岡田屋のきくえねさんの声は、ゆったりして大きく、澄みきり、ごくごく当たり前のように辺りに広がって流れ行きます。
「迦陵頻伽の慣れ慣れし、声今更に僅かなる雁の帰り行く天路を聞けばなつかしや、千鳥鴎の沖つゆくか帰るか春風の空に吹くまでなつかしや・・・」
その声だけでも、何処までも底知れず、物悲しくて、聞く者をして、涙さえ湧きいでてくる心地に誘うのであります。
そんなきくえの謡いに添って、辺り一面の花畑を、ひらりひらりと飛び交うてふてふのように、又、あるときは、お山から流れ下る春のそよ風のように飄々とひるがえる小雪の舞は、人の持つ底知れない哀れさ物悲しさをも、人に心にひしひしと訴えているようでもあります。
小雪は、もう誰の目も感じていません。あれほど「是非、この人だけには」と、この会が始まる時分から一人密かに思っていた喜智の姿が、幕脇のついすぐ側から、しっかりと自分を見て頂いているのだという確かな安心からでしょうか、その舞いの中には、自分ひとりの心ではない、意識外の不思議な世界に引き込められたかのように、今日の師匠、菊五郎の「へだてごころ」も、何にもかにも総てが、心の中からすっかり飛び去っています。ただ、体が小雪の意識を離れて一人で舞っておるだけなのです。天女の持つわびしげな無垢な優雅さだけが、紋白蝶のようにひらりひらりと舞台いっぱいに舞い立っています。
「いや疑は人間にあり、天に偽りなきものを・・」
きくえの声が大きく唸ります。
いつも、菊五郎が、決して、首を縦に振らなかったという事も忘れて、吉備のお山がら流れ落ちる風のように、小雪ではない小雪が舞い踊りしております。その内に、その小雪の姿さへも何処かへ飛び去り、あたかも、そのかざす扇の銀や金だけががふわーりふわーりと舞台の上を流れるように躍っています。それに合わせるかのように、きくえの謡いもますます高鳴ります。
「色香も妙なり乙女の裳裾、さいふささいふ颯々の花をかざしの天の羽袖靡くも返すも舞の袖・・・」
客席は、この動と静の一面にぴんと張り詰めたような舞台に引き付けられて、水を打ったように何処までも静かです。咳声一つ聞こえてはきません。
そんな静寂な客席に、きくえの冴えた声だけがますます弾みます。その弾みに合せたように、三度目の小雪の胸に、今までにないような激しい痛みが走ります。
「あと少し・・・・・・・」
もがくように小雪は、まだ体の小隅に僅かに残っている舞い通す気力を、それでも必死に奮い立たせるようにして踊ります。
ようやく、きくえの謡いも「天つ御空の霞にまぎれてうせにけり」
で終わりました。
小雪の舞いも、その失せにけりとうたうきくえの声と一緒に、舞台の左の袖の端に、それはそれは静かに、消え入るように失せるように倒れこんで終わりました。恰も天女が、大空に、満月の影となりて、御願円満国土成就七宝充満の宝を降らす如くに霞にでも紛れるように消えていきました。