私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  171 大坂屋源介の義侠

2009-05-31 21:02:26 | Weblog
 藤井高雅はいくらぐらいのお金を、倉敷の大坂屋源介から借りていたか、その金額が分かる書類が残っています。
 明治2年に、この源介から、高雅の息紀一郎に宛てた書き付けがの残っています。それによると、何やかやと総計にすると百八十一両にもなっていたのだそうです。
 一両が12万円として計算しますと、1200万円にもなります。

 こんな大金を、この大坂屋源介は高雅が京にて不慮の死を遂げた後、子息紀一郎に対して、当時、藤井家にあったのでしょう、多分、祖父の高尚あたりが貰ったのでしょう本居宣長の短冊一枚を持って、この百八十一両もの借金を棒引きしています。

 どのような経緯があったのかは明確にはなっていませんが、兎に角、源介こと林孚一のとったこの義侠心は、長く吉備津では言い草の種になっていたのです。
 これも今では、林孚一と一緒に、知る人もなく、この吉備の里「吉備津」から完全に消え去ってしまっているのです。
 これは私の勝手な推測なのですが、大坂屋源介にこんな義侠の心を起こさせたのは、多分、緒方洪庵も一目置いていた、高雅の母「堀家喜智」が大きな部分を占めていたのではないかと思います。どのようないわく因縁があったかということは記録には残っていませんが、それ以外に何かこれといった理由を探そうにも何も無いのです。
 そんな女傑と言っていいほどのお人が此の吉備津にはいたのです。
 

卑弥呼は吉備にいたのかも

2009-05-29 18:42:29 | Weblog
 今朝の新聞によると、奈良県の箸墓古墳が築造されたのは240年頃だということが判明して卑弥呼の死亡期と合致して、邪馬台国の大和説に大きな影響を与えたと、大きく報道されていました。

 そこで。此の箸墓古墳についてちょっと書いてみます。

 この箸墓古墳こそ、邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓だと強く信じている学者もいるようですが。この墓からは、又、吉備の国にしか見られない「特殊器台」が出土しています。
 吉備地方にしかない特殊器台が箸墓古墳にあるというのも不思議な歴史的な事実なのです。
 此のことから類推して、もしかして、卑弥呼も、最初、吉備の国に住んでいたのではないかという疑問が浮かび上がってきます。何らかの関係で、大和に移動して、「邪馬台国」を造る前に、一時、「吉備王国」にいたとではという考えも生まれてくるのです。
 なお、一方、この箸墓古墳に祀られているのは孝霊天皇の皇女「倭迹々日百襲姫命(やまととひももそひめのみこと)」であるという説もあります。この姫命の弟君が我;吉備津彦命であらせられるのです。
 吉備津神社の中でただ一つ南向きに立っているお宮「本宮社」に、この倭迹々日百襲姫命も孝霊天皇も母親の阿禮比売命も当然の祭りされています。

 このように見てくると、邪馬台国と吉備が何となく強い繋がりがあるように思われます。
 なお、吉備の中山にある前方後円墳の矢藤治山古墳がありますが、ここから出土した特殊器台が箸墓古墳之それとよく似ていると言われています。築造も大体同じ時期(3世紀の初め頃。今日の新聞では250年頃)だということで、ここからもまた卑弥呼と吉備との関係が取り立たされているのだそうです。

吉備って知っている  170  江戸末期の物価

2009-05-28 21:45:56 | Weblog
 ちょっと横道にそれます。
 高雅が倉敷の大坂屋源介(後の林孚一)より70両の借金をしたことをご紹介しましたが、70両という金額はいかほどであったと思われますか?
  
         

 この写真は天保通宝と一朱銀と2朱金です。
 ある本によりますと、文政年間の1文は現在の30円ぐらいだそうです。そうしますと、1両が約12万円程度になるのだそうです。
 ちなみに、天保通宝は40枚で1両ですから、1枚で7500円程度だそうです。2朱金1枚は3万5千円、1朱銀は1万7千円程度の価値があったのだそうです。 

吉備って知っている  169  大坂屋源介と高雅③

2009-05-27 15:59:21 | Weblog
 藤井高雅は、この大坂屋源介からも相当の借金をしていました。記録によりますと、借金の総計では百数十両に達していました。

 こんな「預り書」が残されています。

 文久二年壬戌十月
 金七十両預手形一通

   金子預り一札之事
 一金七十両也
 右の金子相預り候所実正明白也、然ル上ハ御入用之時元利御返済可申、依而一札指入候所如件
  文久二年壬戌十月
                       大藤下房守 印
   大坂屋源介殿

