私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おおつもごりです

2009-12-31 21:42:02 | Weblog
 12月も今日一日を持って終わろうとしております。「おおみそか」です。一年の締めくくりの日なのです。
 どうも、はっきりとした記憶はないのですが、私の住んでいた高梁川の中ほどの地域では、多分、祖母などは、「おおみそか」と言う言葉でなく、「おおつもごり」と、言っていたのではないかと思われます?   
 まあ、そこら辺りはあいまいなのですが、今でもはっきりと思えているのは、正月元旦には、学校中の子供たちが、全員と言っても250人ぐらいいたでしょうか、登校するのです。
 尋常1年生の子から高等科2年生までの全生徒が学校の講堂に入って「正月儀式」を受けるのです。残念ですか、此の行事の正式な呼び方は覚えてはいません。
 いつものように地域別の登校班で学校に行くと、全員が、先ず、校庭に、担任の先生の指示どうりに素早く並びます。それが済むと、先生に誘導されて、校庭の片隅にある大仰敷く飾り祭られている「奉安殿」という特別に神聖化されていた場所から講堂まで二列縦隊で、きれいに並びます。。
 此の時に友達とじゃれあいでもしようものなら後で、担任の先生からこっぴどく叱られる事間違いありません。だから、誰もじゃれあいたい誘惑に打ち勝つ事が出来たのでした。ガキ大将共の集まりですが。
 この講堂での「教育勅語を聞く会」の時だけは、静粛に行事に参加したのだと思います。先生からのお叱りが怖かったのだろうと思いますが、正直に言ううと、此の儀式の後、頂くミカン2個の魅力の方が大きかったからではないかなと、今頃、思いだしています。
 何せ、相手が神様ですから、如何に子供たちとは申せも、大分慎重に聞いていたのではないかと思いま。そのため、先生は大変なご苦労をされていたのではないかと思いました。
 まあ、そこらあたりの事はよくは分からないのですが、そんな子供たちの入り混じった中を、校長先生が、恭しく頭上に掲げた黒漆塗りの大きなお盆の中に入れた教育勅語を講堂まで運ばれます。その間、生徒たちは頭は下げておかなくてはなりません。そこでも先生の目の届かない程の、これ以上の小さな諍いは、めったにお目にかかれないぐらいの、先生の目には、決して、入らないくらいの小さな小さな子供たちだけの諍いがありました。手先や、足先だけの諍いです。子供にとっては神様よりじゃれあいの方がぐんと魅力を感じていたのです。あの退屈な「チンオモウニ・・」よりかよっぽどです。

 こんな儀式が小学校での正月の儀式でした。その式が済んで教室に帰ると担任の教師から、多分ミカン2個だったと思われますが、戴いて、ただそれだけで、後は何にもなしに帰るのです。ただ、それだけの為の登校なのです。そんな登校だったのですが子供たちにとっては、帰ってからの遊びの約束などという大切な子供の行事が待ち構えており、その為に、案外に、楽しいこの行事であったように覚えています。
 私の家から、一寸、遠く離れた所にいる「たこ作り」の名人じいさんの事が、決まって話題になり、10銭か20銭かのそのたこを、此の行事の後に買いに行くのが毎年の楽しみでした。武者絵の手作りの、なかなかよく上がるたこでした

 そんな昔の思い出が、我が家の正月飾りをしていると頭に浮かんできました。老化とは昔を偲ぶ事の時間と比例する、誰かが言いました。
 
 それは兎も角、今日は、ま真冬の満月です。「明朝又一年」の感がしきりです。
 
  こんな昔話を思い出しながら、我が家の正月飾りをしました。
   

オオアンゴウ

2009-12-30 20:47:22 | Weblog
 「カチ・カチ」と、拍子木の音が師走の夜空に響きます。
 我が町向畑の毎年年末に行われている夜回りの行事です。何のことはないのですが、慣例となって執り行われます。
 この近代社会になんて古臭い事をと考えて入るお方も多いのではと思われますが、かたくなに、ただ、一つ覚えの「オオアンゴウ」のようにやっています。

 昨日は15人の人が参加してくださいました。その中の会話に、この「オオワンゴウ』と言う言葉が久しぶりに出ました。

 何という意味だか分りますか?
 そうです。「オオバカタレ」と言う意味なのです。三重県でも使われているとか????

