あみの3ブログ・夢のつづき

お城巡りの旅とラーメンなど、自由な写真日記

ジムニーTシャツまつり参戦

ただいまnetで話題沸騰!(一部のマニアだけですがw)

ジムニーTシャツをめぐる争奪戦

 

衣料品専門店「しまむら」で発売中の【ジムニーTシャツ】

プリントではなく刺繍仕上げで¥1,290(税込み¥1,419)と超お買い得。

しかもSUZUKIの公認。

 

 

ジムニー関連のSNS交流サイトでは「私も買いました」「ボクも買いました」の投稿で持ちきり!

 

なので、自分もまつりに参戦

ブルーとブラックの2色ゲット!!



シートカバーにしてみました

 

じつは、このほかに「JB64W」(自分のジムニーと同型)がドーンとレイアウトされたデザインの白色のTシャツがあって

 

 

 

しまむらアプリ」で検索して在庫のあるお店に直行したのですが完売(>_<)

しょうがないので、「お取り寄せ」して貰うことにしました。

在庫があったので1週間程で届くそうです。

待ち遠しいな~(^^)

 

GOOブログ引っ越し 画像データが重すぎる

このたびGooブログから引っ越してきました『あみの3』(あみのさん)です。

 

2014年3月16日、「NTTぷらら」から「GOOブログ」に引っ越してから11年。再び移転となりましたが、こちらが終の住処になることを祈っています。

 

ブログデータのアップロードは順調に進んだのですが、画像データの移行に手間取っています。

 

写真枚数が42,090枚

18時間経過してようやく、1,918枚の移行が済んだ処です。

 

この調子でいくと16~17日間を要するかも?

本当に完了するんでしょうか?

トホホ。。。デス。

画像移行17h

 

 

 

 

閲覧注意!! 帯状疱疹

帯状疱疹になっちゃいました。

令和7年5月上旬から、市の助成による定期予防接種が始まるという矢先に発症してしまいました。

ピンポイントでダメなヒト

 

 

水疱瘡とは

過去に水痘(みずぼうそう)にかかった時に体内に潜伏したウイルスが活性化することにより、神経に沿って痛みを伴う水ぶくれが現れる病気。

50歳以上になると発生率が高くなり、70歳代が最も多くなっています。

免疫力が低下したり、環境の変化、ストレス、などの要因により発症することが多いそうです。

思い当たることといえば、睡眠不足と疲労、そして加齢(トホホ)

 

病院に行ったら、即座に帯状疱疹と診断され、点滴治療を勧められました。

8時間ごとに1回、7日間連続して点滴する治療です。

従って入院しなければならない事態となりました。

 

閲覧注意!!

 

点滴治療

通常は前腕部なのですが、自分は血管が出にくい体質なので痛いですが手背にブチュ!

 

さすがに1週間同じ場所に刺しっぱなしと言うわけにもいかず、4日目に刺し替えとなりましたが、左手・右手・左足と都合10カ所ほど注射針を刺されました。

どれもうまく血管に到達できなくで、結局、右手首の背側にルートを確保することとなりました。

どうなるんやろ~、という不安。。。


しかし、なんとかなるもんです。

ご飯も食べられたし、シャワーできた。

トイレも。

 

健康的な食事

食べて寝るだけ

テレビとスマホが唯一の楽しみ

 

4月16日昼

タケノコご飯です。

これが一番美味しかった~

 

朝は牛乳とふりかけが付きます。

 

夕食は味噌汁が付きません。

 

健康的な入院生活

入院3日目からはリハビリを行い、ストレッチや柔軟、階段昇降で汗を流しました。

作業療法士のお姉さんが、手取り足取りで介助してくれたのが嬉しくて、毎日のリハビリ時間を心待ちにしていました。

 

(禁酒)アルコール制限、(ラーメンなし)塩分制限・(間食なし)糖質制限、規則正しい生活と食事制限。

なんて健康的なんでしょう。

きっと体重も減っていることでしょう。

 

ところが、退院後の体重測定では、たったの1kg減

トホホ。。。

やっぱり運動不足は否めなかったのだ。

 

 

 

退院後の社食ランチ

今まではおかず2品とラーメン+おにぎり(ラーメン完食・全汁)

食生活改善、ラーメンはやめました。(塩分制限と糖質やや制限w)

 

 

まとめ

2年前には白内障の手術で1泊2日を経験しましたが、1週間の入院生活って初めての体験でした。

いわゆる「息災病人」で、けっこう楽しかったですw

 

退院後は暴飲暴食、塩分のコントロールと断酒、いや禁酒、いや節酒。

いつまで続くかわからないけど、しばらく控えてみますw

 

50歳を過ぎたら、帯状疱疹ワクチンの接種(公的負担)をオススメします。

 





 