 高雅は此の年の十一月に京へ出て、琵琶湖疎水工事などのために奔走しますが、この借金は、十月にしたものですから、まだ、宮内にいた時分のものです(緒方洪庵を介して知り合ったと思われます)。
 当時、吉備津神社も、相当窮乏していたので、宮内など吉備津社領内だけで通用する「宮内札」を発行するなどして、その急場をしのいでいたようですが、その他近郷の富裕層からの借金も相当あったようです。
 上に挙げた「預り書」もそのうちの一部だったのです。言わずもがなのことですが、当然、借金です。返さなければなりませんが、でも、高雅は、文久三年七月二五日の夜、急に、京にて暗殺されてしまいます。

吉備って知っている  168  森田節斎と倉敷

2009-05-26 14:25:54 | Weblog
 森田節斎は、幕末、大和五条で生まれています。京に出て頼山陽に師事し、尊皇攘夷論者として梅田雲浜などと交わり、その門下生には吉田松陰などがおります。
 松陰が国禁を犯して幕府に囚われ、萩の野山獄に送られますが、詩を送り励ましたりもしています。そんな関係で、節斎は、幕府から相当睨まれ、身に危険が迫ったので、一時、備後に身を隠しました。その後、倉敷の広島某に招かれて私塾を開き、多くの子弟を育てます。その中に、明治になって倉敷紡績を作った大原考四郎の父壮平などもいたそうです。
 この森田節斎がもとで、倉敷ので尊皇攘夷論が大いに盛り上がり、多くの志士たちが倉敷に集まります。そして、倉敷からも、立石孫一郎のような志士も相当数出ています。
 そんな人たちを、やはり早くから尊皇攘夷論者であった「大坂屋源介」は丁寧に待遇したり、その一派に経済的支援を行ったりもしています。そんな関係で、また、源介は長州の浪士たちとも親しく行き来があったのです。
 「備中騒動」の中心人物「立石孫一郎」(倉敷村庄屋大橋平右衛門の女婿大橋敬之介)が、幕府に追われ、長州に隠れる時に、紹介状を書いたのがこの林源介であったと言われています。
 

吉備って知っている  167  大坂屋源介と高雅②

2009-05-25 20:55:17 | Weblog
 大坂屋源介について少々付け加えていきます。
 彼は児島郡に生まれ、長じて倉敷の林源介という人の養子に迎えられています。この林家は代々倉敷で薬を商いにしています。彼は50歳にしてその家督を息子の源十郎に譲り、林孚一と名乗ります。
 森田節斎に師事し、勤王を倡えるようになり、高雅との結びつきが深くなったのではと思えます。京にも度々上り、多くの志士達に経済援助をしています。
 明治になり、倉敷県が置かれると郡長に任命されています。
 貧を救い窮を憂え、農業を勧めて、道路を修め水利を通すなどして、つねに人々のことを思って政に携わってきたのです。
 その功績に対して、明治政府より、明治17年、国家に功績があったとして功労金百円を賜り。正七位を叙されています。

 なお、森田節斎は幕末における尊王攘夷の人で、安政の大獄の一時、倉敷において学校を設立、学問を講じた。門下生270名、倉敷地方における尊皇運動の発祥の地となった。
 これについてはもう少し詳しく明日にでも。

吉備って知っている  166  大坂屋源介と高雅

2009-05-24 10:14:37 | Weblog
 前に書いたので、ご記憶になられているお方があるかもしれませんが「薬屋大坂屋源介来る」と書いている緒方洪庵の「壬戌旅行日記」です。
 この洪庵の日記は母「きやう」の米寿を祝うために帰郷したおりの日記なのです。これは高雅が暗殺される1年前の文久2年4月のことです。
 この時、洪庵は足守で母の祝いを済ませてから宮内、倉敷を経て、さらに尾道から四国の足を延ばして、大阪に帰っています。
 その倉敷で一泊しています(宿;浅田屋です)が、その宿に洪庵を訪ねたのが大阪屋源介です。
 「夜分祝宴す」と、書かれています。

 この大阪屋源介は児島郡木目村(玉野市)の石井家から迎えられた養子です。勤皇家として有名で、後に倉敷町長、窪屋郡長を歴任しています。道路の整備や水利事業を勧め、窮民救済、勧農など民政安定に努めて人望がありました。
 この源介と藤井高雅とも深い付き合いがありました。洪庵を仲立ちにしたのかどうかは分かりませんが、もしかして勤皇の志士という結びつきがあったのかも知れませんが。

