私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

国宝「赤韋威鎧」

2010-10-31 18:40:14 | Weblog

 「晴れの国の名寶」と銘打って開催されている県立博物館に、今回、展示されている岡山の国宝の内の一つ「赤韋威鎧」を紹介します。

 此の鎧は平安時代末期源平合戦の頃に作られたものだそうです。その頃のものとしては保存状態も比較的に良く、当時の工芸の粋を尽くした、威風堂々たるものです。兜を入れた全体の重さは25kgもあり、此の鎧を着けた武士は、更に、あの重厚な刀を振りかざして相手に立ち向かったのかと思うと、当時の武士の見事なと言うしかない身体的な頑強さには驚かされます。

                   

   これが、その国宝です。800年前のものとは思われないでしょう。それぐらい美しくすばらしいものです。

 考えてみてもください「25kg」の重さですよ。25kgと言っても想像できないかもしれませんが、米一斗の重さが30kgですぞ。そんな重たいもんを体に纏って、ほとんど自由を失ってしまうような重さなのですよ。
 大将しか見に着けていなかったとは言われますが、絵本等から見た源義経などの、あのきゃしゃな体つきの武将に、どうして、それだけの重さに耐えるだけの体力があったのだろうかと不思議てたまりません。此の鎧は、説明書等によると、実際、当時の武将が戦場で使用していたものなのだそうです。

 そんな意味から平安末期から戦国の世までの武士たちが持っていた「強靱な体力」と云うのは、現代社会の我々の考えをはるかに超えた、「ものすごい力強い肉体的な強さ」を持っていたのではないかと想像されます。

 そんなことを考えていると、その時代時代によってその言葉の持つ意味が随分と違ってくるのではないと考えられます。あの那須の與一なんかをお考えいただいても分かるような気がします。25kgの鎧を着けて、その上、馬に乗って、強弓で矢を放ったのです。此の弓とて、現在使われているような、グラスフイバー製の軽いものではありません、随分と硬い竹製の大変重い弓だと聞いていますが。

 まあそんなことを考えながら。博物館に展示してあるこの国宝を、つくずくと面白く拝見してきました。何度でも言いますが、岡山に住むみなさん、どうぞ此の素晴らしい企画を見んに行ってください。若し疑問点がありましたら、館内の入口に坐っている女性に尋ねてみてください。なんなりと親切に説明してくださいますよ。

 此の会場だけで国宝作品が、この「赤韋威鎧」を入れて4点もありました。



  なお、これも蛇足の蛇足ですが、此の鎧に説明書には「伝備中赤木氏」に伝わったものであると、書かれています。備中の何処の赤木氏かは分からないのですが、もしかしたらと言う深い思いがする此の鎧です。というのも、私も、やはり「赤木」ですので。

 何だそれは??????????と、お笑いください。

吉備の誇る特殊器台

2010-10-30 19:32:05 | Weblog

 高塚遺跡から出土した銅鐸等を見て、次は、これまた、古代日本に於いてこの吉備地方から発した古墳を飾る土器を展示するコーナーがあります。
 「特殊器台」と呼ばれているものです。2世紀末から3世紀にかけて、この吉備で発達した葬送用の特殊な器台です。


                  

 これも、勿論、国重文です。この特殊器台が出土する墳墓は吉備地域、岡山地域からは40数遺跡が現在確認されています。備後を含めると50遺跡から出土しています。

 この特殊器台が、わが吉備の国の守り山たる「吉備の中山」にある矢藤治(やとうじ)山古墳からも出土しています。なお、此の特殊器台が不思議なことですが、大和の卑弥呼のお墓ではないかと言われている箸塚古墳からも出土しているのです。この箸塚古墳は、あの倭迹迹日百襲姫命のお墓であることは分かっているのです。孝霊天皇の姫です。と云う事は、我が吉備津彦命の姉上のお墓なのです。なお、この倭迹迹日百襲姫命は吉備津神社の本宮社にお祭りされています。
 どうして、この古代吉備独特の埋葬方法が、大和でも取り入れられたのかという疑問について多くの学者の論争の一つになっていて、現在まで色々な議論が出てきておるのですが、いまだに、これがと云う結論は出ていないようです。

 この土器は、その後の古墳に使われた円筒埴輪の元になったのは確かな事だと言われています。

 まあ。こんな素晴らしい土器がガラスケース越しに、我々に「おめえはどうおもよんなら」と、にこやかに語りかけているようでした。
 よく見ると丸や三角の穴があいている部分には巴型やS字状の渦紋が箆で書きこまれています。これを造った人の美的感覚の鋭さには驚かされます。近寄ってとくとご覧ください。

 なお、先に見た高塚遺跡から出土した銅鐸のすぐ前に展示されている楯築遺跡の施帯文石の模様とこの特殊器台の中に描かれている模様を比べて見てください。何か共通する点はありませんか???