【吉田城】今川・徳川の争奪戦の城 江戸期は東海道吉田宿として城下は賑わった


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永正2年(1505)に今川氏親が牧野古白に命じて築いた今橋城が前身とされる。その後、周辺勢力による城の争奪戦が繰り返され、城主はしばしば入れ替わったが、氏親の子の義元の代には今川氏の城となり、吉田城と呼ばれた。
 義元の死後、今川氏が衰えると徳川家康が奪い、酒井忠次を城主に配した。徳川氏の関東移封後は、池田輝政が入城して改修が行われる。江戸時代には譜代小大名がめまぐるしく交代し、松平(大河内)氏のとき明治維新を迎えた。

豊川と朝倉川を北背後に、本丸を基点として南から西に二の丸、東・南・西に三の丸を配置した、いわゆる後堅固と呼ばれる梯郭式の縄張であった。本丸南側の石垣はほぼ池田輝政の改修時のものだが、その他の部分の石垣は名古屋城天下普請で余った石材を転用したとされ、石に刻印が確認できる。


場所は愛知県豊橋市今橋町
東名高速「豊川」IC下車、国道151号線を豊川市内へ。「宮下」交差点で1号線へ左折。豊川を渡り「西八町」交差点で左折、一つ目の交差点を左折して
豊川市役所東館駐車場に車を停めると、東館1F「情報館」で御城印を買うことができ、そのまま外へ出ると吉田城公園です。御城印を買った際、駐車券を出すと駐車料金が無料となります。(時間制限があったかもしれませんが)

豊橋市役所、城址公園


三の丸門、市役所東館地下駐車場入り口


東館地下駐車場


東館Fロビー


同、情報館




吉田城址平面図
※吉田城パンフレットより



三の丸門



水門
豊川から城内に物資を運び入れた船着き場。


排水溝


川手櫓跡と腰曲輪
豊川に面した部分の防御のために造られた曲輪。


北多門
本丸の豊川方面に築かれた門。内枡形虎口がよく残っています。
池田輝政が築いた、吉田城最古の石垣。


内堀




豊川越し 北多聞と腰曲輪


城址公園水路に架かる木橋(模擬)



三の丸土塁



金柑丸土塁と内堀


金柑丸石垣
馬出と呼ばれる、攻撃的な防御施設。



二の丸内・外堀石垣


二の丸内・外堀






二の丸土橋



「本丸」
四隅に櫓を配し、中央には宝永大地震で倒壊するまで、将軍上洛時の宿所にした御殿があった。
本丸裏御門枡形


本丸裏御門


本丸辰巳櫓跡


本丸入道櫓跡


北多門より鉄櫓


鉄櫓
天守として築かれ、城内最大規模の櫓。





北多門枡形
本丸の豊川方面に築かれた門。内枡形虎口がよく残っています。



千貫櫓跡



本丸南多門
本丸の正面入り口にあった門。多聞櫓と千貫櫓で守りを固めた。


南多門石垣と城址


南多門と内堀



本丸内堀 南東面



内堀 南西面



三の丸土塁



二の丸門跡


到着櫓跡
本丸入り口を監視し、城内に集まった兵を観察した。



【まとめ】
酒井忠次が城主となった時には土の城として改修したが、家康の関東移封に伴い、吉田城には池田輝政が入城しました。織豊系城郭を象徴する城に改修しましたが、輝政は家康の娘をめとり、関ヶ原合戦後姫路城主となりました。
現在見られる吉田城の姿はこの頃造られました。その後、譜代・親藩の大名がめまぐるしく入れ替わりましたが、東海道吉田宿として大いに賑わいを見せ、東海道五十三次の絵にも登場しています。
ヤマップ行動記録
活動時間:53分
移動距離;2100m


ヤマップ3D


【御城印】
豊橋市役所東館1F 情報広場




【吉田城】
《》
続日本100城
名称(別名);よしだじょう(今橋城、豊橋城)
所在地;〒440-0801 愛知県豊橋市今橋町3
城地種類;平城
標高/比高;
築城年代;永正2年(1505年)か?
廃城年代;明治4年1871年
築城者;牧野古白か?
主な改修者;池田輝政
主な城主;牧野氏、戸田氏、小原氏、酒井氏、池田氏、竹谷松平氏、深溝松平氏、沼津水野氏、山形水野氏、小笠原氏、久世氏、牧野氏、大河内松平氏、本庄松平氏、大河内松平氏
文化財区分;
主な遺構;石垣、土塁、堀
近年の主な復元等;
地図;

