goo blog サービス終了のお知らせ 

あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

小諸城@長野県小諸市 2023年10月13日

2023-11-17 15:18:15 | 城歩き
お城検索は→こちら

第6回車中泊お城巡り@長野一筆書きのお城巡りの記事は→こちら


【歴史】
小諸城は、大井氏の鍋蓋城と支城乙女城を武田信玄が侵攻し、山本勘助・馬場信房に命じて拡張整備した城である。豊臣政権成立後、城主となった仙石秀久とその子忠政の代に三重天守、大手門、三の門などを建造し、近代城郭が完成した。現存する大手門、三の門は国重要文化財となっている。城は、千曲川の河岸段丘上に築かれ、城郭部が城下町より低い位置にあることから「穴城」とも言われている。4重5重の天然の谷と川原石を大小組み合わせた野面積みの石垣は、400年の時を過ぎ苔むして美しい姿を残している。、、、日本100名城 公式ガイドブックより


【縄張】
小諸城は日本で唯一と言われる、城が城下町より低い位置にある「穴城」です。大手門はその入り口の門で、ここから本丸に向かっては、迷路のような道と四つの門で敵の侵入を妨げています。間田、天然の地形を生かし、側面の谷(田切地形)と背後の千曲川に面した断崖で守りを固めていました。
この城は、戦国後期に武田信玄の軍師・山本勘助により縄張がされたと伝えられ、江戸後期に城主・仙石秀久により城郭や門が整えられました。


【場所】
長野県小諸市丁311
西に千曲川、東にJRと「しなの鉄道」の線路、さらに旧北国街道や国道141,18号線、そして山の中腹には上信越道が走る交通の要衝。
県道142号線から城址・駐車場に入る側道は狭くて標識がわかりにくい(個人の感想です)ため通り過ぎて、JR小諸駅・小諸義塾跡まで行ってしまった

城址公園入り口に有料の専用駐車場があり、お土産街もあります。


そこから徒歩で小諸城三の門がある、懐古園三の門料金所まで数分で行けます。



【遺構】
小諸城址 懐古園イラストマップ(公式パンフレットより)
三の丸料金所から入園すると、城址方向と動物園方向に行き先が分かれます。動物園・児童遊園地には第3駐車場があり、そこから谷に架かる「白鶴橋」を渡って城址に入園することもできます。




「二の丸」
二の丸枡形虎口石垣





二の丸虎口


二の丸跡



「番所跡」



「北の丸跡(現・弓道場)」



「南の丸石垣」




「黒門」
黒門橋と祠


黒門橋の下の空堀(紅葉谷)
千曲川に面した河岸段丘が深く彫り込まれている。


黒門石垣


黒門から続く石塁


黒門枡形と橋



「荒神井戸」


「藤村記念館」


「大ケヤキ」



「御駕籠台跡」



「本丸跡と懐古神社」



「天守台と懐古神社」



「本丸石塁」



「勘助愛用の鏡石」



「本丸跡御蔵」




「本丸石垣」
馬場側隅櫓石垣


同虎口


隅櫓跡


馬場側多聞石垣から天守台



「天守台石垣」



天守台石垣多聞より


天守台石積み


天守跡
かつて三重天守があったと言うが、寛永期のはじめ落雷により焼失したと伝えられる。



天守より多聞



多聞天守石段


馬場側より多聞石垣と天守台



「富士見櫓跡」


「白鶴橋」
城址と動物園を隔てる大きな谷(本谷)に架かる吊り橋


本谷
城の西を隔てる深い谷




「地獄谷と酔月橋」
城の東を隔てる深い谷


地獄谷から水の手展望台を見る




「水の手」
水の手不明門跡


水の手展望台


水の手展望台からの眺望
眼下に千曲川


「武器庫」




「三の門」
明和2年(1765)に建てられた二代目の門で、国指定重要文化財




懐古園地下道入り口



「大手門」国指定重要文化財
小諸城の正門(四の門) 慶長17年(1612)藩主仙石秀久時代の建築。


二層入母屋作りの楼門で、石垣と門が一体化していないことや、一階が敵の侵入を防ぐ強固な作りに対して、二階は居館形式取っていることなど多くの特徴が有る。
三河から運んだ瓦で葺いた屋根が珍しく「瓦門」とも呼ばれた。



町並み
本陣








【御城印】


提供先;徴古館 webページは→こちら
住所;小諸城址懐古園内(三の丸料金所隣)




【小諸城】
《山本勘助が縄張、仙石氏が完成させた佐久統治の城》

名称(別名);酔月城、白鶴城
所在地;長野県小諸市丁311
城地種類;平山城
築城年代;天文23年(1554)、慶長末期(1614~1645)
築城者;武田信玄、仙石秀久
主な城主;武田氏、仙石氏、徳川氏、松平(久松)氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川市、牧野氏
文化財区分;重要文化財(大手門、三の門)
近年の主な復元等;平成16年から大手門の解体修理、平成20年修理完了
天守の現状、形態;天守台のみ現存

※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;



龍岡城五稜郭の移築門を訪ねて偶然出会った「伴野城跡」

2023-11-17 11:47:33 | 城歩き
龍岡城五稜郭の記事は→こちら


明治4年(1871)の廃藩置県で藩庁である城も役目を終え、明治6年(1873)1月14日に廃城令が公布されると、全国の城の多くが姿を消すこととなりました。
元治元年(1864)に着工、慶応3年(1867)に完成した龍岡城五稜郭も例外ではなく、地所・石垣はそのままとし、建物は入札払い下げとなり、残りは取り壊されてしまいました。
御殿の一部である「お台所」は現在城郭内に現存していますがそのほかに、
☆東通用門は佐久市野沢の成田山薬師寺の山門として移築・現存
☆大広間は佐久市の並木氏に引き取られましたが、その後佐久市鳴瀬の時宗寺に移され本堂として現存
☆薬医門と塀は佐久市田口の丸山邸に現存しています。


