私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

驚くべき明治女性のど力 「津田梅子たち」

2009-09-30 10:32:03 | Weblog
 この手記の中で、春子は
 [文部省から第一回の分として女学生を海外に留学させることになり、その選に私も入った」
 と書いています。
 
 でも、確か、わが国最初の女子留学生は明治4年に咸臨丸で行った津田梅子(当時6歳)などだったのですが、でも、これは、いわば私的なものであって、公式なものではなかったのです。
 その梅子たちの留学時に写した写真がありますので見てください。当時の日本女性の服装と一緒に。これが普段の服装です。(これは晴れ着ですが)
 

 この写真からも伺えるのですが、当時の女性の服装は、当然、和服が普通です。洋服なんか見たこともないし、当たり前のことですが、着たことさへもありません。だから、海外への留学ともなれば、春子たちのように洋服の着方も勉強する必要があったのです。
 
 でも、見てください。この時、留学した女性たちの顔を、どの顔も自信に満ちています。なお、この写真の中央にいるのは、時の駐日米公使ラロング夫人です。英語を教えていたのです。その左隣にいるかわいい子が6歳の津田梅子なのです。心配顔で写っているのが当たり前なのですが、この写真を見る限りでは、気配すら見えません。かえって、これからアメリカへ行って勉強するぞと言う、気力が満ち溢れた姿で写っています。よほどの才女だったのでしょう。
 
 この写真を見るたびに、いつも思うのですが、梅子の両親はよくも承知したものだと。それまで鎖国をしていた日本ですよ。アメリカの事情も何も知らない所に、6歳の子供をよくも平気で、遣ったものだと感心しています。その裏には。ラロング夫人の働きが余ほど大きかったのではと思いますが。
 ラロング夫人が、5人の女子留学生たちの親からも余ほど信頼されていたからでしょう。そうでなかったなら、誰がアメリカみたいな、当時の日本人が誰も行ったこともない所にです。最愛の子供を、それも女の子をですよ。どこの親が遣るでしょうか。
 相手を「信頼する」と言う事は、とてつもない未知との遭遇でも乗り越えるだけの力を相手に与える基になるのです。
 岡山弁て言いますと「でえれえことをするもんじゃなあ」です。

 一方、春子が留学を拝命したのが明治12年ですから。梅子らに遅れること8年ばかり後になります。春子19歳の時です。これすらも、よほど勇気がいったことだと思われます。それだけの精神的な強さが当時の日本の女子にも備わっていたのです。
 たった6歳の女の幼な子にさえ、未知なるものを積極的に学び取ろうとするハングリー精神が旺盛であったかと言う事を物語っています。今、こんな力を持っている親や子がいるでしょうか?
 「明治の力」とは、いったいどんなものだったのか、現代では到底想像さえつかないようなとてつもない大きな「ど」力ではなかったかと、思えるのですが。

鳩山春子さん

2009-09-29 07:48:32 | Weblog
 「初期女学生の思い出」(雑誌「太陽」)に書かれている現総理の曽祖母、春子の手記です。
   

 その手記によると、春子は、信州松本から東京に出て、当時唯一の文部省直轄の女学校へ入学します。明治7年のことです。全国から40人足らずの選りすぐった特別な女子教育のための学校です。日本の将来を背負って立つファーストレディーの養成のための学校です。そのために、当時の日本でも、特別優秀な女の子が選ばれたのです。その中でも、また一番なのが春子だったのです。でも、おしいことに、この学校は明治10年には廃校になっています。それは一説によると、あの西郷隆盛の西南戦争のために国の財政が破綻したためだと言われています。
 