【宇利城】南北朝期の山城 愛知県指定史跡の第1号城郭 2025年3月31日


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宇利城は連郭式と螺旋式を併用した山城で、文明年間(1469~1487)に今川方の熊谷重実が築城し、松平清康の侵攻によって享禄2年(1529)に落城した。その後、天文14年(1545)に今川義元の攻撃を受け、今川氏に仕えた近藤満用らが在城した。永禄11年(1568)徳川家康側に寝返った近藤氏は、武田軍の攻撃に耐え、その後居城を柿本城に移したといい、その後の宇利城の状況は定かでない。
 家康期に城郭の改修があったと考えられるが詳細は不明であり、現在は山上に主郭(本丸)、姫御殿と呼ばれる二の丸などの曲輪、土塁、堀(横堀、堀切)などの遺構が残る。

場所は愛知県新城市中宇利
新東名「新城」IC下車。「新城インター」交差点を左折、国道151号線へ。6.5Km先「野田西」交差点を左折、県道392号線へ。豊川を渡り7.9Km先「一鍬田畠中」交差点を直進し、国道301号線へ。11.8Km先「富岡」交差点を左折し県道81号線へ。14.3Km先「中宇利」交差点角が宇利城専用駐車場です。


駐車場からは民家の横を北の方向に歩きます。宇利川を渡ってすぐに農道を左折。(案内標識あり)


山の際で三叉路となるので右折。


数10メートル先に道案内の標識があるので、舗装道路から田んぼのあぜ道へ右に曲がります。


大きな現地案内板があり、案内標識に従ってあぜ道を左折し山の中に入ります。



縄張図
※「愛知の山城ベスト50をあるく」より、加筆



城域手前にある「松平親盛の墓」


曲輪Ⅳの下段にある井戸跡


城道の足下、谷側に積まれた石積み





南尾根城道石積み




主郭 曲輪Ⅰと姫御殿 曲輪Ⅱの間の堀切、堀底道



主郭 曲輪Ⅰ


虎口




城址


熊谷備中守重實 城主碑


櫓台跡


主郭からの眺望




姫御殿 曲輪Ⅱ


虎口石垣




主郭を隔てる堀切と堀底道






腰曲輪 曲輪Ⅳ
姫御殿に通じる通路の防衛



東段郭



南西の井戸


西尾根石垣
看板







西尾根段郭



主郭北切岸


北尾根堀切




納所平 曲輪Ⅲ
主郭北側の崖下に広がる作平地。


同堀切
北尾根を遮断する



御馬屋平分岐


御馬屋平 曲輪Ⅴ
東尾根上に築かれた曲輪



同 虎口 
虎口付近には土塁がある




御馬屋平 南端を取り巻くように築かれた横堀






【まとめ】
三方を山で囲まれた天然の要害。北側と東側の防備を意識した縄張。随所に見られる石積みも見所。

ヤマップ行動記録
活動時間:1時間38分
移動距離;2800m
高低差;162m


ヤマップ3D



【御城印】
設楽原歴史資料館にて



【宇利城】
南北朝期の山城 愛知県指定史跡の第1号城郭》

名称(別名);うりじょう
所在地;〒441-1334 愛知県新城市中宇利仁田
城地種類;山城
標高/比高;165m/90m
築城年代;不明
廃城年代;不明
築城者;熊谷氏?
主な改修者;
主な城主;熊谷氏,菅沼氏,近藤氏
文化財区分;県指定史跡
主な遺構;石垣,土塁,郭,堀,井戸
近年の主な復元等;
地図;



【塞之神城】謎に満ちた城だが、山城の遺構はしっかり残っている 2025年3月30日


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塞之神城は、来歴の不明な城の一つである。伝説も含め、古くは元亀元年(1570~73)武田氏によって、奥平氏との和睦の際、合議により築かれたとも言われ、また、奥平氏が作手に来住する以前の米福長者(三河三代長者の一人で作手に在住)時代に存在したとの推定もされている。いずれにせよ二時期にわたる構築が指摘されており、主郭とその東西の虎口の部分、二の曲輪と堀切を含むその付属部分と普請の程度に明らかな差異が見られる。、、、新城市教育委員会(現地案内板より)

場所は場所は愛知県新城市作手本城
新東名「新城」IC下車、国道151号線へ左折。5.5Km先「杉山北」交差点で右折。国道301号線を山越えします。新東名のガードをくぐりるとヘアーピンカーブが連続する山岳道路となります。途中には「本宮山スカイライン」の分岐もありますが、そのまま国道301号線を進みます。約20Km先で作手町に入ると、右手に「道の駅つくで手作り村」があります。


道の駅から国道301号線を進み「作手総合支所東」交差点を左折。
「作手保健センター」の先に分岐があり、「文殊山城」の案内標識がありますので、左手の山に向かって林道を登ります。


周辺位置関係


文殊山城・塞之神城は尾根続きなので、頂上まで登ってから一括して走破しました。
しかし、振り返ってみると、林道の途中の水飲み場のような場所が、尾根の文殊山城・塞之神城分岐点でした。
僅かに駐車スペースもありますので、そこから登って「文殊山城」へ往復し、あるいは「塞之神城」へ往復すれば、頂上まで車で行く必要は無かったかもしれません。


