私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

私の一冊の本、「ユカラ」

2007-09-30 19:16:22 | Weblog
 昨日「戦争」という本を紹介しました。
 私の持っている本で、一冊の宝物の本がありますので紹介します。
 「北蝦夷古謡遺篇」(金田一京助著;大正3年初版本)です。初版500部のうち第432号という珍しい本です。

 長い古謡ですので全部をここに載せるわけには行きませんが、その最後に詩をご紹介します。

 「・・・・・肌身に駆けて 慄へる その如く 恐れ憚りを 我に懐くと 噂に我伝え聞きつつ 又はりがね(金偏に泉という字を当てられています)の手網は 我が添う少女を 畏れ憚り せしめつつ 此れより後 何事をも構えしめず ピリカ オカイ アンキー、マヌ  安らかに暮し たりけり。」
  

 今ではこんな本、何処を捜してもないはずです。貴重な私の本です。アイヌ研究者にとっては垂涎の本だと思います。

戦争

2007-09-29 16:04:20 | Weblog
 久しぶりに、「練習板」に書き込みます。よろしく。
 私は1936年10月8日に生まれました。71年前です。その年の11月に書かれた「戦争」という本が、私の本棚にあります。父の話によりますと、「お前の誕生記念に買って読んだ」と言っていたのを覚えています。武藤貞一という人が書いた本です。
 彼は、この本の中の「序」で
 「どこに戦争を賛美する奴があるか。兵は凶なり、戦争は出来うる限り避けねばならない。敢然戦争を警告する。戦争の惨烈性を知るべきである・・・」
 と、更に本文でも、武器の近代化、さらに飛行機の発達による無差別殺人などによって、女性を含めた非戦闘員の一般市民が多数犠牲となることは明らかだと、近代戦争の悲惨さについて細かく記しています。
 よくも昭和11年に、こんな本を現したものだと感心しながら読みました。

 この本の中で、随分と滑稽に描かれている部分があります。
 それは、夏目漱石の日露戦争の報告の中にあるそうです。

 「旅順の攻囲戦での話です。明治37年9月2日から、いよいよ戦いに備え、敵地砲撃の為に窖道(コウドウ=あなぐらみち)を掘り始める。すると敵も対抗して反対側に窖道を掘る。
 日本兵が工事をしていると、どこかでコツンコツン石を砕く音が聞こえる。初めのうちはわからなかったのですが、だんだんと近くなると相手も、自分達と同じように穴を掘っているのだとわかる。「おーい」と呼べば「おーい」と答える。穴のこだまがいじらしい。(漱石一流の皮肉らしい)
 そんな至近距離から、身体を穴に隠して戦いを続けます。そのうちに両軍の兵士が疲れてくる。すると双方で砲撃をやめ大声を出して話し合うのだそうです。
 「酒があるのなら呉れと強請ったり、死体の収容があるから砲撃は少し待てとか頼む。あんまり下らんから、もう喧嘩はやめにしようとなど相談したり、色々なことを言い合った」

 通訳がおったのかどうかは分らないが、そんな戦いもあったという話もこの本には出ています。

 なかなか面白い、昭和11年の本です。

 
 

障子

2007-09-29 14:49:29 | Weblog
 『松屋文集』に、「そうじに松の影のうつりたるなどさながら絵にかきたるようなり」と言う文があると、先日紹介しました。
 この「そうじ」という詞を「松の落葉」では、解き明かしておられます。
 「しょうじ」は、昔はへだてものをするものをすべて言ったようです。『障子』です。
 「かみしょうじによべの御ぞなんかけてさむらいつる」という文もみえ、ごく最初は、ついたてのようなものだったそうです。そんなものに紙を張ったのが「かみしょうじ」で、中でも、唐(中国)の紙を張ったのが、「からかみしょうじ」と呼ばれ、特別に大変珍重がられたという事です。あかりとりのために使ったのが今の「障子」で、ものをへだてるためにつかったのを「からかみ」と呼ぶようになったということです。

