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ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

地震で、人間の欲望を思う

2008-06-14 | ちょっと一言
しばらくぶりに死者がでるほどの大きい地震が起こった。岩手・宮城の被災者にはお見舞いを言いたい。M7.2という内陸部では珍しいほどの大地震だった。阪神の震災とマグニチュードは同じくらいだと言うことになる。被害の大きさの違いはひとえに人工の凋密さの違いなのだろう。被害にあった一人一人にとっては同じ大きさなのだけど、離れたところで見ている人にとっては、被害者の多さとか壊れた家の数などが問題になるのだ。

 今日の地震では、緊急地震速報というのが発信された。昨年あたりに導入されたシステムで、これまでも数回発令されている。しかし、これってなんか意味あるのだろうか?もちろん全くないとは思わないけど・・。今回も緊急地震警報が発令されたのは地震の中心だった付近の人には地震が起こったあとに届いている。起こったあとに発令されても、あとの祭り。東京などの遠くであまり被害がないところには、地震が起こる前に発令されていることになる。地震の波が遠くへ広がる前に発令されたことになる。東京などでは意味があったと言うことなのだろうか。

 しかし、私は前からこの緊急地震警報というのは本当に必要なものなのだろうかと疑問を持ってきた。わずか2-3秒前に警報を聞いて、なにか対策が立てられるだろうか?しかも、これまで発令された何回かはほとんど地震が起こってから発令されている。最初の波を見つけてから次の波が来るまでに警報を出すというシステムだけど、ほんのわずかの時間に過ぎない。もちろんわずかの時間でまったく何もできないというわけでもないだろうが、コストを考えるとこんなシステムを作る必要はないように思うが、皆さんはどう思いますか?少しでも助かる可能性があったら、それが何百分の一秒でもコストがどれだけかかってもやった方が良いのでしょうか?

 科学の進歩が人類のリスクを減らすことは、たしかに良いことだったかもしれない。しかし、それが際限なくなる。リスクを減らすことが本当に人間によいこととは限らないことが多いように思う。必ず死ぬ運命にある人間なのだから、リスクをなくすと言うこと自体が、人間の限りない欲望のように思えてならないのだ。

九州は暑かった。梅雨の晴れ間だった。今日は横浜に滞在。こちらも暑い。
 

帽子を脱がないタレントたち

2008-05-12 | ちょっと一言
最近、テレビを見る機会が多くなった。15年以上もテレビを見ない生活をしていたので、いろいろ珍しいものを見る機会が多い。楽しいこともあるけれど、不愉快なことも多い。民放のバカ番組には本当に身の毛がよだつ。NHKの偏向・追従ニュースにはもっと腹が立つ。もともとドラマは見ないのだが、来年4月からのNHK朝の連続ドラマは小江戸川越を舞台の物語らしいので、それはちょっと見てみたいなとも思っている。

 それにしても、なんとなく不愉快な気分になるのが番組の中でコメントをするタレントが、部屋の中でも帽子をかぶったままで平気でテレビカメラに向かって話をしていることだ。部屋の中で帽子をかぶっていても許されるのは、女性がファッションとしてかぶっている帽子だけで、男が帽子を脱がないのは相手に対して失礼千万だと思う。そういう考え方がもう無くなっているのだろうか。男も帽子をファッションとしていれば部屋の中でも相手と話をしているときにも帽子を脱がなくてもいいことになったのだろうか?

 私はまだまだ古い人間なのかもしれないが、私に話しかけるのに(テレビカメラに向かって話すことは、テレビを見ている人に向かって話すことだ)帽子をかぶったままというのは不愉快になる。女性はその点、男性よりは大目に見られているが、先日見たテレビ番組では、あるタレントが帽子をかぶったまま食事をしていた。女性といえども食事中に帽子をかぶったままというのは、無礼という他はない。

 しかし、どうもこれはテレビタレントだけのことではないようだ。レストランでも帽子をかぶったまま食事をしている男どもを見かけることが多くなった。若者に多いのだが、決して若者専門でもなさそうだ。いい年をしたおじさんが帽子をかぶったまま食事しているのを見る。まぶかに野球帽や正ちゃん帽をかぶり、しっかり大きなマスクをして、建物の中でも顔を見せない男があちこちにいる。女もしかり。

