私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

中西進先生はどうお答えなさるかな?清明己曾

2011-01-30 12:08:14 | Weblog

  今朝の朝日新聞の文化欄に、中西進氏の万葉集にある中大兄皇子の歌の解説が出ていました(万葉こども塾に)。どうしても、その解説に異論を唱えたく、今日も、又、横道です。お許し下さい。

 さて、その歌は

       わたつみの 豊旗雲に 入日射し 
                          今夜の月夜 清明己曾
 です。

 この解説で、中西先生は、これが詠まれた場所として兵庫県加古川付近の海上だとされていました。それについての異論です。どうして加古川付近だとされたのか分かりません。その前に出ている歌が、その中大兄の例の香具山と耳梨山の歌です。それで、豊旗雲の歌の読まれた場所も、加古川付近だとされたのではないかと思いながら読みました。
 でも、我田引水的なこじつけであるのかもしれませんが、このお歌は、どうしても、吉備の国の穴海付近を航海された時に詠われたのでなければならないと、私は思っているのです。

 原本には
   「渡津海乃 豊旗雲爾 伊理比沙之 今夜乃月夜 清明己曾」
 と、でています。

 これを私は次のように読みました。まず、「わたつみ」というのは〈吉備の津付近にある穴海という所を渡っている〉と
 この場所は、神武天皇が東征される時、その兵力増強のため、3年間も、留まったとされる仮の御所が設けられた「吉備の中山」付近の吉備の穴海(現在の庭瀬辺りの海)です。
 その時、中大兄は、この度の斉明天皇の百済遠征の勝利を、そこに鎮座まします吉備津宮に祈った事は疑う余地はありません。何せこの吉備津神社は「西国一の戦さ神」と歌われていたお宮さんです。せめて船上からでもとお思いになってでしょうか、暮れなずむ瀬戸の多島美と一緒に浮かぶ吉備の中山の麓にある吉備津宮に手を合わされたのでした。
 私の住む吉備津から、一年に何回か、とくに此の吉備の中山から、西側にある日差山や、鬼ノ城辺りの空にに懸けて帯状になって伸びる、所謂、豊旗雲が、秋や春の入り日を浴びながら、見事な夕焼けを展開させている光景を、たびたび見かけることがあります。この中大兄が見た豊旗雲は三月の空にたなびいていたのです。
 その中大兄が船上から見た入り日を受けた横に大きくたなびく雲は、天の階段(きざはし)かとさえ思われる様な日差山の上にまで広がっていたのです。皇子はその山を見て、
 「あれはなにか」
 「はい、ひさしやまです」
 「そうか、ひさしか」
 と、歌われたのだと思っています。決して、印南の海ではなかったのです。吉備の海でなくてはならないのです。それは、その前日に、その船の上でお生まれになった大伯皇女もためにも吉備の穴海でなくてはならないのです。
 その皇女の将来の為にも、「清明」、そうです、清らかれ明るい子であってほしいと願うのが親の温かなる情でもあるのです。なお、この「清明」を、あなたはいかに読まれますか?「スミアカク」「アキラケク」「キヨクテリ」。中西先生は「サヤケカリ」とお読みになっておられます。
 なお、その解釈についても、雄叫びの悲痛な訴えではなく、静かなる神への祈りだと、私は思っているのですが、どうでしょう。「己曾」をどう読みとればいいのでしょうかね。「そのようにあってほしい。おねがいします」では

 「お前さんが、いくらそんな事を思っても、そんあことはありゃあへん。見当違いもええ所じゃ」と、云われること間違いないのですが、兎に角、こんな思いが新聞を読みながら頭を横切りましたので書いてみました。

       ご批判ください


「久漏邪夜能」の論争。これって何でしょうかね

2011-01-29 09:46:13 | Weblog

 仁徳帝は、難波津よ船出すく黒日売を、宮中の高台に上って、見送りがてら、お歌いになられます。その歌の中に

 「久漏邪夜能摩佐豆古和芸毛」というのがあるのです。この言葉を柱か何かの陰からお聞きになった石日売命は、たちまちにあのものすごい妬みが心の中に湧きあがってくるのを覚えます。