 この夜回りの仲間の中に、一人のテキサス出身のアメリカの若者も加わってくれています。
 和気藹藹の我が町の国際親善の夜回りです。彼も「火の用心」と、しきりに叫んでいました。こんな風習はアメリカにはないとのことでした、念のために。

閑谷学校

2009-12-29 17:59:08 | Weblog
 池田章政侯の永忠の遺績碑の「置岡山閑谷両黌」の中の「岡山藩学校」について、あれやこれやと書いているうちに、思わぬ手間をかけてしましました。
 ここらで閑谷校のことについて、又ちょっくら書いてみます。

 寛文6年と言いますから、花畠に設置していた教場が手狭になったために、石山に仮学館を作った時です。
 藩主光政侯が和気郡木谷村の幽谷を巡見されます。この地が非常に閑静で、熱心に学問する場所として好適地だとお考えになられます。即ち、「山水漸閑読書講学」として手習所を建てさせます。これが閑谷学校の始まりです。

 光政侯は水戸光圀侯と同じようにご自分の藩内をよく見回われています。
 有斐録から
 ・赤坂郡に猟し給ひ、それより数日村邑をめぐらせ給ひし時・・・・
 ・御野廻り、御昼休にて、白魚を御吸物に指上げる。・・・・
 ・御野廻りの節、大いなる蜂の巣を御杖にて落し給へば・・・・
 このような「御野廻りの節」と言う書き出しで藩内の各地を見回った事実が述べられています。「御野廻り」とだけ書いてあり、その場所がいずれであるかは不明です。
 この他、その場所がどこかとはっきり明記してある見回りもいくつか見られます。
 御野郡中原村・野殿村・藤野村・難波町御掘・備中松島・和気和意谷・牛窓・平井村等があります。

 その一つ野殿村の御廻の時の話です
 光政侯が師走の20日過ぎ、御野郡野殿辺りを御廻りなされていたのです。その道筋の村で、小さな家を1,2か所で毀していたのだそうです。それを不思議と思われた光政侯がその理由を御尋ねになられます。すると、「年貢が払えないので、家を売り払っているのです」と、答えたのです。殿は直ぐにお城はお帰りになり。その取り壊した家の者に、御貸米を仰せつけになられたとか。
  
 このような逸話からでも分かるように、備前岡山藩主池田光政と言うお方は、水戸黄門様同様、江戸初期の卓越した藩主でもあったのです。物語にはなってはいませんが。

 こんな話も伝わっているのです。百姓をいかに大切にしたか分かります。
 

どうして岡山藩学校なの。名前はないの?

2009-12-28 13:09:52 | Weblog
 光政侯は、岡山に藩学校を作り、藩士の子弟(原則的に入学を許された者は宗子だけ)の教育を行います。この学校は、ただ、「岡山藩学校」又は「岡山藩黌」と呼ばれていました。
 大方の藩で見られるような、特別なその藩独自の学校の名前は冠しなかったようです。
 例えば、岡山県で見ると、津山藩の「修道館」、備中松山藩の「有終館」、新見藩の「思誠館」、足守藩の「追琢舎」、庭瀬藩の「後誠意館」などのように、それぞれの学校の特色を現わすような名前を付けています。
 また、会津藩の日新館、長州藩の明倫館、米沢藩の興譲館、水戸の弘道館など、全国的にみても、やはり独自の名前を選んで、各地の藩校には付けてあります。
 
