私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

弥生の晦日です

2010-03-31 10:03:09 | Weblog
 昨日の天声人語氏は、
 “願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ”と詠んだ西行が死を迎えたのは、旧暦2月の16日。そうです今日だったと語っています。その昨夜の満月は、ややうすら寒い中にも美しい月光が満天に輝いていました。その月を見ながらの春の月見酒を、秋と変わらずおいしく頂きました。
 それは兎も角、新暦ですと、今日が弥生3月の晦日です。当然と言ってしまえはそれまでですが、明日からは4月なのです。
 と、言う事からではないのですが、弥生と言う言葉がやけに心に懸かり、少々調べてみました。

 まず、「やよい」という呼び名が最初に日本の歴史に登場するのは、日本書紀の神武紀らしいのです。
 書紀を開いてみると、神武天皇が「平天下(アメノシタタイラケムト)欲(ホリシタマムトシテ)」、高千穂・筑紫・安芸を経て吉備の国に到着されます。この吉備の国に到着されたのが「乙卯年春三月甲寅朔己未入吉備国起行宮以居之是曰高嶋宮・・・」と、ありました。この「春三月」に「ヤヨイ」とルビをふっています。

 ここにある「ヤヨイ」と言う言葉が、日本で、最初に使われたのです。以後、3月を総て「弥生」と呼ばれるようになります。
 月々の呼び名は色々ありますは、此の「弥生・ヤヨイ」と言う呼び名だけは誰からも異論を称えられることなく現代でも一般に使われているのです。本居宣長からも「ヤヨイ」という呼び方について何も異論を挿む余地がないと言われたそうです。それぐらい一般化している呼び名です。
 なお、此の「弥生」と言う言葉は、春になって一斉に草木が萠出て弥(いや)生ひ育つと言う事から、「いやおひ」・「やおい」・「やよい」と変化していったのだそうです。
  
 3月は「弥生」だけではなくその他の多くの呼び名が付けられていると言われます。書物によると「花見月」「桜月」「春おしみ月」等がありますが、その他、とても変わった呼び方として「季春」「沽洗(こせん)」「寐月(へいつき)」「暮律」「清明」「嘉月」「花飛」「花老」などの聞いたことも見たこともないような言葉が沢山並んでいます。

 でも、明日からは4月「卯月」です。ここに上げたような3月を呼ぶ言葉は、又、私たちの身の回りから完全に消えうしてしまいます。しかし、桜冷えの影響で、今年は、まだまだ、当分の間「花見月」「桜月」等の言葉が活躍しそうです。こんなことを考えておりますと、うれしいようでもあり悲しいようでもある今年の春です。

  花冷えに 逡巡と季は 長居して
  長居する 花も小鳥も 春に飽き
  潔よく 散らぬ花見る 花見かな
  いつまでも 下から上まで 花いっぱい
  今日もまだ 散らぬさくらの ここあそこ
  
  はようちらにゃあおえんど 遅ざくら見上げて 大きく息を吸いこむ 

        

かかる道は、いかでかいまする

2010-03-30 15:27:42 | Weblog
 〈宇津の山を行に、蔦も楓もはや散ぬる跡のけしき、淋しきもいわんかたなし〉と宇津の山を行くと時に綱政はそう綴っています。これは、あの在原業平の伊勢物語を土台にしていることは間違いありません。

 業平が宇津の山を越えるとき
 「・・・・宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに」とあり、その後続いて「蔦、かへでは茂り、もの心細く、すずろなるめを見ることと思うに、修行者あひたり。『かかる道は、いかでかいまする』と言うを見れば・・・・・」
 と、あります。

 業平は、きっと、「すずろなるめを見る」、あるはずのない心細い目をみる事だろうと思ったのですが、偶然に、京で顔見知りの修行者と、ばったりと出くわしたというのです。
 「僥倖」そのものです。そんな偶然の幸運にも出会う事が出来るのが「旅」そのものだと伊勢物語は強調しているのだと思われます