 私事(ひとりごと);
 「襖」を「からかみ」とも呼んでいたようですが、そのことについての言及はありません。
 つらつら考えるに、当時「からかみ」は中国(唐)からはるばる渡ってきた紙です。大変重宝がられ、「私の家ではこんな贅沢な紙を使って<しょうじ>にしているよ」と、大いに人に見せびらかせ、自慢したのではないでしょうか。その昔の名残として、更に絵なども、これに書き加えて(襖絵)より一層豪華なものして、書院と呼ばれる建築様式が生み出された室町ぐらいから、特別に設えさせたと考えられます。
 襖とは、本来、中国では女性の服を表すのに使われた言葉であったようです。それが日本では、ついたてにかけてある服等から、物をへだてるための「からかみ」と「襖」とが同一のものにして呼ばれるようになったのです。
 この「からかみ・ふすま」は、西洋のドアーとは、一寸その用途が異なるだけではなく、考え方にも大いなる差異があったのです。
 「からかみ」は、ただの出入り口ではないのです。
 日本には、昔から、ものの境目には常に神様がいて、その場所を護ってくれているという考えがありました。だから、この部屋の境目にある敷居にも当然神様がいます。だから、「からかみ」の開け閉めにも膝を突いて両の手で丁寧にしかも慎重に開け閉めしなくてはならないのです。また、「神様のいる敷居は決して踏むな」と、小さい子供にもしつけていたようです。足で開けるなんて、とんでもない無作法になるし、敷居の神様に対しても無礼になるのです。
 こんな考えかたは、今では、「非科学的だ」、やれ「迷信だ」だのとののしられて、我々の生活の中から、どんどんと、どこかへ飛んでいってしまています。科学的だということだけで、家で生活できる喜びや、自然に対する感謝の念が打ち消されてしまっています。それがどんな影響を及ぼすことも忘れて。
 

 まあ、それは兎も角として、先生のご本をこうやって読んでいきますと、この先生の読書量の多かったことにもまた驚かされます。どの書物の、どういうところに、どう言い表しているか総て調べながら、われわれの身の回りにある総てのものに感謝しつつ物を見極め、そして、お書きになっていると思われます
 なんて「すごい」お人だろうと、改めて、高尚先生に敬意を感じずにはいられません。

 

月のいみじゅう明るき夜

2007-09-28 16:35:04 | Weblog
 もうこの辺で「名月」は打ち切りたいと思っていたのですが、又、メール友達から連絡を受けました。
 「松屋文集の文を読みました。なんと爽やかな心にしてくれる文だろうか。日本語の美しさがよく分りました。久しぶりに声に出して読みました。もうひとつぐらい別の文章を紹介してください。秋の月を眺めながら読むと、自然に目に涙が浮かんでくるようです」
 と。

 そうです。私もその美しさには、以前から感じていたのですが、まあ、美しい日本語を挙げろと言われたら、私ならこの松屋文集を真っ先に挙げたいです。
 そこで、もう一つの「中秋の名月」を愛でる随想文を紹介します。

     『社頭 月ということを題にて』
 月のいみじゅうあかるき夜、あたりちかき神の御社にもうでたれば木の間より漏る影に、くろ木のとりゐ あけの玉垣など見え渡りたる。あけくれたちならぶところなど、今宵はことに神さびたるけしきなり。人の気配する方に立ち寄りて見ればこのいするかむずかさもいやあらむ しろきものきたるが廊の端に集いておのがどち、ものいひかはして月を眺めおるなり。なお、ここかしこまわるに、ほかには様変りて皓々しうおかしきことども多かりき。
 

 この他に、私の好きな秋を描いた随想もありますが。季節では晩秋の風景を描き出しています。11月ごろ、また、ご紹介したらと思っています。
 
 なお、今、私が読んでいますこの「松屋文集」は文政年間に出版され(在、県立図書館)、すべて変体かなで書かれています。私の力では読め切れないところもところどころありました。誤読した部分も少なからずあると思います。ご教示下されば幸いに存じます。