 まあ、こんな最上な特別な女学校で学んだ春子は、素晴らしい学業の進展を見せ、二年間に一番上の級にまで進級しますが、明治十年の廃校後、仕方なく他の学校に行ってみたのですが、どこの学校も程度が低くて春子には飽き足らなかったのです。しかたなく、文部省が新たに設立したお茶の水師範学校に入りました。そこでも、やはり学習程度が低く、英語の先生も日本人で、物足らなかったのですが、とにかく、それから1年半ぐらいして卒業します。明治12年のことだそうです。卒業生は5人だったと書かれています。
 この学校で受けた春子の卒業式が、文部省直轄学校第1回目の卒業だったのです。春子は、この卒業式で、自分の英語作文を朗読します。
 そして、その年に、師範科本科に入学します。特別英語科を首席で卒業したので入学試験は簡単だったようです。
 その学校の試験科目は、作文、講読(?)数学で、再試験は十八史略と日本外史の講讀でした。
 その年に、文部省が海外へ留学する女学生を選定しますが、その内の三人の中に春子も入っていました。
 留学が決まると、そのための勉強も始まります。外国人による英会話は勿論、洋食の食べ方、洋服の着方等「その他いろいろ準備しました。」と書いています。この「いろいろ」が、他にどんなものがあったか、残念ですが何も書いていません。

鯉山学区体大会

2009-09-28 20:00:05 | Weblog
 [あなたの町の体育大会には、どんな演技種目があるのですか」と言う問い合わせがありましたので、春子さんのことは後回しにして、お答えすることにします。

 さて、この大会は、学区体育協会のメンバー約50人の人たちが、毎年。演技種目を決めているのですですが、この4,5年のプログラムを見てみますと、最近はほぼ内容が固まったのではないかと思われます。

 その内、本大会の特色ある競技を拾ってみます。
 まず挙げられるのが、[ゆっくり急いで満水リレー]です。
 バケツに赤い色水を用意し、それをおたまでもって、机上にあるペットボトルに運び入れるのです。早く満水になったチームが勝ちになります。赤い水にしたおかげで、今どれほどの量の水が入ったのか一目瞭然と判明でき、応援にも熱が入るのです。何回か続けて行われた結果の反省から、より興味深い演技に育っていったのです。体協の役員の方々のご苦労のたまものです。
 次は、[廻せ廻せリレー]です。
 これは男子専用の競技です。ご存じ自転車のリームを棒で回しながら競争する競技です。若者よりかえって老齢者のほうが操作技術が上手です。「昔取った杵柄」ですかね。
 これも男子専用にせず、男女一緒にすればと思いますが?
 最後が[災害救援リレー]です。
 女性が子供用自転車を操って走り、土嚢を持った男性にタッチして競争するのです。自転車は、救急車の意味を持たせ、女性は看護師を表しているのだそうです。また、男性の土袋運びは、水害時の消防士の土嚢積みをイメージして作り上げた競技なので、災害救急なのです。これも誠にユニークな演技種目です。

 この他、リレー、玉入れなどの得点種目は、どこの体育会でみられる競技です。また、得点にはならないパンク喰い競争などもあり、全25種目が用意されて演技が繰り広げられます。

 なお、この体育会にはお楽しみ抽選会という企画もされています。

 これら多くの演技種目を通して、年一回ですけれど、吉備津町内老若男女総ての人たちの「ふれあいの場」となっているのは確かなことです。

 体を動かすこっとて気持ちいいことですね。

向畑、町内体育祭で二位の成績を上げました。

2009-09-27 19:46:07 | Weblog
 今日、27日は吉備津学区の体育祭です。町内を、各十区に分けて、町内のみんながそれぞれの競技に参加して得点を競うのです。 
 平成七年度以降、我が町「向畑」での優勝は遠ざかっています。「今年あたりぼつぼつ」と、毎年、町内の期待を込めて選手を選りすぐって競技に参加しているのですが、優勝と言う目的にはなかなか到達できません。残念ですが、何時も三位が一番上で、それ以上の成績は望むべきにもあらずでした。毎年、町民を裏切りるばかりです。

 その中、今年は、若い人が思っていた以上に、多く出場してくれ、思わぬ競技で思わぬ優秀な成績を納めました。
 そなんなわけで、はらはらどきどきで、今年も一種目ごとに、観客席から、熱烈な声援を送り続けました。
 その結果が、堂々の第二位をもたらしましました。思ってもみなかった好成績でした。


