私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

造山古墳

2011-02-28 20:36:29 | Weblog

 春の一日を満喫して、伝黒日売塚(こうもり塚)を後にして吉備津に車を走らせました。途中、「造山古墳へ」という道標がありましたので、ポカポカ陽気の天気にも誘われて道を横にとって日本第4位の大きさを誇る古墳を訪ねました。
 ここが「造山古墳」の全貌を見るのに一番適した場所だという地元の人に案内して頂いて少々歩を進めました。その写真をどうぞ。

          

 ここから、この日本第4位の古墳を見ていますと、またまた、私のへんてこりんなものが頭の中に何やら浮かび出て来ます。

 吉備の山方で、黒日売と菘菜と摘まれて「多怒斯久母阿流迦」と歌われ、吉備の国での生活に満足された仁徳天皇は、酒津に上陸され、この山方に来られる途中で、全長350mもあるこの造山古墳が目に入らなかったという事はないと思います。きっと見たに違いありません。
 「この造山古墳に葬られた人は誰か」という事は、昔から論争になってはいますが、未だ、はっきりとそれが誰だかという事は分かっていますん。しかし、私は、仁徳の父「応神天皇」が、又吉備に行幸された時に饗応した兄媛の兄、御友別だと考えています。
 するとです。仁徳天皇が、この吉備で見られた御友別の陵墓と比べて、日本の大王である御自分の墓は、これよりももっと大きいものでなくてはと思われたことは間違いありません。そこで、486mもあるあの伝仁徳陵を造ったのではないでしょうか。
 なお、黒日売と御友別との関係についても、なに一つ分かってはいません。古事記と日本書紀にそれぞれにある日本の正史の一つに過ぎません。
 また、伝応神天皇陵も422mありますが、その辺りの事は何一つ明らかにはなっていません。総て憶測で語られているに過ぎません。だから、私だって大胆な仮説を立ててもよいのではと思って、敢て、こんな説を思い付いたのです。 

 まあ、それはそうとしてです。吉備のど真ん中って、こんな素晴らしいものがいっぱい散らばっていますよ。これこそ吉備路の宝なのです。是非一度お訪ね下さい。


くろひめ塚の周りを散策しては

2011-02-27 10:05:25 | Weblog

 地図を広げて見て分かったのですが、くろひめ塚・国分寺・国分尼寺辺り一帯は、旧山手村「宿」と呼ばれているのだそうです。どうしてこの地域が「宿」なのでしょうか?。この辺り一帯を散策していると、そんな気ががしてきました。そこら辺りの人にそのいわれについて2,3人に尋ねてみたのですが、みんな口をそろえたように
 「そげんなこたあしらんでー」
 と、けんもほろろです。

 こうもり塚の石室に入って写真を撮り、さらに、古墳の上にまで歩を進めます。古事記にある黒日売と仁徳天皇の話を思いながら、ぐるりひと回り、辺りの景色を写真機の中に取り込みます。そして、そこからおりて、この古墳の周りもぐるっと廻りました。その道の左右の畑には、多分、観光用だと思われるのですが「菜の花」がたくさん植えてあります。あの「山縣に蒔ける菘菜も 吉備人と・・・・」と歌った仁徳天皇の心を慮って植えているのかもしれないと思いながら、そこから国分寺の五重塔の風景を写真に収めます。その時、何とはなしに、ひょっとして、という思いが浮かんできました。
 それは、仁徳天皇の吉備に滞在なさったた時に作られた仮の御所、そうです。お宿があの辺りにあったのではないかと思えたのです。そんなことがあるもんかと、お笑いになるかもしれませんが、敢て、書いてみます。そのお泊りりになった所という意味で「御宿」。それが、いつのまにかに「宿」になったのではと思いついたのです。そこに、8世紀になって、国分寺が建てられたのかなとも。

 そんなんことはどうでもいいのですが。これから春本番です。この辺り一帯を、のんびりと散策するのはいかがなものでしょうか。何となく心をのどこかにする「まほろば」的な気分に誘ってくれます。私のお勧めする吉備路の真髄です。ぜひ、お尋ねして下さい。


黒姫のお墓?

