私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

高尚の文章論

2012-12-25 09:46:01 | Weblog

 高尚は、更に、文章について、次のように言っています。

 「文章は歌よみにても神道家にてもすこしはまなぶべきもの也。これをまなばざれば一くだりかく歌のはしがきもはやあやまりて見ぐるしきもの也。神道家もこれをかかざればなにをもてことをしるしおくべき。さてかき候と甚おもしろきものに御座候。野生は歌よりも文章をこのめり。」

 ここに見られるように、高尚は何に付けても文章を書いております。例えば、先に挙げた自分の著書三〇巻を天保六年正月に吉備津神社に奉納しておりますが、その時にも奉納のための祝詞もわざわざ宣命体で書いております、更にその書に添えた歌まで作っております。あやごろももという文に
 「二日けふもも同じよそひにてまゐり三十巻の書の箱にいれたるをささげ奉る。その書にそへたるうた
    さくら木の板にゑりてもみそ巻のふみのことばの花ぞ色なき
 此ふみどもはおのれわかかりし時より物まなびに深く心いれてみそじにあまれる頃・・・・・・」
 と。
 また、その年の九月には京の吉田家より霊号を賜っておりますが、この時にも、その喜びろ宣命体にて文章に書き現わしております。このように何か事あるごとに高尚は文章に書き表しており、<甚おもしろきものとか文章をこのめり>とかいているように、そのことを実証しております。

 


高尚の文章論

2012-12-20 17:44:24 | Weblog

 昨日の歌学に続いて、文章について。

 「上古の祝詞宣命令の類が文章の根本也。さて今かくには諸家の物語、歌集の序など也。これをよく講習して自らも文章を書べし。此事も野生委く考あり。つれづれ草よりはやみだりなり。法則とならず。御面談に可申上候。」

 と述べています。宣命というのは、天皇が宣(の)りたまう大命(おおみこと、命令)を漢字だけの和文体で記した文章です。この文体を宣命体と言います。これが文章を書く上で大切な根本的な決まりだというのです。今の人でこんなことを云う人がおられましょうや。それぐらいこの高尚という人は日本の古典をものすごく研究していたのだと思われます。

 ここで又横道にそれます、高尚が天保六年にその著書を吉備津神社に奉納していますが、その時の祝詞が宣命体で書かれていますのでご紹介します。

 「言久母綾尓畏我皇大神  大吉備津彦命廣前宮司奈留従五位下長門守・・・・(カケマクモアヤカシコワガスメラオオカミ  オオキビツヒコノミコトヒロマエミヤツカサナルジュゴイゲナガトノカミ・・・・」
 と。余り長くてもと思われますのでこの辺で????


高尚は国学を

2012-12-19 16:07:49 | Weblog

 高尚は国学をどのように見ておったのかト、その分かる消息もあります。

 「国学も分けて申候へば四しな也。
 〇歌学 万葉より二十一代集、近く草庵集まで也。草庵集より後は詞つづきてにはにむり有之みだり也。此事野生委く考ありて本居翁にかたり候所同意也。ご面談に可上候。


被御面度御座候とかきましたが

2012-12-18 11:48:24 | Weblog

 井上通泰によると、高尚の消息としてその他にも色々と書き添えてあります。それはあまり長たらしくなるので無視しようかと思ったのですが、もう少しだから、序でに全部書いたらという意見を頂きましたので、もう2.3回書きてみます。あまりおもしろくもないのですが、もし、およろしければお読みいただければ幸いです。

 南天荘雑筆に曰く
「儒教は諸名家多、国学を本式に学候者は近国に寥々として一人もなく甚珍敷且本朝之学に候へば本を不忘順道にも叶可申候。・・・・野生儀も唯今はまだ部屋住にて勤学之外は閑暇に居申候へば・・・・」
 と。
 この中で高尚は「野生儀も唯今は部屋住にてとありますから」、まだ吉備津宮の社家頭に成ってない高尚二八,九歳の時のことではないかと思われます


高尚の消息も終わりにします

2012-12-17 21:16:37 | Weblog

 此の外、実際には高尚には多くの消息がありますが、例えば、当時、同じ宮内に住んでいた素封家であった真野竹堂とはしきりに手紙のやり取りはしていたのです。芝居を見学しようと誘いの手紙などあまたのものが現在でも宮内を始め近隣の町々で見ることができます。電話だの郵便のなかった時です。お互いの連絡方法は書面を以ってする以外にその方法はなかったのです。