 それなら、どうして、光政侯は「岡山藩学校」と言うだけで、特別に江戸時代という特色を感じさせるような、儒教からでも探し出して、熊沢蕃山もいたのですから、如何にも岡山の学校だと言う事が分かる様な名前を付けなかったのでしょうかね。そこらあたり、何か事情があったのかもしれないと思い、有斐録を捜しましたが、残念ですが、何も書かれてはいません。

 どうもこれも推測の域を出ませんが、光政侯はそんな派手派手しいことが好きではなく、平凡が一番いいのだと、お考えになっていらしたのではと思われます。あの「閑谷学校」と言うのも、閑静な学問にふさわしい土地に立てた学校と言う意味から。静かな谷間にある学校と言う意味の「閑谷学校」にしたのです。別に儒教から取り出した明倫・弘道・有終・日新・修道等と言ったような四角四面の何だか息がつまりそうなま名前は採用されなかったのです。ただ、学問に精を出す場所それが学校なのだ。名前なんかにこだわる様な藩主ではなかったのでしょう。「藩学校」それでよかったのでしう。そこで行われる教育そのものの中身を問うたのだと思います。

光政侯の仏教嫌い

2009-12-27 20:33:26 | Weblog
 岡山藩学校は、円乗院跡地と家臣の邸宅を整理して造られたと云われています。寛文8年の事です。

 この円乗院の跡地について、有斐録や仰止録に面白い記録が載っています。

 「岡山藩学校の地に、御祈祷所円乗院あり」と、あります。
 此の円乗院は、もともと御祈祷のお寺で、ろくに祈祷などしたためしがなかったので、坊主を立ち退かせて、そこに、学校を建てたのだそうです。
 しかし、これを不足と思ったその坊主が、年を経て、そうです。しばらくしてからです。学校が建てられた前の円乗院の土地を返してもらおうとして、江戸東叡山の御門主に訴えたのだそうです。そこで。この御門主は、又、大老酒井雅楽頭様に「どんなもんでござろうかな」と、ご相談されます。
 大老と光政侯がたまたまお会いになった時、そのことが話題になります。
 光政侯が申されます。

 「あの円乗院の坊主は、ろくに御祈祷もしないのに、あの地に御祈祷所を設けていたのです。だから立ち退かせたのです。それを恨みに思って腹を立てて、大老の耳にまで入りご足労をかけたのです。返してやれ、と言われるなら返しましょうが、あんな坊主が祈禱しても、ろくにその験は現われるとは思いません。だから、此の坊主の祈祷など、今後岡山では一切させませんよ」
 と。すると、この光政候の思いが、その坊主に伝わったのかは分かりませんが、岡山には2度と帰ってこなかったという事です。

 こんな話が載っています。
 
 光政侯は仏教について随分と批判的なお方でした。
 当時の僧侶の中には、不逞の輩が多くみられるようになり、その天職を忘れて、その教化を蔑ろにする者も増えて、中には、藩政を妨害するような者まで現われます。その為に積極的に排仏を推し進められたのです。
 排仏政策の為に、光政侯が最初に手をつけられたのが、僧侶の数を減らすことでした。その為に、寺院の統廃合を進め、寺院数を少なくすれば、結果として、自然と僧侶の数も減るのです。
 円乗院を取り壊して、その跡地を学校にしたのも、この政策の一環として行われたものです。また、排仏施策を推し進めるために「神儒の道」を大いに推奨されます。それが閑谷学校などと結びつきます。

 でも、光政侯の、この藩内における排仏という政策は完全な失敗に終わっています。なぜなら、人々の生活の中に深く関わり、おいそれと、その生活の一部とさえなっている仏教を捨てさせることはできなかったのです。「仏は強い」と、驚嘆せたのでした。