このうち、佐久市野沢の成田山薬師寺の山門として移築された東通用門を見学しに行ってきました。

成田山薬師寺山門
参道側
賑やかに飾り付けてもらって、門も嬉そうです。


境内側
高麗門形式ですね。枡形虎口の二の門にも使われているような格式を感じます。


移築門の説明板もありました。



のざわ商店街が終戦直後まで続いていた、成田山薬師寺(通称・成田山)の「門前市」を「のざわ山門市」として復活。
2003年に建立された「ぴんころ地蔵」を中心に盛り上がっています





参道脇の標識
「城山公園」(県史跡伴野城跡)とあるではありませんか♪
こりゃあ見逃すわけにはいきませんよね



長野県史跡 伴野城跡(とものじょうせき)
東西74m~85m、南北110mの南北に長い長方形で、周囲に土塁と堀を巡らせた城の主郭部に当たる。土塁は北側と西側、東側の北半分が残存し、堀は全周が残存する。南側の中央に入り口を設け、南西の高台に物見櫓を設けていたと伝えられている。県史跡指定を受けた部分は、鎌倉時代~室町時代に活躍した伴野氏の居館(野沢館)と考えられている。また、戦国時代頃に館を兼ねた城として城改築されたと考えられている野沢城の主郭部分に当たる。16世紀末の戦乱の末廃城となるが、佐久地方に侵攻してきた有力氏の支配拠点などとして利用された。江戸時代には官庫・陣屋・藩出張所などとして存続し、明治時代以降は神社境内や官公地として、現在は公園と境内地として利用されている。
 平成14年から16年に環境整備に伴い土塁・堀の一部の確認調査を実施し、南側入り口付近で戦国時代と考えられる石積みで補強された土橋と、底面まで緩やかに傾斜する堀が発見された。東側の土塁の確認調査では15~16世紀に推定される土塀の基部状の石積みを持つ土塁が現在の土塁下部で見つかっている。、、、現地案内板より


全体風景





土塁が周囲を囲む


虎口


櫓台跡か???




【成田山薬師寺】
住所;〒385-0052 長野県佐久市原467
地図;


龍岡城@長野県佐久市田口 2023年10月13日

2023-11-16 13:47:04 | 城歩き
お城検索は→こちら

第6回車中泊お城巡り@長野一筆書きのお城巡りの記事は→こちら


☆砲撃戦を想定した幕末の新規築城
【歴史】
文久3年(1863)三河奥殿藩主松平乗謨(のりかた)(大給恒)が、信濃田野口への本領移転と陣屋新築の許可を幕府から得て、翌元治元年(1864)3月に建築を開始した。西洋軍学に関心を持ち、砲撃戦を想定した築城法を学んだ乗謨は、新たな陣屋として稜堡式城郭を設計し、慶応3年(1867)4月に西側面・南西面の石垣を除き完成した。廃藩後の明治4年(1871)建物は解体され、競売にかけられた。


【縄張】
日本に二つある星形の西洋城郭の内の一つで、「龍岡城五稜郭」とも呼ばれる。五稜郭の内部を内城と呼び、御殿や火薬庫、長屋などが置かれた。五稜郭の外側北辺には藩士屋敷などがおかれて、外城と呼ばれた。、、、続日本100名城 公式ガイドブックより


【場所】
長野県佐久市田口下町3000−1
旧佐久市立田口小学校が史跡内部に建築されている。(2022年度末に統合により閉校)
駐車場は「五稜郭であいの館」、または「五稜郭公園」


【遺構】
航空写真
※龍岡城五稜郭、佐久市教育委員会発行資料より抜粋


平面図(航空写真の向きに合わせて角度調整)




「大手門」






大手門堀
堀の石垣は、伊那高遠藩の石工職人を呼び寄せ3年かけて建設しています。「切り込みはぎ」が多く用いられ、砲座下は「亀甲積み」、大手橋付近は横目地が通る「布積み」
堀外側の石垣は東南から南に回るに従い粗末になり、「打ち込みはぎ」から「野面積み」へと代わっている。



城内に入ると右手に「三社様」がまつられている





「砲座土塁」



御殿の一部「お台所」
城内で唯一の城郭遺構
旧田口小学校の校舎として使用されてきたが、昭和4年に現在地に移築、昭和35年半解体復元工事が行われた。


礎石跡?


土塁



本丸穴門辺りに建築されていた旧田口小学校・体育館・グランド
龍岡城は完成4年後の1871年に廃城となり、その後150年近くは田口小などの学校施設として利用されてきた。現在の校舎は1973(昭和48)年完成の鉄筋コンクリート造りだが、2022年3月をもって閉校となった。



黒門から場外に出て掘り沿いに外郭を一周しました。
「黒門」


黒門付近の水堀


校舎横あたりで水堀はなくなり、住宅地や耕作地となっています。



小学校校舎裏手付近
旧穴門付近


水堀や石垣の稜線が不明確になっています。


かろうじて石垣が残っており、屈折の形状も確認できます。





体育館の裏辺りから再び水堀が確認できました。



体育館南東隅
水堀と石垣の屈折



東側の水堀と石垣・屈折





城内からの排水溝でしょうか?



東面
通用門付近の水堀と石垣・屈折







北東隅
住宅地から大手門にかけての水堀と石垣・屈折







【まとめ】
せっかく星形の外周を一周したのに、その足跡・行程を地図上に残せなかったのが残念すぎます
この城は俯瞰して初めて全体像の魅力が伝わるのだが。。。


大給松平氏は代々「陣屋格」で城を持つ資格がなかったため、西洋城郭の五稜郭を造ったのではないでしょうか。山の麓という立地は大砲で狙い撃ちされるため、あり得ない立地条件のハズ。
しかも五稜郭は南西・西側の二稜堡を囲む約200mは未完、明治になって取り壊す際も城内の建物は未完だったという。理由は松平乗謨(のりかた)(大給恒)が崩壊間際の幕府にあって老中格・陸軍総裁などの要職にあって、完成のための金も暇も無かったから。
よく言えば自分の理想をかなえたかったからでしょうが、幕末の混乱期にえらいことやってくれましたね。という感じでしょうか(個人の感想です)