 これでは今の子供たちの時代になるとそれが当たり前になっているかもしれない。「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言ったタレントがいたが、ことの正邪よりも他人と同じかどうかだけを判断基準としている人が増えてきたような気がする。帽子をかぶったまま相手と話をするのは、敵意を見せない、相手に安心感を与える、というエチケット以上のものだし、食事のときに帽子を脱ぐのは、ご飯を作ってくれた人や食事を用意してくれた人、食材を買うお金を稼いでくれた人、そして信じる人にとっては神に感謝を捧げるためである。

 なんでも他人のことばかりを気にするよりも、物事の正邪をこそ判断して自分の行動基準を定めるようにならないといけない。そうでない人が増えたことが、おかしな雰囲気の社会を容認する人々の群れをさらに作り出している。 

プランターの花と命の尊さ

2008-04-21 | ちょっと一言
日本各地でプランターに植えて道路を飾っている花が引きちぎられたり、抜き取られたりすることが起こっている。犯人を糾弾する記事が新聞を埋めるが、また同時になんとなくそんな世相を身体に感じる薄ら寒さもある。

 一方、こういう光景もある。春が来て公園や花壇や家の周りにいろんな植物がいっせいに芽を出し花を咲かせ伸び始めた。青いオオイヌノフグリ、赤いホトケノザやヒメオドリコソウ、黄色いセイヨウタンポポやカラシナ、白いナズナやハコベなどなど、色とりどりの花が咲いている。その伸び始めた草花を耳をつんざく騒音とともに電動草刈り機で根こそぎ薙いで切り捨てる。刈った後はまたまた電動吸引器で大騒音とともに草花の死骸を集めてゴミ焼却場へ持って行く。残されたのはわずかの緑色したコケ類くらい。命に溢れていた地面がふたたび冬のような寒々とした風景に変わる。

 なぜ人々はプランターに植えた作り物のような花が切り捨てられるのを非難しても、これら野生の花たちが切り捨てられ根絶やしにされるのは黙って見過ごしたり、むしろ喜んだりできるのだろうか。チューリップを1000本切り捨てるのと何十万本の草花を切り捨て殺すのとどれだけの違いがあるのだろうか。

 おそらくプランターに植えた花が切り取られるのを怒る気持ちは、花の命を惜しんでのことではない。プランターに植えたという人間の行為が無にされたと怒っているに違いない。花の命を惜しんではないのだ。もしそうなら、野生の草花をこんなに簡単になぎ倒し殺し回る草刈りという行為が簡単に行われるはずもない。

 公園にはいろんな野生の草花が咲いていて欲しい。人工的に観賞用に作られた花を植えるのも否定はしないが、野生の草花こそ公園にふさわしいと思う。そしてそういう公園で遊んだ子供が本当に命の尊さを知ることができるし、命を大切にするようになる。観賞用に作られた花は、おそらく命の尊さよりも命を自由に左右しても良いという考えを人々に植え付けるだろう。草刈りはもっと考えてやって欲しい。

きちんと精算して欲しい

2008-04-17 | ちょっと一言
JRなどの鉄道の駅には近年自動改札や自動精算機が普及して、便利にはなったような気がする。しかし、昔から納得できないことが一つある。それは切符を買って乗った時に、目的地までの切符を買っていない場合は、不足分を精算して降りないといけない。それは当然であるが、しかし目的地よりも遠くの切符を買った場合には目的地で精算しても決して余分に払ったお金を返してはくれない(かなり長距離の場合は途中で旅行を止めれば返還される)。それは何故なのだろうかと昔から不思議に思っていた。足りない分はきちんと取るが、取りすぎていたときは決して返さない。ちょっと不合理ではないか。

 高校や大学への入学金を支払った場合、入学を取り消しても決して返してくれなかった。授業料も一度払ったものは何があっても返さないという注意書きを読んだことがある。最近は返すべきだという議論があり、いくつかの高校や大学で返していると聞く。鉄道の運賃もおそらく運送約款とかで返さないということが書かれているのだろうけれども、切符を買う人はいちいち運送約款を読んで承認しているわけではない。しかし、切符を買うとこの運送約款を承認したことと見なすということも運送約款には書かれているようだ。

 それでも精算という手続きができ、しかも人の手を煩わさないで自動で精算ができる庸になった今では、やはり払いすぎたお金は自動で精算して返しても良いのではないか。精算とは過不足を精算することなのだから。

