私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

逢坂を越ゆとてー「またれし人」とは、女性か男性か?

2010-04-30 08:56:56 | Weblog
 又、綱政侯の旅に戻ります。

 二十一日勢田の長橋を渡り、逢坂を越え伏見に向います。その逢坂で、

 「・・・故郷を出るより嬉しくあひ侍し人に、あふことも嬉しきに、

       古里を 立出るより あけくれに
                  またれし人に あふ坂の山」

 と、書き綴っています。

 「またれし人」とは、女性か男性か?
 
 この旅の間中、朝も晩もいつも「あふことも嬉しき」人に逢う事が出来るのだと気をわくわくさせながら待ちわびていたのです。当然、誰でも女性だろうと思うのは当り前です。文面として読む段には、大変興味深く面白みは増すのですが、十九歳の備前の貴公子です。そんな遠く離れた京に思い人がいるはずはないと思います。きっと男性だったのではと、私はこの文から読み取りました。
 十九歳の技巧的な思惑の文にと、思わせぶりに、男とも女とも書かずに、逢坂山と関連付けて、読む人はどう思って読むかなと、うら若き女性として読むだろうなと、わざと、心の奥底で、ほくそ笑みながら書いたのだろうと思われます。誠に、華やいだ若々しい書きぶりです。
 
 なお、此の前夜の宿りは草津でしたが、
 「故郷を猶いやましておもひ出して袖をしぼりぬ。」
 と、書いてありますが、この場合は、江戸にいた女性だと思います。それを受けてのこの逢坂です。きっと男性だったのでは?
 

吉備の中山の緑が目にしみます。

2010-04-29 12:01:29 | Weblog
 今日。そうです。4月29日は、かっては「天皇誕生日」だったのですが、昭和天皇のご崩御以後、「緑の日」に変わって、それが現在もまだ続いていると思い込んでいました。将に、野山は新緑で一杯で、緑の日その物です。

 「明日は緑の日だね」と、孫に言ったところ、「おじいちゃんそれって何?」と怪訝な顔をするではありませんか。
 
 「はて、耄碌したかな」と思い、早速カレンダーを覗きます。何とそこには「昭和の日」とあるではありませんか。なんて無粋な輩の考えたことかと嘆いても致し方ありません。「昭和の日」が、そこにあるものですから。

 でも、なんと言っても今日は緑の日です。我が町吉備津のシンボルの吉備の中山の緑を探索しに、午後から出かけて見ようかと思っています。吉備津神社のボタンも今が見頃です。

          

庭のエビネが咲きました

2010-04-28 10:30:14 | Weblog
 もう四半世紀も前になるのですが、私の生家の近くを流れていた谷川に面した山際の一角にエビネが群生している場所があり、毎年四月の中ごろから、それは見事な小さな花園を見せてくれていました。本当に心を癒してくれるような一幅の絵にでもなるような風景でした。
 ところが、ある時です。心ない者の仕業でしょうが、それこそ根こそぎ、総て、引き抜いて、持って行ってしまい、エビネの姿はどこを探しても見当たりません。「やられた」と思ったのですが後の祭りです。それでもと、そこら辺りをよく探してみます。すると、心なしさんの忘れものでしょうか、それとも、全部持っていくのを引け目に感じたのでしょうか、二,三本でしたが、土の中からわずかに顔を覗かせているエビネがあるではありませんか。それを、大切に拾ってきて、私の庭に植えておきました。
 それが、今では十数本に増えて毎年可憐な白花を付けてくれるようになりました。そのエビネに、何かもっと彩りを添えれないかと考え、数年前に、園芸店から黄色のエビネを買ってきて植えておきました。すると、何年ぶりですか、今年は、初めて、それが花芽を出して、今朝、開花しました。白と黄色の私が頭の中に画いた通りの見事なコラボレーションが展開されているではありませんか。

                   

 なんだかとても晴れやかな嬉しい気持ちになって、早速、写真にパッチリ。たった一本の異株も、紅一点ではないのですが、なかなかな乙なもんだと、一人で悦に入っている朝です。
 そなん気持ちを、綱政侯の旅をほっておいて、今朝は書いてみました。