今後国史跡の価値を高めるため、五稜郭完成当時の姿に限りなく戻すという方針が佐久市教育委員会から示されたそうです。
田口小学校は完全に撤去されることが決まりました。

復元や移築など、在りし日の姿がよみがえるのは楽しみです♪



【御城印】


提供先;五稜郭であいの館
webページは→こちら


【龍岡城】
《西洋軍学を採り入れた稜堡式城郭》

名称(別名);龍岡城五稜郭
所在地;長野県佐久市田口下町3000−1
城地種類;平城
築城年代;元治元年(1864)~、慶応3年(1867)~
築城者;松平乗謨(のりかた)(大給恒)
主な城主;松平(大給)氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;大手橋、東通用口木橋、堀
天守の現状、形態;-

※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;



春日城@長野県伊那市 2023年10月13日

2023-11-16 11:30:40 | 城歩き
お城検索は→こちら

第6回車中泊お城巡り@長野一筆書きのお城巡りの記事は→こちら

【歴史】
天文3年(1534)平家の末流粟田口民部重吉の16代目伊那部大和守重慶により築城、重慶の元の姓は「春日」であったことから「春日城」と呼ばれました。重慶の子、重成の長男重親は春日神社を開き、次男重国は分家し東春近に殿島城を築城しましたが、二人とも武田信玄に逆らい狐島区の連台場で磔になりました。その後は春日河内守昌吉が城主となり、武田氏に属しましたが、織田信長の武田氏攻めの高遠城落城のとき、信玄の五男仁科五郎盛信に従い共に打ち死にし、春日城も廃城したといわれています。春日城の東側は天竜川の河岸段丘に面し、北は田切り地形、南は大きな洞に囲まれたいわゆる平山式館城で、周囲には防衛のための空堀や土塁の跡も見られます。、、、伊那市公式ホームページより


【場所】
JR飯田線「伊那市駅」前からまっすぐ伸びる県道208号線を「合同庁舎前交差点」で左折し、県道202号線(伊那駒ヶ岳線)を「春日公園」まで進む。「長野県伊那文化会館」の手前を左折し100m程進と左手に駐車場があります。


公園入り口は道路を挟んで駐車場の向かい側です。


なおこの道を300mほど行くと「伊那部宿 旧伊澤家住宅」が右手に見えます。春日城御城印はこちらでも取り扱っています。




【遺構】
駐車場側からの城址遠景



「伊那部宿 旧伊澤家住宅」からの城址遠景



「三の丸」
遊具が設置されたなだらかな公園



「三の丸橋」
三の丸と二の丸の間にある空堀に架かる橋
朱色に塗られた太鼓橋



三の丸と二の丸の間にある「空堀」
掘り幅、深さも十分にあり見応えがあります。



「二の丸」
遊具はありませんが断崖側にいくつも顕彰碑が建ち並び遺徳を偲んでいます


二の丸土塁
遺構としての土塁かはわかりません



二の丸橋と空堀
二の丸と本丸の間にある空堀に架かる橋


空堀




「本丸」
二の丸・三の丸からの高低差はあまり感じられない
伊那谷の河岸段丘に築かれた城郭



本丸からの眺望




【まとめ】
ヤマップ行程データ


ヤマップ3D




【御城印】


販売先;環屋、高遠観光センター、
旧井澤家住宅(自分はこちらで購入しました)住所;長野県伊那市西町5597-4


【春日城】
《かすがじょう》

名称(別名);
所在地;長野県伊那市西町5949-1(春日城跡公園)
城地種類;平山城
築城年代;不明
築城者;春日氏
主な城主;春日昌吉、伊那部重慶
文化財区分;未指定
近年の主な復元等;春日城址公園として整備
天守の現状、形態;

※出典、、、
地図;



高遠城@長野県伊那市高遠町 2023年10月13日

2023-11-15 10:54:55 | 城歩き
お城検索は→こちら

第6回車中泊お城巡り@長野一筆書きのお城巡りの記事は→こちら


☆桜の名所となった城跡には広大な空堀が残る
武田信玄は、天文14年(1545)三峰川と藤沢川の段丘城にある高遠頼継の高遠城を攻略し、その後大規模な改修を行った。三峰川の断崖を背に本丸と、それを囲むように二の丸、三の丸が配された「後堅固」の構えの縄張であったが、武田勝頼の実弟仁科盛信が城主のとき、織田信長に攻められ一日で落城した。本丸をはじめ、各曲輪はすべて空堀で区切られ、戦国時代の信玄流築城の面影をとどめていたが、明治時代に一部が埋め立てられた。また明治時代にタカトオコヒガンザクラが城址に植えられ、これが城内を埋め尽くし、白雪をいただく中央アルプスの景観と相まって、現在桜の名所となっている。、、、日本100名城 公式ガイドブックより

【場所】
場所は長野県伊那市高遠町東高遠城跡
伊那市から国道361号線で高遠の町に入り、国道152号線との突き当たりにある「高遠公園下」交差点を右折、100m程進むと左手の山に登る道がある。三叉路を直進すると「信州高遠美術館」「歴史博物館(御城印)」左折すると山の頂上にある高遠公園(高遠城)に行くことができる。



段丘を走る国道361号線から眼下に広がる高遠の町並み


町内に入ると趣のある建物が軒を連ねる。





駐車場は下から「三の丸グランド駐車場」、「北ゲート駐車場」、グルッと回って高遠美術館側の「南ゲート駐車場」の3カ所があります。
自分は公園の舗装道路を車で上り、搦手門と外堀を見学した後、また車に乗って外堀沿いにグルッと回り「南ゲート駐車場」に駐車しました。


【遺構】
高遠城案内図、、、高遠城パンフレットより




民家を過ぎ、大きなカーブ曲がったところでいきなり石垣と遭遇。



大手道にある「大手門跡石垣」です。



ここから山の頂上に向かって、三の丸、二の丸、本丸と円弧状に曲輪が連なっています。


三の丸手前、大手道沿いに移築された
「旧大手門」
この門は高遠高等学校の正門として個人より寄付を受け移築されたものである。
明治になって売却された門の一つで大手門と言われているが、切り詰められた形で当時の姿ではない。