 此の中、今日は、まず、「久漏邪夜能」につい書いてみます。
 これを本居宣長は、(くろざきの)と、読ませています。「久漏」は黒日売に関わった黒だとしています。この黒日売の帰って行った郷「黒崎」ではないかというのです。そして、この「久漏邪夜能」について、とてももしろい結論付けをしていますので、それもご紹介しています。

 久漏はくろで、即ち、黒ですが、次の「邪夜能」について、邪という字は「都」の間違いで、夜能は上下の誤りで能夜で、更に、邪夜は都良の誤りであって、結局、この「久漏邪夜能」というのは「久漏都良能」、{黒津ら之」という意味だとして、この「久漏邪夜能」を(くろさきの)と読ましているのです。 黒津という所は吉備の国にはないのだがとう事を踏まえて、敢て、これを(くろざき)と読ましているのです、この黒崎という所は、倉敷市の玉島や中庄にありますが、宣長は玉島の黒崎を念頭に置いてこの説を唱えたらしいのです。

 なお、契沖は、この「久漏邪夜能」について、「久」は「文」を誤ったもので、(もろざやの)、即ち、「諸鞘の」という意味だとしています。しかし、現代の学者は、ほとんどの人がこれを素直に(くろざやの)、即ち、黒鞘と読んでいるようです。これも念のため。

   


吉備の黒日売

2011-01-28 16:40:05 | Weblog

 一寸長たらしくなりますが、この黒日売について、感心のないお方には、興味がないかも分かりませんが、暫らく追ってみます。吉備を語る時には、どうしても切り離せない歴史的な事件なのですから。

 さて、仁徳天皇の厚い情を受けた黒日売です。分かってはいたのですが、どうする事も出来ない妥女という自分に置かれた運命を嘆いた事でしょう。大后の嫉妬(ねたみ)が如何なるものかさへ分かりません。そうなると、石日売命のいる宮中から一刻も早く逃げださなくては、自分の命さへどうなるかも分かりんせん。幸い自分は吉備海部直の娘です。親は瀬戸内の海の支配者です。難波津のすぐ傍にあった難波宮に居る自分の娘「黒日売」を、すぐさまに連れ出すことぐらい朝飯前の訳ない事です。船に乗せて吉備の国へと出船します。
 その様子を次のように古事記には書いてあります。

 「然畏大后之嫉逃下本国」、 “しかれども そのおほきざきの ねたますを かしこみ[畏]れて もとつくにに にげくだりにき” と読ましています。つづいて「天皇坐高台望瞻其黒日売之船出浮海以歌曰」と。これを(すめらみこと たかどのにましまして そのくろひめの ふなでする[船出浮海]を みさげ[望瞻]まして うたひたまわく)

 天下万民を統治なさる天皇です。何とだらしない一人の女性をも自由にできないなんてしょうもない男だ。身の安全を慮って、密かに国に帰ろうとする自分の女を留めることも出来ないで、唯、黙って高台に坐って、その船出を見送るしかできないような、本当に、つまらない男らしくない天皇だと思われてもいたしかたないような女々しい行動です。
 こんなことが、堂々と、日本の正史に出ているのですから、この古事記の面白さがあるのでしょうが、そこがこの天皇のいいとこでもあったのでしょうか。
 此の事件のすぐ前に書かれている天皇の記事が、高山に上って百姓の家々いから煙が出てないのを見られて、3年間も租税を免除したことです。その仁政を受けての、この誠に情けない様です。
 これって何でしょうかね。「仁徳」という天皇の御名を強調した為にわざと稗田 阿礼が書き綴ったのでしょうか。ここに書かれて史実は、書紀にはありません。だから、余計に、そんな思いがします。たとえ、女性一人といえども、その人権を擁護した徳のある天皇だという事を、特に、訴えるために作り上げられた史実であったのかもしれませんが。
 

 まあともかくとして、高山と云い、この高台と云い、随分と高いところが好きな天皇であったのでしょうかね。続きは、又、明日にでも。
 

 
 