 なお、残念ですが、その昔あった谷川のエビネの花園は、今では雑草が生い茂って、エビネを語るものは何も残ってはいません。

とどろき橋

2010-04-26 18:38:32 | Weblog
 神無月21日です。

 「おもひの外にさおほくしれる人々出合て筆取るにもあらず、こころあわただしくあれば、あまたの名所とふにもあらず、勢田の長橋をわたるとて」

 草津の宿を出た綱政侯は、どんな人とは記してはないのですが、沢山の知り人と出逢い、名所を訪ねることもできなかったのです。
 そうして慌ただしく湖水に面してあるいくつかの名所を通り越して勢田の長橋を渡ります。
 

 この橋は、勢田の長橋の他に、いくつもの呼び名で人々に知られています。あの俵藤太秀郷の大むかで退治の、あの橋です。
 青柳橋、から橋、とどろき橋などとも呼ばれています。

 此処で、又も、脱線しますが、我が町吉備津にも、その昔、「とどろき橋」と呼ばれた橋があったと、言い伝えられています。その名残かどうかははっきりとはしていないのですが、現在、「橋向」と呼ばれている地名の所があります。それは、この「とどろき橋」の向い側にあったから付けられたのではないかとも言われています。

 此処にあった橋は、一説によると、天孫降臨されて、九州から大和にお上りになる途中に、神武天皇が3年間、その兵力を増強するために吉備の国に留まります。その時、この地方を巡視されて、吉備の大河(板倉川)に架っていた橋を渡られます。その橋が、この地方で取れる花崗岩(万成石)から出来ていたのです。その為、天皇を乗せた車が橋を渡るときに「がらがら」と大きな音がしたので、以後、それを「とどろき橋」と呼んでいたと言うのです。
 全国に「とどろき橋」と言うのは、勢田の長橋を始め日本各地に沢山あるようですが、わが国で、一番初めに「とどろき橋」と呼ばれたのは、この吉備の国の、吉備津にあった橋なのです。念のために。

 現在の勢田の長橋は交通量の激しい橋ですが、江戸期のその橋をお見せします(東海道名所絵会より)

          

坂下から草津

2010-04-25 12:40:52 | Weblog
 「坂は照る照る峠は曇るあいの土山雨がふる」と歌われた鈴鹿馬子歌がるのですが、綱政侯は坂下から水口、石部、草津に至る約12里の道中については何も書いてはいません。

 20日は、ただ、「故郷を猶いやましておもひ出して袖をしぼりぬ。

    いかなれや 霜にかれぬる 道ながら
              草津の露に 袖のぬるるは」
 とだけ記されています。

 馬子歌にあるような変わりやすい天気にも会わず順調な旅だったのでしょう。ただ、故郷、それまでに育った自分の江戸の事が恋しくてたまらなかったのでしょうか。多分、心に秘めた恋人の事がこよなく恋しかったのではないかと思われます。

かりねの小筵につきぬ

2010-04-24 09:42:18 | Weblog
 鈴鹿川の傍を遡り、坂下の宿に着いたのは「夜もようよう更け行けば」。冬の日は釣る瓶落としです。今の時刻なら、午後7時ごろだろうと思います。気がつけば、辺りはすっかり冬の闇夜です。着いた場所は、坂下宿のあの豪壮な本陣ですが、綱政侯は、そこを、敢て、「かりねの小筵」と書いています。遠く来たものだと言う思いが、夜の闇の中に交じりこんでいたのでしょう、少々感傷的にもなっていたのでしょうか、「小筵」と書いています。

 「鈴鹿川の岩ばしる波の音、夜もすがら聞き明しぬ。峯には狐の声、山彦にこたえて淋しく、物のすさまじきに」

 峯、多分明日越すだろう鈴鹿の峠辺りに鳴く狐だろうか、その声もの淋しげなこととおもわれたのでしょう。ひょっとして、あの鈴鹿御前の話を思い出されたのかもしれません、河音と一緒になって、眠れない夜であったことは確かです。

   いつしかも 聞きもならはぬ 鈴鹿川
               川音そへて きつねなくなり

坂上田村麻呂の鬼退治と後楽園

2010-04-23 11:03:24 | Weblog
 平安の昔、この鈴鹿山に鬼神がおり、都へ納める米などの租税を此処で略奪していたのです。これを聞いた天皇が17歳になったばかりの坂上田村麻呂を将軍に任命して、この鬼退治をさせたのです。
 大江山の鬼退治、戸隠山の鬼退治と共に3代鬼退治の一つになっています。残念ですが、我が吉備の国、鬼の城の鬼退治はその中には入っていません。この3大鬼退治は平安時代に語られた鬼退治ですので、古代の吉備の鬼退治がその中に入っていないのは当然なことです。