三の丸グランドゲート側駐車場広場
グランドゲート



現在の駐車場広場は、鍛冶堀(現在は埋め立てられています)を挟んで武家屋敷と勘助曲輪に分かれていました。
高遠城は戦国時代、武田信玄の命により山本勘助が縄張をしたと伝えられています。勘助曲輪の名称はその名に由来しますが、築城当初この曲輪はなく、大手口を東側から西側へ移した際、新たに造成されたのではないかと言われています。
曲輪周辺の堀は埋め立てられ、旧高遠高等学校のグランドとして使われた後、現在は駐車場となっています。
勘助曲輪の広さは769坪(2542㎡)で、櫓や催事事務所、硝煙小屋、稲荷社等がありました。



「中堀」
グランドゲート付近


藩校前の中堀



「外堀」
搦手門橋より


「搦手門跡」
搦手門があったあたりと、外堀に架かる土橋
築城当初、表門である大手は搦手の西にあった。江戸時代初期に城の裏と表の口を入れ替えたと言われている。
この堀に架かっていた橋を渡ると、冠木門(棟門)、枡形に続いて櫓門があり、これと隣接して番所が設けられ厳重な警護がなされていた。



三の丸にある「藩校」


藩校・進徳館



南ゲート駐車場から法幢院曲輪へと向かいました
南ゲート


法幢院曲輪(ほうどういんくるわ)
二の丸から堀内道で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、曲輪の東方には幅約6m、長さ約170mの馬場が続いていた。
かつてここには法幢院というお寺があったが、一般の人も参詣できるように城の東、龍ヶ沢に移り桂泉院と改名して現在に至っている。


法幢院曲輪からの眺望
西に中央アルプス、東に南アルプスが望め、桜のときは残雪が、紅葉のときは新雪が目にも鮮やかです。



法幢院曲輪と南曲輪の間には外堀が巡っています。
両曲輪を繋ぐ橋が
「白兎橋(はくときょう)」です。
藩で酒造業を営み藩の仕送り役を務めていた広瀬氏治郎左衛門(俳号を白兎と称す)の曾孫が、私有地となっていた法幢院曲輪を買い上げ、公園として寄付した。そのとき法幢院曲輪から南曲輪に通じるこの橋を造り、曾祖父の俳号にちなんで「白兎橋」と名付けました。



外堀の堀底からみた白兎橋


白兎橋周辺の石積み



「外堀」
白兎橋から西側の崖に向かっての竪堀


白兎橋から搦手門方向



「二の丸」


二の丸に建つ
「高遠閣」
有志の発案と寄付で昭和11年に完成。平成14年国の登録有形文化財に指定。
現在は地域住民の活動の場として、また城跡を訪れた観光客の休憩所等として利用されている。



二の丸・土塁



二の丸・中堀



二の丸中堀と外堀の境目



「二の丸門跡」
中堀に架かる土橋 (北ゲート付近)



北ゲート




「本丸」
高遠城は天文16年(1574)武田信玄が山本勘助、秋山信友に命じて築かせた城で、後堅固なる三重式の城郭である。
天正10年、攻める5万3千の織田軍と、守る城主の仁科盛信(信玄の五男、勝頼の弟)はわずか3千の兵で壮絶な戦いの末討ち死、落城した。(高遠城の戦い 高遠城本丸)
この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。高遠城の戦いは、強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となった。


本丸からの眺望


本丸土塁


新城藤原神社



笹曲輪にある
「太鼓櫓」
大正2年(1913)本丸南隅櫓跡に建てられた。





本丸内堀と堀底の池



本丸内堀に架かる
「桜雲橋」


堀底からの石積み



本丸「問屋門」と桜雲橋
この門は高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門です。昭和20年代に売却されていた門を地元有志が買い戻し、現在地に移築したものです。
かつては一の門と二の門からなる枡形門であった。









【まとめ】
1.6km、59分間の城歩き。
標高804mから796mまでの比較的ゆるやかなアップダウン。
公園として整備された広大な敷地に、雄大な外堀、中堀が残ります。
橋や門は逆に城下から移築されたもので、直接高遠城と関係ないものも多かったが、公園の景観としてはなじんでいました。

ヤマップ工程データ



ヤマップ3D




【御城印】

販売先;城内にある伊那市立高遠町歴史博物館(絵島囲み屋敷)




保科正之と母静(志津)の像
二代将軍徳川秀忠の子で三代将軍家光の異母弟
信濃高遠藩主保科正光の養子となり養育され、後に高遠藩主。その後は家光の信頼・寵愛を受け幕閣、山形藩主、会津若松藩主。生涯保科の姓を名乗り死後、会津松平家として将軍家補佐の家訓を守る。



【高遠城】
《武田流築城術による「後堅固」の城》

名称(別名);兜城
所在地;長野県伊那市高遠町東高遠城跡
城地種類;平山城
築城年代;不明、天文16年(1547)に改修か
築城者;不明 武田信玄
主な城主;武田氏、保科氏、鳥居氏、内藤氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;平成13年に大手石垣を修理
天守の現状、形態;-

※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;





高島城@長野県諏訪市高島 2023年10月12日

2023-11-12 10:56:56 | 城歩き
お城検索は→こちら

第6回車中泊お城巡り@長野一筆書きのお城巡りの記事は→こちら

諏訪湖と河川を天然の防備とする
【歴史】
諏訪神社の神職諏訪氏は、戦国時代には上原城を本拠に国人領主化したが、やがて武田氏、次いで徳川氏に従い、天正18年(1590)に徳川氏の関東入りに伴ってこの地を離れた。代わって、築城名手と名高い日根野高吉が諏訪に入り、文禄元年(1592)から7年がかりで諏訪湖畔に高島城を築いた。城の完成後3年ほどで日野氏は下野壬生へ移封され、(関ヶ原の合戦で徳川方だった為家康の恩恵により)諏訪氏が11年ぶりに父祖の地を回復する。その後、諏訪氏は高島藩3万石の藩主家として、明治維新まで家名と城を守り抜いた。