 勿論、祝賀会を設けたのは当然です。「来年こそ優勝を」という合言葉の元、和気藹藹の雰囲気で祝賀会が終わりました。

 鳩山春子の「初期女学校の思い出」

2009-09-26 10:50:39 | Weblog
 春子の「初期女学校の思い出」と言う一文を紹介します。

 「私が初めて東京に出て来たのは明治7年で、その頃、女学校は文部省直轄の学校が唯一つありました。明治4年の開校で、日本学の読物英語の読物に重きを置いてていました。私は・・・・」
 という書き出しですが、この女学校の名前もどんな人がいたのかその名前も記されてはいません。
 その学校での英語の学習については、最初のうちは、訳読が中心の英語ではなく、会話が中心の英語で、西洋人について問答をしたり暗誦したりすることだったので、随分苦しかったと書かれています。訳を教えてくれる先生はいなかったので、字引にたよりその大意を知ったのだそうです。
 日本学と言うのは漢学の勉強で四書や五経を読んだのだそうです。郷里にいる時(信州松本藩)勉強していたので簡単に分かったのだそうです。英語もだんだんと分ってきたので勉強が面白かったのだそうです。そして毎月試験があって、ずんずん上級に進んだのだそうです。
 また、面白いことには、試験はあるのですが、落第や卒業というものはなかったのだそうです。教科書があるわけでもないし、何を教えようが教師に一任されていたのです。ある時は数級で授業をすることもあり、また単級の者だけですることもあったようです。
 「これだけは覚えていらっしゃい」と、宿題もあったようです。でも、現在のように何をしなければという決まりはなかく、比較的自由に生徒たちに考えさせたようです。
 春子は、毎月試験を受けて二年間で一番上の級に上がったのだそうです。こんなことは、この学校ができて初めてのことだそうです。
 でも一番上の級に上がったとしても卒業することはなかったのだそうです。
 当時と言っても明治八、九年ですが、英語の部では、自然科学の本、動物、植物、物理、化学、歴史、文法、作文、地理等があって、みんな英語で暗誦したり書物を見て答えたりしたのだすです。
 試験と言っても別々な問題を書いた紙きれを折りたたんで盆の上に用意してあるものの中から取り出して、その題によって答えを書くのだそうです。勿論、英語で書くのです。

 こんなことが書かれています。
 この春子と言う人は、信州の松本から十四歳の少女が一人で東京に出てきて学校に通ったのです(自伝によりますと、人力車で通ったとあります)。それも全国でたった一つしかない女学校にです。大変秀才な女の子だったに違いないです。

 そんな一風変わった日本最初の女学校も明治十年には廃校となったのだそうです。

鳩山春子って?

2009-09-25 10:18:23 | Weblog
 「鳩山春子って知っていますか」
 そんな質問が寄せられました。早速コンピューターのお世話になります。即座に答えが画面いっぱいに出てきました。そうです。昨日の国連総会で、日本の総理大臣として、これから進むべき日本の道を高らかに謳い上げた、あの鳩山由紀夫氏の曾祖母なのです。

 ちょっと横道ですが、その由紀夫氏の演説を。

 [・・・日本が国際連合への加盟を承認されたのは・・・・その時の首相が、我が祖父鳩山一郎でした」
 と。続けて、更に、
 「・・・・・当時の首相である祖父・一郎は「友愛」思想の唱導者でした。友愛とは、自分の自由と自分の人格の尊厳を尊重すると同時に、他人の自由と他人の人格の尊厳をも尊重する考え方です。・・・・」
 と。

 その由紀夫氏が、特に、ここで取り上げた祖父・一郎の母親が、この鳩山春子なのです。

 本棚を整理していますと、偶然に春子の書いた文章を古い雑誌の中に見つけましたので、ご紹介します。
 その本は、1927年(昭和2年)に出た雑誌[太陽」の増刊号[明治大正の文化」の中の「初期女学生の思い出」と、言う一文なのです。
 こんな文章は、なかなかお目にかかれないのではと、「吉備」と、直接は関わりはないのですが、取り上げてみます。

 
 
 