吉備の類いまれなる美女

2011-01-27 20:18:31 | Weblog

 仁徳天皇がどうしてその存在をお知りになったのかは何も書いてはないのですが、古事記には

 「其容姿端正」
 としか、書いてはいません。

 これをどう読ませるかですが、本居宣長の「古事記伝」には(それ かほよしと キコシメシテ)と読ましています。その読み方に従うならば、仁徳天皇は、黒日売という「吉備海部直之女」が大変美しいという噂をお聞きになってから、「喚上而使也」と書いています。この読み方も、宣長によると、(メサゲテ ツカイタマヒキ)とあります。今流に言いますと「直接に自分の元に召して、自分の思い者、妃にした」ぐらいな解釈になると思います。何せ、黒日売は、吉備の国から遣わされた妥女だった人ですから、天皇の思い通りになる人でもあったのです。
 誰が噂したのかもしれませんが、噂にしてもらいたくないと誰もが思っている時に噂になったのです。天皇に召された黒日売の思いはいかばかりであったでしょうか。
 普通であるならば、天皇に呼ばれてお側に仕えることは名誉であるばかりか、皇太子でも誕生しようものならば、将来の皇后にも成り得るくらいの女性としては格別の出世のはずです。でも、それを黒日売は嘆き悲しんだのです。自分の不運といいましょうか、美女にうまれた悲運を呪ったことだと思います。石之日売の嫉妬を恐れてのことです。
 そのままのほほんと宮中に留まっていようものならば、自分の運命はどうなるか分かりません。多分、命がなくなるくらいの覚悟は必要だと思います。それで命を失った女性も、古事記の中には書いてはありませんが、多分いたのではないかと思われます。
 黒日売は、当時、大和と力を並べるほどの勢力があった大国「吉備」からの「妥女」です。そんな簡単に「石之日売」に命を取られる程、無力ではなかったのです。吉備から遣わされた黒日売を、当初から警護していた屈強の知恵者がいたのだと思われます。
 本来なら、勝手に、例え命がなくなろうとも、自分の思いどうりに行動が出来ないのが「妥女」なのです。一端、宮中に上ったからには、2度と自分の思いどうりの自由な行動なんてできっこないはずです。
 でも、黒日売には、その自由があったというが古事記には書かれています。この事件は、それだけ吉備の国の力を如実に物語る事だったと言えます。

 こんな古事記には書かれていない裏話も、深く読むと、何となく頭の中を横切ります。宣長を始め、誰もが思わなかったであろう新説ですが、まだまだ、続けますので、どうぞ、お付き合いください。


足母阿賀迦邇嫉妬

2011-01-26 14:38:37 | Weblog

 しばらくお休みいただきましたが、又再開します。

 この仁徳天皇の后「石之日売命」については、日本書紀には何も書かれてはいないのですが、古事記には、如何してか、これも不思議なことですが、詳しく説明がなされています。
 
 「足母阿賀迦邇嫉妬」について、本居宣長の古事記伝には
 足搔貌(あがくさま)にして、足磨りなどしたまう貌(さま)を云るなり」とあります。万葉集にも、『立乎杼利 足須里佐家婢 伏仰 武弥宇知奈気吉(たちおどり あしすりさけび ふしあおぎ むねうちなげき)という例があると説明しています。

 要するに、我が夫が、例え妥女であったとしても、女性と付き合うなならば、后は、じだんだふんで怒り、その天皇の恋人の女性に対して、ものすごい嫉妬心を起こし、とんでもない仕打ちをするというのです。それが「足母阿賀迦邇嫉妬」なのです。

 そんな噂を知ってか知らずか、多分、黒日売はどうしようもななかったのだと思います。吉備の国から天皇に差し出された女性だったのです。拒否することもできません。天皇のお側に仕えていたそれら地方からの献上された女性たちは、天皇と顔も合わす事がないように、十分に、気をつけていたというのです。そのために「不得臨宮中」、(みやのうちをも えのぞかず)ようにしていたのです。もし、天皇との関係があったとする噂でも立とうものならば、それこそ、大后のどのような仕打ちを受けるか分かりません、命あってのものだねです。多分、宮中に侍っていた女官たちは、戦々恐々と、天皇からお声がかからないように、息をひそめる様にして、気をつけて仕えていたのだと思います。
 この辺りの面白さは、古事記に若くはなしです。大后であっても、やはり女性です。今の世とひとつも変わりありません。人の持つ性と言いましょうか、そんなものがいっぱいに、遠慮会釈もなく正史の中に、堂々と描き出されています。

 そのように注意深くしていたにも関わらず、天皇の目にとまった非常にあでやかで、誠に秀麗なる女性がいたのです。その女性こそ我が吉備の国が生んだ歴史的な超美女の一人であったのです。