2011-02-26 10:39:33 | Weblog

 仁徳天皇と黒日売との悲恋について累々と綴づてきましたが、そのヒロイン黒日売のお墓だと言い伝えられている古墳について、司馬江漢の「画図西遊譚」に説明が出ています。                  

                           

 その説明には
 「十五六間ばかり山に登れば穴あり。二間ほど内に入りて八間四方天井石一枚にて、其の左右も一枚なり。穴の高さ七八尺。是より国分寺五町あり」と、あります。

 そこで、早速、この黒姫塚だと言い伝えられている山手の国分寺のすぐ傍にある古墳に行って写真を写してまいりましたので、下の写真と見比べながら読んで下さい。

   

 江漢先生のお書きになった図や説明よりもやや違ってはいますが、旅行記なんてものは、芭蕉の奥の細道でもそうですが、大体にして大まかな描写が普通なのではないでしょうか。前の造山古墳でもそうです。

 そんなんことは兎も角も、まあ、この古墳は、説明板によりますと、6世紀後半に作られたものだそうです。それに対して、黒日売の生きた時代は、5世紀の中ごろ(古事記)だと言われていますから、この古墳が作られた時代と黒姫の生きた時代とは、大体100年~150年位の差異があります。(王代一覧より)
 そんなことが原因になっているのでしょうか、この古墳に付けられていた「黒姫塚」という名は、何時しか消えてしまって、現在は、一般には、「こうもり塚」と呼ばれています。山手案内の為の道標板にも「こうもり」という字があちらにもことらにも見ることが出来ます。

               

 

 

 


黒日売との別れ

2011-02-25 10:14:42 | Weblog

 二人の間には、いよいよ別れの時が訪れます。天皇は、酒津の港から倭へ向かう西風を利用して船出していかれます。その出船を見送りながら詠んだ黒日売の歌です。

 ● 「倭辺に 西風吹き上げて 雲離れ 退り居りとも 我忘れめや」
 「退り居りとも」。これを本文では「曾岐袁理登母」<ソキオリトモ>と、書いています。離れ遠ざかるという意味だそうです。

 ● 「倭辺に 行くは誰が夫 隠水の下よ延へつつ 行くは誰が夫」。
 「下よ延へつつ」を「志多用波閇都々」<したよはへつつ>で、「忍ぶようにして」という意味です。倭に帰って行かれる天皇に対して「誰が夫」とはどうしてでしょうか。また、忍ぶようにして帰られたのはどうしてでしょうか。なお、「用」は「由」で、「従」という意味です。なお、この<したよはへ>を、下品に、「下婚」<シタヨバヒ>の意味として捉えた人もいるとかや???

 この2首には、どう見ても、恋しいお方と別れなければならない悲しみみたいものは何も感じられません。黒日売にとっては、厄介払いが出来て、何か清々した気分になっているように思わるのですが、私だけでしょうか???よほど大后の妬みが恐ろしかったという事を強調したのかもしれませんが。それとも、此の生まれ故郷の山方がよほど気に入ったのかもしれません。この地から、二度と離れたくなかったという思いがあったのでしょうかね。そうでなかったなら「誰が夫」なんて言葉は使いっこないと思うのですが。

 なお、この歌の意味を、宣長は
 「倭辺にお急いでお帰りになって行く天皇に対して、あわれと思う意味が含まれており、いとど別れ奉る情(こころ)深い」
 と、書いています。

 私は、以前にも、このブログに「黒日売」について書いています。それを読み返してみると、今日、書いた黒日売のものより幾分違った意味に捉えて書いています。浅才を嘆かずにはおれません。


黒日売と仁徳天皇の別れ

2011-02-24 10:45:07 | Weblog

 仁徳帝が吉備の山方に行幸されて、その山縣に黒日売と一緒に青菜を摘まれます。その時の歌に

  「岐備比登登 等母邇斯 都米婆 多怒斯久母阿流迦」、これを<キビヒトト トモニシ ツメバ タヌシクモアルカ>と読ませています。
 天皇のこの歌を、もし、あの石之日売命が、お聞きになったらどう思われたのでしょうか。でも、この地には、その大后はおいでにはなられません。それ幸いとお二人とも、この吉備での生活を随分と楽しんだ事であろうと想像できます。
 「何と楽しい事であることよ。こんに楽しい事は、いまだかって経験がない」とまで、仁徳帝は言われるのです。「多怒斯久母」・「阿流迦」です。
 <母>「も」という字に、随分と、勢いを感じさせられますよね。その前にある『等母邇斯』の<母>と、一緒に考えてみても、そんな感じがしますが。

 そんな時、難波の高津宮に居られた大后は歌われます???

 「君が行き け長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」(万葉集に)

 と。
 
 「淡路に行くと言って出られたままになっています。一体、どこを、我が背子は、ほっつき歩いているのでしょうか。どうせ吉備辺りに腰を落ち着けてうつつを抜かして居るのでしょう。本当に、しょうもない我が夫であることよ。吉備に行って、その首を縄でもひっくくって連れて帰ってこようかしら。心配で仕方ありません。でも、そんな事をしたら、みんながどう言って私の事を攻めるか分かったものではありません。そんなことになるのもいやだし、寂しさを我慢して、ここで、お帰りになるまでお待ちしていた方がいいのかしら。どっちにしたらいいでしょうかね。」と、<アシモアガガニネタマイキ>ではなかったのでしょうか。

