ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

公平は意識している。平等はそもそも意識の外。

2009年04月24日 00時24分14秒 | 考えるねーさん
びょう‐どう【平等】
かたよりや差別がなく、みな等しいこと。また、そのさま。

こう‐へい【公平】
すべてのものを同じように扱うこと。判断や処理などが、かたよっていないこと。

さ‐べつ【差別】
あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。
取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。



自分、小学生で2回、学級委員をやりました。
これはクラスメイトの投票結果でそうなりました。

中学生はやってなくて班長くらいはやったかもしれないけど、
高校生で1回、学級委員をやりました。これは先生からの絶対命令でした。


社会人になってからは、

なんだか沢山の人、
異なる国籍の人、
異なる年代の人、
異なる組織の人、

こんな間に立つ事がやたらに多い人生です。

昔の職場の最後の肩書きは「コーディネーター」。
本人の意思は完璧に無視され(笑)、
「むいてるんだから、も~。」
「はへ?どこが??単なる義務の遂行だけのことなんだけど。」みたいな風なノリで、
そんな肩書きをつけられました。


そんなこんなで、子供の頃から、
「人はそもそも平等じゃない。これは仕方が無い。ここをどうにかしようとするとややこしくなる。」って考えていて、
「だけど誰にだって公平に関わる事は出来るよね。」って考えていて、そうやって関わって交わってます。


まぁ八方美人的に受け取る方もいらっしゃるかもしれません。
それも承知の上で演じてる風でございます。(笑)
学級委員とかいうお役目を背負わされると、そういう風にやるしかないのです。
おまけにややこしい平等作戦などはしたくない。
てか、出来ない。てか、必要性を感じない。


しかし苦悩しました。
特に社会人になってからのほうが苦悩の連続です。

要するに、平等にしようと無理なルールをこさえたり、平等に見せるように誤摩化したりする人がいるからです。
何だろう、社会に出た方が「金」や「欲」が大幅に絡んでくるからなんでしょうか。

そうやってややこしくする先には、必ずジェラシーにぶちあたる訳ですが、
ジェラシーってやつは、どうにもこうにも他人には処理のしようがありません。

「持ち上げておいて鎮静させる。」ってことしかできないのです。

しかし、これをしてしまうと今度は「公平さ」に欠けます。

「なんで向こうばかりを持ち上げるの?
あえて向こうを持ち上げなきゃ仕方が無いことも薄々分かってるわ。
だけど、わざわざそれをする気が知れない!」

と、こういう展開になります。


「あ~~~、も~~~~、
ああやりゃこっちがダメ。こうやりゃむこうがダメ。
ジェラシー鎮火はひとまず持ち上げるしかねーのだよ。
こっちも超面倒臭いったらありゃしないのよ。
義務の遂行ってことでやってるけど。
しかしやっぱり今度は「公平じゃない」っていう不満が出てくるんだよなぁ。」

何度思った事でしょうか。(笑)


かたよりや差別はあって仕方が無い事なのです。みな等しいなんてあり得ない。
それを受け止めて公平に関わらないから問題が勃発する。

かたよりや差別を受け止めていない人が、
公平に関われずに偏った関わり方するから、ややこしくなって問題が勃発するんです。


自分、この身を削ってやってきて、言葉吐いてます。
情報集めて頭ん中だけで理論構築した結果を言葉にしてません。
人の中に入ってお役目は逃げずに背負ってきてます、子どもの頃からずっと。