私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

世界に於いて最も劣悪なる者なり

2011-12-23 12:35:16 | Weblog
 また、次のようなことも、ビスカイノが見た日本について書いております。

 「一般人民は甚だ悪しく、予は之を誇張することを好まざれども世界に於いて最も劣悪なる者なり」
 と、あります。
 「甚だ悪しく」というのは何が悪いのかは分かりませんが、多分生活の様子だと思われます。世界一まずしい暮らしをしていたと云うのです。その為に「彼等は金銭の為め子女及び妻女を売却す。」とも書いています。一部凶作の時の東北の農民などの生活はそれと等しい暮らしぶりだったと思われますが、我が吉備の国の歴史を見ても、それほどの事はなかったのではと思われます。

 なお、ビスカイノが主に観察したのは、東北地方でしたので、そのようなことを頻繁に見聞きしていたからではないだろうかと推測できますが。

 でも、日本の歴史を通じて農民を始めとして一般に人々の生活は決して楽ではなかったことは確かですが、そのような窮乏の生活の中だったからこそあの豊かな日本独特の文化が醸成されたのではと思われます。祇園祭りしかり、各土地々にごく自然的に発生いたと思われる日本人独特の文化的創造能力の高さまでをビスカイノには見抜く力はなかったのだろうと思われます。

 なお、このビスカイノ時代と少し時間が経っているのですが、備前岡山藩主だった池田光政の時代に起きた岡山市内の大洪水の時、岡山藩は、農民などの災害被災者のために4万両という大金を出して救済しています。決して「世界に於いて最も劣悪なる者」ではなかったはずなのですが。

 この報告の中で、更に、彼は、「米十袋の内七袋、大麦其他穀類は十分の四は皇帝又は領主に帰す」と、日本の税制についても記述しておりますが、当時の税制は、大概は五公五民で、中には四公六民の所もあったのです。だから、世界一劣悪ということではなかったのではと思われます。

文字の書き方は簡易なり。

2011-12-22 16:01:55 | Weblog
 文字についても書きとめています。「簡易なり」とありますが、どうしてそう思ったのか、その論拠については何も書いてありません。日本の文字は漢字を使っていますので、そんなに簡易ではないなずですし、ひらかなにしても、当時の書物など見ると続け文字で書かれており、簡易にそれを読み下すことは難しいのではと思えるのですが?????

 それから
 「貴族は礼儀正しいが、又虚栄心、没常識及び慢心大にして血統及び武器を重んず」とあります。この場合、貴族とは武士の上流階級である大名を指すのだと思います。見得ばかり張りあい、人には負けたくないし、それだからと言って、頭脳明晰というわけにはいかず、己を知らず、ただ血統や自分の持っている刀ばかりを自慢するような輩だとビスカイノはイスパニア国王に報告しているのです。なぜ、そうなったのかと言いますと推測の域を出ないのですが、家康がイスパニア人を随分と嫌って、其の待遇がオランダに比べて大層悪かったことにも原因があるのではないでしょうかね。      更に
 「又外見を張るが故に収入多額なれど常に負債を有す」とあります。江戸の大名屋敷など見知っていて、それをもとにして記したのではと思われます。

しばらくぶりにわたしのブログを覗きます。

2011-12-21 13:57:24 | Weblog
 一寸、スランプではいのですが、書くのが面倒になって休んでいましたが、又、ぼつぼつ始めます。

 さて、ビスカイノの日本探検記も少なくなりました。日本の政治体制に付いて、彼の両の目をはっきりと開けて書いたとは、到底、思えないのです。「支配者に服従するのは恐怖に基き愛情に因るもにあらず」と、書いています。これは、昨今の北朝鮮の情勢に何か似ているのではないかと思われますがどうでしょうかね?????「力」によってがむしゃらに民衆を抑え込むやり方です。之について、ビスカイノは、又、書いています。

 「・・・他の方法に依りて之を治むること能はざるが故なり」と。

 力に依るしかその政治体制を維持することは難しかったのでしょうか。「罪を犯せば直ちに罰を加え」、そして、「死刑に処するなり」と書いています。
 なお、当然、日本独特の死刑方法である「切腹」について書いていてもよさそうに思うのですが、それは見えません。刀を振り回して切り合いをすることはあまり罪にはならず、平気で切り合いをしていると云うのです。戦国末期の世ですからそれぐらいの事は当然行われていたと思うのですが、事件が小さな時は「指を断つ」と見えます。やくざの世界では、そんな風習があったと云うことは小説などで知ることはできますが、そんなんことが日常に庶民の間で行われていたということはないと思われます。これもビスカイノの聞き間違いです。