出た出た月が

2007-09-27 18:44:22 | Weblog
 「まあるい まあるい まんまるい ぼおんのような つきが」
 子供の頃に、かって口ずさんだ歌は、何時までたっても、何かの折に、ふと口をついて出てきます。本当に、人とは不思議なものですね。
 この前の中秋の名月の日に、孫と一緒にススキなど秋の草花を近所の川原へ採りに行きました。夕陽が山の端に落ちて、真っ赤な夕焼けが西山の空一杯に広がっています。
 5時過ぎの新幹線が猛スピードで、東へ通り過ぎていきます。その通り過ぎて行った向こうに、なんと、早、お月様が、昼の明るさに遠慮しているかのように、ほんのりと、まんまる顔を東山の上に覗かせているではありませんか。
 そんなお月様に向かって、田圃道を保育園の孫と一緒に自転車を踏みます。そのときふと口を付いてでてきたのが、この「ぼおんのような つきが」です。
 「可笑しいな。満月にしては、少々早く出過ぎでは」と思いながら、口ずさみます。孫は黙って、ただ自転車をこいでいます。じいちゃんの歌が耳に入っているのか、いないのか。でも、満月を見ながらゆっくりとこいでいます。
 「ぼおんのような つきがでているよ。まんまるじゃろうが」と問いかけてみました。孫は相変わらず、その月を見ながら黙って自転車をこぎます。青いヘルメットをつけた頭をぽつんとかがめます。
 私は、また、ゆっくりと「出た出た月が・・・」と、得意顔で口ずさみます。孫が聞いていようがいまいが。
 なお熟れかけた稲穂を一杯に垂下げしている野道を行けば、青空が、驚くほど突然に灰色に打ち変わります。振り向けば、西山一杯に広がっていたあの大きな夕焼け空が消えています。その赤の消え去るほんの一瞬、空は灰色に覆われます。そうして、今度は、お月様が明るさを段々とましていきます。そんな空やお月様の変化を、孫に説明しながらゆっくりゆっくりと自転車をこぎます。
 更に自転車をこいでいくと、空の灰色が次第に今度は、黒に変っていきます。すると、益々お月様は明るく輝きだします。そんなお月様を見ながらの孫との時間です。これって、じい様の少々のでしゃばりかなとも思いながら。

 なお、後から暦を見ますと、今年の8月15日「中秋の名月の日」は、月齢13日で、本当の満月は、2日後の27日だということでした。それで少々月の出の時が早かったのか、と、納得しました。