菊池大麓②

2009-09-24 13:07:56 | Weblog
 真庭市呰部(あざえ)に生まれた菊池秋坪は、足守の徐痘館での仕事を終えると、江戸に出て阮甫の三女「つね」と結婚し、姓も菊池から箕作に変わります。そのつねとの間に出来た子の一人が菊池の姓を継いで菊池大麓となり、家名を継いでいます。
 この大麓の二女千代子が、今国連を中心にした世界のひのき舞台で活躍している鳩山総理の祖父一郎の弟、秀夫と結婚しています。

 この結婚については、ただ、偶然に何の関係のない男女が結ばれたと云うのではなくて、親同士が同じ真庭市勝山出身という事が、何か不思議な縁(えにし)みたいなものなって結びついたのではないかと、私には感じられてならないのです。

 なお、秋坪とつねの結婚は、秋坪が箕作家に養子になった時から決まっていたのだと思います。

 この箕作家の家系は遺伝子学上の貴重な資料となって、現代医学教育にしばしば取り上げられているという事も、事実かどうかは分かりませんが、聞いています。
 奎吾・大麓・佳吉・元八の四人は、総て、東京大学を卒業して、日本でも有名な学者になっています。

菊池秋坪②

2009-09-23 10:10:37 | Weblog
 足守の徐痘館で、師洪庵とともに、日本でも最も早く種痘を行った医師団の一人であった菊池秋坪はその任が終わると、直ちに江戸に出て、箕作阮甫の娘「つね」と結婚しています。
 秋坪は13歳で父を亡くして、津山の医師箕作阮甫の養子になっています。
 なお、秋坪の母は夫を亡くした後、(真庭市)勝山に帰り秋坪の妹を育てています。
 箕作阮甫は、養子とした秋坪の養育を適塾の緒方洪庵に依頼して医者の勉強をさせていました。そんな関係もあって、徐痘館の仕事が終わって、江戸に登り、直ちに、「つね」と結婚したのだろうと思われます。

 なお、箕作阮甫には娘の4人がいますが、その娘の2人に養子を迎えております。その人が秋坪と、もう一人が省吾です。

 もた横道へ?
 4女「しん」の養子が箕作省吾と言う人です。この人の本がたまたま手に入ったので持っています。(阮甫の本は残念ながら持ってはいません)

 

 なお、この省吾は26歳の若さて夭折しております。これまた、若死にした秋坪の妻「つね」の後妻として「しん」は、秋坪と再婚しています。

菊池秋坪

2009-09-22 16:25:57 | Weblog
 大麓の娘、千代子さんが鳩山由紀夫氏の祖父一郎氏の弟秀夫氏と結婚しています。何故、この二人が結ばれたのかは、はっきりとは分からないのですが、そのあたりを推理しながら、順次考えていきます。私の想像ですが?

 まづ、はっきりしていることは、菊池大麓の父親は菊池秋坪と言う人です。秋坪と言えば、「ああ、あの人か」と、既に、気がつかれているお方もあろうかと思いますが、念のために、もう一回説明しておきます。
 
 緒方洪庵が、足守に、嘉永3(1850)年、藩主木下利恭の要請に従い除痘館を造り、足守を始め、高松、宮内、庭瀬、早島等の子供たち5000人に、種痘を施して、天然痘の予防を日本で一番早く実施しました。
 ちなみ、日本に初めて種痘の方法がもたらされたのは1849年です。オランダ医師モーニッケと言う人が長崎に伝えています。驚くなかれ、その翌年には、早くも岡山の足守の地で、緒方洪庵が中心のなって、この新しく造られた現在の病院規模があったといわれる足守徐痘館で、種痘が実施されたのです。
 この時、この足守徐痘館で実際に種痘にかかわった医師団は、洪庵とその弟子たち、備中を中心とした洪庵の適塾で学んだ若き医師達14人です。その中に一人に津山藩の医師、菊池秋坪もいました。この人も適塾出身の医者でした。
 この人は、現在の真庭市呰部(あざえ)に生まれています。

菊池大麓の数理釈義

2009-09-21 15:31:43 | Weblog
 再び、鳩山総理と岡山の関係についてお話します。
 曽祖父の和夫が真庭市勝山町の出身です。その家系を見ると、その和夫の息子に一郎と秀夫がいますが、戦後、総理になった一郎氏が由紀夫氏の祖父です。叔父が秀夫氏です。彼は東大教授になり、衆議院議員にもなった人です。その奥様が千代子さんです。この千代子さんの父親が菊池大麓なのです。
 この菊池大麓が、吉備というか津山から出た日本を代表する数学者の一人なのです。
  