【縄張】
諏訪湖を天然の防備とし、湖に流れ込む川を巧みに掘りに利用しており、水城とも浮き城とも呼ばれた。北の城下側に大手門を配し、そこから湖に張り出すように一直線に衣之渡郭、三之丸、二之丸本丸を並べ、本丸の南東に南之丸があった。本丸には石垣を積み上げ、三重天守を築いていた。、、、続日本100名城 公式ガイドブックより


場所は長野県諏訪市高島、諏訪市役所の隣にある「高島公園」



県道50号線「高島城交差点」を堀沿いに曲がり、天守の向かい側に「高島城公園無料駐車場」がある。



高島城公園の入り口はこの駐車場の向かい側です。



まるで石垣の埋門のような公園入り口を入ると、本丸跡に池や藤棚が整備された公園となっています。



また護国神社周辺は遊具なども設置され、子供たちや親子連れで賑わっていました。



【遺構】
現在の高島公園
※諏訪高島城パンフレットより(上が南を表す)





「土戸門跡」
高島城の勝手口に当たる場所で、資材搬入口や商人・職人の出入り口でもありました。


城内より



「三之丸御殿裏門(移築)」
昭和63年に所有者から市に寄贈され、この場所に移築されました。
この場所にはかつて川渡門があり、城が湖に面していた頃はここから船に乗ったそうです。、、、現地案内板より



「富士見櫓跡」
本丸南東隅ある隅櫓跡で、土塁上には多聞が巡っていました。



「冠木門、冠木橋」
二之丸と本丸の間にある内堀に架かる橋と門で、戦時では外敵の侵入を阻止する目的があります。
平時は役所向きの用事や「冠木門お通り」の資格を与えられたものだけが通行を許可されていました。



冠木門(城内より)


天守から冠木門、北東隅櫓まで、土塁上に多聞が巡っていた。





「北東隅櫓」
東から西方向


本丸北東隅櫓と冠木門・冠木橋
西から東方向




「天守」


内堀冠木橋から



「内堀」
北面と東面の二面に残っています。
北東隅


南東隅


東面




【天守(高島城天守閣展示室内)】
眺望


北面の内堀と東側は茅野市との境の山


住宅街の南側に諏訪湖が見えます。当時は城のそばまで湖があったそうです。



高島城天守閣1F展示室



模型



江戸時代の高島城推定図(上が北を表す)
※高島城復興50周年記念誌より



昭和45年(1970)諏訪住民の熱意で天守、冠木門、隅櫓などが復興され、市の中心部にある公園として愛され親しまれています。

しかし考えてみたら旧領復帰した諏訪氏はすごく運のよい殿様だったんですね。(これはあくまでもシロートの主観です
諏訪藩は3万石の小藩でしたが、城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから諏訪の浮城と呼ばれ、『諏訪の殿様よい城もちゃる うしろ松山 前は海』と歌われた名城をタダで手に入れたんですから
徳川氏に臣従したこと、旧領復帰したこと、そして前任者(日根野氏)が築城した新築の城(1598年完成)、築後3年(1601年入封)で、城の建設費タダで手に入れたって感じでしょうか




【御城印】


販売先;高島城天守閣1F展示室内
営業時間・休館日;諏訪市公式HP→こちら

【高島城】
《日根野高吉が築いた湖畔の城》

名称(別名);諏訪の浮城
所在地;長野県諏訪市高島1-20-1
城地種類;平城
築城年代;文禄元年(1592)~、慶長3年(1598)~
築城者;日根野高吉、
主な城主;日根野氏、諏訪氏
文化財区分;市指定史跡
近年の主な復元等;昭和45年(1970)本丸跡に天守閣を外観復元(鉄筋コンクリート)敷地内の公園整備
天守の現状、形態;独立式望楼型3重5階(1598年築 非現存)(1970年 RC造復興)

※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;


松本城@長野県松本市 2023年10月12日

2023-11-12 07:02:22 | 城歩き
前回のエントリー→こちら

お城検索は→こちら

第6回車中泊@長野一筆書きのお城巡りの記事は→こちら


松本城の歴史や縄張については前回のエントリーを参照願います。


今回の訪城目的は単に「御城印」を手に入れること
当時は興味もなかったし、そもそもその存在すら無かったのではないだろうか。
笑われるかもしれないが収集癖というものは恐ろしいもので、欲しいと思ったらとことんやってしまうものなのである。
上田城、姫路城、新発田城、会津若松城、大垣城、清洲城なども訪城履歴があるものの、未収集の城なのでいつかは御城印目的で再訪したいと思っている



せっかく来たのだから天守に登ってみようと思ったのが間違いの元だった。
インバウンドの外国人でてんこ盛り、出入りで45分ほどかかって貴重な時間をロスしてしまいました。
よく考えたら天守は過去にも2回登っているのでそれこそ今更登る必要も無く、それなら外堀を一周した方がよほどためになったと後悔したが失った時間は取り戻すこともできず、後の行程が押す原因となってしまった。




松本市中心部、「松本城大手門駐車場(東洋機器駐車場)」に車を停め徒歩5分ほどで外堀に到着。
松本城交差点から外堀を渡り、黒門を抜け本丸に入る。


黒門をくぐるとすぐ右手にあるのが「松本城管理事務所」
御城印はここで購入できます。




内堀に架かる土橋と黒門



黒門(二の門)
高麗門形式


黒門は二の門、一の門で枡形を形成しています。
黒門(一の門)
櫓門形式、附櫓と一体になっています。



内堀越しの黒門附櫓






内堀から天守
南西隅


南側、埋橋



そう言えばこの埋橋
昔は渡れましたよね。
いつから通行止めになったんでしょう?
平成12年(2000)8月、家族旅行で訪れたときはこの埋橋から本丸・天守に入りました。