 特に、吉備地方の弥生人は、どうして〇ではなく、Sの模様を好んだのでしょうかね。


 蛇足;千足古墳の直孤文もやはりこれと同じでS字の応用だと思いますが。

国民文化祭・おかやま2010 ①

2010-10-29 14:30:49 | Weblog
 今、岡山が面白いです。それは“第25回国民文化祭・おかやま2010”が開かれているからです。その面白い岡山を見に、まず、県立博物館を訪ねました。会場には、国宝や重文の作品が、河原の石ころのようにそこら辺りに転がるように展示してあります。驚きを隠せません。

 国宝が3点、国重文39(複製2)をはじめ美術品が100個ばかり並んでいま。大変珍しい、吉備の国に関係のあるものばかりでした。

 博物館に入って、まず、目に入るのが、ガラスケースに入った「突線流水文銅鐸」とその隣にあ「貨泉」です。我が町吉備津のお隣にある津寺・高塚遺跡からの出土品です。

 場内は、写真撮影禁止ですので、別の資料から撮ってきたこの流水文の図を見てください。
                  
 こんな紋様が付いたとても美しい銅鐸です。当然、これも国の重要文化財に指定されています。うっとりとその流れるような流水紋を暫らく眺めます。6列の紋様の付いたとても素敵な銅鐸でした。
 なお、私は、この銅鐸を最初に見つけた人のお話を聞いたことがあります。その人の話では、ジョレンか何かで土を取り除いていた時の事だそうです。すると、突然、なにか「カッチ」と音がしたと言うのです。よく見ると、そこに石か何か分からない何かが少しだけ土の中から覗いているものがあったのだそうです。大急ぎで、発掘調査員の先生に報告します。それが、この貴重な銅鐸を見つけた一番最初の出来事だったと言うのです。だから、この銅鐸をよくよく見ると、銅鐸の縁に出ている突起物の一つがやや壊れて小さくなっているのが見られます。それは、その時の発掘員がジョレンで引っかけて毀した跡なのだそうです。その小さな欠けた部分を見ると、その発見時の、その場にいた多くの人たちの、悲喜交々な想いが交差して伝わってくるようにも思えました。

 こんな想いの詰まった銅鐸の次のケースに納まったいるのが、「貨泉」です。
  

 これもこの銅鐸からわずか50mほど離れた所から25枚も見つかりました。この貨幣は中国の前漢を亡ぼした王奔と言う人が打ち立てた「新」と云う国の貨幣です。AD14~40年の間というごく短い期間に使われた貨幣です。こんなものが我が町近くから出土したのです。驚きです。どのような経過をたどったのか分かればいいのですが? 「弥生」と云う限られた日本と云う狭い地域に、もう、汎世界の歴史が入り込んでいたのです。
 ある学者の話ですと、「新」という国から日本に亡命してきた人たちが持っていたのではないかと考えられているそうです。吉備の国では弥生時代から多くの外国人が渡来して来ていた土地です。当然、新の国からやって来たと推測されても当然です。でも、当時の社会、弥生式時代です。この時代は、未だ、日本では貨幣を用いる程の高度な経済活動はなされていなかったはずです。まだ、物々交換の弥生の世界です。だから、当然、その当時の日本では貨幣なんて必要はありません。そこで考えられたのが、この新の国から持ち込んだ大量の「貨泉」は、本来の使用目的より違った、銅鐸を造るための原材料として用いられた可能性が大であるというのです。念の為ですが、最初に日本で貨幣が鋳造されたのは701年の和同開珎が最初でした。この貨泉の時代は、それよりも700年も前の話です。それを頭に入れてご覧頂くといいのですが。