 今日は雨。これから明日に掛けて大雨になるという。しかし、今日は雨に負けない素晴らしいニュースを聞いた。名古屋高等裁判所が自衛隊のイラク派遣は一部憲法9条違反になると判定した。しかも判決は政府側の勝訴という形を取っており政府は上告できないので、この判断は確定する。コイズミ、アベという好戦内閣が推し進めた戦争参加が憲法違反とはっきり認定された。素晴らしい(当たり前だが)判決は雨の日本に青空を見るようだ。コイズミ・アベの戦争準備政策を「精算」する時が来た。
 

餃子に罪はないだろう

2008-02-02 | ちょっと一言
日本人はメダカ社会と言ったのは本多勝一さんだ。先頭がどちらかを向くと全員がそちらを向いて進んでいく。付和雷同型というわけだ。それを先導するのがマスメディアの役らしい。今回もその感を強くした。例の毒入り餃子事件だ。

 当初、マスメディアの中では「また中国か」という反応が強かった。そしてメダカ社会は一斉に走り出した。中国の工場からの食品を安全検査を終えているものも含めて一斉に店頭から撤去し始めた。中国のものは食べられないという反応が広がっていった。ギョウザそのものの売り上げまで減ってしまった。羮に懲りて膾を吹くってやつか?

 段ボール入り肉まんの噂もあり(もちろんウソだったけど)、残留農薬もときどき報告されたことがあったからだろうけど、中国の食はダメという反応には日本人の二つの問題が逢ったように私は感じた。一つは最近の日本人のほとんどビョーキとも言うべき「潔癖症」。少しくらい賞味期限が過ぎたからと言って大騒ぎして捨てて回る。もう一つは、中国に対する差別意識が透けて見える。

 残留農薬や不潔な食品は2-30年前の日本なら掃いて捨てるほどあったことだ。いま、中国が日本の経済発展の後を追っている。その過程では日本がたどってきた道を当然ながらたどることもある。それを「だから中国はダメだ」というのは、他をみて自らを省みない日本人のおごりと思える。

 今回の毒入り餃子事件の原因はまだはっきりしないけれど、原因もハッキリしないうちに「だから中国は・・・」という言い方はやめよう。今夜の我が家のおかずは、餃子だった。おいしかったよ。

 今日は一日雲が広がる陰鬱な天候だった。明日は積雪が予想されている。雪よ、降れ降れ。
今日は 明日は 

知的財産は本当に保護すべきか?

2008-01-11 | ちょっと一言
昨年はいろんな「偽」が世間を賑わせた。賞味期限切れの商品を偽って販売していた事例がいっぱい出てきた。それもかなり昔からやっていたというのが続々と。他には中身を偽装していたものもかなりあった。牛といって豚やら鳥やらの肉を混ぜていたりした。総じてマスコミはこれらのすべてを徹底的にバッシングした。しかし、それってなんだかなあって思う。

 もちろんそんな偽装は許されるものでもない。しかし、それほど口を極めて非難するほどのことでもないように思うのだがなあ。私は、賞味期限切れの商品をそれまでの商品よりかなり安く売っていたら買っても良い。消費期限が切れたのはやはり売るべきではないだろうけれど、賞味期限切れの商品なら安く売っても問題ないのではないか。クリスマス過ぎたクリスマスケーキを安売りするのと変わらない。

 いま、国際社会が中国の偽ブランドや海賊版DVDなどをバッシングしている。これも私はよくわからない。ブランド品など別に欲しくもないからかもしれないけど、偽ブランド商品を作ってブランド商品と同じ値段で売っているのならこれは犯罪だと思うけど、偽ブランド品はブランド商品と比べると著しく安い値段で売っている。これは本物ではないということがすぐ判る。それを知って買う人がいればそれは買った人の勝手だ。

 知的財産の保護ということがしきりに言われるようになってきた。著作権や特許などを手厚く保護しようというものらしい。ある程度その言もうなずけるが、昨今の知的財産保護の言い分はちょっとおかしいように感じる。どうも人類の共有財産でもある知識や文化を独占しようとする手合いがいるようだ。

 歌の著作権も昔はもっとおおらかであった。レコードに入れて販売するなどの行為には当然、著作権が尊重されてしかるべきだと思うが、個人のグループが宴会用に作った歌集や出版物にちょっと書き込んだ愛唱歌の歌詞でさえ著作権協会の許可を取らねばならなくなった。なにか寂しい限りだ。