吉備海部直女名黒日売

2011-01-22 16:09:11 | Weblog

 古事記の仁徳紀の最初に書かれているのが、3年間税と徴収しないという天皇の仁政です。仁徳天皇を国民は「聖帝の世」と言って奉ったのでした。

 さて、この後に書かれているのが、わが吉備の国の超美女「黒日売」の記事です。以前にも、このブログで「吉備の国の美女」の一人としてご紹介しましたが、「其容姿端正(かおよし)」とお聞きになって天皇は自分の妃にと思って侍らせたのです。
 ここまでだったらどういう事もなく、特別に歴史にその名を刻まれる程の事でもなかったのですが、ここに誠に個性の強い一人の女性が天皇のお側に、というより、皇后としてお仕えしていたのです。ご存じ、あの「石之日売」大后(いはのひめおほぎさき)です。
 この大后について、古事記は、次のように書いています。原文のままの方が、その描かれている様子が、よりリアルにお分かりになるのではと思いましたので書いておきます。

 「甚多嫉妬。故天皇所使之妾者、不得臨宮中、言立者、足母阿賀迦邇嫉妬」と。これは次のように読むのだそうです。
 「はなはだ ウハナリ  ネタミシタマイキ 。かれすめらみことの  ツカハス ミメタチハ ミヤノウチヲモ エノゾカズ。コトタテバ、アシモアガガニ ねたみたまいき」

 要するに、もし、天皇のお情けを受けようでもしたら、皇后の嫉妬がどのような形で仕打ちとして我が身にかかるかもしれません。“危うきに近寄らず”の例えで、出来るだけ天皇のお傍から離れて、顔を合わせないようにして、仕えて居ったのです。この天皇にお仕えしている女性は「妥女(うねめ)」と呼ばれた、地方の豪族たちの子女の内から選りすぐられて、天皇に献上された見目麗しい美女たちのようでした。

 この妥女たちの中でも、当時一番の美女として名高かったのが、吉備の国の「黒日売」です。天皇がほっとくはずがありません。お手は付きます。皇后の「甚多嫉妬」に会うのは当然です。どのような仕打ちに、この吉備の美女はあったのでしょうか????

 さて、このお話どうなりましょうや。また明日にでも。本日はこれまでにござります。


「いけえ」 こんな備中地方の方言知っていますか??

2011-01-20 13:54:08 | Weblog

 古事記はちょっと置いといて、今日は、もう、とっくの昔になくなってしまったのではと思えるような備中地方の方言について書いてみます。
 黒姫の続きに、突拍子もなく、こんなつまらねえことを書きますと、我ながらに、「てえげえにせえよ、おめは でえれえ ええかげんな男じゃのう」と、また、あの筆敬氏から、お叱りを受ける事は確かだと思われるのですが、気が付いたからには、今、書いておかなければ、明日には完全に忘却の彼方に逃げ去ってしまいそうですので書きます。「いかい」という言葉です。・・・・・ご存知ですか。「いかい」?・・・「それは何だ。そんな言葉聞いたこともねえで」と、お思いのお方が多いのではと思われます。

 というのは、今朝、東郷 豊が書いている新聞小説「青銭大名」の中で見つけました。
  「何さ、今日はいかい稼ぎが良かった。かようなものを得たが、・・・・・」
 と。

 この「いかい」という言葉は、我々が、随分と昔になるのですが、平生よく口にしていた「いけえ」という言葉と同じ語源の言葉ではないかと、ふと頭を横切ったのです。その思いを、「黒日売」はほっておいて、書かずにはおれなくなった次第なのです。