 今夜が、その「まん丸月」の夜なのです。又、お宮さんに詣でてみようかとも思っています。

今6時30分一寸過ぎました。吉備の中山の峰の一つの竜王のお山越しに、それこそ満月が登ってきました。今宵の月はやや薄雲がかっています。

名月や 宮をめぐりて こはんどき

2007-09-26 10:15:08 | Weblog
 名月をめでながら 一晩中、そこらあたりをうろついていることも出来ず、孫達と「お月見」をした後、30分ほど、我家を出でて、参道の松並木の上の名月を眺めながら、吉備津様にお参り方々そぞろ歩きとしゃれ込みました。人っ子一人いないお宮さんは、もう施錠されたており、門扉越しに2礼2拍した後、今夜ぐらい開門していてもよさそうにと、思いながらその周りをめぐります。
 苔むした石垣に沿ってしばらく行くと、垂れ下がった松の枝々が中天の月に照らされて、くっきりと竜神池の中に描き込まれています。池の中の松の枝越しに、また、その月自身も池の中に朧に照り輝いていました。
 高尚先生が言うように「月もかかるところこそすみよきにこそ」と思いながら、普賢院に入ります。本堂越しに見る月影の見事なシルエットに、自然に歩みが止まる心地がしました。
 しばらくの間、新装なった境内で月と翫んだ後、その山門をでて、宮内の街中に出ます、「昔の姿今何処」の感がいたく胸を打ちます。
 「天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿、映さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月」
 と、詠った晩翠の心が突如として胸を付く。
 山陽路の不夜城と謳われた往時の「宮内の里」の姿は何処を捜しても見当たりません。ただ、天中にある夜半の月影だけが、昔と変らず、煌々と物寂しい静寂な街中に照り輝いています。
 それから、「細谷川のさやけさ」をと思い、谷川に沿ってしばらく歩を進めます。木の間より漏れ来る月に心づくしの秋を偲ばせながら、そこにもしばらくの間、佇んでいました。この谷川には、流れを堰き止める大きな淵はなく、そこにまで月影が入り込む余裕はないようです。

 松の参道を再び通り、それこそ月を背にして我家に向かいます。小半時の、名月の夜のそぞろ歩きでした。
 
   中天の 名月に酔うか 吉備の里
   月影は 中山越しに 届きおり

   谷川に 影もだになし 名月は
          木立の上に 舞い跳ねていて  
   月影も 洩らさぬ木々の 下草に
          谷は瀬音を 響き寄せおり 

中秋の名月

2007-09-25 12:30:42 | Weblog
今日は「中秋の名月」(8旧暦8月15日)です。
 唐の飲兵衛詩人であった白楽天も、この月を見て『この良夜を如何せん』と歌っています。日本だけでなく中国や朝鮮でも名月として親しまれてきたようです。日本では、『月を玩(もてあそ)ぶ』とも言われ、月と一緒になって夜を楽しむという宗教的な感情が入っているのではと思えます。『月見に一杯』という言葉にもある通り、大方は、月を友としてお酒を飲んでいたようです。また、この他に『芋名月』と呼ばれたこともあったようです。これは、この日にサトイモの醤油の煮っ転がしをお供えしたから、そう呼ばれるようになったようですし、古老の話しによると、その他、『団子名月』『栗名月』とも呼ばれていたということです。
 それぞれ芋と一緒に栗やお団子を、三宝に入れて高盛にしてお供えします。なお、「めいげつ」は「名月」「明月」共に使うようですが、一般いは名月のほうが多いようです。
 
 話がいささか脇にそれますが、このお月見の行事からもわかるように、大神神社と一緒で、神様は、空行くお月様で、特別な神殿は設える必要はありません。これが神社の基本の姿で、どの神様の最初は、このような神殿のない拝殿だけの大神神社様式であったのではとも思われます。

 さて、我家でも、今夜月見の宴を、孫達と一緒に催します。今から里芋を掘りに畑に行きます。

 さて、この名月について、先生は「松の落葉」の中では何も述べてはいませんが、別の随想録;『松屋文集』の中では、この名月の夜のことについて、名文を書き綴っておられます。
 少々長くて文語体なので読み辛いとは思いますが、一杯やりながら月を眺めながら声に出して読んでみてください。家族で皆でお楽しみいただけたらと思います。
      
    
   ・山家の月という事を;
 『身を隠すべき宿を求めて、山里にうつろい住みそめたる頃、しも秋なりければものさびしさ やらんかたなし、されど、世の浮に思いくらべつつ念じおる。
 ようやく住みつきて、椎葉の風にそよめく音も耳慣れぬれば、いとうものすごくもあらず。さるかたに、おかしきことども多かる中に、月の明き夜こそ、あわれさもおかしさも、とりどりにいみじけれ。程なき軒端なればうちもあらわにさし入りて、さうじに松の影のうつりたるなど、さながら絵にかきたるようなり。
 「あまりくまなきよはの月かな」と、打ずんじつつ、あくがれいづる木の下道もたどたどしからず。岩もる音のさやかに聞ゆる方をと、めざし行きてみれば、水の清らかなる流れに宿れる影、いとしずかに見ゆ。月もかかるところはすみよきにこそ。』