水飲み場から尾根に登れば、文殊山城・塞之神城の分岐点です。



縄張図
※「愛知の山城ベスト50をあるく」より、加筆



分岐から約6分
いよいよ城域です。
文殊山城側の尾根を分断する堀切


曲輪Ⅴより堀切俯瞰




曲輪Ⅴ


同土塁


土橋


堀切





曲輪Ⅳ


食い違い虎口



主郭土塁


主郭南虎口


主郭土塁上に散乱する石


主郭東虎口



主郭から尾根伝いにロープで移動


東尾根


東尾根堀切・土橋




曲輪Ⅱ



曲輪Ⅲ




【まとめ】
文殊山城に比べ遺構もたくさんって山城の醍醐味を感じるが、整備は文殊山城に比べて劣る感じは否めない。文殊山城側の大堀切から主郭までの遺構のうち、「食い違い虎口」が大きな見所となっています。

文殊山城・塞之神城一括
ヤマップ行動記録
活動時間:1時間40分
移動距離;3000m
高低差;164m


ヤマップ3D



【塞之神城】
《謎に満ちた城だが、山城の遺構はしっかり残っている》

名称(別名);さいのかみじょう(本城山砦)
所在地;〒441-1414 愛知県新城市作手清岳上ノ山 クザ畑2
城地種類;山城
標高/比高;628m/80m
築城年代;永正2年(1505年)か?
廃城年代;
築城者;牧野古白?
主な改修者;池田輝政
主な城主;武田氏か?
文化財区分;市指定史跡
主な遺構;土塁,郭,堀,井戸
近年の主な復元等;
地図;




【文殊山城】奥平氏が築いた武田氏との和睦の証の一夜城 2025年3月30日


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文殊山城は、亀山城主の奥平氏の砦城で、元亀元年(1570~72)に武田氏との和睦の証として、塞之神城と共に築くはずであったが、延引したため武田氏により強談にあい奥平氏が一夜にしてこれを築いたので一夜城とも言われる。
 中央にある文殊菩薩は、江戸時代に地元有志により奉納された石像で、台石には「西須山村東市場村」と刻まれており当時村界であったことがわかる。また、宝篋印塔左手に足助町有志が奉納した笠付の円柱石塔があり、この山は近世から近代にかけた信仰の山であったことを示している。後略、、、新城市教育委員会(現地案内板より)

場所は場所は愛知県新城市作手清岳杉本
新東名「新城」IC下車、国道151号線へ左折。5.5Km先「杉山北」交差点で右折。国道301号線を山越えします。新東名のガードをくぐりるとヘアーピンカーブが連続する山岳道路となります。途中には「本宮山スカイライン」の分岐もありますが、そのまま国道301号線を進みます。約20Km先で作手町に入ると、右手に「道の駅つくで手作り村」があります。


道の駅から国道301号線を進み「作手総合支所東」交差点を左折。
「作手保健センター」の先に分岐があり、「文殊山城」の案内標識がありますので、左手の山に向かって林道を登ります。


周辺位置関係



この林道の終点、頂上が文殊山城で、わずかですが駐車スペースもあります。





縄張図
※「愛知の山城ベスト50をあるく」より、加筆




駐車場より模擬櫓


主郭虎口(駐車場より階段にて)


虎口(主郭より)


主郭内部



東虎口


二の曲輪


南帯曲輪


北横堀


堀切
塞之神城に向かう尾根に築かれた堀切と土橋


堀切を過ぎ、尾根を進むと塞之神城に至ります。


【まとめ】
文殊山城・塞之神城は尾根続きなので、頂上まで登ってから一括して走破しました。
しかし、振り返ってみると、林道の途中の水飲み場のような場所が、尾根の文殊山城・塞之神城分岐点でした。
僅かに駐車スペースもありますので、そこから登って「文殊山城」へ往復し、あるいは「塞之神城」へ往復すれば、頂上まで車で行く必要は無かったかもしれません。


林道の頂上付近では倒木もあり、細い道なので多少の危険はあると思います。


ヤマップ行動記録
活動時間:1時間40分
移動距離;3000m
高低差;164m



文殊山城】
《奥平氏が築いた武田氏との和睦の証の一夜城》

名称(別名);もんじゅやまじょう(一夜城)
所在地;〒441-1414 愛知県新城市作手清岳杉本
城地種類;山城
標高/比高;661m/160m
築城年代;元亀年間(1570年?1572年)ころ?
廃城年代;
築城者;奥平氏
主な改修者;
主な城主;奥平氏
文化財区分;なし
主な遺構;土塁,郭,堀
近年の主な復元等;物見櫓
地図;