 しかし、綱政は、旅にはそんな幸運なんてしばしばあるものではありません。私の宇津の山越えは、淋しいさだけの旅ですと強調することによって、業平の旅との違いを訴えているのだと思います。 

 宇津の山を行くに、「さびしさもいわんかたなし」として「しげりあうつたも楓も散りぬれば行くへさびしい宇津の山越え」と、歌っています。現実には、1000人以上もの人たちの行列であったことには間違いありません。そんなに「さびしさもいわんかたなし」のはずはありません。しかし、あたかも東海道を、お伴も誰もいない自分一人の旅である如くに、伊勢物語に似せて、文学的に、このような修辞を使って文にしたのです。
 
 何回も書いているのですが、幕府の綱政侯に対する評価の〈不学文盲短才モマタ珍シ〉とは、ちょっとおかしいのですが???、短才どころか和漢の書物を勉強した、非常に優れた文学的才能の持ち主で、相当に高い教養人であったことには違いありません。

宇津の山 綱政の歌紀行より

2010-03-29 17:04:58 | Weblog
 しばらく吉備津の桜にうつつ抜かしていたのですが、時ならぬ寒さのため、花びらが驚いてか満開の時を遅らせているようです。

 さて、吉備津の桜自慢はこれぐらいにして、再び、綱政侯の歌紀行を続けます。
 
 江戸を神無月の10日に出発して小田原、箱根、三嶋を経由して浮島が原を通り夜更けに清見潟を過ぎて、その日は江尻に泊り、14日に、江尻を出発しています。

 「うつの山は、ちかからぬこなたの山の木陰を過るに、里遠く身にしむ嵐に、木葉散りずく折から猿の鳴ければ

       里遠く こぶかき山の 下さむし
               みねのましらの 声ぞ物うき

 宇津の山を行に、蔦も楓もはや散ぬる跡のけしき、淋しきもいわんかたなし。源宗于朝臣が、山里は冬ぞさびしさまさりけりと読る事、今身にしみて覚。」
 と。

       しげりあふ つたも楓も 散りぬれば
               行衛さびしき 宇津の山越

 「ましら」と言うのは猿の事です。源宗于朝臣の山里は・・・と言うのは、例の百人一首にある
  “山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬとおもへば”
 です。
 誰も通らないさびしい山道で、東海道の難所の一つであったのです。
 そうです。綱政侯は歌人らしく、やはりここを無視して通るわけにはいかなかったのだと思います。ちなみに光政侯は、ここより薩た峠の方がむしろお好きであったと考えられます

   

平安桜

2010-03-28 16:05:39 | Weblog
 吉備津発、桜の便りは今日で終わります。

 吉備の中山が、常に吉備津には付いて回りっております。だからというわけではないのですが、今日の桜は、厳密に言うと吉備津の桜ではないのですが、吉備の中山にある桜を吉備津の名木をして取り上げさせていただきます。
 それは吉備の中山茶臼山古墳の直ぐ東南の窪地にある八徳寺の境内にある桜です。

 この八徳寺と言うのが、それ自身どうしてここにあるのかその由来など一切分かってないのです。藤原家親が流されたお寺であったとか、温羅を祭ったお宮であったとか、吉備津彦命の御墓を祭る所とか、池田光政によってお取り潰ぶしになったお寺だとか、諸説ぷんぷんです。

 この神社の入口付近に大きな二本のヤマザクラの木があります。今満開なのですが、あまりにもその木が大きすぎて、咲いている木の全貌が下からではよく分からないのです。
 桜の咲いている総て様子は想像するほかないのです。果たして、美しいのか、そうでないのか。
 尋ねる人もなく、独りで大木にいっぱいに付けた花びらを持てあましているようでもありました。
         

   人知れず 空に彩る さくらばな
              鳥の羽音と 春を戯れ 
   へいあんの むかしをかたる さくらばな 
              いえちかはいずこ そらにまいちる
   独り咲く 平安桜 風に舞い
              思わぬ恋の 居所問うか 