 なお、この源介も、また、和歌もよくしています。
 その内の珍しい一つをご紹介します。彼が81歳の時、岡山の後楽園に遊んだ時に読んだ歌です。

    もろ人の いとたのしげに あそぶこそ
               ひしりの御代に 逢へはなりけり
  一般の人がこの園には入って楽しめるのも天皇の御代になったからこそだ、と云うぐらいの意味だと思います。

吉備って知っている  165  堀家輔政の嘆き③

2009-05-22 16:51:25 | Weblog
 高雅の生髪、臍緒、抜歯を板倉山の墓地に葬ったのは、輔政一人であったようです。
 「かくてうからのひとりもまねかねばおのれひとりなきなきぞかへりける」
と書かれています。
 「うから」とは親類縁者のことです。高雅の子紀一郎もその場にいなかったように思われます。勿論、母の喜智もだと思われます。誰にも知られない「おのれひとり」た淋しい葬儀だったと思われます。
 この母喜智は、高雅の遭難から11年後の明治7年80歳で歿しています。洪庵も文久3年6月に死去しています。
 その母喜智が、その後どのような思いで11年間を生きてきたが、その記録が残ってないので分かりませんが、本人にとって、いいことか悪いことかは分かりませんが、高雅の遺骨は最後まで生まれ故郷の宮内に帰ってくることはできなかったのです。
 なお、明治の御代になって、高雅が企画した琵琶湖疎水計画が完成しますが、その姿を遺骨を京に残したために、その経緯を、直接、天国から眺めることができてかえってよかったのかも知れないと思っています。
 
 
          

吉備って知っている  164 堀家輔政の嘆き

2009-05-21 10:59:46 | Weblog
     限有て 月日もめぐる よの中を
                  かわらぬものと おもいける哉 

 「有為転変の儚い世の中ですが、何時までも変わらないと思っていたのに」と、いう意味だと思います。それなのにどうして変わってしまったのか、弟は死んでしまってもうこの世の中には存在しないのだと、嘆き悲しんで詠んだ挽歌だと思います。
 此の前の便りには「正月には帰省する」と書いていたので、みんな楽しみにして待っていたのです。それが延び延びになって、今日の、こんな永久の別れを知る手紙なのです。夢にも思っていなかった事が目の前に起きてしまったのです。その時の兄の心中がこの歌です。

 それからしばらくして、
 「母君の御言のまにまに、服のはてぬ程に高雅が身のしろとするうぶがみと、ほそのをと、ぬけたるはの在りけるを、かりのはふりせんとて板倉山にのぼりけるとき、つつましければ面をかくしてそゆく。・・・・」
 と、日記に記しています。
 “つつましければ“とありますが、堂々と埋葬したのではありません、“かりのはふり”です。世間の目を気にしながら、何か隠れるような遠慮がちな、そうすることが気恥かしいような埋葬の儀式であったように思われます。
  
    内日さす 都にいます 君ながら 
                 はやかえりませ  松の下かぜ
    かしこきや 道敷の神に 乞もをす 
                 此霊やすく はやむかへませ

 その埋葬の時の歌です。
 遺骸は世の中の厳しいしがらみの中にあってどうしても迎えに行くことはできない。「どうぞ許してください。高雅よ、弟よ」と、呼びかけたのですのです。
 心の中で、
 「高雅の霊よ。どうぞ早くこの故郷に帰ってきてくださいな。あなたが慣れ親しんだ故里の松の下を流れる風と一緒に。霊を極楽に導くと聞いています道敷の神様、その松風と共に、その霊を、安らかに、ここへ導いてください。どうぞお願いします」
 と、歌いながら臍緒、生髪、抜歯を葬ったのです。
 
 晴らそうにも晴らせられない、どうしようもないやるせない輔政の心の内の現れた、これも挽歌なのです。「松の下かぜ」「はやむかへませ」という二つの言葉の中に、にじみ出ているようで、何か心が締め付けられるような気にいつもなります。
   

吉備って知っている  163 堀家輔政の嘆き

2009-05-20 20:32:53 | Weblog
 高雅の遭難を知った兄の輔政は、次のような歌を詠んでいます。

 ・罪はあれど なほいかまほし たら乳根を
              誰慰めて 誰つかふべき
 ・限有て 月日もめぐる よの中を
              かはらぬものと おもいける哉