 私事(ひとりごと);
 高尚先生が、京都遊学から、再び、この吉備津にある自宅『松屋』に戻られて直ぐの秋の風景であったようです。
 我;郷里にも、こんなにわびしい秋を、自分と一緒になって慰め語ってくれる山里の自然があったのかと、思い知らせてくれたまわりの風景の美しさに、改めて驚きもし感謝もしたのではと思います。
 
 障子に写る松の影にも、えもいわれぬ趣があります、行く道のなんとなく単純で、しかも、単純さゆえに、その中にかえって面白味さえ描き出している月影頼りに、ゆっくりと歩を進めるとに、やがて、谷川の水音もさやかに聞こえてきます。そんな清らな音につれられて、谷川の岸辺に立つと、ちょろちょろと流れる谷水の中に、月影が写し出されています。
 お月様もこんな清らな谷水に映し出され、きっとうれしかろうと、自分のこころを月影に同宿させて、田舎住まいの自分のわびしさをあきらめ紛らわせておるのではとも思いました。

 ゆっくりと声に出して読んでください。


 
 蕪村の句にこんなのがあります。

  月天心 貧しき街を 通りけり

 この「山家 月という事を」という随想をお書きになった時かどうかは分りませんが、高尚先生の和歌にもこんなものがあります(吉備国歌集より)

   何を見て 物おもうことを なぐさめむ
             秋しも月の さやけからずは
   すみのほる 影さやけきも ことわりや
             今宵そ秋の 中山の月

 

朋遠方より来たる

2007-09-24 10:15:21 | Weblog
 昨日、久しぶりに、例の漢文の先生が、拙宅を訪ねてくれました。高梁かその辺りまで行った帰りだということです。吉備高原から送られてき「秋の女王」という名のぶどうを出してやると、
 「どえれえ、うめえのう。はじめてじゃ。こげえなぶどうがあったのか。やっぱりおかやまはええのう」
 と、ぱくついていました。
 それからしばらく世間話。自民党の総裁になった福田さんの顔が、テレビで、しきりに流れています。

 そして又例の漢文の話しに進みます。丁度いい機会です。私も楽しみに待っていました。
 今日、先生が口にした言葉は、この福田さんと関連があるらしい。
 彼は、徐に、曰;
 『「書経」の中に、「政は恒(つね)あるを貴ぶ」というのある。〈政治には、常に普遍の揺るがない政策や方針が大切である〉という事なのだ。その根本を為すものは「公を以って私を滅せば、民其れ允(まこと)に懐(なつ)かん」だ。これは、〈自分の都合でいい加減な言い訳をしないで、誰にでも公平な心で以って政治を行えば、国民は、必ず、信頼して政治を任せるようになる、政治の根本は、公平であるということだ。これが信頼に繋がる基だ〉という意味だ。』
 と。
 奇しくも、この時、テレビから、福田さんが「国民の皆さんから信頼される政治をめざしたい」と、言っておられました。同い年の福田さん「がんばれよ」という気が沸き起こってきました。
 
 政治家の皆さんが早くからこの先生に教えてもらっていたら、福田さんたちの総裁劇もなかったであろうし、世の中はもっと安泰であっただろうにな、と、思いながら拝聴しておりました。
 

「かひがひし」ということば

2007-09-23 08:38:39 | Weblog
 つい先刻、予想どうり福田さんが自民党の総裁に選ばれました。前評判通りの結果であったのか、または、なかなったのかは、私には分かりかねますが、兎に角、堂々とした日本を作ってほしいものだと、希望的な観測で眺めています。