 更に、彼は、日本には弁護士も検事も警官もおらないで、土地にひとりの判官がおって取り締まっており、彼に依って裁判も行われるとも書いてあります。

江戸初期に於ける日本の法律について

2011-12-12 20:55:45 | Weblog
 ビスカイノは、「信義を守らず」「服従するは恐怖に基き愛情に因るに在らず」と、日本国民の政治体制を説明しています。戦国末期の一時的な社会秩序の崩壊した現象のみを見て言い現わしています。古代から連綿と継続してきた儒教を中心としてきた政治体制など無視した偏った見方をしているものと思われます。

 そのような道徳的な政治体制ではなく、彼が当時2年間に見たり聞いたりした政治は

「其の有する法律を甚だ厳正に執行すればなり。蓋し住民多数なるを以て他の方法に依りて之を治むること能はざるが故なり。是故に罪を犯せば直ちに罰を加え、死刑に処するなり」

 法律が社会秩序の基本になっており。「利益恩恵を以って之を動かすこと能はず」とあります。要するに、情状酌量の余地等は一切考慮しないで、ただ、温情とか賄賂などによってお裁きが決まるのでなく、ただ、法律一本のみで社会体制を維持していくという武断政治が日本の政治の基本的な体制であると断定しているのです。

 

 

信義を守らず

2011-12-10 14:01:02 | Weblog
 ビスカイノは、更に、日本人に付いて次のようにも書いています。

 「彼等は信義を守らず、利害に関する時は子息等も親に服せず、部下が長上に服従するは恐怖に基き愛情に因るにあらず」

 「信義を守らず」とあります。辞書によりますと「いったん約束した事を破らずに、その通りに実行すること」とありました。余りその意味が分からないので、久しぶりに例の「珍聞漢文」先生の家を訪ねました。

 早速、彼の居間に上がり込みます。すると先生例の通りの岡山弁で説明してくれます。

 「そうか信義か?」と言ったかと思うと沢山並んでいる彼の本棚から、これも時代ものらしい一冊の本を持ってきてぺらぺらとページを繰って行きます。
    

 「ここをみてみい。」と差し出します。
 

 何か小難しい漢字がいっぱいに並んでいます。「言不及義、・・・・」と。そして、次の行には「〇子曰、君子義以為質・・・」という字が。

 「こりょうみてみいなあ。はじめのはな。まあなんといやあええんか、おおぜえのもんがはなしょうて、そのはなしょうることに義、そうじゃ道理がなうて、こざかしい事ばあ、その場限りのことばあ云っている。嘆かわしいじゃあねえか。という意味じゃ。ちかごろ、わでえになとる、ちかわとかなんかとかいう人のことを、いうておるんじゃねえかなとおもえるんじゃがなあ」

 と、またまた彼の好きな政治のお話に話題が飛びます。時間は直ぐ過ぎて行きます。それから、又、次の子曰に進みます。

 「こりゃな。君子の本質はなあ、義、そうじゃ道理がなくちゃだめじゃということじゃ。信。そうじゃ約束したこた、本気で真心をこめてやらにゃあおえんどということなんじゃ・・・どうも、今の民主党もそうじゃが、政治家は、どいつもこいつも、此の信義がありゃあへんのじゃ。なげかわしいことじゃないかのう、おい」と来ます。

 それからしばらくの間、彼の特異なお説教を聞きました。それにしては、此の信義という意味が、私には、まだ、あまりよくは分からなかったのですが、要するに、ビスカイノが聞いたり見たりした1600年頃の日本には孔子は云っているような正義も仁義も信義もない、とんでもない不道徳な非文明の野蛮国だと云う事を言っているのだと思います。

 それから、しばらく世間話をして「もうちいたあー おりゃあええがな」という彼の家を後にしました。

 

「簒奪(あんだつ)」って何?

2011-12-09 17:53:05 | Weblog
 豊臣秀頼の事を「簒奪(あんだつ)」「覬覦(きゆ)」な者と、昨日のブログに書いたのですが、「簒奪」の読み方は“あんだつ”ではなく、正しい読み方は“さんだつ”でした。訂正します。

 それにしても、ビスカイノは2年も日本に居たのですが、後世の日本の歴史家すら言及していないような不確かな情報しか入手できなかったと云うことは誠に不思議な感じがします。その一つが次のような記事からも伺われます。

 「国民は大に武事を好み、小児の未だ離乳せざる者に刀を帯せしむる程なり」

 と。

 どうでしょうか。これなどは、どうも一歳の宮参りか、それとも、「七五三」の男児のお祝いの時の宮参りか、西洋にはない、日本独特な風習から想像したことでないかと思われます。このような日本の幼児期の風習と関ヶ原以後の戦国浪人が至る所にたむろして喧嘩が絶えないような騒然とした日本の世相とが結びついて、彼の目に、即、日本人、イコール好戦的な国民だと映ったのでしょうか。それにしても「餓死することを以って戦争以上に望む事なし」と、いうのは何でしょうかね。
 
 なお、ビスカイノは1613年10月日本を離れています、豊臣家が滅亡する冬、夏の大坂の陣は見ずに。

「簒奪」「覬覦」。 もしかして国語検定?