 橋本経亮、小林義兄、本居春庵、稲掛大平、三井高蔭、宇治五十槻について、其の消息を書いております、誰に宛てたのか何時ごろであったのかはわからないのだそうですが、書き残している物があるのだそうです。その最後に
 [あらまし右の人々と交り候て古学の吟味いたし申候」と書いて、「寒郷書乏、見る所せまく候故歌人も神道家も片意地之理屈を申儀と被存申。書物なくては学びの道ひらけ不申。・・・」と書いて、国学に関する書物が宮内では手に入りにくいと嘆いておられます。

 以上で、これ又長々しく相成り申し候ども、ここら辺りにて被御面度御座候


宇治五十槻(ウジイツキ)

2012-12-16 18:47:09 | Weblog

 高尚はこの人についての消息も書いています。本名は荒木田久老ですが、宇治五十槻としか記してはいません。

 「外宮の社家麻口大夫。此先生は橋本肥後守が師なり。肥後守書状を以参り候て万葉の事など承候。賀茂真淵の弟子にて本居翁と同門たり。真淵の門人も今は多、本居の門に入人御座候へ共此人は一見識にて宣長は神道くさしとて被嫌申候。面白説御座候。万葉集中の事は折ふし以書中相談いたし候約をなし帰り申候」

 とあります。此の荒木田と云う人は本居宣長を「神道くさし」だといって嫌っていたと云う事がよく分かります。高尚が直接この人にあって教えを請うたことはなかったのだろうと思われますが、最初に、井上博士が高尚の消息として取り上げている橋本経亮からでしょうが間接的に万葉集などの話を聞いているのです。


三井総十郎高蔭の消息

2012-12-16 12:01:42 | Weblog

 稲垣大平に続き「三井総十郎高蔭」と云う人の消息も書いております。「三井」でありますから。当然、三井住友のあの三井と関係があるのです。三井家の祖です。これは高尚は書いてはいないのですが。宣長の経済的な援助をしていたのだとも言われています。松坂の人なのです。

 「本居翁門人。これも歌文章数奇也。大平よりはおとれり。この外松坂には町家家中とも本居翁の門人廿人計有之候。一日歌会有之出席いたしみなみな近付に成申候。しかし大平より外は一人も秀候者なく初学に御座候。大平とは入魂にいたしたがいに出精いたし候て翁の説をつぎ東西に古学をおこし可申と約をなし申候」

 とあります。歌会に出席したが、大平以外は皆平凡で、初心者であると。


高尚の消息;稲掛十介大平

2012-12-14 17:44:28 | Weblog

 高尚の消息として、井上通泰博士は、橋本経亮・小林義兄・本居春庵に続いて書いているのが、稲掛十介大平です。

 「業はとうふや也。本居翁の門人也。松坂町人。歌文章は好にてよほど宜。神道はなし。此人甚風流成は暁より起、昼迄家業をかたらき昼より夜にかけて読書。本居門人にては指折の中也。至て入魂にいたし申候」
 と。

 この稲掛大平は、後に、宣長の養子なり、宣長の子「春庭」が失明した後、本居家の家督を継いでいます。なお、この消息を高尚が書いた年代ははっきりしませんが、大平が宣長の養子になったのは寛政十一年ですが、この消息を見る限りでは「業はとうふや也」と書いていますから、その時はまだ大平は宣長の養子になっていない頃だと思われます。高尚が宣長に「再たいめい」するのが寛政十一年五月ですから、此の年の五月以降に、大平は宣長の養子になったのだと思われます。
 でも、面白いのは、この大平を高尚は門人の中では[指折りの中]と書いていることです。門人の中で、特に優れている人達の中では真中辺りにいた人だといっています。ずば抜けて最優秀な門人ではなかったのだろうと思われますが、宣長亡き後は「鈴屋」を継続して、彼にも多くの弟子がいたということです。後に、前に書いた「京の鐸屋」で、高尚などと万葉集などの日本の古学について講義をしております。
 また、天明三年に書いた宣長の弟子、宮地春樹にあてた書簡の中では、当時、鈴屋の門人はこの稲掛大平など3人になったと、書いています。この人は松坂で生まれたということもあって、幼少の時から鈴屋の門をくぐっていたのです。そのような関係で養子になったのではと思われます。
 
 話は変わって、これもこの宮内辺りの噂話かもしれませんが、一時、高尚も、「鈴屋を引き継いではくれまいか」と、宣長から請われた、と言う話が、さも真実そうに云い伝わっています。「指折の中也」と書いている辺りから、そんな噂話場広まったのではと思うのですが???????