水に写る逆さ桜

2010-03-27 16:21:15 | Weblog
 今日は、吉備津の桜のその3をご紹介します。
 この桜も、また、この近辺にはない珍しい水に写る逆さの“しだれ桜”です。
      
 大きさやうつくしさだけなら何処にでもある様な普通のしだれさくらですが、ここ吉備津のそれは吉備津神社の龍神池(御手洗池)の水面にその姿を写すしだれ桜です。
     

 空と水の両面に淡いそれこそ桜色を3月のキャンバスに大きく描き出しています。風が水面を揺さぶると、その中にはたちまちのうちに桜のグラデエーションが広がり、幻想と言うか一幅のオブゼ、そうです。あのアブストラクションを見るような心地がします。そこに展開されるオブゼの時間的な変化とは対照的に空にある桜は雄大に且つ繊細に自然そのままの姿を優雅に映し出して、この2つが織りなす実と虚の対象が描き出す自然の芸術家は、風と言う媒体を通して、どんな絵描きであっても、決して描き出すことが出来ないような素晴らしいとしか言いようのない一瞬の美を生みだしてくれるのです。
 こんあ景色ってそんじょそこらに転がっているような安っぽい景色ではありません。ここ吉備津だけにしかありません。これも一見の価値があります。

 なお、このしだれ桜の横に、この池を覆い尽くすように枝を広げている這え松があります。この松も水と空にその姿を映し出しています。これも、やっぱり桜と同じように風がなかったら、桜と松が織りなすアブストラクションにはなりません。
 この桜と松と風に、更に、雨が加わる、此のオブゼは最高の作品に仕上げられ、それこそ神の領域の美を造り上げるのです。



 昔の人が、散る花びらに、その宿りを訪ねてまで恨みを言いたいと嘆かしめたあの風ですが、吉備津のこのしだれ桜には、その風がなかったなら全然話にならないのです。風が吹いて初めてその風情が湧き出るのです。よそでは考えられない風景なのです。ここ吉備津だけの特別なお花みなのです。
 明日は、どうも雨模様のようで、その上、風でも吹いてくれようなら、それこそ鬼に金棒です。志村ふくみの言う「色の音」が、そこら辺りから聞こえそうです。聞きにいらっしゃいませんか。

吉備津桜の開花

2010-03-26 11:19:50 | Weblog
         
 3月20日には、まだ桜の花びらはほころびかけてはいましたが、開花には至っていませんでした。それが2,3日の雨に打たれている間にやや蕾の先の桜色が膨らみを増していたのですが、完全なる開花には至っていませんでした。それが昨日、25日には、冷たい弥生の雨に打たれながらですが、2,3輪のあるかなしかのけなげなしい薄桃色の花びらをさも冷たさそうに、我が姿を恥じらうように開いていました。これから類推すると吉備津での開花は、今年は3月22,3日ぐらいだと思われます。ちなみに、昨年の開花日は3月22日でした。昨年見つけたルリタキの姿は本年は見えませんし、タケノコも猪の被害にあって姿を見ません。食べかすだけはあるのですが。
                         
 吉備津神社の一番南にあるこの桜の木を、私の吉備津の開花宣言の木にしています。此の桜の傍には、このお宮にある唯一の石で出来た口をつむった狛犬が鎮座ましましています。物を言わない狛犬です。その代わりと言ってはなんですが、此の桜が、頻りに、志村ふくみの言う「花の音」を立てています。この声も一度と言っても、この1週間程ですが、ぜひ聴きて見てください。どんな音が聞こえますか試しに。

雨に西施の桜花

2010-03-25 10:45:14 | Weblog
 「雨寄晴好」の例として、綱政侯がその旅紀行で、富士の裾野を過行く時、それまでの時雨模様の天気が、突如として晴天、そうです「霽」になり、「晴れもまたよし」と、事の他に喜ばれて記したのですが、この好い例が私の町吉備津にも見られますので、綱政侯の事は2、3回ほっておいて、吉備津の桜についての私の見たまま、感じたままを書き綴ってまいります。
 と、言うのは、我が町「吉備津」には桜の名木として、この近辺では見られない珍しい桜が数本あります。それを順次紹介していきます。
 