2011-12-08 10:41:03 | Weblog
 ビスカイノが聞いた秀頼の噂として、「簒奪(あんだつ)」とか「覬覦(きゆ)」とかと、まるで漢字検定の時に出てくるような難解な漢字を使って説明しています。
 この言葉は一度くらい聞いたとしても、すぐに忘れてしまうような言葉ですから、もう一度、その言葉の持つ意味について書いておきます。

 ・簒奪とは、本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取することです。また、覬覦とは、身分不相応なことをうかがい望むことです。

 要するに、ビスカイノに云わせると、彼の頭の中に描かれていた秀頼のイメージはその資格もなく又身分不相応な者だと云う風に映っていたのでしょうね。

 更に、続けてビスカイノは

 「武士は今日まで平和なりし為め餓死せんとするを以て戦争以上に望む事なし」
 
 と、書いています。

 この辺りの書き様がどうも私には理解しがたいのですが、皆さんはどう思われますか??

 「世の中に戦争がなく平和であるために、武士は、当時で一番恐ろしいことといえば飢え死にすることぐらいであって、戦争など恐ろしいとは思っていなかったのでしょうか」と、これを私は解釈をしているのですがどうでしょうかね。

 でも、其の当時は、あの戦乱の続いていた戦国の末期の世の中なのですが、東洋の端っこに在る取るに足らないちっぽけの日本の情勢など、ヨーロッパ人が知る由もないのが当たり前ですね。1600年の初めごろは世界観それぐらいだったのでしょうか。

 最初にヨーロッパ人が種子島に漂着したのが1543年ですから、この時は60年ほどしか経ってない時です。当り前であると言えばそれだけですが、当時の情報の伝達の速さはそんなものだったのでしょうが。

ビスカイノの見た日本国の統治の方法

2011-12-07 20:31:58 | Weblog
 1611年3月にビスカイノが日本に来てから、1612年9月までの間に見聞きした日本の政治体系に付いて次のように書き記しています。
 まず、初めに
 
 「皇帝(徳川将軍)(この場合は家康を指しています)も領主(各大名)も少しも確定安全なる事なし。蓋し他の人々の官職を有するは暴力に拠る所にして、力多き者多く達成するが故なり」

 とあります。

 時期は未だに豊臣家が大阪城に居座り大いにその勢力を保持しています。加藤清正などの秀吉恩顧の武将が大勢いて、未だに徳川政権は安定した時期に至ってまい時代です。群雄割拠の時代です。力のある者が支配者になる事が出来た時代です。それをビスカイノは「力多き者多く達成する」と感じ取ったのでしょう。

 また、「皇帝死する時は太閤の子並びに他の帝位を覬覦する者大戦を起すべし」とも書いています。なお「覬覦(きゆ)」とは、身分不相応な事を願うことです。此処でも太閤の子秀頼ですが身分不相応な者と決めつけられています。「起すべし」です。多分起こすあろうと予想しているのです。それは家康をはじめとして当時の徳川幕府の幕閣達が、皆そう思っていただろうと云うことが、この文章からも読み取れます。この文章が書かれたのは1612年の事です。1614年には、大阪の冬の陣が、家康を中心にして無理やりに引き起こされ、15年の夏の陣の後、豊臣家を滅亡させたのだと思います。

 なお、この家康は1616年に死去しています。75歳です。ちょうど私の年齢と同じです。

細谷川の紅葉

2011-12-04 14:42:42 | Weblog
 又、例の癖です。今年は、今が細谷川の一番の見ごろです。今朝からその細谷川の秋を楽しみに出歩るいてみました。此処のモミジは廻りの樫等の大木の影響で日当たりがよくありません。その為に秋の真赤な紅葉はあまり期待できないのですが、もしや今年はと、毎年カメラに納めにまいります。今年は気温が高かったせいかもしれませんが、例年になくその色艶が見事でした。

 細谷川のモミジは藤井高尚先生が好きで沢山のお植えになったのだと云う話を地域の古老から聞いています。その歌碑もひっそりと建っていますが、その字は何時しか消え去っていて、何を書いてあるのが読めませんが、その碑の傍に在る立て看板によって知ることができます。

  

  もみじ葉はたにふところにかくしたる千しほの玉の林なりけり

 なお、千しほは「千入」で、何度も何度も染料に浸けて染め上げる事を云うのだそうです、その千しほをお見せします、写真をクリックして頂きますと大きくになります。

      