 

 次に挙げる本が、彼が書いた[数理釈義]です。多分、現在、岡山には、そんなに沢山はない、珍本ではないかと思っていますが?
 ちなみに、この本は明治19年に出版されていて、値段は1円80銭もします。
  
 
 なお、明治20年頃の日給は、大工が23銭、民間工場に勤める工員は8銭、小作人が10銭程度で、また、当時の平均米価(1升)は7銭5厘ぐらいで、5人家族一か月平均の食費が5円58銭ぐらいだったと言われています。

 そうすると、この数理釈義の1円80銭と言う本がいかに高かったか、ご想像が頂けるのではと思います。
 単純工業労働者の約1月ぐらいの給料に相当します。誰が一体こんな高価な本を買ったのでしょうかね?

向畑の秋の交通安全

2009-09-20 08:17:15 | Weblog
 今年も恒例の秋の交通安全旬間が来週から始まります。そこで、我が町向畑でも、幟旗を4か所に9本、町の人々の交通安全を祈願して立てました。
  まず、初めは、一里塚です。ここは昔から旅人が、己の旅の安全をも祈願した所だと言われています。
 
  

 次は、特に、向畑町内の人々の交通の安全を祈願して、山上様の鳥居に2本取り付けました。この神様は町内に住む人々の身に降りかかる総ての災いを未然に防いでくれる神様です。
    
 

 それから、吉備津様にも、吉備の国の人々や全国の人々の交通の安全をお願いしようと、参道入り口付近へ、特に多く、5本も取り付けました。
     

 
 最後は、我が町内の観音堂です。ここには観音様と一緒にお地蔵さまもお祭りしてあります。お地蔵さんは死者の霊を慰める仏であると云われています。これまで交通事故でお亡くなりになった多くの方々の霊を慰めるためにと、ここにも立てておきました。
    
 


 はたはたと秋風にそよぐ幟旗の横を、赤とんぼが5匹、4匹と、ゆったりと遊んでいます。

愛民者彊 不愛民者弱

2009-09-19 12:45:20 | Weblog
 鳩山新総理の「友愛」とは、一体なんであろうかと思い久しぶりに、例の漢文の先生を訪ねました。
 その先生、玄関に出迎えると、挨拶もそこそこ
 「よう来た。もうそろそろ来るころじゃと思うておった」
 と、手を引っ張るように迎えてくれます。
 「それにしても、民主党は取りすぎじゃ」と開口一番。半年ぶりと言う事もあったのでしょうか、次から次へと、例の難しい漢語が容赦なく口から飛び出してきます。

 「言必ず信あり、行い必ず果たす。斗筲(とそう)の人ではないのだから」
 と言うのです。
 「斗筲、そりゃなんじゃ」と、私。
 「では、講義したろう」
 途端に大学教授に早変わりです。
 「昨日もテレビを見ておってな、新しい総理、鳩山由紀夫の言葉には真実味が見えとった。きっと約束したことはやる。目先の小さな事しかできないような人ではないと思う。百年先まで見通しているのかどうかはわからんが。まあそん意味だよ。斗筲と言うのは一斗二升の小さな入れ物を言うのじゃ。久しぶりのコリャ大物政治家じゃ」
 と、べたぼれです。支持率は72%のはずです。この政治嫌いの先生をしてこうなんですから。
 それからしばらくは、これからの日本の経済・外交、教育等の政治全般についての漢文があちらこちらに覗きながらの鋭い論評が始まります。私は、ただ、黙って聞くだけです。彼のお話が一段落してから、ようやく私の出番です。

