

2010-06-15 12:18:06 | Weblog
 柳田国男の「遠野物語」が出版されたのが100年前の明治43年6月14日です。その遠野物語を私は持っています。初版本は、たった350冊しか出版しなかったのです。その内の1冊です。
 「大変珍しい本だ。大事に取っておけ」
 と、私の祖父から頂いたのです。

 今年の1月9日の天声人語氏が、この本について書いていたので「もしや」と思って本棚を探して、久しぶりに対面した本です。6月14日、昨日ですが、再び、本棚から出して、ぺーじをぱらぱらと捲ります。懐かしい香りと一緒にザシキワラシも飛び出してきそうでした。
 写真ですが、どうぞ見て下さい。
     

明智光秀の密書

2010-06-14 11:04:38 | Weblog
 本能寺で、織田信長が光秀によって殺されます。その光秀は、飛脚の者を西に派遣して、「信長を殺した」という密書を毛利方に届けさせます。その間者が備中庭瀬で、秀吉方のしのびの者によって取り押さえられ、持っていた「信長死す」という密書が秀吉の手に渡ります。その書条には
 「秀吉必ず敗北すべし。秀吉を更に追い撃たれよ」
 と、書かれていたと言う。
 
 その為に、それ以後の秀吉方の高松城一帯の警戒がより厳しくなり、「怪しい者は、問答無用で、即刻に首をなねよ」というお触れが出ます。

 この常山紀談には、これだけしか書かれてはいないのですが、此の庭瀬の事件の直後には、「吉備津盲人殺害」という悲劇も起きています。そして、それが発展して「足守街道の幽霊と盲人塚」の話が、まことしやかに語られ、今に言い伝えられています。その塚も、文字は何時しか消え去ってしまってはいますが、残っています。その周りにはかきつばたが、不思議な美しさを見せて六月の風にあやしくゆらいでいます。