堺の市

2011-12-03 11:38:53 | Weblog
 ビスカイノは大阪の次にこの堺にもやってきています。商業の町であると紹介しています。
 「海岸の大きな湾内に在り、船の港にして帝国の船悉く此処に集れり」とだけ書かれてあります。

 それからビスカイノは、再び、江戸に帰ります。何のための京・大坂への旅だったのかは不明ですが、見方に因れば、京や大阪辺りの豊臣家の情勢を探るための利用されたのかもしれません。そう考えると、大阪城の秀頼の出鱈目な情報も何となく理解が得られるように思われます。
 そして、1612年7月9日に駿府に帰り、家康に大阪湾一帯の測量図を差し出しています。
 この頃、徳川家康は、基督教に対して不信感を持つようになっており、ビスカイノ達イスパニアに対して余り好感を持って接してはいません。そんな中で、ビスカイノは、直接、家康に逢うって話をしたいと思っていたようですが、その望みも達成できず、すぐに浦川に引き返すよう命令に従っています。
 これには、日本歴史の中ではあまり語られませんが、「岡本大八事件」が深く関わっているのですが、あまり話が込み入ってきますので止めておきます。興味のある人はインターネットでお調べください。

 尚、家康の「基督教禁止令」が出されるのは、1613年です。そしてその翌年、1614年大阪冬の陣、15年に夏の陣が起り、豊臣家は滅びます。ご参考までに。

甚だ肥満し自由に身体を・・・・

2011-12-02 10:08:44 | Weblog
 秀頼公について記述です。誰がそのような情報を提出したのかは分かりませんが、彼を大阪城に幽閉して、何人も彼と語ることを許さないと云うのです。当時、まだこの大阪城には淀君がいて、その勢力には徳川家康とて迂闊には手を出すことはできなかったのです。それを、さ徳川家康がいとも簡単に幽閉できるはずがありません。
 更に、「簒奪(さんだつ)」とありますが、「簒奪」とは、<本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取する> という意味ですが、大阪城では、秀頼こそ「日本の君主である」と、強く思っていたことは確かです。秀頼が簒奪するとは決して思っていなかったのも事実です。秀頼こそが真の日本国の君主であり、家康こそ簒奪者だと思っていたことは確かだと思われます

 それから、更に、面白いのは「夜会及び演劇を行う多数の婦女」と接していると云うのです。これは、当時の白拍子(浮かれ女)など得体の知れない怪しげな女だけが彼と接したと云うのです。千姫との関係からも、是も到底事実だとは思われません。その年齢も三十歳とありますが、それも間違いです。1611年には秀頼は20歳になったばかりです。又肥満の為自由に体を動かすことが出来なかったとありますんのも間違いです。

    
 これが現在に伝わっている秀頼の肖像画です。

 このような歴史的事実とは全く違っている事を、ビスカイノが信じ、イスパニア国王の元に正式報告書として提出したと言うことだけが事実なのです。

 どうして、こんなでたらめな情報をビスカイノに伝えたのでしょうかね。


ビスカイノが聞いた秀頼

2011-12-01 17:49:37 | Weblog
 京都に25日間滞在したビスカイノは伏見を通り大阪に行きます。

 大阪について、日本の歴史上では、誰もが想像した事がないような奇天烈極まりないような話が、多分、幕府の下っ端役人が創り上げたような噂でしょうが。そんなものを書きとめています。ということは、イスパニアが江戸幕府に豪く遠慮して、当時の一方の雄である豊臣家をさげすむような見方をイスパニアの公式文章として残しているのではないかと思われます。この記録は1612年のことです。勿論、加藤清正の二条城の毒まんじゅう事件の前の話です。


 「大阪の市には皇太子の女婿なる太閤様の一子あり。彼等は帝国内最良なる城の一に彼を幽閉し、何人も彼と語ることを許さず。げだし簒奪に付きて語り。皇帝に対して戦いを開くの心を起こすに至らざらしめんが為めなり。是故に彼に侍するは夜会及び演劇を行う多数の婦女なり、甚だ剛勇なる武士の子が情弱に流るヽを見るは嘆しきことなりる太閤様の一子在り。彼等は帝国内最良なる城の一に彼を幽閉し、何人も彼と語ることを許さず。藎し。彼は三十歳を越えざるに、甚だ肥満し自由に身体を動かすこと能はず。」

 大阪城の秀頼の事です。誰がこの情報をビスカイノに与えたのかわ分からないのですが之をどう読み下していけばいいのでしょうか。なかなか面白いと思われませんか。そこら辺の事は改めて、また、明日にでも書いてみたいと思います。