 まずは、吉備津駅にある
 「晴れもよし 雨又よしの 桜かな」
 の桜の木です。
 此の木は、昨年でしたか、駅の駐輪場建設に伴い、すんでのところで切り倒される運命にあったのですが、市の予算がないと言う理由で、大々的な駐輪場建設が、急遽、小規模なものへと変更になり、そのために助かった木なのです。
 そんな幸運を此の桜の木が感じ取ったのでは無いでしょうが、今年も大変見事に、岡山市の開花宣言前に、蕾をそっと開きました。今は、既に3分咲きまでになっています。でも、この雨で少々は長持ちしそうですが????  見ごろは30日ごろか????
     
 此の木は本当に不思議な木です。何時ごろ、誰が、そこに植えられたのか何も分からないのです。また、何という名前の桜の木かは分からないのです。しかし、律儀にも、3月の初めごろから、毎年の事ですが、その蕾が膨らみかけてから、木全体がほんのりとした桜色というか、清少納言が愛した紅梅色に染まり始めるのです。その色がいよいよ匂いなき匂いを奮いたてると、そうです、あたかもその木独特の「春の装い」を深めると、決まって、開花するのです。志村ふくみが言うように、此の木には不思議なことですが「色に音がある」のです。一寸聞いてみたくなりませんか。
 昨日今日は、あいにくの雨です。しかし、その雨に濡れた桜木が晴れの時に見るのとは、また、違って、芭蕉があの象潟で感じた「恨むがごとし、寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂を悩ますに似たり」その物です。晴れの時とは大変趣を異にした風景を展開しています。まさに「雨寄晴好」その物です。
 今日も、その色は音となって「春が来たよ」と歌いながら大空に、静かに静かに舞い広がっています。
 聞きにいらっしゃいませんか。声なき名歌です。晴雨いずれも吉野に負けない、吉備津の一本の桜です。

雨寄晴好

2010-03-23 13:14:28 | Weblog
 箱根を過ぎて、備前藩の行列は、13日には三嶋から富士の裾野を通ります。

 “ 富士の根にかかりて過行に、隈もなく霽たり。此比稀なる空のけしきと里人のいへりける。此山はもろこしまでも名高く聞えけるとなん。住馴れし武蔵野にて見しは物にもあらず、直下に見れば足高山・しづはた山・三穂前・すそのの木立、猶高根の雪にしら雲さへ横たわり、いふにも尽ず。宋朝の蘇子膽、西湖にて雨寄晴好という題にて答把西湖比西施、淡粧濃抹両相宜と作しとや、此山ほどはあらじと覚ゆ。されば代々の人もめでて狂歌・大和歌つらねかヽる文、こヽらおほかり、はばかり多けれどむなしく見すごすも口惜し、且は都に着なば、夢にも見ざらん、人に語りも伝へんと、駒を留めて、たとふ紙に書きつく。

    家つとに まつや語らん 東路の 雲の中なる 富士のたかねを

 浮島が原を見やれば、磯に寄波しろきぬのをひきしくようなれば

    白妙の 衣さらすと 見ゆるまで 磯うつ波の うき島が原

 夜更けて清見かたを過るにいにし秋の今宵にかはらず、月いと明く侍りしに
 
 ・・・”

 と書き綴られています。

 これが〈カクノゴトク不学文盲短才モマタ珍シ〉とされた岡山藩主池田綱政侯の文章かとすら疑わずにはおられません。「宋朝の蘇子膽、西湖にて雨寄晴好という題にて答把西湖比西施、淡粧濃抹両相宜」は、芭蕉の“象潟や雨に西施がねむの花”の基の詩であったあの詩です。なお、「答」は「欲」の過ちではないかと思われますが???