 こんな解釈が成り立つと思うのです。

 その天皇は「たのしくもあるか」です。そんな心配で心配でたまらなかった皇后の気持ちなんか知る由もなく、難波の宮に帰る気なんかこれっぽっちも起こらなかったのとちがいますか。

 でも、何時までもと、いうわけには行きません。天皇としての政務があります。やはり難波宮にお帰りになる時が来ました。少なくとの半年ぐらいはこの吉備に居られたのではないでしょうか。皇后の「け長く」というのがどのくらい長さを指しているのかは分かりませんが、多分、その「け」という言葉から受ける数字的な感じとしては、半年か、それとも、もう少し長く1年ぐらいを意味しているのではないでしょうか。

 なお、「黒日売」には「命」がついていません。という事は「妃」にまではならないで、あくまでも天皇の恋人として一生を終えたのではないでしょうか。これも例の蛇足ですが。

 いよいよ天皇が此の愛しい黒日売と別れて、難波に帰る時が来ます。その時に詠んだ黒日売の歌が2首「古事記」には出ています。

 「倭辺に 西風吹き上げて 雲離れ 退り居りとも 我忘れめや」と「倭辺に 行くは誰が夫 隠水の下よ延へつつ 行くは誰が夫」です。


天下の奇祭;西大寺の会陽

2011-02-20 18:15:14 | Weblog

 天下の奇祭「はだか祭り」、西大寺の会陽見学に行ってきました。
 それこそ裸の男たちの祭りです。この男たちが何処からともなく観音院めがけて集結します。それらの裸の男たちは、一組二組と雪だるまのような大きな群れになって、神木を争奪する前兆戦を、町中にくりひろげるのです。それは、何でこの寒空に、と思われるのですが、それこそ寒さなんか吹っ飛べとばかりに、「わっしょいわっしょい」の掛け声と上げながらと、ひたすら駆けり通り過ぎるだけです。そこには何の思惑も無く、人間の存在さえも嘲笑くが如くにただ走るだけの姿があるだけです。

         

 町中を走りぬけた、これらの男たちは、やがて、観音院本堂前へと集結します。そして、よいよ九千人の裸の若者が繰り広げる神木の争奪戦へと、見学者をも含めて、観音院境内全体を興奮の渦の中に巻き込んでしまうのです。たった二本の神木を奪い合う、約三時間の壮大なる絵巻物が町全体にばらまかれるのではないかと思われるように繰り広げられます。

              

 神木が投げられる直前の裸の男たちの覇気です。
 観客席から見ている私さえ何かあの裸の群れの中にいるような錯覚を覚えます。10時です。突然に本堂の光が一斉に消ます。そこで何が起きているのか見当すら立ちません。あたりは闇の幻が渦巻く様に、ただ裸の群れからの得体の知れない地獄の底からわき出すかのような、ぼわーとした黒光りのような音だけの世界に変化します。

                             

 どのくらいの時間でしょうか、しばらくすると、また、会場に光が入り、男たちの裸が現れ、闇が会陽の幻を飲み込んで、真っ暗な空に高く舞い上がって行ったようでもありました。

  

 

 

                    飛び込め
  
              人間の貪欲どもよ
              何処までも
              欲望の真っ赤な炎を燃やして

                                              無限なる暗黒の世界に広がる
                                              2つのちっぽけな穴をめがけて
  
                    飛び込め
 
             希望という名の魔物を求めて

 

 

 

 

 

 

 


「夜麻賀多」に

2011-02-18 14:50:18 | Weblog

 「山方」にいた黒日売を訪ねて、仁徳帝は吉備の国に行幸されます。どのくらいこの地に滞在されたのかも不明ですが、この天皇のために青菜を摘みに黒日売は山方にある野辺に出かけます。それを、古事記には『夜麻賀多』と書き表して、黒日売の住んでいる地【ところ】『山方(やまがた)』と区別しています。では、この『夜麻賀多』とはなんでしょうか???普通は山県と解釈されています。「県」とは<あがた>と読み、意味は上田<あがりた>の事で、田の上に広がる地、即ち、畠を意味する言葉だそうです。だから、この意味は「山にある畠」だそうです。 

 その黒日売が山県に出かけたのを、目ざとく見つけら、天皇もそこに出かけられ、声高らかに詠われます。
 “山県に 蒔ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか”
 と。

  仁徳帝が吉備の黒日売に逢いに来たのは何時であるかその時期は明らかではないのですが、この歌から、この歌が詠われたのは正月7日の七草の事であったと考えられます。
 この日に、男女が共に野に出でて若菜を摘み、その若菜を食すると、その人に万病がなく 年中の邪気を除くと言い伝えられている行事です。、古今集に「君がため 春の野に出でて 若菜摘む・・・」の歌も見られますように、平安時代に盛んに行われた年中の行事だそうですが、吉備の国では、仁徳帝の時代から、既に、行われていたのです。なお、万葉集の一番最初の歌「籠よ み籠持ち・・・」という雄略天皇の歌にもありますように、この風習は、相当、古い時代から行われていたようです。