宣長へ

2012-12-13 18:36:21 | Weblog

 高尚の若林氏に宛てた書簡はまだ続きます。

 「此度多、古学者に逢申候へ共みな好所に我意をたてしゐたる論いふ人多御座候に此先生は人の論にも被附申、其論公にして真の古学者・真の神道者に御座候。感じ申候て此翁に随身仕候」
 と。
 
 この文章から伺われることは、高尚は宣長の日本の古典、古事記・日本書紀など、多くの研究について、その成果や取り組み方に、痛く感動したのだと思われます。他の日本古典の研究者は勝手に自論を一方的に強調し、それに反する説を強く排撃したのと比べ、宣長は、常に、人の論説に真正面から耳を傾け、正論には進んで賛同し、誤りには厳しく排除するという、真の公の学者だと褒めています。それだから、生涯の師として仰ぐ決意を、この時にしたのだと言っています。
 そんな高尚は宣長のもとで、あの鈴屋に何年居たのかは不明ですが、そのわずかな年数の間に、高尚は鈴屋のと云うより、宣長の四天王の一人として崇められたのですから、相当の実力を、当時、供えていたのだろうということが想像できます。

 なお、私が書いた高尚が「宣長の4天王」というのは、どうも、この吉備地方、それも私の町「吉備津」だけのいい加減な評価であるかもしれませんが、この書簡を見る限りでは、彼のお弟子さんたちの中にあって高尚が、彼をこよなく崇敬していたということはよく分かります。また、宣長の4天王と呼ばれても、決して、他にひけを取らないだけの業績も残していると思います。そうでなかったならば、高尚の著書≪消息文例≫の始書きに宣長の事がが乗る筈がありません。平田篤胤と並び称される様な業績は残しているのですが、当時、吉備津神社の神主として日本の中央、京や江戸から遠く離れた吉備津と云う片田舎に住んでいたという事が、彼の業績に比べ、彼の名声を全国的な地位にまで高める事が出来なかった大きな原因ではないかと、私は思うのですが????

 調べてみたのですが、宣長の師である賀茂真淵の「四天王」というのはあったのだそうですが、本居宣長の四天王と云うのはあったのかどうか不明です。


宣長と高尚

2012-12-12 18:26:23 | Weblog

 高尚は、本居宣長がこんなな事を云ったとこの書簡には書いています。

 [儒におそはれ候て本朝の道うずもれ候事なげきに国学をひろめ候様とくれぐれ被申、約をなし帰り申候」

 とあります。寛政年間の松平定信の改革で、寛政異学の禁が発せられ、朱子学が幕府の教育の中心となるり。それにつれ、日本の古典「国学」の影も次第に薄くなる事を大変心配していたことがよく分かります。それが『儒におそわれ』の言葉からもよく分かります。国学者が、事もあろうに、本居宣長と云った当代一流学者さえ、そのことを危惧していたのです。
 なお、これも余分なことですが、当時宣長達の国学だけでなく、論語を中心とした孔子そのものを研究する古学も、更に、陽明学などの研究の一派もその勢いが弱ったと云われています。
 その中、亀田鵬斎等という面白い人物も此の期には現われています。ご参考までに


本居春庵って知っている

2012-12-10 09:43:18 | Weblog

 本居宣長は号を「春庵」と云います。彼について高尚は、更に、若林氏にその書簡の中で書いております。

 「尤先生耳遠く御座候て直談とどきかね候。この後は不絶筆談を以古書を論じ古学を中国にひらき申度志のよし申候処甚悦申候。儒におそはれ候て本朝の道うずもれ候事なげきにて国学をひろめ候様とくれぐれ被申、約をなして帰り申し候」

 と。
 この書簡を書いた寛政11年ですが、その時、宣長は70歳になったおりました。もうその時は、宣長は相当耳が悪く、直接話ができなかったので筆談で日本の古学について語り合ったとかいてあります。このような宣長の身体の状態について、直接詳しく知る資料は他にはないのですが、この高尚の書き遺したものによって宣長の晩年の様子がはっきりと分かります。
 なお、高尚がこの書簡を若林氏に送ったのは十一年ですから、寛政5年に始めた宣長の鈴屋に入門してから2度目の対面です。
 その時の感動を高尚は、其の著書「神の御蔭日記」の中に「八とせ経て再たいめいたまはることうれしともうれし」と書き残していますが、この「八」と云う数字は四の誤りではないかと云うことです。