 そんなことは兎も角として、此の藩主は、幕府の批判をしり目に、相当な教養を備えていたことには間違いありません。霽は「はれる」と読みます。旧暦十月晴れ渡って富士がきれいに見えたのでしょう、箱根の雨もよいが、また、晴れた富士の気色も何とも言えない情緒があるものだという気持ちをこめて綴ったのだろうと思われます、そこに直ぐ蘇軾の「飲湖上初晴後雨」の詩が浮かぶだけの相当に高い教養があったことは確かです。

 なお、浮島が原は東海道五十三次「原宿」にあり、街道一の眺めであるとも言われている所です。

       

箱根路

2010-03-22 12:32:21 | Weblog
 曹源公の旅は十二日には、やっと、箱根に至ります。

 “十二日箱根を越える比、雨激しく降る。雲路をうづみ、行かたおぼろげにて、たどりけるに、木々の紅葉散す、あとの山々は、懸るしら雲、霜の色にひとしくしらみあへるけしき、うつす絵にもかくわあらじ覚て

   玉連 はこねの山の うつろひて 霜にいろそう 峯のしら雲

 峠にのぼりて、是やつばさもなくて、飛鳥とともに雲路にかよひぬ心ちして

   けふこそは 雲ゆく鳥と 諸ともに くもまにわけて かよふ箱根路

 暮かかるころ、峯々谷々に雲の入るけしき、筆にも及ばじと見ゆ。

  筆にしも 絵やは写さじ 白雲の 夕入山の 冬のけしきを 

 “絵筆で持って絵に写すことが出来ようか箱根の山の冬の夕暮れを”と言うぐらいの意味でしょうか。再三申し上げている通り十九歳の綱政侯の文学的才能がいかんなく発揮されています。
 「どうして」と言う四文字がど、うも気になっていた仕方ありません。

小田原

2010-03-20 16:38:12 | Weblog
 神無月の10日に江戸表を出立して、1日にはどこまで進んだと思われますか。

 大名行列です。果たして岡山藩の行列が何人ぐらいの人数であったのかは、私はその資料を持ってないのですが、10万石の大名でも、お伴の人数は800人ぐらい必要だったと言われています。だから、32万石の岡山藩の場合でも1000人以上のお伴が付いた行列ではなったかと思われます。

 綱政侯の初めての行列が、江戸を出立して11日に到達したのが小田原です。

 そこでの綱政侯は、次のように簡単な手記を残しておられます。

 “十一日相州小田原にやどりぬ。古郷にて聞きなれぬあら磯波の音すさまじく、終夜おきあかして、
     聞きなれぬ あら磯波の 音たちて 旅ねの床に 夢も結ばず”

 とあります。波の音が高くて眠られずと言う事ですが、事実は、十九歳の首途です。自らの高ぶりを抑えきれずに眠られなかったのではないかと思います。
 「・・・まだ知らぬ道の山かさなり、川かさなりて、雲をしのぎ・・・」、やっと江戸を出てここまで来たのだという感慨も、きっと、あったのではと思われます。眠れないのが当然です。

 でも考えて見ると、大名の行列は、一日目に小田原までが当たり前の時代です。大名の権威をも誇示しながら旅です、随分とゆっくりとした旅になったようです。費用の面から考えても大変なことであったのではないかと思われます。裏方の苦労が身にしみます。岡山までは何日ぐらいかかるやら、前途は遥か遠い初旅です。余談ですが、当然と言えば当然ですが、綱政侯にはお金の心配など此の歌紀行には一切記されていませんし、また、そんなことを心配するような身分でもありませんでした。

曹源公の歌紀行

2010-03-19 17:18:13 | Weblog
 「不学文盲」と。酷評された綱政侯「曹源公」の江戸から岡山までの歌紀行です。少々私自身その内容を把握しきれない部分もありますが、書いてみます。間違いがありましたら、寶泥氏のように、ご指摘いただければと思います。

 明暦三、神無月初の比、大樹仰事給る。今より羽林と替えしめし、国に帰やらで、おほくのかづけ物(贈り物)たぶ、誠に袖に包し嬉しさも身にあまりぬ。同月初の十日なん首途歩、神無月時雨ふり、おくならの葉の散もみじ葉のにしききてなど思へば、また知らぬ道の山かさなり、川かさなりて雲をしのぎ、霜をわけつつ、しばらく前途はるかなるにすすまじ、かれといひ、是といひ、一方ならぬ別ならんほど心ぼそく、折しもいと時雨のふりければ、