 このようにして、「多怒斯久母阿流迦」 <たぬしくもあるか>と吉備での仁徳帝の生活が続きますが、どのくらいの間、この吉備の国に滞在していたのでしょうか。
 万葉集にある仁徳天皇の后、磐之媛命の歌として、
  “君が行き け長くなりぬ 山尋ね 迎へに行かむ 待ちにか待たむ”
 が載っています。この歌を詠まれたのが、仁徳帝の吉備への行幸の時であったと仮定するならば、相当、長期間に渡ったのではないかと思われます。半年か1年ぐらいは吉備に居られたのかもしれませんね。??????どうでしょうかね。
 “山尋ね”ですから、此の山は「山方」と捉えてもおかしい事ではないように思われるのですが。しかし、こんな解釈はあの契沖だってしていません。念のために。

 なお、仁徳帝が、この吉備へ行幸されたのは、あの民家の竈から煙が立ち上ってないのを見られて、国民への租税を全廃され、そのための厳しい財政運営を強いられてから数年の後、漸く、そこからも抜け出して、再び、国民の間に余裕が生まれ、国家としても、随分と安定した時期に入っていた時です。1年や2年、天皇が不在でも、十分、国政は運営できた安定期だったのです。これも蛇足ですが。


其国之山方地而

2011-02-17 11:23:00 | Weblog

 又、古事記の「仁徳紀」に戻ります。

 「佐気都志摩」〈サケツシマ〉を遥かに見据えて船を進めます。そして、「自其島伝而」〈ソノシマヨリツタイテ〉です。酒津に到着された仁徳帝は船から上がり、その島を経由して 「行幸吉備国」〈キビノクニニイデマシキ〉、行かれたのです。そして、「爾黒日売 令大坐 其国之 山方地而」〈カレクロヒメ ソノクニノ ヤマガタノトコロニ  オホマシマサシメテ〉。懐かしい黒日売のいる地「山方」を訪ねられたのです。
 この「山方」を、本居宣長は、吉備の国に有った事は間違いないが、どこに有ったのかは“詳らかにならず“としています。しかし、宣長の高弟であった藤井高尚先生が書かれた賛が見える、天保期に発行された「備中国巡覧大絵図」には、この「山方」について、

   
 写真に見えるように、窪屋郡山手村にありと、記されています。
 
 なお、黒日売の父については、ただ、「吉備海部直」という姓だけが出でいるに過ぎません。果たして、どんな名か、また、どのような人物であったかのかは、記録も言い伝えも一切残ってはいません。当時、吉備の穴海一帯を支配していた人物が、この山方、即ち、現在の山手辺りに、その館の一部を作っていて、そこに、石之日売命の妬みを避けるために、吉備に歩いて帰っていた黒日売が住んでいたのではないかと、私は想像しています。
 

 話がややこしくなっては来るのですが、この吉備海部直という人物、ひょっとして、兄媛を訪ねて吉備国に行幸された応神天皇を饗応した御友別の長子稲速別(いなはやわけ)辺りと繋がりがある人物ではないかとも思われますが。なにせ、この人は書紀によりますと川島県主になって、下道郡臣の始祖になっているのですから???????????。


後楽園沢ノ池の「御野郡」の石標

2011-02-16 19:47:22 | Weblog

 後楽園のほぼ中央部に「沢ノ池」があります。この池の東側に、「中の島」と「御野島」の二つの島が並んであります。この二つの島の間が「境澤」です。何故、境なのでしょうか。これは藩主池田綱政が、この地に回遊式庭園を作られた時に、上道郡と御野郡の境がこの辺りにあったからとい事から名付けられたと言い伝わっています。
 筆敬氏の御指摘の「寸簸之塵」を紐解いてみますと、土肥経平は、此の「御野郡」のいわれについて書かれていました。

 「神代、素盞鳴尊が高天原を追放されて葦原中つ国に下られる時、その道中で雨が降り続きます。仕方ないので尊はそこら辺りに生えていた草を結んで蓑笠を作って旅を続けます。途中で宿を求めるも、鬼神だと恐れられて、宿を貸さなかったのだそうです。
 漸く、中つ国に下られて、備前国石上簸の川上の山あしなづち手魔つちがもとに至り、大蛇を殺したのですが、その時になってようやく身に着けていた青草の蓑笠を脱いで、その場所に置かれたのです。その場所を、尊が着ていた「蓑(みの)」を置いたところ、即ち、『御野郡』になったのだと言い伝えられている」
 と。