 田村麻呂が退治した鈴鹿山の鬼は「大嶽丸」と名がついています。その鬼を退治するのに、田村麻呂は、神のお告げに従って、鈴鹿に住む美女の鈴鹿御前の助けを借ります。そして、その御前と、ご丁寧に、伝説では結婚までしています。

 この他に、次のような話も伝わっています。
 それによると、田村麻呂が退治した鬼の名前は「安部高丸」と言うのだそうです。この鬼を退治する時、清水の観音様の助けを借りています。それによると、この高丸と田村麻呂がこの峠で対峙している時、一天俄かに掻きき曇り、その雲から千の矢が高丸の軍に襲いかかり、又、雨は酒となって敵に降りかかり、その酒の雨を浴びた鬼たちは酔っ払って、たちまちに将軍の軍に敗れ去ったと言い伝えられているそうです。

 そなん話をどこかでお聞きになっていたのでしょう、綱政侯は
 「坂上とほつおや、かしこき人仰事を給りて、此山の鬼神を亡しけるとなん。実鬼の住行べきおそろしき窟・・・・」
 と書いています。
 「坂上とほつおや」とは田村麻呂です。坂下に懸けて少々しゃれ気でもおありになったのかもしれません。本当は、次の宿「土山」の伝説なのですが、この坂上を言う為に、わざわざ此の坂下で書き記したのかもしれません。「かしこき人仰事」というのは清水の観音様の事だと思われます。
 そして、次の歌を詠んでいます。

    旅衣 なほ袖しぼる 鈴鹿川
               八十瀬のなみに 跡さへられて
 
 「さへられて」と言うのはなにを意味するのかはよく分かりませんが、「跡」そうです、ここの鬼伝説にある跡を鈴鹿川の浪音が、盛んに騒がしく伝えていることよ、と言うぐらいの意味ではないかと思いますが。

 このような紀行文を読むと、綱政侯の人となりが分かり、その人の幅の広さまでを伺うことが出来ます。後楽園が出来た訳も推察できる様な気がして来るから不思議ではありませんか。
 文は人なりですね。
 

綱政侯の旅

2010-04-22 10:05:28 | Weblog
 明暦3年神無月10日に江戸を出た綱政侯は、19日に坂下の宿に泊っています。その時 「爰ぞむかし鬼神の住家とや、坂上とおつおや・・・・」と記されています。

 綱政侯の初上りの際の歌紀行には、「木々の紅葉散す」、「浪の音の松風にかよい聞ければ」、「たちまちの月の山の端に残りければ」等と言う、自分の目を通して実際目にした、各地の景色を書き綴られているのですが、一つだけ例外があります。それがこの坂下の記です。
 この坂下に伝わる坂上田村麻呂の鬼退治の伝説を取り上げて書かれているのです。余ほどこの伝説に興味があった証拠ではと考えられます。又、このお話は能「田村」に出てきます。もしかして、綱政侯はお能に興味を持っていたのではないかとも思われます。しかし、このお話は「あいの土山雨が降る」の土山の話ですが。

                

 その他、こんな絵でも何処で見られたのかも???????

坂下の本陣

2010-04-20 10:35:46 | Weblog
 32万石の大大名である2代藩主池田綱政侯の初上りです。宿泊場所が分かる当時の絵でもないかと捜したのですが、なかなか見つかりません。あちらこちらと捜していたのですが、もしやと思い、私の持っている昭和3年に出た「東海道名所絵図」と言う復刻本(原本は寛政9(1797)年に出版されました木版絵)を見てみました。すると、その中に「十九日の泊まりは坂下とかや。・・・」と書き出している、その坂下本陣の木版絵が出ているではありませんか。(この絵は寛政年間の絵ですが。)
 
    
 
 綱政侯の初上りより150年ぐらい後の絵です。しかし、火事などに遭っていなければ、この宿に綱政侯が宿泊された事には間違いありません。昔の家は、十分そのくらいの時間は、風雨に耐えうるように造られています。この吉備津でも、築2~300年と言う家はいくらでも見られたのですが、この1、20年位の間にすべてなくなってしまいました。