調べてみると
 埋橋は60年前、昭和の大修理にあわせて当時の松本市議会の提案により観光振興・景観向上の目的で設置された橋であり、江戸時代から存在するものではありません。
 平成23年(2011)6月30日に発生した松本地震の際に、埋橋を渡った先にある埋門の石垣が被害を受け、崩落の危険性が生じたことから通行止めとなっているそうです。






外堀から二の丸に入るための太鼓門は平成11年(1999)復元されたましたが、現在耐震工事が行われています。

こちらも一の門、二の門で枡形を形成し厳重な守りとなっています。
太鼓門・一の門
櫓門形式


玄蕃石
城門に置かれた巨大な石(鏡石)は城主の威厳を見せつけるにふさわしい。


太鼓門・二の門
高麗門形式




二の丸


二の丸裏御門石垣(だったと思う)




本丸


本丸からの天守
中央、五重六階望楼型の大天守
右側、三重の乾小天守
両者を繋ぐ渡櫓
左側、辰巳附櫓 
一階には赤い欄干の月見櫓
の五棟で構成されています。




天守内部
狭間


天守3階(二重目の屋根の下に隠れた階)


武者窓


天守4階 最も急な階段(勾配61度)


天守5階
高い天井のため階段には踊り場が設けられている



花頭窓



配置図


縄張図


※国宝松本城パンフレットより


ラーメン食べ歩きで3回、家族旅行で2回、城下町を散策しましたが、石垣や堀を巡る「ブラタモリ」みたいなのはやっていません。
次回は古絵図にある惣構(堀)をグルッと回り、大手門・東門・北門・北不明門・西不明門の各馬出を見てみたいです。




【御城印】


販売所;松本城管理事務所
住所;松本城内




【松本城】
《石川氏が完成させた信濃一の大城郭》

名称(別名);深志城
所在地;長野県松本市丸の内4-1
城地種類;平城
築城年代;文禄2~3年(1593~4)
築城者;石川数正・康長
主な城主;石川氏・小笠原氏・戸田(松平)氏・松平(越前)氏・堀田氏・水野氏
文化財区分;大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓、、、以上国宝。他国指定史跡
近年の主な復元等;平成11年に太鼓門を復元
天守の現状、形態;五層六階木造(現存)
地図;



※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)


第6回車中泊お城巡りの旅@長野県一筆書き 2023年10月12~14日

2023-11-05 06:39:51 | ネイチャー・旅行・まつり
前回のエントリー→こちら


白内障がスッキリよくなったら、いきなりの2連続(同月内)車中泊
しかも今回は2泊
以前は仮眠程度の2泊だったんですが、今回はガチの2泊です


初日は自宅を10時に出発して安房峠越えで松本に入り「松本城」→(長野自動車道)諏訪市「高島城」→(中央道)上伊那郡で1泊目

二日目は伊那市「高遠城」、「春日城」→蓼科を超えて佐久市「龍岡城」→小諸市「小諸城」→(上信越自動車道)上田市「上田城」→上田市で2泊目

三日目は千曲市「荒砥城」→長野市「松代城」→(上信越自動車道)飯山市「飯山城」→(上信越自動車道)→(北陸道)帰宅という

長野県をグルッと一筆書きで回る行程です。


 1泊目 【道の駅 大芝高原】



到着したのは17:30頃ですが辺りは真っ暗。
予定していた道の駅併設(併設ではなく大芝公園内にある温泉施設)
なんと定休日



公園入り口からずっと気になっていたんですが、森の中が大変なことになっていますよ



なんということでしょう~♪ イルミネーションで森全体が飾られているというか、まるで「なばなの里」状態ではありませんか~♪ 
※なばなの里イルミネーションwebページは→こちら









スポーツ施設や温泉、広大な森林公園などあまりにも広すぎて、おまけに産直施設やレストランまであってどこまでが道の駅なのかわからないくらいです。
ギリギリ産直のお店の閉店時間には間に合ったのですが、夕食のメインになる炭水化物がなかったので地元産のウインナーや道の駅切符など仕入れた後近くのコンビニで買い出し。
コンビニが近いのは助かります。





お泊まりする駐車場は産直施設の周りにも有りましたが先客が多かったので、公園管理事務所の駐車場に移動。
こちらは驚くほど広くて、逆にちょっとさみしいくらい。トイレが併設となっている管理事務所側に車を停めました。
直売施設側(翌朝撮影)


管理事務所側(翌朝撮影)



トイレに近い場所にねぐらを確保。大型トラックのエンジンの音も気になりません



それでは宴会をはじめましょう~♪


でも今夜までお薬飲まなきゃならないので断酒
ノンアルでカンパ~イ



直売所で購入した地元産リンゴを使った「アップル・クロワッサン」
リンゴの甘みとクロワッサンのバターの塩味、食欲の無限ループ♪



二日目の朝も快晴


ご来光を仰ぎました




webサイトは→こちら
住所;〒399-4511 長野県上伊那郡南箕輪村2358-5
地図;







伊那から茅野市を抜け「蓼科高原」を超えて佐久に向かいました。
完全下道、山岳道路です。
雪が降ったらもう通れませんね。
少し早い紅葉が見事でした。
蓼科のオサレなレストランとか別荘群とか
東京から近いと言うことを感じます。




蓼科高原では野生の鹿が悠々と


標高の高さを感じる白樺林





 2泊目 【道の駅 上田道と川の駅(おとぎの里)】



昨夜は予定していた温泉に入れなかったので、今日こそはなんとしても入ろうと、上田市から次の目的地である千曲市周辺で温泉施設併設の道の駅を検索するも適当なところが見つかりません。
なので日帰り温泉で検索すると上田市内から少し離れていますが、上田の里に「真田温泉」という施設がヒット!
早速行ってみることにしました。
到着したのは17:15分頃


凄い立派な施設です。
【天然温泉 真田温泉健康ランド ふれあいさなだ館】webページは→こちら
天然温泉で広くて、露天風呂もあって、、、なんと大人500円
メッチャ安い~♪