 その出発には、テレビで見ている限りでは、福田氏の「かひがひし」さが、いっぱいに感じられました。

 この詞について、高尚先生は、「松の落葉」で、この「かひかひし」とは、「甲斐あること」であると、説明されています。 その一用例として、「今鏡」の
 
 『おのれ(わたしが)なからましかば、われ(あなたは)いかがせましとぞ、かひかひしくかんぜさせたまひける』
 
 も、上げていますが、こんな強気な「かひがひし」は、テレビに映る福田さんの顔からは感じられませんでした。
 
 我;先生も、その文章の書き振りからして、そんな剛直一点張りのものではなく、ごく一般的な軽い気持ちの頼もしいとか、勢いがあるというぐらいな意味に捉えておられるようです。
 

 さあ、明日からの国会活動が楽しみになってきました、「自民党の最後の総理になる」なんていう人もいるようですが、兎に角、国民としては、その言動を注視して行きたいものです。まずは、期待感を込めて、「かひがひし」お手並み拝見と行きましょう。

再び、『松の落葉」より

2007-09-22 17:44:20 | Weblog
 ちょっと寄り道をしました。又「松の落葉」から話題に沿って考えてみたいと思います。
 「ものか」「ものは」について考えて見ます。
 このことばについて、我;先生は、次のように説明しています。

 『「ものか」というは、非常に驚き怪しむこころに使い、「ものは」というのもおどろくこころある所に使っていた。』
 と。

 現在の政治家諸君が、小泉さんもそうでしたが、麻生さんなどは口を変にとんがらせて、何か人を見下したような言い方で、よく「・・・はいかがなものか?」など、あまり驚き怪しむべきことでもないのに、なんとなくやや疑わしいだけのことに使っておられます。
 
 もし、高尚先生が今に生きておいでですと、こんな言葉使いをする人に対して、「いかがなものか」とは言わないで、「うたて(みぐるしくてなさけない)」と単刀直入に言われそうです。現代の政治家諸君は、そのあたりのことについて、もっと古典を勉強して欲しいものです。

 さあ、いよいよ自民党の総裁選挙が迫り来ました。麻生、福田両氏の決戦、どちらが「はやる(いきほいにのり、拍子にのりてすすむこころ)」か。

蚊屋采女   <吉備の国の美女達‐8>

2007-09-21 10:39:10 | Weblog
 七月に『吉備の国の美女達』で7人の美女取り上げました。この前の吉備津神社の研修で行った加夜奈留美命神社の「加夜」について調べていますと、日本書紀の中に、もう一人、吉備の美女を発見しました。8人にもなります。
 その人の名は「蚊屋采女」という人です。
 
 飛鳥時代から平安の初めまで、日本各地方の豪族が人質として自分の娘を送り、天皇に献上していました。この女性を「采女」と呼んでいました。大体、全国から60人程度の采女が選ばれて天皇に仕えていたという事です。
 その選定条件の第一に挙げられるのが、『容姿を厳選する』でした。その国の第一級の美女がなっていたということです。だからこそ、中臣鎌足が、天皇から采女を「頂いちゃった。頂いちゃった。」と、有頂天になった歌が万葉集にあります。男として、如何にうれしかったか、他の者が決して手にすることが出来ない特別な女性を頂いたのですから、その心が、手に取るように分ります。
 この采女は天皇に献上されたのですから、勝手に誰かを恋するなどという私事は許されていませんでした。天皇の者ですから。
 書紀には、舒明天皇の時、采女と情を取り交わした男を処罰する時、その責任を負って三輪君小鷦鷯(ヲサザキ)という男が首を切って自殺するという記事が見えます。
 また、万葉集にある吉備津采女の入水自殺も恋人との結ばれぬ恋のためであったようです。そのほか色々な悲劇がこの采女制度から生じている事は確かです。
 これなどは総て、采女がその時代その地方を代表する美女だったことから起った悲劇だったのです。
  