 どうです。絵の右側にある本陣入り口の豪壮な造りは驚くばかりでしょう。また、それに付随して建ててある左側の大きな建物はどうです。馬や駕篭、たくさんの荷物が人夫によって一斉に動いているのです。辺り一帯の喧騒さが絵の中から今にも飛び出して来るようではありませんか。

 我が町吉備津も、江戸の昔には、山陽道でも一、二を誇る有名な宿場町(板倉の宿)だったのですが、きっと下の絵にあるような風景は日常茶飯事のことだったのではないかと思われます。


 
 でも、今ではそんな昔の姿はどこを叩いても揺さぶっても出ては来ません。静かなる片田舎の町になりきってしまっています。
 
 “昔の姿今いずこ”の感がひとしきりの我が町吉備津です。

播磨稲目大郎媛

2010-04-19 10:08:05 | Weblog
 「播磨稲目大郎媛や吉備武彦が、どねえして吉備と繋がっているのじゃ。そげえなもんがおったけえ」

 又も、飯亭寶泥氏からメールが届きます。
 それもそうです。古代吉備にあまり関心のないお方はそんな人が歴史の中にいたなんてことも知らないのが当たり前です。高等学校の教科書にも、勿論、ありません。

 あまり面白くないとは思いますが、メールを無視することもできませんので、一応は説明しておきます。
 
 前に一度くらいお話したこともあるような気もせんでもないのですが・・・?????

 例の温羅の伝説と共に語られている吉備津彦命(五十狭芹彦命)は、崇神天皇の時、吉備の国の制圧の為に派遣されています。

 この時に、吉備津彦命の副将として吉備の国にやって来られた人に、命の弟君であられる「若日子建吉備津日子命」がおられます。
 このご兄弟の父が孝霊天皇なのです。

 この二人が、どのように吉備の国を制圧したのか、古事記等の歴史書には書かれてはいないのですが、吉備地方の伝説として伝わっています。あの温羅の物語です。相当長期に渡る激戦であったことには間違いありません。吉備津彦命の2本の矢がそれを物語っています。神の助けを借りなくては勝利できないような一進一退の激戦だったのです。
 この温羅と吉備津彦命の戦いがあの「桃太郎」伝説の元にもなったと言われています。
 家来になった「いぬ」が出てきますが、これは吉備地方の山賊か海賊の様な人たちの吉備地方の情報を熟知していた集団だと考えられています。また、あの「さる」ですが、言い伝えによると、この地方にいた、温羅に対抗できるだけの力を蓄えていた相当な力を持っていた吉備の豪族だったのです。いま吉備津神社の本殿の中に祭られている「楽々森彦命(ササラモリヒコ)」という吉備地方の大豪族だったのではないかと考えられています。彼を吉備制圧のための作戦本部長の役目に付けたからこそこの戦いに勝てたのです。楽々森彦を味方につけるために、その娘「百田弓矢比売命」を妃にしています。もう一人「きじ」ですが、これはどうも朝鮮や支那からの渡来人ではなかったかと語られています。鉄の生産に関わっていたのではないかと
 このようにして、吉備津彦の命は、吉備の情報を正確に掴みながら、吉備地方にいた一方の勢力と上手に融和しながら制圧されたのだと考えられます。

 さて、吉備の国制圧後、二人はそのままま吉備の国に留まり、この国を治めています。しかし、兄である吉備津彦命にはお子様が一人しかおらず。その人は葦北国造(熊本県)となって、吉備の国とは無縁な人になってしまわれます。
 結局、それ以後の吉備の国を治めたのは、弟君「若日子建吉備津日子命」の後裔です。
 この弟君の姫君の一人が「播磨稲目大郎媛」であるのです。
 何故、吉備でなくて「播磨」なのかは分からないのですが、多分、吉備津彦命ご兄弟が吉備を制圧するために西国に派遣された時、直接に、強大な力を誇る吉備の国に入ることが難しかったのでしょう、一旦、針間(播磨)の国の氷河(ひかわ)に上陸されたから、そこを起点として(道の口)段々に吉備を制圧して行ったようです。その播磨の国との和を深めるためにでしょうか、そこの豪族か誰かの娘を妻にした為に、播磨と言う名がそのまま付いているのではないかと、私は推測しています。
 なお、吉備津彦命の妃「百田弓矢比売(ももたひめ)命」の百田という地名も足守にあります。足守付近にいた豪族の娘です。古代社会では、特に、女性の名前には、出身地の名前を初めに付けることもよくあります。
 