はん池って知っている

2009-12-26 09:39:22 | Weblog

 光政侯が津田永忠と泉仲愛らに命じて造らせた岡山藩学校に、日本には珍しい冸池(はんち)が設置されていました。今もその遺跡は市内中山下にあります。中央に石橋が架けられ半円の池です。  此処で学ぶ藩の子弟は、まず、南の校門から入り、半円形の池、(これが冸池です)の中央にある石橋を渡って学校に入ります。  此の冸池と言うのは、中国古代の高級官僚養成学校の前にある半円形の池のことで、半円の池の中央に石橋がかかっています。この制度を見習って日本でも数は少ないのですが各地の藩校に冸地を造ったのだそうです。半円形の例は、日本でもあまりないようです。江戸の昌平坂学問所辺りにはあったのでしょうかね??

 冸地にリンクしてみてください。その中で綱政侯は学問にあまり興味がなかったと書かれていますが、それよりも、此の藩学校(藩校)の運営が藩の財政が逼迫したための処置だと言う事が一番の原因なのです。でも、これは光政候のたってのご希望により存続が決まっています。ただし、財政規模は2分の一に減らしています。何だか今日の政治を見るようではありませんか。やっぱり歴史は繰り返されるのです。


高校の授業料の無料化を是非!!

2009-12-25 14:59:07 | Weblog
 何となくあわただしい師走のような雰囲気を醸し出している鳩山内閣の今の内外です。
 政権交代100日目という節目が悪かったのでしょうか。
 此の「100」と言う数字に何かとんでもない縁起の悪さがあるのではないかと、私の持っている明治36年版「和漢名数」で「100」の項目を調べてみました。しかし、此の本の中には100についての項目はありません。
 よく講談本などにある「ここで会うたが100年目」等と、よく耳にしますが、100と言う数字はそんなに縁起の悪い数字ではないようです。

 それで一安心というわけではないのですが、子育て支援とか高校教育無償化などと言った、今までならば、簡単に打ち切られてしまいそうな、此の内閣の重要政治政策は実施されそうですね。高額所得者であろうとなかろうと、そんなものは、本来、国家が責任を持って、全員に当然やるべきことだと、私は思います。
 
 その昔、光政侯が造った岡山藩学校の授業料は無料でした。藩士の宗子だけしか入学が許されていなかったのですが。しかも、出来た当初は藩士の子弟全員の入学が原則でしたが、適応性の問題もあったのでしょうか、しばらくしてから希望者だけが入学を許されたのです。勿論、ここでも授業料は、当然、無料です。
 此の学校の運営のため、藩では毎年2000石を出資しています。しかし、光政侯の隠居後、綱政侯の時代です、藩の財政逼迫により、一時学校を閉じると言う計画が持ち上がりますが、それを聞いたご隠居光政侯は「ご自分の隠居料のうちから500石を出すから」と、存続を希望されたという経緯もあり、藩は、結局、その規模を4分の1に減じて、500石で経営を続けたのです。それが幕末まで続けられます。

 財政が逼迫すると、まず、一番に予算が削られて来たのが、時・場所を選ばず、教育・福祉という政治部門です。岡山藩でも例外ではなかったのです。
 しかし、この政治的原則が、今、破られようとしているのです。こんな面から云っても、此の内閣にもう少し頑張ってほしいものです。歴史的な原則が変えられようとしているのですから。

 なお、又、誤りを例の寶泥氏から指摘されました。
 彼によると、岡山藩校では、8歳から20歳までの子弟の教育をしたのだそうです。16歳までではありませんでした。

不行儀とは

2009-12-24 17:49:32 | Weblog
 藩学校では、学校内で、してはならない事を「不行儀の覚」として、幾つかを掲げてあるます。これも面白そうなので上げておきます。
 此の学校で学ぶ藩士の子弟は、11歳から16歳ぐらいまで男の子です。ややもすれば、規則などという社会的な束縛からはみ出そうとするような若い精力がみなぎりほとばしっている子供たちです。反社会的な行動に興味津津の相当のガサツな荒っぽい事をしでかすのが当り前の年齢の子供たちです。それを、敢て、一つの大人が作り上げた範疇の中に、そうです、一つの型の中にはめ込んでしまおうと試みたのです。
 その為の「覚」なのです。(原文のまま)