 「なんだ。友愛か」と、さも胡散臭そうに言うのです。
 「そうか。愛か。これについて語れば、また、長うなるけえ。まあ簡単に説明してやらあ」
 と、本棚から一冊の分厚い本を取り出して私の前に置きます。「論語」と書いてあります。
 そんな本なんかどうでもええはと、私は思っているのですが、そんなことには無頓着を決め込んで、その論語の本をめくります。
 「見てみな。その愛と言うのがとても厄介な言葉でのう。この論語の中でも有るにはあるのじゃが、確か1,2か所ぐれえだと思うのじゃが・・・・論語にもそうじゃが、[友愛」という言葉は、中国の古典には、総てに目を通したわけではないが、どうも今まで見たことがないように思う。・・・それから、その愛という言葉じゃが、おもしれえことに、あの唐詩選の中にも、みえんようにおもえるのじゃが、確かに酒を愛するとか何とか云うのがあったようにも思えるのじゃが。要するに、中国では日本と違って、愛は詩にならんのじゃないかな。・・・それはさておき、人(民)を愛するとか、親を愛するとか、自分を愛するとかという事には使われているのだが、友については、ほとんどの場合は、敬という言葉が使われているようだ。だから、友愛なんて言葉がないのだと思うよ。愛は自然発生的な情愛を言う場合に使われており、それに対して、人の心の働きが重きをなすような友だち等に使う場合は、むしろ、敬という言葉が使われているようじゃが。だから、友愛という言葉は中国にはないのじゃないかなー・・・・愛は地球を救うなんて簡単に日本人は使っているが、言葉の持つ本来の意味からすると、この場合は、愛でなくて敬という言葉のほうがより適切な言葉となるようじゃが」
 それから、しばらく彼の菜園等も身の周りの話が続きますが
 
 「どうでもええようなことじゃが。君、こんな言葉もあるのじゃ。知っておいてもええじゃろう」
 と、そこいらにあった紙切っれに、例のこぎたないミミズ字で書いてくれました。
  愛民者彊 不愛民者弱
 と

 その紙切れをつかんで、
 「これは、民を愛する者は強く、愛さない者は弱いと、読むんじゃ。意味は言わんでもわかるじゃろうが、自分の子をいとしむように国民を思わなかったらしっぺ返しを食らうのが当然じゃ。だから自民党が負けたのじゃ。敬ではいけないのだ愛でなくてはね」

 そうして、また、例のかんらからからとの大笑いです。それを期に、彼の家から退却しました。
 
 赤とんぼが穂を垂れた稲田の上を心地よさそうに飛んでいます。

「スポーツを語る」

2009-09-18 08:05:10 | Weblog
 大麓先生について書こうかなと思っていた矢先に、私の本棚の一冊の本を思い出します。

 その題名は[スポーツを語る」です。
  
 昭和7年に出た本です。この本の著者は、今を時めく鳩山由紀夫氏の祖父鳩山一郎氏です。
 この一郎氏は、初代の自民党総裁であり、後年、半身不随になり不自由な身ながら日ソ国交回復をした総理大臣です。
 
 彼は若い時から色々なスポーツに親しみ、そのスポーツを通して彼の人生が形成されたと言っても過言ではないと思います。
 「友愛」を、孫の由紀夫氏がその政治理念として取り上げているのも、この一郎氏がスポーツを通して作り上げた理念なのです。それが、即、鳩山家の理念ともなったのだそうです。
 このような家庭に育った由紀夫氏も、当然、一郎氏の生き方を、幼少時分から家庭内で学び、己の人生への大切な指針したのは確かなことだと思います。

 [スポーツを語る」と言う本は、イギリス人のモットーである「紳士的であれ」が基本に書かれています。
 この紳士的であれと言う事は、正義を愛し、人道を尊ぶことを基本にして、邪悪や奸侫(かんねい)を憎み、不徳や背信をひどく嫌い、「嘘をつかない」「出鱈目なことはしない」ということなのだそうです。更に、此の事をモットーに、人としての責任と約束を重んじて、言ったことは必ず実行するし、約束したことは必ず履行するという事が最も重んじられなければならないと、彼は説いています。
 更に、イギリスのスポーツはこの精神が元になって形成されており、そんな意味でスポーツの大切さを訴えておられるのです。

 彼はそれを次のように述べておられます。
 「・・・スポーツは、明朗で、快活で、然も力に満ち溢れているからである。スポーツマンはあくまでも真剣で、一本気で、精進これ務めるからである。そこには一点の邪念もなければ、トリックもない。在るものは全身、全霊を傾け尽くしての、ファイテング・スピリットの発露である。そこにはスポーツの世界にのみ見出される、朗らかで清いフェアー・プレーが演ぜられる・・・・」
 と。

 この一郎氏の考え方が、孫の由紀夫氏の生き方に強く影響を及ぼしていることには間違いありません。この本には、こんな微笑ましい一郎氏の写真が載せてありました。
 
    

  

菊池大麓って知っている?