 最近の国立大学では特許を取ることを教員に奨励している。たくさんの特許を取っている教員が出てきた。工学部などの応用学部の教員に多いようだ。たしかに今の国立大学は法人になっており、教員も国家公務員ではなくなった。しかし、その研究費のほとんどは国民の税金から出されている。

 公務員であった頃の国立大学では、そこでなされた研究はすべて国民共有の財産であった。教員がその結果を私することは許されなかったし、一部の企業にだけその結果を教えることも許されなかった。研究の成果はすべて公開し、国民のだれでもが利用できるようにしなければならなかった。自主、民主、公開が大学の研究の三原則だった。公僕としての研究だから当たり前だった。

 それがいつのまにかそうでなくなってきた。産学協同などという美名?のもとに、大学で得られた研究成果を一部の企業が利用して金儲けをするようになってきた。大学さえもが金儲けをするようになってきた(せざるを得なくなった)。国民の税金を使って研究した成果を教員が特許を取って自分のものにすることができるようになってきた。それを国が奨励しているのだ。いわば税金泥棒の奨励だ。国立大学の法人化は、国家規模で税金泥棒を作った。そして一部の企業がその旨みを享受している。

 知的財産の保護という美名に惑わされてはならない。大きく見ればそれはアメリカ資本による知識と文化の独占をめざしたグローバリゼイションの手段である。知識と文化はすべての人類のために公開され自由に利用されなければならない。ブランドを保護することも同じ陰謀なのだ。偽ブランドを買う自由もわれわれにはある。

救急車は有料でもいい

2007-12-22 | ちょっと一言
今日は冬至。寒さが身にしみる。カボチャを夕食にいただいた。本格的な冬が来たようだ。

 救急車の利用が増えて十分に対応が追いつかないらしい。各自治体などで救急車の出動を慎重にし、断るケースも出てきているらしい。たしかに簡単なことで救急車を呼ぶ人が増えているらしい。自治体も財政逼迫のために消防署の人員を減らさざるを得ないという面もあるらしい。

 救急車をタクシー代わりに使う人がいると聞くと、自治体の出動に慎重になったり断ったりするのもうなずけないこともない。ひどい人もいるからだ。しかし一方では、デパートの店員が119番で火が出ていると言って消防に訴えても消防署の対応がずいぶん間延びしていて細かいことをのんびり聞いていたため、店員は途中で電話を打ち切ったが、その時すでに遅しで焼死したという事件があった。救急車でもそのようなことがこれから起こらないとは限らない。住民サービスが減退していることも事実だ。

 私もせっぱ詰まったことがあって何度か救急車を呼んだことがある。救急隊の対応は非常に親切で本当にありがたいと感じたものだ。それでも自分で動けるときは救急車を呼ぼうと思ったことはない。ぎっくり腰でまったく動けなくなったこともあったが、救急車を呼びはしなかった。

 その経験から言うと、救急車については有料にしても良いのではないだろうか。本当に困ったときはお金を払っても救急車が来てくれればありがたいと思う。迷ったときなら、払う金額を考えて救急車を呼ぶかタクシーで行くか自分で歩いていくかを考慮すればいい。そうすれば不要とはいわないが不急の救急車呼びが少しは減るのではないか。必要ならお金を払っても利用したいと思うはずだ。
 or  

ザトウクジラが救われた

2007-12-21 | ちょっと一言
政府がザトウクジラの捕鯨をやめることを表明した。オーストラリアやニュージーランドの強い抗議に折れた結果であろう。ザトウクジラの捕殺が調査に必要という無理な理由付けが国際的に通らなくなったことをようやく政府も理解したのだろう。鯨肉の消費需要がないこともこの決断に結びついたのだろう。無駄なお金も費やしていたのだから。

 なにはともあれ、よかった。よかった。鯨の国際保護区となっている南極海での捕鯨も全面的にやめて欲しいものだ。
 

大相撲はもう出直しが必要だ

2007-10-02 | ちょっと一言
 時津風部屋でのリンチ殺人で、大相撲が揺れている。もっとも相撲協会の不祥事はこれに始まったわけではない。八百長疑惑やら朝青龍問題などで日本相撲協会の体質が問われている。