 兄は、どうも、早くから弟の高雅から歌を学んでいました。その挽歌です。
                  


 

吉備って知っている  163 藤井高雅の遭難と母喜智

2009-05-20 20:00:56 | Weblog
 高雅の母「喜智」についてはあまり語る人はいないのですが、やっぱり武家中心の男性の社会にあっては、頭脳明晰で男勝りの聡明な特異な女性であったのではないかと思われます。緒方洪庵の姉として、洪庵からの情報によりヨーロッパの新しい民主的な考え方も、多分知っていたのではないかとと思いますが、当時の家を中心とした社会構造に従わなければならない世の中のしがらみに囲まれて、自分の本当に意志通りに、息子の高雅みたいに自由には動けなかったのだと思います。封建社会の女性の悲哀を一杯に背負って我慢に我慢を重ねた生き方を強いられたのではないかと思います。
 子の紀一郎も、高政の兄輔政も、喜智の「行かんでもよい」という一言で、動こうにも動けなかったのではないかと思います。

吉備って知っている  162 藤井高雅の遭難の後始末⑤

2009-05-19 20:39:49 | Weblog
 無残にも暴徒によってその志半ばで倒れた高雅の事件は、この片田舎の宮内でも、人々の間で大変な噂を引き起こしています。なにせ、先の吉備津宮の神主が何者かの刃に掛かって切り殺されたのです。その噂で吉備津中が大騒ぎになったことは確かです。高雅の本当の心意などとは無関係に、あることないことあらゆる方面から噂が飛び交います。
 地域の古老の話ですと、当時、この事件は、高雅の紀淡海峡の暗礁計画とは全く無関係の、京の遊女等の話を絡めて、さも本当かのように話を造り変えて、人々の間で話されて、噂になったとも言い伝えられています。
 このような噂が渦巻いていた宮内では、「せけんてえがわりい」というだけで、藤井家の人たち、母の喜智も兄の輔政も、勿論、紀一郎も、ただ息をひそめるようにひっそりと暮らしていたのです。
 だから、遺骨を引き取りに京へ行くなんてことができるわけがありません。その辺りのことを山田源兵衛はよく分かっていたのでしょう。手紙の中に「憚」という言葉を使っています。
 記録にも何も残っているわけではありませんが、高雅の母喜智の「不許」だけで、紀一郎は遺骨を京に迎えにはいけませんでした。それに代わってというわけでもありますまいが、高雅の臍緒などを、それでも祖先の祀られている板倉山、即ち向山の墓場に埋葬しています。
 でも考えてみますと、「行ってはならない」と言った高雅の母親の心情はいかばかりてあったでしょうか。筆舌には尽せない悶々たる苦悩があった事は確かなことだと思われます。
 例え、どんない遠くても、すぐにでも、その遺骨を取りに行くのが母親の本当の心だと思います。そんな心を隠して、「行くな」と、ただ一言、強く言いきった、いや、言わざるをえなかった母の気持ちを推し量るだけでも、その憂思がぴんぴんと伝わってくるように思われます。
 でも、母は「強かりき」です。その辺りに、この喜智という人の偉さがあるのです。封建社会の女性の強さがあったのす。
 「許してくださいよ。我が息子よ」
 張裂ける様な苦しさに耐えるだけの強さが備わっていたのです。それが徳川の女性の姿なのでもあります。
 

 時代的、地域的に見ても、江戸時代の庶民の生活や思想の凝縮が、この吉備の国の狭い吉備津の地で十分に伺い知ることができるのです。誠に不可思議な土地であるとも言えます。
 神社、寺社奉行と天領、山陽道の宿場町、遊女と色街、やくざの親分、それと対象的な教養人としての学者と素封家、そんなものが総て入り混じって不思議な社会構造を伴った特殊な地域を構成していたことがうかがい知ることができます。だからこそ、江戸時代がよく分かるのです。まことに面白い土地なのです。此の吉備津は。