 随分昔と、いっても、昭和15、6年頃の事になるのですが、私の家もそうですが、当時の農村では、2、3軒で、共同で使っていたのではないかと思われる「釣る瓶井戸」がありました。生活用水は、総てこの共同の「釣る瓶井戸」に頼っていたのです。ご飯を焚くのも、洗濯をするのも、お風呂も雑巾掛けも、総て、この井戸水に頼って生活していました。だから、井戸端会議等という言葉が生まれたのです。もし、昔から現代のような水道に頼った生活ならば、決して生まれてはこなかった言葉だと思われます。
 まあ、そんなことは兎に角として、農村でも都会でもそうですが、この井戸を中心として生活と言いましょうか、ご近所が成立していたのです。井戸が生活の要だったのです。すると、どうしても、みんなして井戸を守らなくてはいけないという思いが生まれます。その為には、何時も井戸の周りは、きれいに衛生に気をつけなくてはならないという思いが自然に生まれてきます。また、その必要もあったのです。ペストだとかチフスだとかいう恐ろしい病は、常に、この井戸を媒介して起っていた事を誰も知っていたのです。だから、「井戸の周りでは決して遊んではならない」という事は年端の行かない子供たちでも知っていたのです。若し、そこで子供たちが、仮に、立ち小便でもしようものならば、誰かれなしに見つけられ次第に、お尻を引っぱたかれ、こっぴどく叱られます。理屈も何もあったものではありません。「だめなものは、だめなのです」という教えが厳重に守られたのです。そんなことを通して、やっていいことと悪い事の区別が、言い換えますと、子供たちへの社会による教育が、年端の行かない子供まで、はっきりとなされていたのです。 
 そんな社会生活の要であったのがこの井戸なのです。その井戸を使っている家数軒のおっさんたちによる井戸替えも、数年に一回ぐらいの程度で、秋口が多かったように思えますが、必ず、していました。大体1mか1.5mぐらくいかの大きさの穴が地下4~6mぐらい掘られ、その周りは高梁川の川原から取って来た丸い大小の石が上手に積み重ねてあります。その石を上手に伝っておじさんたちは底まで下りるのです。「とうやん」と呼ばれてい左官のおじさんが何時もその役をしていました。底まで下りると、竹で編まれた泥浚い用の「テミ」と呼ばれていたと思うのですが、それを使って、底に溜まっている泥を掻き集めて、外に出すのです。これを「ベエスケ」と呼ばれていたと思うのですが、竹を編んで〈こせえた〉入れ物に、「テミ」ですくった泥を入れると、地上にいた他のおっさんたち「すけやん」「やっさん」達の男たちが、その「ベエスケ」いっぱい入っている底にたまったいた数年間の泥を何回となく引き上げます。

 そなんな時だと思うのですが、周りで見ていたまだ私が、4歳か5歳だったと思うのですが、その「とうやん」が入って行った暗い井戸の底から、狭い井戸の石を積み重ねた壁を伝わって反響したのでしょうか、何か奇妙な、よくいたずらした時など祖母から聞かされてい「ミサキ様」という人食い鬼の声ではないかと思われる様な声が聞こえてきました。
 「ことしゃあ、いけえあるぞ。ほねがおれるど」とか、なんとか。この「いけえー」という言葉の何と恐ろしかったか。「えー」という音が、なんとも云えず空恐ろしく、恰も地獄底から響いて来る閻魔様の声ではないかと思えたのです。私は、その声の余りの恐ろしさに、突然に、白いかっぽう前掛けの中に顔を突っ込んで、おばあさんを驚かしたことなどが思い出されました。

 今では、とうの昔に忘れてしまっていた懐かしいこの「いけえ」という言葉が、今朝の新聞の中い突然に降って湧いたように出ていたのを目にして、何をさておいても、今日はこれを書かなくちゃと思いついたのです。
 なお、われわれがその昔使っていたこの「いけえ」という方言の意味は。「ぼっけえ」「でえれえ」「どえれえ」「ぎょうさん」等と同じように数的に多いという事を表す方言として使用されていました。これらの方言には、それぞれの、又、多少の意味の違いはあります。「ぼっけえある」と「いけえある」とは、その使い方には、勿論、違いは当然あります。

 この「いかい」という言葉が出ていた新聞を読んで、しばらく、この昔の思いに馳せて、何となくぼんやりと思いに耽っていたのですが、家人からの「ねにゅうしょんでえー、はようしてえなあ。わたしゃあいそがしんでえ」と、せき立てられます。私は、無言で、大急ぎで、食卓を離れました。


仁徳天皇の世 (古事記より)

2011-01-19 21:31:34 | Weblog

 仁徳天皇といえば、三年間も税金を、一切、取らなかったというで有名な天皇です。その様子を、古事記には、次のように書いています。

 ある時、天皇は、高い山に登られて四方を見渡たされます。するとどうでしょう。ご飯を用意しようにも、米がないのでしょうか、どこの家の竈からも煙が立ち上っていなかったのだそうです。当時の人々がかいかに「貧窮」ーこれを(まづし)と読ませていますーしていたかわかります。そんな様子をご覧になった仁徳天皇は、直ちに、「税は、3年間、一切徴収しない」という詔を発し、直ちに、実行したのだそうです。
 