 幸い蚊屋采女は、舒明天皇に大変愛され妃となり、蚊屋皇子を生んでいます。非常に貞淑な女性のようでした。

 吉備地方からも沢山の采女が選ばれて朝廷に上ったと思えますが、歴史に残る美女が相次いででたという事は、この地方にいかに美女が多かったかという証になります。
 それは、又、朝鮮系の人たち(加夜)との関連からも語られるのではないでしょうか。他民族との交わりが美男美女を生む生物的な基となるという説を、以前、どこかで聞いたように思います?。
 

吉備津神社の賀陽氏について

2007-09-20 13:57:19 | Weblog
 賀陽氏の初めは、大吉備津彦命と共に吉備遠征に参加した、弟君、若日子建吉備津日子命の後です。この命の四代の孫「仲彦」が応神天皇から『加夜国造』に封じられます。これが賀陽氏の始まりです。
 この「かや」という音が、加夜・蚊屋・香屋になり、賀陽になったようです。先にあげた、茶祖「栄西」もこの賀陽氏の出です。舒明天皇の貞淑な妃「蚊屋采女」もやはり賀陽氏の出です。
 これら賀陽氏は、朝鮮半島から移り住んだ「伽耶(かや)」の人たちと何らかの関連あるのではないかと考えられています。
 この賀陽氏が後に、吉備津宮の神主になり、この地方をも統治したようです。
 ちなみに、記録に残るものとしては、『称徳天皇の御代、天平神応元年六月に、賀陽臣小玉部という吉備津神社の神官が、賀陽朝臣の姓を賜った』と、いう記事があります。(三代実録より)

 そんな「加夜」という字の付いた地名やお宮が、吉備以外の土地にあるなんてて、目からうろこでした。その上、「栢森(かやのもり)」という地名まで見つけることが出来て僥倖でした。

世界最大の貿易港ー吉備津ー(加夜から)

2007-09-19 12:58:18 | Weblog
 ちょっと、「松の落葉」を、また、離れます。
 加夜ということについて考えて見ます。
 「かや」とはいうことばは、元々朝鮮の古い国名「伽耶」に由来していることは確かなようです。
 伽耶の国は朝鮮の南中央に位置し、新羅と百済に囲まれた小国でした。北の高句麗や西隣りの新羅などの大国と戦いながら、建国から600年もの間、国を護ってきていたのですが、ついに新羅によって563年に滅ぼされます。倭の国も、東隣の百済と一緒に援助の手を差し伸べます。そんな関係で、この国の沢山の人たちが日本へと渡ってきます。
 それらの人々よって、多くの、当時、日本にはなかった工業的先進技術がもたらされます。
 この伽耶の人たちの持つ優れた技術は、山城のような築城技術であり、鉄生産や土器の製造(須恵器ー古墳に備えられた高温で焼き上げた土器)技術などでした。更に、他国との交易術などという、それまでの日本にはなかった「商業」という不思議な力を持つもつ営みです。
 このような色々な技術を持って日本に渡来してきた伽耶の人たちは、単なる難民という事ではなく、当然相当な地位に遇せられて迎えられたようです。
 これらの移民集団が住まった所が、その後に「加夜」とか「賀陽」などと言う字を使った技術集団名「部」として、大和や吉備地方で活躍するのです。
 「賀陽氏」は、後に、吉備津神社の宮司にもなっております。吉備の勢力が大和と争うほど強大になるのも彼らの力があったからこそだと思われます。

 特に、彼らのもたらした貿易という商業活動が莫大な富を得させてくれたのではないかないかと思われます。
 6世紀の後半に、日本で最も大きい古墳「造山」を築かせたのも、朝鮮いや伽耶から渡来してきた人たちの持つ築城の土木技術とこの交易術によって手に入れた資本、即ち、莫大なお金があったからではないかと思います。
 今まで、この交易技術にあまり注目する学者はいなかったようですが、今後この方面の研究が進めば、きっと注目される事は確かだと思われます。
 その中心が、吉備の港、「吉備津」なのです。ここは、当時の日本の、いや世界の最大の、鉄や土器などを中心とした貿易港の一つではなかったのでしょうか。