 1、出校にて直に座に不着事
 1、用事無之に席を立徘徊之事
 1、足音高くはたはたと走り歩く事
 1、ざれごとする事
 1、ざれ言を云事
 1、ささやき物語有之事
 1、戸障子あらけなくたてあけの事
 1、偽を云事
 1、言葉いやしき事

 右不行儀の品在之侯得ば帳に附置、5つに成候て、出校一日留可申候。右ヶ条の外不行儀は一度断、二度目より帳に附可申候。

 なかなか厳しい「覚」だったようです。「不行儀帳」に五つ印がついたら、一日出校停止させられるのです。

 ここではどのくらいの違反者がいたかということは分かりません。記録に残ってはいないのです。もし、厳しく違反者を摘出したのなら相当多数の子供が出席停止処分を食らっていたのではないでしょうか。九個もあるこれらの決まりは厳守できるわけがないと思えるのですが。

 この他、生徒たちの衣類についても、ここでは決めてあります。
       
      出校衆衣類之事
 1、袷綿入共に、上着は木綿御着可有事
 1、冬中春まで木綿袴一下りの外可為御無用事
 1、洗帷子の外可為御無用事
 1、夏中高宮袴一下りの外可為御無用事
 とあります。
 木綿の衣服しか着用を認められていません。此の決まりの中に「一下り」とありますが。これが何を指しているのが不明です。和服の職についておられる方ならご存知ではないかと思うのですが?又、高宮袴と言うのもよくわかりません。

岡山藩学校のきまり

2009-12-23 21:09:16 | Weblog
 昨日「置岡閑谷両黌」と書いたのですが、これは「置岡山閑谷両黌」の誤りでした。おわびします。
 
 さて、寛文9年に開いた此の岡山藩校にも、色々な取り決めがあります。面白そうなので、ここで又寄り道をします。

     「掟」
 1、入学した者は礼儀を正しく文武両芸を習う事。
 1、家中宗子八歳より入学望み次第で入学でき、十一歳になったならば必ず入学する事。(宗子とは、いわずもがなですが、長男です)
 1、生徒は、年の順に座る事。
 1、教室にいる時は一切無言で、対談(おしゃべり)は一切停止すること。
 1、断りなく学校に出入りすること
      
      「法式」
 1、学校に来てからは、自分の席に、直ちに、端座すること。読書は声を出して行う事
 1、行儀作法が善ければ「善事帳」に書付ける事
 1、1ヶ月欠席も遅刻もない時は善事帳に書付ける事
 1、不行儀があれば「不行儀帳」に書付ける事
 1、教授用の衣類の着用の事(この事は後で詳しく説明します)
 1、学業の寄合衆(同級生)が連れだって遊山等は無用の事
 この他、勉強の方法についても細々と注意書きがしてあります。
 それによると、学校で読まなかった書物を読んだ時などには、それを生徒の善事帳に記載すると言う事まで書いてあります。読み物とは、当然、四書五経です。分からない所は、学校の「読書所」で先生に尋ねよとも。
 