 「高速料金は只にする」などと、国民との間に約束したマニフェストを、税収が不足するからと言って、安易ではないにしても、反古にするような腰砕けのどこかの国の政治家とは違います。
 
 そうしますと、当然のことですが、 国家には、3年間、一銭も税が入らないのです。国家財政は、当然、破綻するに決まっています。結果、「大殿は破壊(やれこぼれ)て、悉くに雨漏れども、修理(つくらひ)たまわず」です。楲(ひ)?でその雨漏りを受けて、雨漏りがしない所で政務を行ったのだそうです。このように徹底的に国家財政の無駄を省き、ひたすら財政の立て直しをしたのです。

 それが三年間続きます。すると、人々の竈から煙が立ち上るようになったのです。それから、漸く、税を徴収して、以後、天皇も国も栄えたというのです。

 又、この仁徳天皇の時代には、我が吉備地方にも多くの秦人が入って来て、秦・半田・幡多・土田などの地名のある場所の土地を切り開いて、新しいを作ったと言い伝えられてはいますが、大和の秦人の活躍については、特別に、古事記の中に見る事が出来ます。 「茨田堤、茨田三宅、丸邇池、依網池、難波の堀江、小椅江、墨江之津等を作った」と、。

 なお、この記事が見えるのは「三年間も税と取らなかった」という史実より前に書かれています。よほど、当時、秦人の活躍が目立ち、それらの人々によって国家財政再建がもたらされたからではないでしょうか????


「黒媛塚の図

2011-01-18 19:55:05 | Weblog

 黒姫とは何か????

 「黒姫」、日本書紀にはなく古事記にのみ出ている、この「黒姫」は「黒日売」とあります。この説明をしてから、この江漢の絵図に進めたいと思います。現在、備中国分寺のすぐ脇にある、「伝黒姫塚」です。  

                      

 前のページの造山古墳に続いて、次の古墳について江漢は図説しています。でも、この塚の名前が「黒姫塚」と呼ばれているという事は知らなかったのでしょうか、それらしい事が伺われる様な事は一切書かれてはいません。もし知っていたとしても、そんなことには、聊かの興味も示されなかったのかもしれません。しかし、この塚の由来については、「黒姫」という名が常にくっついているのです。この伝説が何時ごろ出来たのかもしれませんが、兎に角、この黒姫について、又も横道にそれて説明しておきたいと思います。

 


造山古墳の記事か。江漢の「画図西遊譚」より

2011-01-17 14:48:54 | Weblog

 下道郡南山の墳に続いて、江漢はこの足守にいる間に見たであろう、現在、日本4位の大きさを誇る造山古墳の事だろうと推測される墳墓について、「備中下道郡二万里塚の図」という題で「画図西遊譚」に記しています。

                   

 「下道郡二万里塚の図」、これは正しくは、「窪屋郡新庄造山古墳の図」とすべきだったろうと思います。
 その説明書きには、

 「塚の前後左右昔の塘(どて)と見えて今は田となる。大墳高さ八間、小墳高さ七間、小墳大墳に傍(そう)て穴あり、土崩て穴口広さ六尺、二三十年以前までは人這入りしと云う。伝聞に穴の内平にして 凡十四五歩行ば石門ありて、石の扉あり、それよりは底の方に穴ありて入がたしという。上古の王侯の墳なり」

 とあります。

 これらの図は、あの西欧の遠近法を熟得していたといわれる日本洋画の先駆者として知られる江漢にしては、いくら旅の途中でメモ的に描いたものであったとしても、どの辺りから見て描いたのかも分からないような、誠に、稚拙な図だとしか言いようがないようなものです。しかも、この塚は前方後円墳です。上部は丸くお椀を伏せたような形になっているのですが、この図では平たく描かれています。その場で写生をしたのであれば、こんな形には決してならなかったと思います。多分、写生用具など持ち合わせがなかったのでしょうか、ただ見ただけで、後になって記憶に残っていたものを空書きしたのだろうと思われます。