 大和にある加夜にも、そんな伽耶から多くの移民が渡ってきていたのは確かです。

吉備津神社の研修旅行

2007-09-18 08:07:26 | Weblog
 昨日、吉備津神社の氏子会の研修旅行がありました。毎年一回、敬老の日を当てているそうです。
 今年は、奈良の大神神社に参拝ししました。
 この神社のご神体は、その背後にある、美しいおにぎりの形をしたう三輪山で、大国主命が祭られており、その山自体が神聖な神殿をなしておるのです。昔から禁足地になって誰でも勝手に入ることの出来ないお山なのです。
 だから、このお宮さんには、神殿はありません。神殿たるお山を拝むための拝殿があるだけなのです。
 神代の時代のお宮さんの形式を、現代に色濃く残している日本でも珍しい神社だそうです。
 
 一寸話は飛びますが、我;吉備津神社は、神殿・拝殿共に供えた大きな神社ですが、その神殿の背後には、扉が付いています。これは、背後にあるこれまた美しい三角形のお山を拝むためについているのかとも思います。その飯山が、もともと、三輪山のように神殿であって、今のお宮さんは拝殿であって、後ろの扉を開けて、何時も、神殿である三角形のお山を拝がんでいたのではないでしょうか。こんな風に考えますと、神社の裏側に扉があるのも理解できそうです。
 大神神社のような拝殿しか持たない神社の形式が、次第に拝殿神殿を兼ね備えた伊勢神宮などのお宮に移行しますが、吉備津神社は、その過程のでの一形式ではと思われます。(薬師寺慎一先生のお説)
 
 この大神神社(おおみわじんじゃと読みます)は、さすが、大和の国の一宮です。スケールが大きいですね。でも、吉備路一帯も、また、この大和路と比べて決して遜色のないす歴史の深さや趣のある歴史的景観を残す地域でもあります。

 それから「石舞台」で有名な明日香村にある(石舞台から2,3kmのところ)栢森の加夜奈留美命神社に参拝しました。
 この「加夜奈留美命」という神は、吉備津神社の社伝によると、この吉備中山の麓に、最初に吉備津神社を建てたという記録があります。(藤井駿先生の吉備津神社より)何らかの形で吉備と大和との関連があるということで、会長の犬飼さんのお計らいで、参拝させて頂きました。
 このお社は、明日香村でも、その又、山奥の小さいの中に鎮座ましまして、地域の人たちに、大切に現在まで護られてきた神社のようでした。

 なお、この加夜奈留美命は、大吉備津彦命の五代の孫だとされています。なぜ、命が、この地にお祭りされているのかは不明だそうです。

いでや

2007-09-16 09:15:02 | Weblog
 また、松の落葉に戻します。
 『いでや』という言葉について、
 「心にかなはぬことありて、うちなげき、その事をいひいづるおりの発音にぞありける」と、あります。
 古今集に、
   いで人は ことのみぞよき 月草の
            うつしこころは いろことにして
 を例にあげています。
 私なりに、この歌を解釈してみますと、
 『まあ、どうでしょう!。あなたは言葉だけは上手でも、浮気心がちゃんと、もうお顔に出でいますよ。本当に憎たらしいてありゃしない。もう、ふんー』(なお、月草というのはうつしの枕詞だそうです)
 と、いうくらいな意味だと思われます。
 「いでや」というのは、この「まあ、どうでしょう」とか、「もう、ふんー」という心の底から捻り出したこころの発音なのです。

 私事(ひとりごと);
 先生が、例に取り上げられているこの歌のような艶ある憾み節なら、それ相応の人間的な面白味が感じられるのですが、途中で辞めざるをえないような失態を演じた「しょがない」さんを初め多くの政治家達にとっての「いでや」は、如何ばかりであろうかと同情の念?をきんじえずにはおられません。