本居宣長の消息

2012-12-09 10:54:06 | Weblog

 高尚は本居宣長について、備前の人若林正晃に送った書状の中に

 「名宣長。号鈴屋、松坂三井の裏町に住居。松坂にもしばらく滞留、日々参候て国学専要之儀共論じ候て高論を承候。歌文章の儀は私多年ねり候所甚宜と被賞申、別に論もなく同心に御座候て万葉家の古体を好はあしきよし被申候。神代紀など論じ神道の儀は大に益を得申候」
 と書いております。

 高尚が宣長に松坂で初めて会ったのは寛政五年で、この時の高尚の宣長感です。この時に子弟の契りを結んだものと思われます。なお、寛政十二年に出版された高尚の著書「消息文例」のはしきを宣長は書いております。

 「今の世のうたよみは、おしなべて、歌よむことも、文かくこともいとつたなくして言葉づかひひがひがしく心しらひあやしく・・・・・・このせおそこ文例といふ書をなむ書あらはして、此文かくべきしるべとなむせられたるは、いともいともめでたく、おのれもはやくより心ざし思ふすじにて、いといとうれしく、こころゆきてなむおぼゆるままにまづよろこびがてらかくなむ。      本居宣長」

 と。


小林義兄について

2012-12-07 16:57:45 | Weblog

 井上通泰は経亮に続いて小林義兄についても書いております。

 「近江の人也。京六角池の坊に客居。浪人にやと見え申候。私帰郷ぼ節此男も江洲へひき申候。此男万葉家也。歌文章ともに古体を好みて経亮と交厚し。私も心やすくなり万葉をあしここよみ合申候処よほどぬれ候ものにて面白事御座候。才子にてはなく老功也」
 

 と評しております。才能がずば抜けて優れているのではなく、「よう頑張っておるのう」というぐらいの人物だといっています。なお、「よほどぬれ候」と書いておりますが、此の「ぬれ」ということは男女の情事を意味する言葉ですので、その方面が達者であったのではないかと思われます。高尚は人物評にこんなことまで書きとめているのです。その話が高尚にはとても興味ある面白かったのでしょうかね???


橋本経亮③

2012-12-06 20:35:23 | Weblog

橋本経亮について、もう一つ、そのエピソードについて高尚は書いております。

 「此男和琴をひきけけり」と。その琴を聞きて、高尚は次のような歌を詠んで送っています。

   “かきならす 君がたなれの ことのねは げにうえもなき ものとこそきけ”

 と。そのかへしに経亮は、

  ”かきなせど いまだたなれぬ ことの音に 君が言ばの そふもやさしき”
 
 この「やさしき」と云う言葉について、高尚は、註として「はづかしい」というこころの古語也と記しております。この人について最後に「有職の事をば書通にて相談いたし候約をなし申候」とあります。


別て面白事に御座候

2012-12-05 09:54:38 | Weblog

 橋本経亮との付き合いについて高尚は書いております。

 「逗留中こころやすく出合申、和学の咄に日を送申候。賀茂祭を同伴にて見に参候。故実しりを側におき候ての見物ゆゑ別て面白事に御座候」と。

 ここで、又話を横道に空します。さてここに高尚が書いている「有職」と云う言葉がありますが、これについて、出しゃばるようですが、少々説明しておきます。物の本によりますと、この有識と云う言葉は、源氏物語の少女巻に、夕霧を”誠に天の下並ぶ人なき<いうそく>には物せらると記されて、和漢の文学歴史に精通している人を云ったようですが、鎌倉以降になると、その意味が狭くなって[宮廷の官職や故実を知る学問]を有識と云ったのだそうです。なお、故実と云うのは宮廷の制度や儀礼上の古例や習慣を指すのだそうです。

 宮廷の色々な制度や習慣をよく知っていた経亮と一緒に賀茂祭を見学するのですから、その一部始終を細かく説明してもらえるのですから面白いことに違いありません。「別て面白事に御座候」です。なお[別て]は「トリワケて」と読みます。