 吉備の津であったこの土地で繁栄していた人々が、何のためにか、また、如何してかは、分からないのですが、とにかく、この「銅鐸」を何らかの方法で作って、その後、これも、どうしてかわ分からないのですが、土の中に意図的に埋めておいたのです。それが、偶然に、2000年の時間を経た1997年頃発見されたのです。
 この銅鐸を見ると、知らず知らず2000年も昔の世界に誘ってくれます。

 そんな古代吉備のロマンを、一度、是非ご覧ください。

 

「常山紀談」談義も終焉になりました

2010-10-28 19:51:25 | Weblog
6月の初め頃より始めました湯浅常山の著した「常山紀談」に付いてのブログも、なんだかんだと言いながら半年近くなりました。この人の書いたものを総てご紹介するとなると1、2年はかかるでしょう。この紀段だけでも500編近い近世の武将たちを取り上げています。
 私は、その中、岡山といいましょうか吉備地方に関する記事だけを集めて6月からご紹介してきましたが、いよいよこれが最後となります。
 

 終わりと言えば、どうしても、彼が、そうです常山がです、近世の人物伝の中で、最も尊敬しただろう人の逸話をご紹介して終わらなくてはならないように思われます。


 彼が、日本のそれまでの歴史上の人物の中で最も尊敬した近世の人物とは誰だと思われますか。

 確かに、信長も秀吉も家康も偉大な人物として崇め立て祀ってはいるのですが、やはり一番の歴史的人物としては、彼の頭の中には、彼の禄をはぐくんでいた備前岡山藩主の初代藩主光政侯ではなかったかと思われます。

 その光政侯に付いての記述は、次に取り上げますたった一項目に過ぎませんが、私には、この「常山紀談」を読んでみて、なんだか、そんな感じが何となくするのですが????。

                         

 これは光政の肖像画ですが、その眼付きの鋭さは他の者を圧倒する力強さを物語っているように思われます。こんなものにも常山は、男として、また人間としても魅力に大いに惚れていたのではないかと思われます

中原浩太のレゴトレインⅡ

2010-10-27 20:15:02 | Weblog
 一応、渡辺数馬と荒木又右衛門の鍵屋の辻での仇打ち話は之にて終わりにします。なお、この湯浅常山の著した「武将感状記」と云う本には。この「常山紀談」に書いてある内容のものより、もう少し詳しく「渡辺数馬弟の敵を討つ事」と云う題で、この事件に付いて述べていますが、内容はそんなには違わないので、あまりくどくどしくなりますので、一応ここら辺りで終わりとしたいと思います。

 さて、今日、友人から、「今、岡山美術館で開かれている『岡山・美の回廊』で、中原浩太のレゴトレインという彫刻が展示してあるのを知っているか」と手紙をもらいました。23日の山陽新聞に、その作品と作品解説が載っているから見てみろという催促です。早速、23日の新聞を引っ張り出します。すると、紙面に

 「・・・美術の表現や形式、そして領域そのものを問う独創的な作風で脚光を浴びる・・・」
 と、解説がしてありました。


                

 本来、やれ芸術だ、いや美術だとかいう類のものは、私にとって、なかなかの堅物なものなのですが、更に、その上に「現代」と云う言葉がひっつくと、余計に難解な壁として大きく私の前に立ちはだかり、容易に分かるものではありません。でも、この新聞記事を参考にしながら、中原作品をよく見ると、そう言われると何となく物事の本質までを見透かした独創性のある作風で、それ自体が芸術的な面白そうな表現であるのかもしれませんが、「それっていい物ですか」と云うと、どうもそうではないようにも私には思われるのです。
 「一体芸術って何でしょうかね。」と、改めて自問して見ると、なんだか、突然に、頭の中が真っ暗にこんがらかって、何がなんだかさっぱり分からないような不思議な感覚に襲われるような思いがします。
 作者には、誠に相済まないとは思うのですが、
 「現代美術とは、何でしょうか。それがあなたの追及した真の人の心象でしょうか」
 と、尋ねてみたいのですが。

 なお、この中原浩太氏は、私の友人中原二郎二氏のご子息で、長尾小学校、玉島北中学校、天城高校出身の、1961年生まれの将来を嘱望されている新進気鋭の芸術家なのです。

 どうぞ11月7日までこの展覧会は開かれています。まだのお方は一度見に出かけてはいかがでしょうか?????ぜひ中原氏の作品をご覧になりご批評いただければと思います。宜しくお願いします。