しかもお食事処併設
お腹ペコペコだったのでめちゃくちゃうれしかったです
せっかくなのでざるを二人前いただきましたよ


麺リフト



コンビニでおつまみ買って「道の駅 上田道と川の駅(おとぎの里)」に着いたのは19:10



もちろん物販施設は閉店。
後は宴会して寝るのみです。
ハイボールは持参のグラスで


真田温泉で買った地酒を持参のぐい飲みで味わう♪
ちょっとした小物でパック料理も雰囲気がでますよね~



翌朝、この絶景
着いたときは真っ暗で、周囲のことがわからなかったのですが 日本百景「岩鼻』が目の前に見えます。→こちら
千曲川が削った河岸段丘・段丘崖が朝日を浴びてオレンジに輝いて一層迫力がありました。



三日目の日の出
今日も快晴だ~




webサイトは→こちら
住所;〒386-1106 長野県上田市小泉 字塩田川原2575-2
地図;






【まとめ】
総走行距離;730Km
給油量;60.01L
燃費;12.2Km/L





初日
松本城(松本市)の記事は→こちら
高島城(諏訪市)の記事は→こちら

2日目
高遠城(伊那市)の記事は→こちら
春日城(伊那市)の記事は→こちら
龍岡城(佐久市)の記事は→こちら
小諸城(小諸市)の記事は→こちら
上田城(上田市)の記事は→こちら

3日目
荒砥城(千曲市)の記事は→こちら
松代城(長野市)の記事は→こちら
松代歴代藩主墓所の記事は→こちら
飯山城(飯山市)の記事は→こちら

興国寺城@静岡県沼津市 2023年10月1日

2023-11-04 09:50:01 | 城歩き
お城検索は→こちら

今回のまとめは→こちら


【歴史】
築城年代は定かではないが、長享元年(1487)に今川氏の後継者を巡る対立を解決した伊勢盛時(北条早雲)は興国寺城に入った。盛時はここを拠点に伊豆の堀越御所討ち入りをしたといい、伊豆侵攻後に派、韮山城へ本拠を移した。その後、興国寺城のある東駿河は北条氏、今川氏、武田氏が奪い合った。江戸時代には徳川家康の家臣となっていた天野康景が興国寺城藩を立藩するが、慶長12年(1607)に改易され、城は廃城になった。

【縄張】
城は、愛鷹(あしたか)山南麓の舌状に張り出した尾根の先端部に築かれていた。この地形の特徴から本丸の南側に二の丸、三の丸が直線的に並び、本丸の北側には石垣と伝天守台、さらにその北側には大空堀で遮断された北曲輪と呼ばれる曲輪が配置されていた。 また、本丸の東側には谷を隔てて清水曲輪が配されていた。

【場所】
静岡県沼津市根古屋
東名高速愛鷹(あしたか)スマートIC下車、沼津市内に向かって約1.5Km進み、県道22号線(根方街道)の交差点を右折します。高橋川を渡りスルガ銀行沼津青野支店前を通過、根古屋交差点手前右側が城址・駐車場となります。

駐車場からさらに上段に向かって細い農道を進むと三の丸北側の駐車場に行くことができます。

【遺構】
「三の丸」
南西部と県道22号線で分断された南側
南側作平地の奥から右手には土塁の痕跡が見えます。


三の丸東側
土塁が築かれ一段高くなっています
三の丸では発掘調査の結果、柱穴群が確認され建物群があったと考えられます。



三の丸北側(駐車場)



「二の丸」


本丸から二の丸、三の丸と続く作平地(本丸土塁上から撮影)
二の丸と本丸の間には、発掘調査の結果「本丸虎口門跡」が確認されました。




「本丸」
本丸跡地に建つ高尾山穂見神社(幕末)


神社背後の本丸土塁


本丸土塁上にある伝天守台(16世紀末から17世紀初頭)


伝天守台石垣



本丸土塁西側
西櫓台



「北曲輪」
本丸土塁と大空堀を挟んで築かれた北曲輪
北曲輪の北側(新幹線で分断された辺り)では発掘調査の結果、空堀が確認されています。





「大空堀」
伝天守台の北側には幅約30m、深さ約20mの巨大な堀が城を守っています。




大空堀に降りてみました(中程)




同、西側は景色が一変し、荒々しい土と岩がむき出しとなっていた。


侵食谷の深さと谷壁部分の急斜面という天然の要害を利用した構造や、天守台は豊臣期のものと考えられています。


西端



大空堀東端 (本丸土塁上より)
二重堀切のように中央に土塁上の盛り土が見えます。



北条期、今川期、徳川期、豊臣期とそれぞれの時代背景で改修され役目を果たしてきたが、その役割も低下し慶長12年天野氏の改易により廃城になりました。



【まとめ】
城の南は県道が通り、北の端には新幹線通って分断されている。県道側から見ると小さな杜にしか見えないが、本丸土塁と背後の急峻な谷を利用した大空堀は迫力があります。
北条早雲、今川氏、武田氏、徳川氏、豊臣氏が取ったり取られたりの歴史の中、穴山梅雪も絡んだりして興味深い城でした。

またここで買い求めた御城印は沼津西高校書道専攻の女子生徒さんが、街おこしのために制作したとのこと(沼津四大城御城印プロジェクト)そりゃあ買うよね~


ヤマップ工程データ


ヤマップ3D




【御城印】


販売所:野崎園 沼津市根古屋473 (自分はこちらで購入しました)
    お茶の興国園 沼津市井出103
    S.Kimura 沼津市根古屋175-1





【興国寺城】
《関東に王国を築いた北条氏旗揚げの城》

名称(別名);杜若城(かきつばたじょう)
所在地;静岡県沼津市根古屋
城地種類;連郭式平山城
標高/比高;35m/20m
築城年代;不明
廃城年代;慶長12年(1607)
築城者;不明
主な改修者;
主な城主;北条氏、今川氏、武田氏、松平氏、天野氏
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;石垣、土塁、空堀、曲輪、天守台
近年の主な復元等;22年度より復元工事