 司馬江漢には、此の「画図西遊譚」を発行する時の原本としたのでしょうか「西遊旅譚」という別の本があります。それを見ても、やはりこの図と大体において同じ構図になっています。
 これからも分かるように、これら江漢が描きとめた図の総ては、現場での直接的なスケッチではなく、見てきてから、しばらく経ってから、頭に残っているものを描いたものだと思われます。

 なお、今、この絵図を見ただけでは、これが、あの造山古墳の図だと気がつく人は誰もいないと思います。念のために。


江漢の足守付近の見聞録 

2011-01-16 15:37:13 | Weblog

 江漢は三泊した足守で、近くにあった古墳も見学しています、その一つが「備中下道郡南山の古墳 」です。

 この古墳は「河邊の駅より南十三、四町南にはいる」とあります。

     

 ここに描いている図が、江漢が見た南山にある古墳です。が、現在どこにある古墳かは不明です。
 「墳の高さ七間半ばかりで、上のひろさ亘六間、中壇広さ一間半に、周り二四〇歩溝あり深さ六、七尺 埋もれて水なし。封疆(どて)高さ六尺 形楕 周四百歩余り所々壺を並べその数数千もありしか、今は二十余り残れり」

 なお、この図の中に描いてある壺について説明書きが傍にあります。「壺の口径八寸、高さ一尺二寸、図のように半に帯があり素焼にして朱色なり」と。半に帯がありとありますが、多分円筒埴輪ではないかと思われます。「溝があり埋もれているが土手がある」と書いていますので。この古墳の周濠であったのかもしれません。形からすると、円墳のようであり周りに濠を持っていたのです。足守近辺にはこのような古墳かあったとは聞いていませんが????下道郡と云うのも河邊の駅というのも、足守から見学に行くほど近くはないのです。場所の名を間違って書いたのかもしれません。


司馬江漢の画図西遊譚と足守

2011-01-15 14:14:14 | Weblog

  天明8年に九州まで旅して、その道中記を記している江漢ですが、我が町吉備津にて「奇なり」とした吉備津神社のお竈殿を見た後、北二里ばかりの所にある足守に、木下侯を訪ねて行き、そこで3泊しています。木下侯と知り合いになっていたのでしょうか。御用絵師ではなかったはずですが。

 この足守にいた4日間、江漢はその周辺の場所を歩きまわって、見たり聞いたりした事について絵と文で、かなり詳しく「画図西遊譚」に記しています。これにも、ちょっぴり興味がそそられましたので、またまた、例の横道にそれて、その記事を追います。
 
 この足守へ着いた江漢は、木下侯が未だ御帰着しておられなかったと云う関係で、用人黒宮氏と云う人の家に泊っていますが、その人の家の庭に置いてあった、径2尺ばかりの古い礎石について、足守での見聞の第一に取り上げて書いています。この石は溝手にあった賀陽寺の古跡から取って来たもので、千年はゆうに経っている石だとか。現在でも、足守にあるのかどうかわ分かりませんが、江漢には相当珍しく写ったのではないでしょうか。 
 また、この黒宮と云う人は、足守から1里ばかりの所に柏井という云う処に雪が降っても積もらない田の中の場所に湯治場を設けて、多くの人も利用していると書いています。この柏井の湯治場と云うのは、現在のす「粟井温泉」の事だと思われます。
 その他、この四日の間に江漢が訪ねた、足守近くの名所として、「岩石数十丈えて飛泉あり」と書いているお瀧で名高い龍泉寺、そして続いて、「鬼城があり石を以て柵を作り、そこに鬼の釜がありその口径八,九尺あり」とある鬼城も、また、どうして、ここにその名前があるのか分からないのですが、到底、そこまでは足を延ばすことは不可能だと思われる真庭市上水田にある鍾乳穴(かなちあな)についても記されています。

 なお、此の時の江漢が訪ねて行ったのは、足守藩主は第八代木下利彪(としとら)と云う人のようです。

 この人の事についての資料には、“文化的な事に力を注ぐ”藩主であるとしかなく、どうして、あの江漢と関係があったかなど一切が不明です。

司馬江漢とお竈殿

2011-01-14 20:02:31 | Weblog

 吉備津神社のお竈殿について書かれたものは古来より多くのものがあります。

 その一つに天明8年(1788年)に書かれた司馬江漢が著した「画図西遊譚」に見る事が出来ます。この本は彼が長崎に遊学した時の道筋の様子を書き綴ったものです。


  
 このページの終わりから2行目に
  “吉備津の祠に釜あり、初穂銀を納れば火を焼(たく) 其釜忽鳴動すること 奇なり”
 と書かれ、吉備津の鳴釜の神事を「奇なり」と紹介しています。