渡辺数馬報讐始末の事 16

2010-10-25 18:03:30 | Weblog
 この数馬達の移送については、京の伏見から、淀川を経由して、浪速から播州坂越まで瀬戸内海の船旅でした。その船は備前岡山藩主池田光政は用意しますが、当時播州山崎藩主であった池田輝政の四男松平輝澄の方からも警護の船を出し、その数は大小三〇艘にも及び、一大船団を組んでの船旅だったのです。
 この坂越からは、陸路鳥取までの旅になります。その途中の草深い所にはその土地土地の侍たちも出て、草などを刈って見晴らしを良くして、高い山の頂上に見張りの者を置いて厳重に辺りを監視していたのです。その上、夜は宿に篝火を焚かせて警護していたのです。坂越から鳥取まで三泊を要したそうです。

 その時、数馬は二七歳、又右衛門は三十歳だったそうです。
 
 鳥取へ来てからの、此の二人は、どのような生活をしていたかは、この常山紀談の中には書かれてはいませんが、別の記録によりますと、鳥取藩主池田光仲は又右衛門と数馬に禄として千石を与え、その後も、厳重な警護も元に置かれ、当分の間、勝手に外出などできなかったと言われています。

 寛永と云う時代に、天下にその人ありと謳われ、剣豪としてあがめられた荒木又右衛門と云う一大英雄は、その名の大きさに比べて、それ以後の生涯は、案外に、寂しくはかない人生ではなかったかと想像できます。剣術指南をして華々しく活躍するとか、宮本武蔵みたいに絵を描くとか、そんなんこともなく、何もその後の偉大さを物語る足跡を残すことなく、平凡に三十九歳の若さで、病を得て、亡くなってしまったようです。

                   
 これが又右衛門のお墓です。
 鳥取市にある玄忠寺というお寺に葬られています。なお、そのお寺の記録ですと、荒木又右衛門は39歳歳で死んおり、この記録が正しいなら、鳥取では9年間暮らしたことになります。当然、彼の妻も此の鳥取に来たはずですが、どうなったかは定かではありません。
 また、義弟数馬の墓は、又右衛門とは別に、藩主光仲の菩提寺である興禅寺にあると言う事です。どうして、又右衛門と同じ寺にないのかも不思議ですが、歴史は何も語ってはくれませんが、この数馬も35歳で生涯を終わっています。

渡辺数馬報讐始末の事 15

2010-10-24 09:22:45 | Weblog
 伊賀の上野から、京の伏見にある因幡の屋敷に送られた数馬達ですが、たった100kmもない道のりに100名近い警護を付けたのです。改めてその物々しさが伺われます。
 さて、数馬達を伏見で受けたった因幡藩は、そのメンツからも、どのようにしてでも無事に二人を鳥取まで迎え入れなくてはなりません。その為の警護対策に、先の藤堂藩と同じような万全の体制を整えて迎え入れています。寛永16年8月の、日本における最も高い感心事ではなかったのでしょうか。
 その警護は、因幡の士横川治太夫親子鉄砲20挺、渡辺越中鉄砲20挺、伊吹源太兵衛親子鉄砲30挺、宮脇兵太左衛門弓10張、伊賀の者5人、片上弥二兵衛親子鉄砲20挺、松尾惣左衛門親子伊賀の者6人、福田横兵衛歩行(かち)の士20人、宮脇徳兵衛田中六郎右衛門その他弓の者20人が付いて因州に向ったのです。
 鉄砲が90挺、弓10張、忍者11人、その他警護の士が40人など、6、70人ぐらいの武士によって守られながら鳥取まで行っています。

これ又相当数の人数の警備であったことはお分かり頂けたと思います。さらに伏見からは陸路でなく川船で下り、瀬戸内海では岡山藩主池田光政侯のお船を使って、播州坂越に着いたのです。

 なお、此の坂越という街は現在赤穂市になっていますが、江戸時代には、尾道、牛窓の港と同じように、内海航路の中継地として廻船業で栄えた街です。その面影が現在でも、わずかに残っています。

    

渡辺数馬報讐始末の事 14

2010-10-23 09:32:30 | Weblog
 寛永15年8月の事です。渡辺数馬と荒木又右衛門は藤堂家の保護を離れてから、因幡の国主松平光仲の家臣になり、その居を伊賀の上野から因幡の鳥取に移すことになり、その地に赴く事になります。その時の此の二人を鳥取まで送る時の様子が、「常山紀段」には、詳しく載せられ、次のように記してあります。