 かきくらし 涙と共に 旅衣 立出るそらに 降るしぐれ哉
 
 と、綱政侯の歌紀行が始まります。


  
 これが綱政侯です。
 
 この歌紀行は明暦3年ですから、綱政19歳の御時でありました。「不学文盲」どころの話ではありません、此の書き出しだけから見ても、大変文学的な才能の持ち主であったと言わざるを得ません。
 なお、大樹とは将軍、羽林とは、要するに、参勤交代で大名が江戸に住まっていることを意味します。それが許されて初めて岡山へ帰ることになったのです。袖に包しと言うのはこの上ない喜びで、首途歩は初めて旅に出たぐらいの意味でしょうか?
 旅に出る前のあわだたしいさや、まだ見ぬ山川との遭遇への期待と言った、19歳と言う、誠に初々し若殿の初旅のこころが、この文章の中から、ひしひしと伝わって来るようです。
  

最低の評価をあたえられた綱政侯

2010-03-18 20:06:37 | Weblog
 <カクノゴトク不学文盲短才モマタ珍シ><昼夜酒宴・遊覧ヲ心トシテ、政道ニイロハズ><女色ヲ好ム事、倫ヲ超エタリ>
 こんな記録が初期の江戸幕府の中に存在していたことは確かなことです。父光政、母勝姫の間に生まれた岡山藩主池田綱政侯に対する評価であった事には違いありません。
 なぜ、こんな愚鈍な印象を、備前岡山藩主池田綱政は、幕府に与えたのかは分かりませんが、誠にこれではひどいと思われるような最低の評価を下した幕府の公文書なのです。
 
 これは私の推測の域を出ませんが、もしやして、あの千姫、そうです、天樹院様辺りから出ているのではないかと思われます。
 と、言うのは、先に起きた由井正雪事件で、その存亡が危ぶまれた所まで追い詰められた岡山藩です。そこはどうにか、これも勝姫の母、天樹院様の目に見えないお支えがあったために、その嫌疑がうやむやなうちに消滅したのだと言われています。完全に、その疑いが晴れたのではなかったのです。だから、綱政侯は藩主になられたばかりの頃は、まだまだ、岡山藩に対して幕府の見る目は相当厳しいものがあったのは確かです。下手をすれは、何時「お取りつぶし」の処分が出てもおかしくはないという状況だったのです。
 このような岡山藩の危急存亡時に、我が孫「綱政」を慮っての千姫、そうです、あの天樹院様の御心が、この中にはどうも見え隠れしているように思われて仕方がないのです。
 そのような藩主の悪評を公文書に記して、幕閣たちに、岡山藩は、この綱政になって、もうその父の光政のように幕府にとって危険極まりない藩では、決して、なく、ほんの「取るに足らない藩だ」と言う印象付けて、御家安泰を諮ったのではないかと思うのでうが。そんな思惑が千姫様にあって、敢て、真実とはかけ離れた全くの嘘の記載によって、岡山藩の危機を回避させていたのではないかと思われますが、どうでしょう。
 そんな思惑が感じられてならない公の記録文章だと思うのですが。

 今頻りに新聞紙上をにぎわせている、日米の密約とはずいぶんと異なった、世にも不思議な、誠に、奇妙奇天烈なことではなかったのではと思うのです。

 その記事が事実とは大変異なっていることを明日から証明してまいりたいと思います。
 

鯉山小学校の卒業式

2010-03-17 14:50:47 | Weblog
 今日は岡山市立鯉山小学校の卒業式でした。これもご案内をいただきましたので、久しぶりに小学校の卒業式に参加しました。昨日の中学校のそれとはまた趣の違った卒業式でした。卒業生が40人の小さな卒業式でしたが、卒業生がそれぞれ胸を張った堂々の大きな大きな式になりました。
 15歳としての威厳を保ちながらの中学校の卒業式のそれと、また、異なって、厳粛さの中にも整然とした初々しい少年の姿が式全体に流れていました。
 まことに慈悲深い眼差しを持って、この1年間を指導してこられた和服の担任の先生の姿を体全体で受け止めながら、40人すべての子供が晴れやかに卒業していきました。