 このような決まりを見ると、寛文の昔から、現在のような通知簿みたいな成績表があった事を伺わせます。
 此の藩学校は、主として藩士の子弟(宗子のみ)の教育として行われたのですが、特別に許可を受けたものに限って庶子の入学も許可されていました。品によりと書かれていますが、此の品とはどんなことを意味するのかは不明ですが、品行方正な子弟のみが、特別に許されて入学を許可されていたようです。要するに、いい子だけが入学を許されています。念のために、庶子とは、正妻以外の女子に出来た子供を言います。この学校は武士の為の教育の場であった事には間違いありません。この他、この学校の授業について、現在、学校教育の場で盛んに唱えられている「自主学習」などについても、大いに奨励しているとことも分かります。要するに、この時代の教育は「個性の尊重」にもとずいた教育であったようです。
 しかし、ここでの教育は、士族のためだけの教育で、一般の百姓・町民たちへの教育とは区別されていました。
 一方、士族以外の教育についても、藩主光政侯はその重要さを深く考えていたようです。「教育こそ国を作る基」として、教育を施すことの大切さを感じていて教育政策を取っていたものと考えられます。
 その為には、為政者側の武士階級と言う一部の者だけを対象にした教育だけはなく、非為政者としての民・百姓に至るままでの万人の教育こそをはと、考えられて、その政策を実現されるようにと、藩主光政侯は考えられたようです。
 そこにこそ、藩主としての偉大さを物語る光政侯の一側面があり、それが、又、明治以降の「教育県岡山」の名を高めた基ともななっている事には間違いありません。

学校の設置

2009-12-22 21:35:12 | Weblog
 永忠の遺績碑には、此の続きとして
 「毎郡與郷校 置岡閑谷両黌」と、言う字が見えます。

 ここに見えるように、永忠は、又、備前藩の藩学校の設立にも大きな影響を及ぼしているのです。
 
 備前藩の学制を見るに、中央には「藩学校」を、又、地方には閑谷学校、村々に手習所、又、私塾寺子屋があり、光政侯が教育の大切さ鑑みて、藩行政の中に積極的に取り入れていたかと言う事を伺わせます。その任務を、これ又、津田永忠に負わせています。

 ちょっとだけ、その軌跡をたっどってみます。

 寛永18年(1632年に花畑の別邸を仮教場として藩士の子弟の教育を教授しています。
 ちなみにこの学校の教師には、熊沢蕃山、泉八右衛門、中江藤樹の子息中江虎之助、林羅山の門人林丈内などの当時一流な学者を集めています。

 記録によりますと、寛文六年(1661)には花畑の仮教場から石山に仮学館を移しております。
 この藩学校の運営に当らせた者に「津田重次郎」こと永忠の名前が出ております。
 なお、ここでは学問だけではなく、剣術・槍術・射術・馬術などの訓練も行われており、この時の石山の仮学館の生徒は八十数名がおったと伝えられています。
 そして、寛文九年に熊沢蕃山を招いて藩学校としてスタートしています。生徒数は八十五名だったそうです。

経済学者永忠

2009-12-21 17:21:19 | Weblog
 天樹院様の御口聞きがあったと思われる幕府からの4万両の借入金を使って、藩は窮乏者の救済に当たります。
 「民の二三度に及びて、米銭を受ける者有、如何にして改べき」
 と、役人が言うのをお聞きになった光政侯は
 「困っているのだ、幾度なりとも与えよ」
 と。言われたのです。

 役人の中には、それをいいことに私しする不届き者まででうに及び、永忠が、新たなる貧民救済方法として採ったのが「社倉法」であったのです。その方法はすでに山崎闇斎の指導のもとに会津藩では実行されていましたが、我が岡山が二番目です。
 この方は中国の朱熹が考案したと言われている貧民救済法です。
 此の方法と言うのは、領主から米4百石を借りて、朱熹が住んでいた土地の民に2割り当ての利を取って貸し、秋には4百石を領主に返し、その利息2割分をを不作の時の救援米として蓄える方法です。

 この社倉法を、永忠は、まず、光政侯に図ってから、綱政侯(1千姫の孫です)に答申しています。
 その資金として、永忠は、藩主綱政候にお願いして、姉(光政候の長女)奈阿姫の湯沐銀?(多分化粧料)1千貫を借りて米2万石を買い入れ、社倉を起こして、毎年わずかな利息で持って領民に貸与して、その利子を貯めて時難の急を救うために考え出させた政策です。数年後には、元利を返済して、なお2万石の米を蓄えるまでになったと言う事です。
 経済学者としても、此の永忠は一角の人物であったことは分かります。