 「藤堂藩より弓五張組の騎士二〇人、騎士五人、その他母衣(ほろ)の者組の騎士四〇人。彦坂嘉兵衛からは鉄砲頭三人と鉄砲九〇挺、弓頭二人と弓四〇張、田中源兵衛から歩行(かち)の士二〇人を付けて、伏見にある因幡藩の屋敷まで送らせます」

 物々しい警戒の元に、藤堂藩では、此の二人を送り出しています。此処に記録されている人数だけでも90人もの大部隊の警護です。その上、鉄砲や弓までも準備してです。
 と云う事は、ここまで来ると、旗本たちの怒りは、「渡辺数馬にくし」と言う、たった一人の人物に対する憎しみ等はとうの昔に消えさり、その怒りのはけ口が、数馬の後ろにいる藤堂藩と云う大名とその藤堂藩を陰ながら支え応援しているに外様大名に向けられていたと言う事は想像がつきます。言い換えますと、江戸にいる旗本たちは、それまでに持っていた数馬、又右衛門と云う個人的な敵愾心みたいなものは次第に薄らいでしまって、その名前だけが彼らの心の中依然として生きていて、その二人を助けた背後にある「外様大名」と云う強烈なビッグネームに、新しい敵愾心を移していったのではないでしょうか。そうすることが、その時代ややもすると落ち目勝ちになっていた旗本と云う自分たちの名を高めるために、より効果あらしめるに価する力になると考えたのではないでしょうか。
 そんなかたちで、お互いの面子が真正面から激突していたのです。それだけ当時の社会が、元禄と云う時代から、なにもこれと云った大事件もなくて、平和な時代であった証拠でもあったのだろうと思われます。そのような心は大名にもあったことは確かです。平生小生意気な肩で風切るような大柄な態度に多くの外様大名たちも相当頭に来ていた事で当ろうとは想像がつきます。だからこそ、藤堂家でも必死になってその対策を講じたのだろうと思います。大名たちも側面的な助けをしていたのは確かなことです。
 この外様大名対旗本の対立はそれ以前からあったことは確かですが、鍵屋の辻の後まで継続されていたという事実は、その後、作られた此の仇打ちの読本や講談の中には、決して、出てこない、これもまた歴史的事実だったのです。

 こんなことが言いたくて、常山と云うお人は、こんな細かな数字を引き出してきたりしていたのではないでしょうか。
 それにしても、こんな数字まで、よくぞ調べたものだなと、感心することしきりです。
 

渡辺数馬報讐始末の事 13

2010-10-22 19:35:39 | Weblog
 渡辺数馬の仇打ち事件も最終に近づいてきました。昨日も書いたのですが、確たる証拠はなかったのですが。安藤某を接点にして、ここは、おいらの塒よろしく自由気ままに、「そこ除け、そこ除け」と、新興の江戸市中を闊歩していた旗本達にとっては、この事件は、どうにも腹の虫が収まらないことのように思えたのです。「旗本八万騎」として、うぬぼれもいいことに、尾張辺りのど田舎出の癖に、俄に将軍の親衛隊になったものですから、鼻高々の、成り上り者である事も忘れての傲慢ちきな態度で威張り散らして暮らしていたのです。
 「よくも俺たち旗本の面子を汚しおったな」
と、云う怒りが最高潮に達します。
 それに対して、此の鍵屋の辻の仇打ち事件を知った、世間の目、いや江戸市民たちの目には、あの小憎たらしい傲慢ちきな旗本たちが援助していた者たちが、悉く切り殺されるということは、誠に、何と云う小気味のいい事件として映ったのではないでしょうか。
 「ざまあみろ、旗本たちよ。お前たちが思うような世の中になってたまるもんか。いい気味だ」
 と、胸を撫で下ろすような痛快な事件でであったことは疑いない事だと思われます。それが、たった3人斬っただけの荒木又右衛門に、36人もの人を切り殺したと言う噂にまでに広がる原因になったのではないかと思われます。
 此の話は、どこか、あの幡隋院長兵衛の話にも通じるところがあります。