 ここでも「簸川は備前にあった」と、主張されています。だから、当然、あしながつちなども吉備の人です。すると、土肥は書いてはないのですが、あの「クシイナダヒメ」も、やはり、吉備の美人の一人として挙げなくてなならなくなります。
 
 今では、素盞鳴尊が、神の国、高天原から葦原中つ国に降り立たれた場所は「出雲の国」というのが定説になったいて、「備前の国」であったというお話は、ほとんど、それこそ、吉備の国の人であろうと知っている人はいないのです。しかし、このように、本気になって、「それは、吉備での話である」と力説した人もおられたのです。そんなことも知ってほしいものだと思い書いてます。


寸簸之塵

2011-02-14 11:30:24 | Weblog

 昨日書いた「本当でしょうかね????」という一文に対するお叱りのメールを、筆敬氏から頂戴しました。

 「なんべん いやあ わかるんけえなあ、もうちいたあ ようしらべて かかにゃあ おえりゃあへんが」と、ちょっとあきらめ加減のメールです。

 昨日の私の例の「簸川は旭川だ???」という事についての反論です。筆敬氏は、その論拠として「おめえは、土肥経平がけえた『「寸簸之塵』をみたこたあねんか」と、その本にちゃんと「簸川」は朝日川の事だと説明している。それを「本当でしょうか????」とは何だ。といわれるのです、そしてご丁寧にも、その一文を送ってくれました。

それによると、
 「簸川は此の国岡山の府下を流るゝ川也。大川とも西川とも御野川ともいひて、今朝日川ともいふ。簸川は古名なり。」
 と書かれています。
 神代の事として言い伝わっている素盞鳴尊が大蛇を斬ったのは、この備前にある簸川、即ち、現在の旭川だと書いてあるのです。此の時、素盞鳴尊が使って大蛇を退治した剣も、備前国石上布都霊神社にお祭りしてある、と、いうのです。経平は、「ひかわ」と呼ばれていた川は、事実、備前にも出雲にもあるが、備前の方が「簸川」と書いて、出雲にあるのは「肥川」と書き現わされているとして、だから、大蛇退治が行われた「簸川」は備前でなければならないと断定しています。
 更に、彼は、その「簸」という字が使われた理由として、その昔、吉備の国は「寸簸」と書いて「きび」と読ませていて、元々、そこを流れる大河ですから、「寸簸川」と書いていたのですが、いつの間にか、その「寸」が省かてれ「簸川」となったのだと。又、此の外、そなん事本当かいなと思わせるような面白い論拠となる説を、この本にまことしやかに書いています。
 それは、古事記には「備前(きびのみちのくちの氷川(ひかわ)」と書かれているが、あれは稗田阿礼が聞き誤って「氷川」と書いたのであって。本来は、この「簸川」でなくてはならないのだ。と

 そのように書いて結論として、
 「是にても、此簸川は備前にて出雲にあらざる事思うべき也。簸川・肥川とて両国におなし唱の川あるより、かくは神代巻に混じしるし給ふなるべし。」
 と書かれてありました。

 

 それにしても毎度ですが、このメール氏 なんでも ようしっとりんさるなあ!!!!!ちょっと待てよ。・・・・・・・・・・では、メール氏がなんとも言ってこなかったのを見ると、あの吉備の酒のこたあ あれでよかったんかいなあー


佐気都志摩美由

2011-02-13 11:17:59 | Weblog

 沢山の瀬戸の島々を見ながら、ようやく「佐気都志摩」<サケツシマ>に着かれます。
 本居宣長は「古事記伝」の中で、此の島はどこにあるのか、存在が「詳らかならず」と書いておりますが、その「サケツシマ」に上がった仁徳は、そこから島伝いに吉備の国の黒日売のいる所、「山方(やまがた)」に、直接行っています。

 さて、難波津を出発して、瀬戸内の海を航行するのですが、その美しい多島美をゆっくりと鑑賞しながら行くという心のゆとりなんて仁徳にはなかったのです。その道中は、ただ、「黒日売恋し」の夢か幻かのような夢うつつの航海だったに違いありません。恋しい我が恋人黒日売に「すぐ会える」という事ばかり考えた、他の事は一切眼中に入らなかった旅だったのです。
 「オノコロシマ」とか「アジマサノシマ」とか、何ともわけのわからない歌を口ずさみながら航行していたのです。本来なら小豆島など見ながら当然航海したはずでしょうが、そなん島影さえ、仁徳の目には入らなかったのだろうと思われます。気がついてみれば、いよいよ吉備の国というより、あの黒日売のいる所に逢いに行ける港「サケツシマ」です。

 この「サケツシマ佐気都志摩」ですが、何処にあるのか分からないとした宣長先生ですが、私は「サケツ」の「サケ」は[酒」、「ツ」は「津」、そうです。酒津(さかづ)がある島ではないかと思います。往事、高梁川の河口にあったこの港から、盛んに吉備の美酒(うまさけ)を船に積んで諸国に運び出していた所から[酒津」と名がついたと伝えられています。