天樹院

2009-12-20 12:04:20 | Weblog
 遠回りしたのですが、江戸幕府が外様大名である岡山藩主池田候にぱっとかどうかわしらないのですが、それも幕府の公式記録の中には書かれてない、現代の官房機密費のような得体のしれない銭、大金4万両を貸し与えているのです。又、後に岡山藩からの幕府に返したと言う記録もありません。
 でも、有斐録や仰止録にはこの事実が書かれているのですから嘘でないことは確かです。
 それは、天樹院さまが大いに関わったのです。
  
 天樹院様とはどなたでしょう。そうです。あの家康公の孫娘千姫なのです。父は2代将軍秀忠です。母はお江方様、弟が三代将軍家光です。

 ここで、一寸この千姫の事を少々。
 大阪城の落城後、千姫は助けられ、後に、本多忠刻と再婚しています。そして
出来た子が勝姫です。もう一人男の子がいたのですが、その子は3歳で亡くなっています。
 その後、夫忠刻と死別して、勝姫と江戸城で生活しています。親一人子一人の生活であったのですが、この勝姫もやがて池田光政侯と結婚され独りぼっちになられるのです。死ぬまで勝姫の事を気にかけ何かと援助を惜しまなかったようです。
 光政と勝姫との子供たちまでも、なにくれとなく援助をしているようでした。
 この千姫が、夫本多忠刻の死後、落飾して「天樹院」となられます。御年三〇歳であったと伝えられています。なお秀頼と結婚したのが七歳であったとか。

 蕃山は、光政の奥方、お勝方様を動かしたことは確かです。そうでなかったら四万両の大金を、そうたやすく一大名に貸してくれるはずなないのです。

岡山藩の紋章

2009-12-19 15:06:17 | Weblog
 由井正雪の慶安事件の時、「備前池田藩」からだと言う事で、蝶の御紋の付いた槍の仕込みが入った特別な提灯50丁の注文を、ある江戸の提灯屋が受けます。その提灯屋は、
 「どうしてこんな提灯を」
 と、不思議に思い、念のためにと、備前岡山藩下屋敷に問い合わせます。それがきっかけで、此の由井正雪の徳川幕府の転覆計画事件が事前に解決するのですが。
 
 これについて、また、あの飯亭寶泥氏からお小言を頂戴します。
 「どうして、その提灯屋が、備前の殿さまの下屋敷に、槍を仕込むようなへんてこりんな提灯の注文の事を問うてきたんなら。広島の殿さんの所じゃいけなんだんか。おめえのいうとるこたあ、ようわからんがなあ・・・・。ようかんげえてみい」
 と、いうのです。
 そう言われてみるとそうです。
 
 提灯屋は、なぜ備前藩に、提灯の事を問い合わせをしたのでしょうかね???。・・・どうも、考えてみたのですが解くカギは蝶の家紋しかありません。ひょっとして、池田家の家紋は蝶だったのかもしれませんと思いつきます。早速調べてみました。
 
    

 これが、備前岡山藩池田家の家紋です。説明によると、蝶・釘貫・笹龍膽等があるのだそうですが、本紋は「蝶」だそうです。
 
 これで分かりました。
 提灯屋が備前藩に駆け込んだのは、家紋の蝶を見たからです。ちなみに、江戸では、ご紋を見ればどこの藩だかと言う事は、江戸市民なら、誰でもよく知っていたと言われています。そんな話が落語の江戸世界などでもよく登場します。
 なお、余談ですが、光政候が使った家紋は、此の池田家の家紋のうち(図一・六・二〇)だそうです。

 

光政侯の御料理

2009-12-18 20:24:11 | Weblog
 仰止録に目を通しておりますと、面白い記事が目に留まりましたので、又、横道に反れるのですが、ついてのことに記しておきます。