 この数馬、又右衛門に対しての、この旗本達は腹の煮えくりかえるばかりに不愉快なことであった事には間違いありません。
 「此の二人を生かしておいては、我々旗本のメンツが丸つぶれだどうにかして二人の命を」
 と、相当な不穏な動きがあったのでしょう。
 彼らの仕返しに、どうも数馬たちの身の安全を保証しかねる思いが、藤堂家やそれを助けていた池田家などの外様大名の中にあったことは間違いありません。そこで、この旗本たちに対抗する手段を講じます。そこら辺りの事情は、詳しくは常山は書いてはないのですが、此の二人の身のより安全を考えたのでしょうか、最初、数馬たちは藤堂藩の支配の元にあったのですが、急遽、鳥取の松平勝五郎光仲の元に預けることになり、二人を鳥取に移す事に決まります。
 なお、この松平光仲と云うお人は、最初は。備前岡山藩主でしたが、藩主になった時はわずか3歳の時でした。山陽道の要所たる岡山を統治するには、あまりにも幼な過ぎるという理由で、その時、鳥取藩主であった従兄弟の池田光政と替っって鳥取に入城したと云ういきさつがあります。

 数馬は、もともと、この光仲の時に岡山に遣って来た人です。そんな関係から鳥取藩に身を預け、その身の安全を確保し、外様大名としての、これ又、メンツを保とうと考えたのです。それくらい、初期の江戸に於いては、悉く、外様大名と旗本たちは対立していたのだそうです。仲が悪かったのです。

 なお、蛇足ですが、此の池田光政の妻があの家光の姉千姫の一人娘勝姫で、その子が後楽園などを造った池田綱政です。そんな関係で幕府も、幾分は数馬達を支援していたような形跡が残っているようです。

渡辺数馬報讐始末の事 12

2010-10-21 09:03:49 | Weblog
 此の鍵屋の辻の決闘で、又五郎と甚兵衛はその場で死んでおります。また、半兵衛も息はしばらくしていたのですが、やがてこれも程なく息絶えています。一方、数馬はといいますと、13ケ所も手負い、又右衛門の弟子である武右衛門は傷を負い、その夜になって死んでおります。孫右衛門は10ケ所手負いますが、命に別条はなかったのです。荒木又右衛門は流石に強く傷一つ負ってはいません。

 この戦いが済んで、渡辺数馬・荒木又右衛門・孫右衛門は数馬の親類の彦坂嘉兵衛方に引き取られたのですが、その後、そのまま藤堂家に仕えています。それがこの戦いが行われた4年後の寛永15年の事です。講談等では、此の鍵屋の辻での決闘で、話はめでたしめでたしで終わっているのですが、続き話が「常山紀段」には書かれています。それは、どうも、はっきりとはしていないのですが、河合又五郎をかばった安藤某等旗本連中には気に入らなくて、密かに機会あらば、数馬や又衛門の命を狙っていた形跡が見られるのです。

渡辺数馬報讐始末の事 11

2010-10-20 18:53:43 | Weblog
 「数馬よくせよ。助太刀はすまじきぞ。かなひがたくはかわらん」
 と、荒木又衛門は言葉を掛けます。
 それが継起となって、数馬は宿敵又五郎を討ち果たしております。

 この鍵屋の辻の決闘は、誰も知らない又衛門一行と又五郎一行の戦いであったかのように思われていたのですが、実はそうではなかったのです。あらかじめその日の朝、そうです。寛永11年11月7日の朝です。そこでこの決闘を見ていた者がいたのです。数馬の親類で藤堂高次の士彦坂嘉兵衛と云う者が傍で見ていました。更に、多くの藤堂家の者がその場にいて、この決闘を見ていたと言うのです。

 これも推測の域を出ないのですが、荒木又衛門は、あらかじめ、此の鍵屋の辻で仇打ちをするという事をこの彦崎に知らせていたのではないでしょうか。だからこそ、藤堂藩でも、密かにそ、此の両家の仇打ちの様子を探るべく、どのくらいに人数であったかは「常山紀談」には書いてないのですが、『上野の士あまた集まり』と記しています。

 どうも、この戦いも、又、例の大名と旗本の対立の一つであったと云われています。
 特に、数馬は岡山藩士であり、片や、河合又五郎は旗本とつながりがあり、初めからその援助を得ていました。そんな関係で、藤堂家では、「旗本にくし」と云うそれまでのいきさつから、岡山藩士である渡辺数馬に、偉く肩入れして、又五郎についての情報を流していたのは間違いありませんが、その辺の事情は常山は何も書いてはいません。この戦いは公平でないと思っていたのかもしれません。
 又、彦崎嘉兵衛なる人物が、数馬の親類であったのだそうですが、そんなことが偶然にあったとしても、やはり、この戦いは、初めから数馬に有利に展開していたと思われます。そこら辺りの事を考え、常山は、又五郎の方にも、ある程度同情していたように思えるのですが?????