 全力で指導してきたという自信に満ち溢れた、一人ひとりの卒業生の名前を点呼される先生の晴れやかなお声、それに呼応する子供たち澄み切った「ハイ」という、これも先生と一緒に、全力で、自分たちの目標をやり遂げたという誇りに満ちた力強い声、この二つがあいまって、この卒業式をいやがうえにも盛り上げておりました。その中に、鯉山小学校を卒業していくといううれしさが40人すべての卒業生にみなぎっていました。

 卒業式って言うことは本当にいいものですね。昨日今日と2日間、私自身の心が洗われたようも感じられました。
 少年たちよ。幸福たれと祈らずにはおれません。

高松中学校の卒業式

2010-03-16 21:01:07 | Weblog
 今日3月16日は岡山市立高松中学校の卒業式でした。ご案内を頂きましたので来賓として出席させていただきました。中学校の卒業式に列席させていただくのは本当に久しぶりです。
 拍手と共に217名の卒業生の入場、祝福の渦の中に式が始まります。かって卒業式もできなかったとも言われた時代が嘘のようです。厳粛その物の式でした。卒業生の証書を受け取る態度にも真剣さが見られます。たった15歳の少年少女の初々しさが見られました。

 この子たちの将来が平穏無事なることを祈りながら、校長から一人一人の生徒たちに手渡されゆく卒業証書を見つめて居りました。

 送る言葉とそれに対する答辞のことばの素晴らしさをじっと聞きながら、遠いすぎさった「仰げば尊し」の私の中学の卒業式を思い出して、懐かしさがこみあげ少々感激にしたりました。素晴らしい卒業式をありがとうと。

 答辞を奏上する女生徒の言葉に聴き惚れながら、私だったら、この子たちに、光政侯の政治の基本である「徳潤身 心広体胖」の文字を送りたいなと考えて居りました。

綱政侯は魯か

2010-03-15 20:34:27 | Weblog
 又、飯亭寶泥氏からお叱りのメールを頂きました。
 「池田の殿さんにちいて、光政侯だけで、もう、おしめえにすんか。・・・・いつだったか とおの昔に忘れてしもうたが、おめえが書えておった、おおあんごんな殿さん綱政侯にちいても、もうちょびっと書えてやらにゃあおえりゃあへんど。津田永忠を使えこなした、てえしたもんじゃと けえとったじゃあねえか」

 考えて見たら、そんなことも確かに書いたと思います。それならと言うわけでもないのですが、メ-ル氏のお言葉に従いまして、この綱政侯についても、少しですが書いてみたいと思います。バカ殿と江戸幕府では言われておったと言うのは間違いない事ですが、本当はすごい教養人であったと言われています。

 池田綱政侯の母はあの千姫の一人娘である勝姫なのです。その勝姫が岡山藩主光政侯に輿入れなられたのです。だから、綱政侯は、3代将軍家光公とは、正真正銘な従兄弟同士になられるお方なのです。
 そんな関係があるにもかかわらず、幕府から馬鹿殿扱いされたと言うのは、ちょっとばかり信じられないような気のします。でも、幕府か作ったとされる「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」と言う書物に載っているのだそうです。

 「津田永忠」の時にも、綱政侯は、決して、そのような馬鹿な殿さまではなかったことを証明しておいたのですが、折角のメール氏、[寶泥]氏のおことばです。

 相当な教養人としての、この綱政侯を知っていただくために、「岡山への歌紀行」と言う江戸から岡山までの、彼の歌日記風な紀行文を、幾つかを引き出しながら、漸次、ご紹介して参りたいと思います。10回ぐらいは続くと思いますがお付き合いください。