 なお、この吉備の酒ですが、万葉集にもあります。
         “古の 人の食させる 吉備の酒
                           病めば術無し 貫簀贈らむ”
  「昔から大変うまいという評判な吉備の酒、あんまりおいしいので、飲みすぎて酔っ払って戻すことがあってもお許し下さい。どうぞ、その戻したもので服が汚れるのを防ぐために、竹で出来た簀(よだれかけ)を、私の首にくくり付けてくださいな」という意味の歌なのだそうです。

 話が、又、反れますが、あの須佐之男命がおろち退治したのは、本当は、出雲の国ではなくて、「我が吉備の国であった」という人もいます。「ひのかわ」というのは旭川であり、簸川ではけっしてないのだよと、その人は勢い込んで言われます。
 「あのおろちが飲んだ大量の酒は吉備の酒でなくてはならない。其のお酒のあまりのうまさに、つい、あの大蛇がへどを吐くほど飲んでしまい、不覚にもぐでんぐでんに酔っぱらってしまい、眠ってしまうのだ。出雲の国の酒はそんないおいしくないので酔っ払って寝てしまう事はなく、あんなに易々と、命の剣に打ち負かされる事はなかった。吉備の酒こそ、大蛇が酔い潰れる程飲むうまい日本一の酒だったのだ。それを証明する歌が、この万葉集の歌に現わされているのだ」

 と、誠しやかに話されます。

 

 本当でしょうかね????

「欺大后」

2011-02-12 16:43:05 | Weblog

 よほど仁徳天皇は、その后「石之日売命」を恐れていたのでしょう。本当に日本歴史上で最大の恐妻家であったとしか思われません。「欺大后」と、古事記には書いて、<オホギサキヲ アザムカシテ>と読ましています。これ以外に、愛しい恋人に逢う手段がなかったのだろと思われます。
 
 普通の天皇であったなら、当時の社会では、特に天皇になると、后の他、第2第3の妃がいても当然だったのです。むしろ、それが普通だったのです。何も后を欺いてまで逢いに行くまでもなく、堂々と行ってもいいのではと思われるのですが。そこが、また、この仁徳天皇のいいところなのでしょうか、大后を欺いてまで、わざわざ、黒日売に逢いに吉備の国まで行幸されたのです。この部分も書紀には記述がありません。
 なお、この仁徳天皇にも、妃は髪長比売、長日比売、八田若女郎、宇遅能若女郎の4人いらっしゃいます。

 それは兎も角として、此の時、天皇は、一途に黒日売に逢いたいと思われて、大后を欺いて吉備の国にやってきます。どのように欺いたかと言えば、

 「大后よ、吾は、この度、淡道島(あわじしま)周辺を視察する行幸の旅に出る。留守をしっかりと守ってくれよ」
 と、言ったか云わなかったかは分かりませんが、瀬戸内海を西に下るのです。普通、天皇は皇后と共に行幸されるのですが、この度の行幸には特別の意味があるのです。仁徳が、考えて考えてからの計画です。大后に分からないように、吉備に帰った黒日売に逢うのです。もし大后に知られたりでもすれば、自分までどんな仕打ちを受けるかもしれません。まして、あのかわいい黒日売の為を思うと、それはそれは、内に秘めたる秘密裏の行幸にならなければなりません。しかし、それが、堂々と、日本の正史に記されているのです。そこら辺りにも、この古事記の歴史的な意義があるのかもしれませんが。

 そのような天皇一行が、一端、難波の津を離れますと、もう、大后の事など、きれいさっぱり、どこ吹く風の如くに忘れ去ったように歌われます。はやる心は、ただ一つ吉備の黒日売の元に居ります。この度の主目的の淡路島を通っても、そんなこともう知らんとばかりに、得手に帆掛けて、一直線に吉備へ向かうのです。其の仁徳天皇のはやる心は歌となって現われています。その御歌は

 「淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊伝多知弖 和賀久邇美礼婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遅摩佐能 志摩母美由 佐来志摩美由」です。

 これを<オシテルヤ ナニワノサキヨ イデタチテ ワガクニミレバ アワシマ オノゴロシマ アジマサノ シマモミユ サケツシマミユ>と読ましています。
 意味は、「難波の港を出て、沢山の島々を見ながら、あっという間に、船旅の終着港≪サケツシマ≫に到着したことか。いよいよあの恋しい黒日売に逢えるぞ。やったあ」というぐらいではないかと思われます。淡路島など瀬戸内に広がる島々は何も心には残らなかったという事だと思います。何か知らない多くの島々という意味で、日本には生えてない「アジマサ」がある島だとか、伝説上の島で、何処にあるのかも分からないような島「オノコロ」等という言葉を、この歌の中に並べたのではないかと思われます。黒日売の事で、他の事は一切眼中になかったという一途な思いが、この歌の中に現われているように思えます。
 
     これって少々ばかり考え過ぎではないでしうかね?????
 