 時津風親方を始め、部屋一門あげての新弟子いじめは聞きしにまさるものらしい。ビール瓶で頭を殴りつけるなど恐ろしいほどの暴力が横行していたらしい。時津風親方や部屋の兄弟子たち暴力を働いたものは当然刑事裁判にかけられるだろう。

 しかし、噂によると時津風親方は性格が温厚で、その性格を見込まれて親方になったという。新弟子を殺すまで暴力をふるう親方が性格が温厚に見えるほど、相撲界ではいじめが横行していると言うことなのだろうか。彼が温厚であるなら、そのほかの部屋ではどのように陰湿で暴力的ないじめが行われているのだろう。想像するだけでも恐ろしい。

 国技という名で甘やかされてきた相撲界がその根底にあるのではないか。文部科学省は国技だからという美名で相撲界に税金を費やしてきている。親方日の丸の甘えは相撲界に蔓延していると見える。そろそろ国技などという名前は捨てて、単なる一つのスポーツにすぎない相撲をどう作り上げていくか、日本相撲協会は真剣に考えるべきではないか。それには現在の理事長をはじめ協会の幹部はすべて責任をとってやめなければ、大相撲は衰退する一方だろう。もっとも、わたしは大相撲が衰退しても悲しくもないけれど。

国立大学法人化は天下りのため

2007-07-27 | ちょっと一言
山形大学の学長選考で、7月まで文部科学省事務次官の結城某氏が選考された。たんにそれだけなら、山形大学の先生たちは結城氏を学長にふさわしい人と思ったのだろう、ですむ話のように思われる。しかし、結城氏よりも学長にふさわしいと選挙で選ばれたのは、元工学部長である別の人だった。つまり選挙で選ばれなかった結城氏がなぜか学長に決まってしまったのだ。

 国立大学の学長はすべてこれまで(法人化以前)は大学教員の選挙で選ばれていた。国立大学法人化法によって国立大学が法人化されただけでなく、学長の選び方も選挙によらない選考委員会による決定が出来るようにした。けれども多くの大学ではそれまでの教員による選挙を実施し(意向投票という名で)、学長選考に大学構成員の意見を十分反映するような仕組みを残している。それなのになぜ結城氏が学長に選ばれたのか?

 学長選考委員会というのは、現学長や理事、それに大学によって任命された企業経営者を含む学外者などによって構成されていることが多い。山形大学の選考委員の名簿は詳しく知らないが、おおかたそういう人だろう。そして現学長が文部事務次官の結城氏を強く推薦した。法人化したといっても国立大学の予算(運営交付金)は文部科学省が支給する。さらに運営交付金は毎年徐々に減らされており、さらに大学ごとに評価をして交付金に差をつけるべきだという議論がなされている。また、地方大学は生き残りが難しい大学も出てくるだろうという予想も新聞紙上で書かれている。そういう情勢で、文部事務次官を学長にするという山形大学のやり方は、意味深い。

 企業への天下りが、不公平なやり方で企業を救ってきた実例は枚挙に暇がない。政府系法人への天下りも予算獲得のために利用されてきた。いよいよ国立大学さえも天下りの好餌となってきたのか。

 結城氏は学長選挙での公開討論会において、フロアーからの 天下り批判に
対し、つぎのように答えていた。「人事当局の斡旋ではない。予算を背景に押し付けているものではな い。仮に押し付けがあるなら拒否すればよい。選挙で選ばれて学長に なった場合は、みなさんの選択になる。したがって天下りには該当しな い」

 大学構成員は今回、意向投票という「選挙」によって、明確に「天下り NO!」の審判を下した。にもかかわらず、結城氏が学長になったということは、彼自身が言った言葉にも矛盾する。天下りを自ら認めたことにほかならない。いま、高級公務員の天下りがこれだけ問題になっているときに、このような選挙という民主主義を踏みにじってまで、大学に天下りをする事務次官を許すことは出来ない。

 国立大学は、もう一度学長選考方法を民主主義的な選挙に今すぐ戻すべきだろう。大学構成員が声を出すときが来たようだ。参議院選挙も民主主義(戦後レジーム)をなくするか、あらためて求めるかの機会を与えてくれるだろう。二大政党制という言葉にごまかされてはならない。少なくとも参議院は小選挙区制ではないのだから。