 「若日子建吉備津日子命」のお子様が3人おられました。それが、この播磨稲目大郎媛と播磨稲目若郎媛と御鉏友耳建日子命(みすきともみみたけひこのみこと)です。御鉏友耳建日子命の子が吉備武彦なのです。

 播磨稲目大郎媛は、その後、景行天皇の后になられますが、そのお子様の一人が日本武尊なのです。だから、吉備武彦命とは従兄弟同士の関係にあったのです。また、吉備武彦の子に吉備穴戸武媛がおられますが、この媛は日本武尊の妃になっています。
 
 随分と長ったらしく話が込み入っていますが、よかったら知っておいてください。

 まあ、吉備と大和は、古くから大変深い関係にあった事だけはお分かりになると思います。

泊りは坂下とかや

2010-04-18 21:02:43 | Weblog
 「十九日に四日市を出て泉川を越えて往時を思えば・・・」と道中記に書かれています。泉川という小さな川を越えて入ったのだと思えますが、その後の「往時を思えば」と書いているのですが、それが何を意味するのかはよく分かりません。
 その日は坂下で泊ります。

 此の坂下があの鈴鹿馬子歌に出てくる

 「坂は照る照る、峠は雲る、あいの土山雨が降る」
 
 です。

 昨日書いた「庄野」ですが、池田綱政とは何ら関係はないのですが、よく調べて見ると、この地には、あの蝦夷征伐の途中で亡くなられた日本武尊の「白鳥塚」と呼ばれるご陵がある所だそうです。この日本武尊の御母は播磨稲目大郎媛で、日本武尊の副将を務めた吉備武彦の伯母に当る人です。だから、この庄野は、吉備の国とは深い縁で結ばれている土地でもあるのです。

 綱政侯が「往時を思えば」と書いているのは、もしかして此の事かもしれないと思ったりもしますが??????

 

庄野

2010-04-17 16:12:07 | Weblog
 あの広重の東海道五十三次の絵の内で一番人気があった風景な、なんと言ってもあの「庄野」だと思います。
 この庄野について綱政侯は
 「四日市という宿に泊りぬ、暁に出てあまたの里を過ぎ、鈴鹿山にかかり・・・」
 と書いており、あまたの中の一つの宿ぐらいに思われ何も書かれてはいません。それぐらいな平凡な何処にでもあるような、それこそ、何にもない唯の宿場ですが、広重に懸るとこんな名画に生まれ変わるのです。
 
 なお、よざん事ですが、「庄野」の横下にあるひょうたん型の赤い印には[白雨]と言う字が見られます。夕立ちの事です。このように、広重の五十三次の絵には、すべて、その場所の名前の横に、必ず、何を描いているか説明の印が付けてあります。宮には「熱田神事」、四日市には「三重川」と。
 
 また、この庄野の絵には、傘を半開きに差して走っている人物が描かれていますが、よく見ると、その傘には「五十三次」「竹のや」と言う字が見えます。当時から、「竹のや」という庄野の宿屋が自分の宿の宣伝に作らせた傘あったことを物語っています。
 

 18日に四日市を出た行列は、十九日には坂下に宿っています。この日の行程は約44kmぐらいでした。

また、綱政侯の旅に戻ります

2010-04-16 20:34:46 | Weblog
 「一八日、宮より舟にのりて海上を渡るに、しぐれふる・・・」
 喜多さんたちと同じように、岡山藩の一行もやはり宮から船に乗ったのでしょう。千石船でしょう。
 普通なら宮から出る舟の行き先は桑名なのです。この間の距離が六里あったので、ここを「六里の渡し」と言ったのだそうですが、もう一つ、直接四日市に渡る船便もあったのだそうです。大名行列の旅がほとんどだったのかどうかは分かりかねますが、綱政侯の船は直接四日市に渡り、そこで泊っています。
 どのような船旅であったかと言う詳しい様子は何も書かれてはいません。

 弥次さん喜多さんの旅では、此の船旅の間に、桑名の焼きハマグリなどの物売りの船が付いてきて商売をしていたのですが、まさか大名の船にはそんな物売り船が艫をくっつけて商売をするようなことがあるわけもありません。
  
    そことなく あをの海原 かきくらし
               しぐるる空に つづく白波

 喜多さんの小便事件のような何も面白ろおかしな話もなんにもない、浪より雲の出るような、周りはしぐれる海と白波のほか何も見えない旅だったのでしょうか。

 此の四日市にを広重は、次のような絵に描き表しています。風が吹きすさぶ寂しげな風景にです。

     
 
 此の絵のような、ただ、風が吹き散らす風景の他、これと言ってほかは何の特色もない殺風景な街だったのでしょうか?