2009-09-17 09:18:08 | Weblog
 またまた、例の「寶泥」氏からメールを頂きました。

 「昨日のブラグ見た。なにゅうけえたらえんかとどえれえこまっとるそうじゃが、吉備にちいて書こうと思もうんなら、そげん困らんでもええ。いっぺえあるじゃねえか。その一つじゃが、今日の新聞に出ているど。見てみいな。新鳩山総理のことじゃ。その鳩山家の家系が出ているんじゃ。
 
 そのなけえ、「鳩山和夫」・「菊池大麓」の二人の名前があるじゃろうが。この人をしょうけえせんようじゃったら、なにゅうしょんなら、おえりゃあへんぞなあ、と、いわれるぞ。特に、大麓先生は、今じゃあ岡山でも知らん人がよけえ居るようじゃが、ほんまは、吉備の人が全国に自慢すりゃあええような、どえれえ、えれえ人じゃけん」
 と、言いうのです。

 なお、新聞によると、鳩山由紀夫氏の曽祖父[和夫]は美作勝山藩士の家に生まれたと紹介がありました。
 次にある「菊池大麓」ですが、寶泥氏がご指摘の通り、今では知る人ぞ知るぐらいの程度で、ほとんどの岡山県人は知らないのではと思っています。観光案内人1級のテストには出ていると思いますが。

 こんなご丁寧なご指摘がありましたので、後楽園は後回しにして、冷めない内にこの大麓先生について少しばかり書いてみます。

 なお、近頃とみに時間が軽くなったのに比例して、新聞を読む時間が相当重くなってきたように思われます。隅から隅まで読み下しています。今朝もその通りに読んでいると、朝日の[天声人語」に、由紀夫氏の祖父鳩山一郎が建てた「音羽御殿」のことも載っています。
 その記事によりますと、その洋館には半身不随だった一郎首相の来客用のためのお屋敷があり、その一室には、今でも、主(あるじ)の椅子と六つの来客用椅子が並べてあるのだそうです。その来客用椅子を使った人の中に、緒方竹虎と言う人もいたというのです。そうです。この緒方竹虎も、また、ほとんどその名が知られてはいないのですが、吉備と大いに関係がある人なのです。
 由紀夫氏が総理大臣になったおかげで、この菊池大麓と緒方竹虎の二名についてまた、てしばらく書いていきます。

 あれぐらい何にしようかと迷っていたのに、案外簡単なところに書く材料がころがっているものですね。
 

古い後楽園案内書 

2009-09-16 18:48:42 | Weblog
 私の、このブログも我が町吉備津の紹介から始まって、もう3年4っ月ガ経過しました。
 吉備ってどんな所か、私自身も総てにわたって知っているわけではありません。 「岡山県観光案内人」一級なんて望みはありませんが、岡山の代表的なものぐらいは知っていても悪くはないのではと思っって、このブログを始めました。書き出したらその資料集めに随分と苦労させられます。
 今度も「石之日売命」の後は何について書いたらいいか迷いました。

 何かいい資料でもないかと、永山卯三郎の「岡山県通史」をひもときました。するとそこから一枚の観光案内のパンフレットがパラリと机に落ちてくるではありませんか。
 

 「そうだ。まだ後楽園が残っている。これについて少々説明してもいいのではないか」
 と、気がつきました。
 このパラリと落ちてきた「後楽園案内書」は何時ごろのものかは分かりません。多分戦後すぐのものではないかと思います。入園料が大人20円の時代です。ちなみに子供は勿論10円です。現在は350円、子供140円です。念のために。