渡辺数馬報讐始末の事 10

2010-10-19 17:44:45 | Weblog
 桜井半兵衛は従者の持つ己の槍をなかなか受け取れないので、まず、馬から降りようとします。そこに、又衛門の弟子武右衛門が一太刀切りつけたのですが、浅さ手でおり立ちます。数馬の従者孫右衛門も、これがこの世の最後の如くに戦います。そこへ荒木又衛門は敵方の者を押しのける様にして駆け来て、半兵衛と相対いします。暫らく、此の二人は渡りあったのですが、終に、又衛門が半兵衛を斬り伏せたのです。此の時の戦いで、又衛門の刀は折れます。その刀は伊賀守金道が鍛えた技物だったそうです。
 
 何処からこのような資料を集めたかは分からないのですが、相当広い範囲から、当時の資料を細かく調べなければ分からはずです。 何処から探したかわ分かりませんが、よくも捜したものだと、感心します。その元になった物が、どこかにあったのだろうと思われます。伊賀上野に資料館でもあって、現在、そこにそんな資料でも並べてあれば見に行こうと思うのですが、どなたかご存じのお方はおられないでしょうか。知っているなら教えていただきたいと思います。

 さて、数馬は又衛門が打ち合わせた通りに、又五郎と渡り合っています。又衛門は、甚左衛門と半兵衛を打倒してから、此の二人の戦いの場に駆け付けます。そして、二人の戦いの周りにいた又五郎を助太刀しようと集まっていた従者を、その場から追い払います。と、云うより、甚左衛門などが切り倒されたのを見て、てんでに逃げ散ったと言うのが正しいように思われます。映画などからはそんなシーンが映し出されています。
 そして、又衛門は、戦っている数馬に声かけをします

 「数馬、よく戦え。助太刀はしないぞ。若し、どうしても又五郎が、お前の手に負えないようであれば、変わってやるが、どうじゃ」
 と。
 その声をどう受け止めたのかは分かりませんが、受けた数馬は、果敢に飛び込んで、弟源太夫の仇又五郎を討ち果たします。
 
 此の時、この常山は書いてはないのですが、二人が戦った時間は、本当がどうかは知りませんが。4時間にも及んだと言い伝えられているそうです。講談なんかからも、よく聞こえてきます。あの50歳近い「伊達君子」が戦ったテニスでさえ、それくらいな時間が必要だと言う事を聞き、1対1の戦いです。4時間と云う時間は、そんなにも生死を分けた決闘の時間とすれば、むしろ普通だったのかもしれません。それぐらいは必要だったのかもしれません。
 でも、此の二人に取っては、ものすごい緊張の連続だったはずです。その緊張を、一瞬に、打ち破るような味方の声援を、数馬は受けます。勇気百倍になる事請け合いです。一方又五郎にすれば、既に、自分を守ってくれるはずの叔父たちも又衛門に切り殺されています。その時の数馬の気力は、自分の持つ力を幾倍にも増すはずです。が、又五郎の方と云えば、どうしようもない程気力は消沈していたことは否めなめません。ここで勝敗は決まったも同然です。此の二人の気力の相違が歴然としています。
 そんな状況下の数馬の勝利ではなかったかと思われます。どちらは強かったかと云うのではなく、心の相違が勝敗を分けたのだと思われます。

 そんなことを常山は訴えていたのではないでしょうか。又五郎に対しても少々の同情を持ってこの物語を見ていたのではないでしょうか。ご批判を頂ければ。
 

 

渡辺数馬報讐始末の事 9

2010-10-18 09:56:43 | Weblog
 この戦いが、伊賀上野鍵屋の辻で決闘です。「荒木又衛門36人切り」で、有名な日本3代仇打ちの一つです。実際は又衛門が切ったのは又五郎の叔父河合甚左衛門と桜井半兵衛の2人です。