十九のへんてこりんな言葉

2010-04-15 22:07:08 | Weblog
「東海道中膝栗毛」をちょっとひもといてみますと、十九ならでの言葉がそこらじゅうに頃散らばるように出てきます。

 一寸あげて見ます。
 ・ちょろまかす・やみげんこ・びろびろ・・へぼ・せうろく四文・おいらは上下・箆棒(べらぼう)・ぼんくら・おさし合い・いい年増・仇っぽい・手そぶりにゃああるまい・他生の縁・しめこのうさぎ・しこたま・きちょうめん・しらっぱくれる・コン畜生・糞喰え・しかつべらしく・小じょく・雨風どふらん・てんぼ・まんほし・ぶさをもうつべ川・さしがつば・・


  どうです。なかなか今頃ではお眼にかかれないような言葉でしょう。それぞれの意味があるようですが。

 こんな言葉も出てきます。
 「うんきんだらりん、かんちくりん」
 どうでしょう。おわかりになりますか・・・・・・
 これは暖かくなると「きんたま」がだらりとするし、反対に、寒くなると縮みあがるというのです。こんな文も見えます。
 見方を変えると一九は、井上ひさしより上を行くかもしれませんね。どうでしょう。

弥次さん喜多さんのはなし

2010-04-14 20:10:49 | Weblog
 今日もまた横道ですが、舟で使う小便用にと、宮宿の亭主が渡してくれた竹の筒を使う場面を一九は面白可笑しゅう、この膝栗毛に書いています。
 

 弥次さんは、船中で居眠りをしていたのですが「時に小便がもるようだ」と、目を覚まします。そして、おもむろに例の竹の筒を取り出します。まさか竹の先に穴があいているとは思わないで、「しびん」のようなものと思い込んで、舟の舷(ふなばた)に置いて、
 「直に竹の筒へしこみければ、先の穴より小便が流れ出して舟中小便だらけとなり・・・」
 
 と、そんなこんなで舟中が大騒ぎになります。竹の中にまだ小便が残っていてぽたぽた落ちています。それを見た船頭が
 「それもほかしてしまわせへな」
 と言う。それを聞いて弥次さん
 「これは火吹竹になろうからそっちへやろふ」
 
 舟のみんなは「臭え臭え」といいながらも、それでもどうにか桑名に着きます。四時間ぐらいの舟旅だったらしいのです。こんなばんぐるわせがいつもある旅でした。

 本当は、弥次さんが使った竹の筒は、舟からその先を海に差し出して、その中にするのだそうです。すると、小便は海に流れ出て、普通はこんな騒ぎにはならないのですが、滑稽本です。面白可笑しゅうするための一九の工夫だったようです。

 この話の中で。小便が舟中に流れ出した時、それを見て船頭が
 「誰じゃやいぞ、小便をしたのは、船玉様がけがれる、はやうコレふかつせいな」
 と、怒る場面が出てきます。
 これからも分かるように、どんな船にも、必ず、船には守り神が祭られていたのです。その神様の名前がここに出てくる「船玉様」なのです。
 どうも、この神様、女性らしいのだそうです。昔から「女性を舟に乗せてはならない」と言われていましたが、そのわけは、どうも、この船玉様と言う神様の正体が女性だったというのです。ですから同姓の女性を載せると、この神様が嫉妬して、船の安全を脅かすからだとも言われています。
 「たま」は霊・魂が元々であったのが、難しいので簡単な「玉」がよく使われているのだとも。

 昨日、井上ひさしが死去されていますが、この人も日本語についてかなり深い関心を持たれて文章を構成されていたと言われますが、十返舎十九も相当な日本語に対する研究をしていたのではと思われ、多くのうんちくのある言葉に出くわします。