京都の紅葉もかなり進んできた。有名どころはほぼどこも見頃を迎えている。観光客も増え続けている。晴れた祝日や休日があれば、これは恐怖の大渋滞が起こりそうだ。散歩道の琵琶湖疎水に沿った道も、桜並木の紅葉はほぼ終わり、落ち葉が次々と落ちてくるようになった。この疎水沿いの道で、毎日落ち葉を掃き、せっせとゴミ袋に詰め込んでいる人がいる。道路に落ち葉が積もるのは嫌なのだろうか。私は、道路に落ち葉が積もるのは大好きだ。とくに秋の落ち葉は美しい。はらはらと散るのもすてきだが、赤や黄色の落ち葉が散り敷いて見事な美しさを見せるのは、もっと好ましい。まして、この歩道は、アスファルトで舗装しているが、そこに落ち葉が降り積もると、歩く足にもふわふわと易しい。それなのに、なぜ人々はこの落ち葉を掃いて集めてゴミ袋に詰めて、ゴミ収集車に持っていかせるのだろうか。落ち葉のないアスファルトの道は、歩くと足に負担をかける。落ち葉がふわふわの道を歩きたい。
車が走る道なら、落ち葉が積もると車の運転に支障があるのかもしれない。しかし、歩く人以外には通らない疎水沿いの歩道で、なぜ落ち葉をせっせと掃いて、コンクリートむき出しの道にしなければいけないのだろうか。落ち葉はけっしてゴミではない。並木を作る桜やさまざまな木々にとっては、苦労して生産した有機物なのだ。冬になって落としたとしてもそれは地上で分解して、やがて木々が自分の栄養として吸収できるものなのだ。それをゴミにして燃やして処分するのは、単に二酸化炭素を増やすことになるだけではないか。
街路樹の剪定もひどい。まるで樹木が丸太ん棒のようになっている。これは木を生き物と見ていないせいではないだろうか。生きている木をあんなに切り刻むのは、止めて欲しい。木もきっと泣いている。都会の緑をもっと大事にしたい。生き物として扱ってやりたい。
車が走る道なら、落ち葉が積もると車の運転に支障があるのかもしれない。しかし、歩く人以外には通らない疎水沿いの歩道で、なぜ落ち葉をせっせと掃いて、コンクリートむき出しの道にしなければいけないのだろうか。落ち葉はけっしてゴミではない。並木を作る桜やさまざまな木々にとっては、苦労して生産した有機物なのだ。冬になって落としたとしてもそれは地上で分解して、やがて木々が自分の栄養として吸収できるものなのだ。それをゴミにして燃やして処分するのは、単に二酸化炭素を増やすことになるだけではないか。
街路樹の剪定もひどい。まるで樹木が丸太ん棒のようになっている。これは木を生き物と見ていないせいではないだろうか。生きている木をあんなに切り刻むのは、止めて欲しい。木もきっと泣いている。都会の緑をもっと大事にしたい。生き物として扱ってやりたい。