 10月7日朝です。何時かと云う事までの常山の記述はありません。上野鍵屋の辻に河合又五郎の一行が差しかかります。その一行を待ちうけていたのが」荒木又衛門達4名で、方や、又五郎一行は総勢11人だったそうです。4対11の戦いだったのです。

 まず、真っ先に声かけし切り込んで行ったのは荒木又衛門です。一説によりますと
 「いかに甚左衛門 日此のどうたぬき見ん」
 と声かけして、馬に乗っていた甚左衛門を一刀の元に切り捨てたと言い伝えられているのだそうです。この「どうたぬき」と云う言葉の意味は不明ですが、現代語にしますと「そこにいくぶたやろう」ぐらいの、相手をののしる言葉ではにかと想像しています。
 なお、この河合甚左衛門は、郡山で藩士の剣術師範をしていた程の腕の持ち主なのです。それが又衛門に、乗っていた馬から切り落とされたのです。どのようになったのか想像もつかないような光景だったと思います。馬から落ちた甚左衛門は、とっさに刀を抜きかけたのですが、その前に又衛門の下ろした2刀目で合えなく切り殺されています。
 一方、妹婿の半兵衛に対して向ったのが従者の武衛門と孫右衛門の2人です。この桜井半兵衛は槍が上手と聞こえていたので、半兵衛の従者が持っている槍を取られないように防ぎます。
 

渡辺数馬報讐始末の事 8

2010-10-17 15:00:11 | Weblog
 さて、荒木又衛門の「けふを限りと思ふけしきあらはれ」た、その夜も明けいよいよ決闘の十月七日の朝になります。又五郎一行は島が原を出て上野に向います。
それを迎える渡辺数馬や荒木又衛門達は決めていました。
 数馬は仇河合又五郎を、甚左衛門は又衛門が、また、又五郎の妹婿桜井半兵衛には又衛門の若党武右衛門と数馬の若党孫右衛の両人が立ち向かう事に決めておりました。
 いよいよ又五郎一行が又衛門たちのいる所に近ずいて来ます。

 ここら辺りの事がどうも私にはよく理解できないのですが。その前の日に、又五郎一行は、数馬や荒木又衛門が仇打ちするために、伊賀上野辺りに待ち伏せして居ると言う情報は掴んでいたはずなのですが、河合又五郎達の一行が、それでも上野に近づいて来るのです。

宮本武蔵の枯木鳴鵙図

2010-10-16 07:43:58 | Weblog
 飯亭寶泥氏こと「筆敬」氏から、しさしぶりにメールを頂きました。

 彼は言うのです。
 「荒木又衛門のこたあ ようわかった。でもなー、おめえも、もうちいたー考えんといけんど」
 と、例の痛烈批判です。
 それによりますと、荒木又衛門のことでなく、序でにと思って少しばかり筆を滑らせた宮本武蔵の絵に付いてです。
 昨日、私が書いた「何ものをも圧倒するような凛とした圧迫感が感じられる」絵として、彼の自画像を載せたのですが、彼は、それがどうもお気に召さないようなのです。

 「あの絵からも武蔵の気迫は、そりゃあ感じられるとは思うんじゃがなー。だけど、よう考えてみにゃあいけんど。より高けえどうしようもねえような人間の刹那さと云うたらええんか。又衛門が『けふを限りと思うけしき』と思うた心にちけえのは、おめえがあげた『自画像』よりゃあ、『枯木鳴鵙図』だ。このほうがよけえに、どうしようもねえ、己の高ぶる心を抑えようとしても抑えられん心が素直に描き出されておるんじゃ。将に、静中に動そのものの絵だ。武蔵の心のままの絵だ。どうじゃ。」
 と云われるのです。
 
その絵を載せておきます。比べて見ていただければ幸いです。

                         

 さて、みなさんはどちらに軍配をあげられますか。

 蛇足ですが、武蔵の『二天』と云う号の由来については、どう思われますか。私は天と云うのは、人の心にある世界だと思います。要するに、常に平常心となろうとする心と、それに相反するどうしようもなく自らを高ぶらせてしまう昂揚心、その二つの心が入り混じったのが人なのでと云うことから武蔵は「二天」と号したのではないかと、ふと、思ったのですが。此の絵からは、むしろ、その静と動の二天が色濃く伺われませんか。
 さて、筆敬さんの反応は如何に????。皆さんはどう思われますか


 なお、この絵も「岡山・美の回廊」に、現在、自画像と共に展示されてあります。念のために。