 なお、この御歌にある「アジマサノシマ」ですが、これは「檳榔」の木(ヤシに似た木「びろう」)が生えている島だそうです。この木は、現在の瀬戸内海の島には見当たりません。熱帯に生える木です。仁徳天皇の頃でも、日本には生えてはしません。大方、当時、海岸によく生えている「ウバベガシ」を「アジマサ」と呼んでいたのではないかと思われますが、どうでしょうか???確証はありませんが。
              これが瀬戸内海にある島のウバメガシの写真です。

 また、「オノゴロシマ」という島は、古事記によりますと、イザナギイザナミの二柱が「天浮橋」にお立ちになって、天沼矛を海の水の中に入れてかき回して最初にお作りになった島です。淡路島より前に生まれた島です。家島諸島辺りの島ではないかとも言われていますが、何処にあるかは諸説粉々の伝説的な島です??
 そのような瀬戸内の島々を片目で見やりながら、ひたすら吉備の国を目指した「黒日売。恋しいや。恋しいや」と、待ち焦がれる心が、この歌の中ににじみ出ているように思われます。


山手の黒媛塚伝説

2011-02-11 10:11:49 | Weblog

 吉備線の東総社駅に、総社に伝わる伝説として、「黒姫」を取り上げて、そのお話を書いている説明板が見られます。
 その黒姫が祭ってある[黒姫塚」ではないかと言い伝えられている古墳について、足守侯の招きを受けて、長崎へ遊学する途中、備中の足守を訪ねた司馬江漢が、その道中記として書き残した「図画西遊譚」の中に図入りで説明してあります。
 
 その黒姫とは、一体どのような人物かであったのか、少々ご紹介してもと思い書き出しましたが、「えろう なごう かきょうんなあ」とご批判を受けるのが当たり前のように、大変長くなりました。
 筆敬氏ではないのですが 「おめえは いってえ なにゅうかきょんなら」と、あざ笑われるのは確実ですが、途中で、ほっぽり出すわけにはいきません。後、しばらく、この古事記に書かれている黒日売と仁徳天皇について追ってみますので、どうぞ、お付き合い下さいますようお願いします。

 さて、前書きが少々多かったようです。が、又。古事記の続きです。「自歩追去」た後、黒日売はどうなりましょうか。というより。大后石之日売命の妬みに手を焼いていた仁徳天皇、高台から黒日売を見送った後も、片時も、その黒日売の姿が目から離れません。「恋しい。逢いたい。逢いたい。恋しい」そんな思いが日に日に募るばかりです。居ても立ってもおれません。
 「なにか、吉備の国に歩いて帰って行ったあの哀れな愛しい黒日売に逢えるいい方法はないか」
 と、そればかり考えており、ほかのものには手が尽きません。


「自歩追去<カチヨリ ヤライタマイキ>」

2011-02-10 17:58:54 | Weblog

 大后の激しい妬みを避けようとして吉備国に出船する黒日売を、密かに高台に上って、見送りながら、そっと仁徳帝は 「摩佐豆古 和芸毛」(我が愛するいとしいかわいい娘子よ)と呟きます。その言葉をもの陰で聞いていたた石之日売命は、「足母阿賀迦邇嫉妬<アシモアガガニ ネタミタマイキ>」されて、既に、難波津を出発していた黒日売を、大浦に「追下」させます。

 これから如何なる制裁が黒日売を持ちうけていたか、読む者をわくわくさせるのですが、その後は簡単に「自歩追去」とだけ書かれています。何の事はありません。船ではなく、歩いて吉備の国まで帰らせたというのです。
 これについて、宣長は、其の「古事記伝」の中で、次のように説明しています。

 「如此為(かくし)たまう故は、船より行ば安易(やす)きを歩より行しめて苦しめたまふなり。追去は、夜良比伎<ヤラヒタマヒキ>と訓ずる」と。

 この説、誠に尤もだとは思いますが、仁徳天皇の時代には、もう相当、山陽道の整備も進み、苦しいはずの黒日売の旅も、石之日売が考えていたよりも、案外に、楽しい旅になったのではないかと思われます。

 此の当時の山陽道の旅の様子は、書物には、何も書かれてはいないので、はっきりとした事は分からないのですが、例の孝霊天皇の皇子の比古伊佐勢理比古命(大吉備津彦命)が吉備国に来て、温羅らの悪人を滅ぼし、吉備の国を平和な国にされますが、その様子について。古事記には、次のように記しております。