※出典、、、続日本100名城公式ガイドブック(学研)
地図;



石垣山城(一夜城)@神奈川県小田原市 2023年10月1日

2023-11-04 07:33:03 | 城歩き
お城検索は→こちら

今回のまとめは→こちら


【歴史】
天正18年(1590)の小田原合戦に際して、豊臣秀吉の命で築城された。小田原城の南西約2.5Kmに位置する笠懸山の山頂に、小田原城から見えないように約82日間という短期間で築き、完成後に周囲の木を伐り払ったため、北条氏方にはわずか一夜にして出現したように見えて戦意を失意せしめたという。このことから「一夜城」の別名で知られる。秀吉はこの城で茶会を開き、天皇の勅使を迎えたという。主要部分は高石垣を備える東国最初の近世城郭である。


【縄張】
秀吉の本陣として築かれた陣城であるが、長期戦に備えた本格的な城郭であったと言われる。最高部に構えられた本丸の周囲に西曲輪、南曲輪、東に二の丸と井戸曲輪が配置される。石積みは近江の穴太衆による野面積みで、天守の有無は不明だが天守台が残る。


【遺構】
石垣山一夜城歴史公園の駐車場に有名パティスリーのお店「一夜城Yoroizuka Farm マルシェ」があるので、そちらにナビをセットするとよいでしょう。御城印もこのお店で購入することができます。
同じく併設のトイレ前には一夜城のパンフレットやスタンプも設置してあります。

余談になりますが、人気のお店のようでおよそお城巡りとは無縁の方々も多数お見えで、入店待ちの行列も発生しておりました
御城印だけが目的の場合は、お店入り口の隣にある物販コーナーから入ってレジでその旨伝えると素早く対応してもらえます。



石垣山の登城口は駐車場の目の前にあります。



いただいたパンフレットに配置図が載っていますのでそれを片手に見所をチェック。



「南曲輪登城口側石垣」



「南曲輪北側石垣」



「二の丸東側石垣」
二の丸の東側にも石垣が積まれています。この辺の石垣には比較的小さな石が使われています。



「物見台」



「本丸(本城曲輪)・天守台」
この辺りの石垣は20mを超える高さで築かれており、石垣を築いた穴太衆の技術の高さがうかがえます。
天守台の四周をかつては石垣が取り囲んでいましたが、現在はほとんどの石材が崩落しています。石材一つひとつが大きく、天守の威厳を示していたようです。
崩れた石垣の間には、数えきれないほどの瓦が見つかっており、天守が瓦で葺かれていたことが確実です。この中に「天正十九年」と書かれた瓦が見つかりました。この天守が、関東より北側で初めて瓦を葺いた建物だったのです。



「二の丸(馬屋曲輪)」
本城曲輪から北門を通って降りた場所が、二の丸に相当する馬屋曲輪です。東西100m×南北80m程の広さで、本城曲輪とほぼ同じくらいの大きさを持つ曲輪です。中心となる平らな部分、北側へ長方形に張出した部分及び東側の腰曲輪部分の3つによって構成されています。
この曲輪に出入りする門は、3カ所確認されています。1つは、本城曲輪北門、2つ目は南東隅に位置する南腰曲輪北門、3つ目が井戸曲輪及び北口外門へと通じる北口中門です。この北口外門が本来の大手口ではないかと考えられています。


「狼煙台」
城門跡でしょうか







二の丸からの眺望 中央丸印が小田原城
石垣山城からは、小田原城とその城下が一望できます。相模湾の彼方には三浦半島や房総半島の山並みも見られます。



「井戸曲輪」
淀君化粧の井戸とも伝わります。
まるでさざえのように通路が回りながら井戸に続いていることから「さざえの井戸」ともいわれています。
谷を石塁で塞いで井戸とした井戸曲輪の石垣は圧巻です。


二の丸から螺旋式に降りていく


北東側石塁


南西側石垣


清水が湧く
井戸は二の丸から25mも下がったところにあり、谷をせき止めて湧き水を溜めたものです。400年が経過した今でも清水が湧き出ています。



「北曲輪」(展望台方向土砂崩れのため進入禁止)
北曲輪は国指定史跡に含まれていないそうです。




「本丸北西側石垣」


「本丸西側石垣」


「西曲輪石垣」


「南曲輪石垣」


「南曲輪石垣角石」
この辺りでは、城の役割を終えた際にお城の一部を壊す「城割」という作法の痕跡が確認できます。
虎口や石垣の隅が崩れているのは、そのためです。



西曲輪・南曲輪の南側、大堀切を挟んで出丸があったそうですが現在は民有地となっていて立ち入ることはできません。(国史跡指定外)
このあたりでしょうか?




【まとめ】
二の丸から見下ろす小田原城下は天下人の秀吉や、「関東の連れしょんべん」と言われる家康も並んで見た景色でしょうね。惣構の三方は徳川・蒲生・細川など各大名が陣取り、相模湾には長宗我部氏や九鬼氏などの水軍が埋め尽くす光景が目に浮かぶようです。
また井戸曲輪や本丸などの石垣は勿論のこと、小田原城下から見えない西側や南側の石垣まで短期間造り上げた秀吉の権威と財力が忍ばれました。

ヤマップ行程表


ヤマップ3D



【御城印】


販売所:一夜城Yoroizuka Farm マルシェ(一夜城公園駐車場内)
営業時間:10:00~17:00
火曜定休日



【石垣山城】
《豊臣秀吉が築かせた一夜城》

名称(別名);一夜城、石垣山一夜城
所在地;神奈川県小田原市早川1383-12
城地種類;山城
標高/比高;261m/220m
築城年代;天正18年(1590)
廃城年代;天正18年(1590)
築城者;豊臣秀吉
主な改修者;
主な城主;豊臣氏
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;曲輪、石垣、堀、
近年の主な復元等;公園整備


※出典、、、続日本100名城公式ガイドブック(学研)
地図;