 

 


長嘯子とお竈殿

2011-01-13 10:31:38 | Weblog

 長嘯子は神主の家に泊まった翌日は、「雨そぼふりければ、ゆきもやらず」ということで、吉備津神社に詣でています。

 「火たきやに、釜ふたつならべすゑおきたりける。其かまひとつ神供をととのふる毎に、おびただしくなりどよむよしをききて、のぼみはべりける。まことに、いかづちなどのように、しばしとろろきてきこえけり。これぞ此神秘となむいひつたへし」

 と、あります。

 「その写真を見せてくれ」と、云うメールを頂きました。しかし、ここは撮影禁止の張り紙があり、みだりにカメラを持ちこむことができません。まして、その撮影ともなれば不可能な事だとあきらめていましたのですが、特別の許可があれば撮影が出来るのだという話を聞き、今朝、早速、神社に参り、神主より、直接、特別の許可を頂き、たった1枚だけですが、その写真を写してきましたので、ここに披露します。

             

 「釜ふたつならびすゑおきたる」と云うのが、この写真にある左右に据えてあるお釜のことです。「神供をととのふる」と云うのは、右側の甑の中に、ここに仕えておる阿曽女が、搔笥(かいげ)(曲げわっぱの一種)の中に玄米を入れて揺り動かすことです。その時、釜の中からなんとも不思議な音が出てくるのです。地中に埋まっている温羅の髑髏の発する唸り声だと言われてきました。この声を、長嘯子は「いかづち」のようだと形容して、さらに、その鳴る音は、まさに、「神秘」以外の何ものでもないと、説明しています。

 これも我が里に伝わる古い物語の一つなのです。長嘯子が見たお竈殿は、ここに現在あるものよりは前にあったものだと思われますが、それがいかなる形であったかは分かりません。写真に見るような現在のものは、慶安17年(1612年)に安原知種によって造り直されたものです。

 なお、このお竈殿の原型は、室町時代の武家屋敷の厨の形がそのまま取り入れられているという話を聞いたことがありますが??????。


神主のいへにとまりぬ

2011-01-12 10:00:27 | Weblog

 木下長嘯子が、1592年に朝鮮との戦い(文禄の役)の為に九州まで下るのですが、その道中記「九州道の記」には、吉備の国での見聞した事も書いてあります。昨日、書いたように「つれずれさのあまり」一日目は、細谷川を沿って吉備の中山に登ったのでしょう。細谷川以外については何も記されていません。その山頂にある伝吉備津彦命のお墓についてもです。
 
 さて、どうして、彼が吉備津神社の神主の家にわざわざ泊ったかと云う事は定かではありませんが、これも推測の域を出ないのですが、高松城の水攻めの時に秀吉は、清水宗治公に、城をを明け渡して、織田方に加担すれば、吉備や出雲の国などを委ねるからという信長からの誓紙を持たせて、宗治の元に遣わします。その役に選ばれたのが、当時の吉備津神社神主「掘家掃部」でした。そんな関係で神主と木下勝俊はお互いに旧知の仲であったのかもしれません。
 なお、これも、蛇足なのですが、安土桃山の時代の山陽道の宿場は一宮の辛川にあったのです。

 この「辛川」ですが、1390年代(将軍義満)に九州探題になった今川了俊と云う人が書いた「道ゆきぶり」と云う書物にも
 「から川とかいうところにとどまりて、つとめてはきびつ宮の御まえよりすぐる・・・・・」
 とあり、室町時代の山陽道の宿場はこのから川にあった事を証明しています。

 と云う事は、長嘯子が旅した頃は、板倉には宿場は、まだ、存在していません。山陽道随一を誇る宿場町「板倉の宿」が出来たのは、文禄の役の時、秀吉によって辛川から移転させられたのだと言い伝えられています。それなども、吉備津神社の神主掘家掃部の働きではなかったのでしょうか????

 まあ、そんなこととは一切関係がなかったのかもしれませんが、兎にも角にも、木下長嘯子は、九州への長旅の一夜を、吉備津神社の「神主のいへにとまりぬ」ということに相なったのです。