  吉備津彦が攻め入る吉備の国には、敵が強烈過ぎて、直接攻め込むことはできません。その為に、先ず、、針間(播磨)の氷河(ひのかは)に入り、その前線基地を設けます。そこを起点として、吉備の国にいた敵を攻撃します。何故、針間の氷河だったかと言いますと、孝霊天皇の当時、既に、この播磨の国は、完全に大和朝廷の勢力範囲であり、随って、山陽道は、この時代には、既に、播磨の国までは安全に通行出来たのです。
 黒日売の時代はと言いますと、この孝霊帝よりも十二代も後の時代です。とっくに、山陽道は九州まで、交通の整備は十分に整っていたと考えられます。旅の安全性は十分に保障されていた時代なのです。
 更に、この黒日売は吉備国海部直の女です。例え、海上でなくて陸上を行ったとしても、古事記が書いているように、そんなんに苦しい旅にはならなかったはずです。むしろ、黒日売にとっては、又、海上の旅より、趣の異なったとっても楽しい旅であったのではないでしょうか。第一、大后石之日売命の激越なる仕打ちから逃げ得たのですから、こころも、いと軽やかな快適な旅であった事は間違いないと思うのですが。お供を連れたのんびりとした大名旅行ではなかったのかと思われます。

 では、なぜ、「記」には、そのような自由なのんびりとした黒日売の旅であったにもかかわらず、わざわざ「自歩」と云う字を使って、この史実を伝えたのでしょうか??????

 それは、この時代には、もうとっくに、海上だけでなく、十分、陸上の交通の安全も保障できたという事を、筆者は知らしめたかったのではないかと思われます。と、いう事は、黒日売というか弱い女性でも、既に、十分安全に旅が可能な、という事は、日本の全土に天皇の支配が、あまねく行き渡っていたのだという事を知らせたいとい事で、わざわざこのようなお話を作り上げたのではないかと考えられます。(この史実は、古事記だけで、書紀には出ていません)

 万葉集に歌われている

     “大和の国は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ”

 これを高らかに「宣らめ」たのです。


葛城之曾都毘古という人

2011-02-09 13:35:05 | Weblog

 穴海(吉備の海)を中心とした海上の運輸権を独占していたと思われる黒日売の父親です。当然、それ相当な武力を備えた海賊的な集団だったのではと想像しています。その吉備海部直である人の船です。難波から、自分の愛娘を密かに連れ戻すことなど、海に生きている男です。朝飯前の事だと思いますが、それが出来なかったのです。娘は石之日売命の遣わされた人によって船から、古事記には「追下」<オヒオロシ>と書かれています。即ち、否応なしに強制的に無理やりに引き下ろされたのではないかと、この二文字から読みとれます。
  
 どうしてでしょうかね????天皇ですら、あきらめて、折角手に入れた愛しい黒日売が吉備に帰国するのを、黙って、密かに、見送っていたのですよ。

 吉備海部直の海上権を上回る程の大后の力とは何だったのでしょうか。それは、やはり、これも石之日売命の父親の力が働いたのではないかと、私は見ています。
 彼女の父親の名は「葛城之曾都毘古」です。

 この人は武内宿禰の子であり、当時の大和から河内にかけての陸上交通の要を掌握しており、更に、難波津(大阪湾)一帯の軍事をも司どっていて、強大な力を保持していたのです。国の軍事力を握っていたのです。如何に吉備の国というより、瀬戸内一帯を我が池のように行き来していて海運権を独り占めにしていた、というより、海賊の大親分棟梁だった黒日売の親でも、相手が難波津一帯をその軍事力で持って掌握していた葛城氏です。どうしようもなく、彼らの為すがままに大人しくその指図に従うほかはなかったのだろうと思われます。大后石之日売命の一方的な勝利です。だからこそ、引きずり降ろされるように、一端は大阪湾に出ていたのですが、難波の大浦という港に連れ戻されるのです。

 石之日売命は、自分の夫仁徳が、その出船を見送る時に詠んだ「摩佐豆古 和芸毛」<マサヅコ ワギモ>という言葉を聞いて、日ごろから持っている嫉妬の心が俄かに高まり、強く敵愾心を起こし、それが嵐となって舞い上がったのではないでしょうか。

 「何と小憎らしいあの小女め。我が夫をたらしこめた憎き女。いまにみろ。わが仕打ちをもろに受けてみなさい。・・・・・・・いいきみだ。ウフフフ」
 と、地団太踏みながら、薄笑いを浮かべながら、そんなことぐらくい言ったのだろうと、想像しています。

 なお。この大浦という地名は現在の大阪湾一帯にはなく、徳島県に、この地名がある事から、徳島の郷土史家の人たちの一部は、黒日売の故郷が徳島県にあったのではという人もいるようですが。それはとんでもない妄想的な肥大解釈に過ぎません。