吉備って知っている  161 藤井高雅の遭難の後始末④

2009-05-18 21:09:57 | Weblog
 倉敷の代官からも遺骸を取りに行きなさいという催促もあったのですが、高雅の子紀一郎は、祖母喜智からの許可を得られませんと、いう理由で、京に上ってはいません。
 一方、暴漢に殺害された高雅が宿していた京室町二条下町の下宿の主人山田源兵衛からも再三にわたって事件やその後の様子について手紙が届いています。
 まず初めは、殺害された時の様子です。
 「・・・・一言も不申懸け首切取立退申候次第に御座候・・・・血汐流れ出、御首無之、何者之仕業とも相分申さす。・・・・」
 それから次に、霜月十日に
 「・・・・心光寺にて当五日百ヶ日御供養御経営申上猶亦御石碑相建置候・・・」
 三通目には、
 「・・・・昨年より一応御上京も被成下度旨毎々奉申上候得とも其儀無御座候は全公辺之御憚之思召も被為在候哉に奉遠察候。・・・・・・」
 と書いて寄こしています。その中で源兵衛は「中々上京できないのは周りへの憚りがあるだろう」と書います。でも、父の生前の志を墓前で礼拝してあげると。その尊霊はどんなにお喜びのことだろうか、それをするのが子としてのあなたの務めではないかと、しきりに精神的に上京促しています。

 この山田という人はどんな人かは分かってはいないのですが、この人の所へ下宿を世話したのが、緒方洪庵の門人緒方精哉という人ですから、ある程度教養の高い人物であることには間違いないと思われます。

 でも、紀一郎は一歩も宮内からは動きませんでした。少々長くなりました。その辺りの事についてはまた明日にでも。
 

吉備って知っている  160 藤井高雅の遭難の後始末③

2009-05-17 12:24:30 | Weblog
 おもしろいことに、当時、吉備津神社への監督は、どうも倉敷の代官が差配していたのではないかと思われます。
 というのも、先にあげた「幽叟除帳」の書き付けの日付が7月の晦日になっていたのが、急遽、7月24日に変更された等を記した書類の提出先が全て倉敷の代官所宛てになっていることからも分かると思います。
 全国の寺社を支配していたのが江戸の寺社奉行で、吉備津神社もその例外ではなかったのです。
 その一つを示すものに、倉敷代官の手付手代の関口何某から紀一郎に宛てた書類も残っています。それによりますと、「上京して、父の遺骸を引き取り、復仇をしたら」というような内容が書かれています。

 この文章の中にある「復仇」というのは「仇打ち」のことです。おおっぴらに、私的な恨みを公の裁判によるのでなく、全く個人的な武力によって打ち払う「仇打ち」という方法を、幕府の出先機関から直接推奨されたのです。それが普通の社会通念であったのです。今の民主主義の社会から見ると、なんておぞましい、ばかげた社会制度だと思われるようなことが、いとも簡単に普通の庶民の生活の中に生きていたのです。これが徳川時代の社会正義を実現するための現実だった事の証拠なのです。絵や小説の中に見えることではなかったのです。公の手紙の中に堂々と書かれているのです。
 
 何回も言うようですが、日本の片田舎に、江戸時代の生の社会生活の様子を直接に伺い知ることができる資料が沢山吉備津には残っているのです。素晴らしい誇るべきことだと思いませんか。素晴らしい歴史的文化的遺産が数多くこの地に眠っているのです。
 今、これらを一堂に展示できたらなと思っています。知らない間にどこかに散逸したり、消えてしまったりするのではないかと心配もしています。

吉備って知っている  159 藤井高雅の遭難の後始末②

2009-05-16 20:28:04 | Weblog
 文久3年7月25日の夜、夜京都室町の山田源兵衛宅に於いて暴徒に暗殺された藤井高雅こと、大藤幽叟の亡骸が京都の三条大橋に梟首されてます。
 この事件は、テレビのない時代ではありますが、当時いろいろなところで報じられ。人々の間に伝わります。当然宮内にも伝わります。
 どのくらいかかったかと言いますと、前にあげた緒方拙斎からの知らせは、それでも7月晦日ですから、事件発生から5日後になります。
 その三十日には、すぐ高雅の「永之暇」が決まっております。
 さらに、高雅が泊っていいた山田源兵衛からも、子の紀一郎に宛てた、この事件を知らせる手紙が届いています。
 この山田氏による手紙から、高雅暗殺の顛末が詳細に分かるのですがそれは省きます。
 ただ、「遺骸は、曝された首と残された体を繋ぎ、棺に収め三条大橋東詰浄土宗心光寺の仮埋葬しました」と、書いてあります。

 そして、できるだけ早く仮埋葬した遺骨を取りに来るように催促する手紙を大精ますが、当に紀一郎は、結局、遺骨を取りに京都へはいかなかったのです。
 その辺りの様子は、また、次に。