 それは大洪水の被害にあった承応3年の光政侯の御膳部と正月御祝儀についてです。
 御料理は「一汁二菜で、内、一焼き物 外に御香物」とあります。これが備前の殿さまの正月のお膳なのです。いくらなんでもと、思うのですがこのような質素な御膳で済ましたと書いてあります。
 さらに、正月の祝儀も諸事倹約に努め、例えば、門松も、今までは65ケ所に立てていたのを25ヶ所に、又、総ての船に飾りを付けていたのですがの2艘だけに蔵にも一か所だけ付けて後は飾り付けをしなかったと書かれてあります。
 徹底した倹約を、藩士には勿論ですが、藩主自らも実施したことが分かります。これぞ名君の名君たる所以だと思います


 光政候は、この「倹約」について、常々、次のように言われていたと云う事です。
 「倹約とは、家に倹して、国に勤ると言事にて、銘々、妻子奉養等の私を省きて、軍役公役を勤め、他人に誠を尽し、百姓を救う等の事也」
 と。

由井正雪と備前の洪水

2009-12-17 21:24:34 | Weblog
 承応3年の秋の備前の大洪水ですが、江戸に幕府か出来てからまだ50年も経ってない時代です。それも外様の大名に4万両という大金をよくも貸したなと思いませんか。
 承応3年と言えば1654年です。この2年前に起こった由井正雪の幕府転覆計画の事件(慶安事件)があったばかりです。政治情勢は誠に不安定な時代です。その上、此の由井正雪事件に、岡山藩も関わったのではないかと、一時幕府から疑われたことがあったのですが、それにも拘らず、幕府は、備前藩の洪水による領民窮乏を救うために援助を惜しまなかったのです。一説によると四万両と言うお金は江戸幕府の公式記録にはないそうですし、そのお金が返金されたという記録もないと云う事です。と言う事は、只で四万両のお金を幕府は岡山藩の為に与えたと云う事になるのだそうです?
 なお、これもちょっと横道にそれますが、由井正雪の慶安事件について触れてみます。
 此の事件が、俄かに明るみに出たのは、正雪の部下がその計画を幕府に垂れこんだために発覚したと云うのが、小説では取り上げられるのが普通です。
 しかし、「仰止録」によると、岡山藩主池田光政候がその計画を事前に察知して幕府に知らせたために、江戸幕府転覆という大事件が起こらず、事なきを得たのだと書かれています。
 それによりますと、江戸城襲撃を計画した正雪が、この事件の前に、「備前屋敷のご用である」と、蝶の紋付模様に、その柄に槍を仕込むような一風変わった提灯を五十丁を日切りして注文したのだそうです。此の提灯屋が、これを不審に思い、念のためにと、備前藩に「あなたの藩はこんな提灯をご注文されましたか」と、問い合わせをします。そのことを、朝食の時、係の役人からお聞きになった光政候が、直ちに馬を馳せて、「火急の用がござる」と老中に面会を求めます。老中は「公用がはたくさんあるので後で会う」と言ったのですが、「どうしても急用で会わねばならないのだ」と、重ねてお願いします。そして、ようやく事で面談が叶い、講談調に言うと「これこれしかじかこうなって」と、あらましを光政侯は老中に詳しく話します。
 此の事が元で事件が一挙に解決を見たと、これには書いてあります。
 
 これは公の歴史の表には決して現われない史実ですが、この仰止録には顔を覗かせています。まあ、こんなんこともあって備前藩も、紀州藩と共々に此の事件にかかわったのではないかと疑われていたのは事実なのだそうです。

 この事件が起こった二年後、大洪水に見舞われた岡山藩は、幕府から四万両のお金を借りているのですよ。普通では考えられないことなのですが、そのこととは関係ないのですが、ある人物がいたから四万両と言う大金を幕府から借り受けることが出来たのです

 ある人物とは?