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あみの3ブログ

高遠城@長野県伊那市高遠町 2023年10月13日

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☆桜の名所となった城跡には広大な空堀が残る
武田信玄は、天文14年(1545)三峰川と藤沢川の段丘城にある高遠頼継の高遠城を攻略し、その後大規模な改修を行った。三峰川の断崖を背に本丸と、それを囲むように二の丸、三の丸が配された「後堅固」の構えの縄張であったが、武田勝頼の実弟仁科盛信が城主のとき、織田信長に攻められ一日で落城した。本丸をはじめ、各曲輪はすべて空堀で区切られ、戦国時代の信玄流築城の面影をとどめていたが、明治時代に一部が埋め立てられた。また明治時代にタカトオコヒガンザクラが城址に植えられ、これが城内を埋め尽くし、白雪をいただく中央アルプスの景観と相まって、現在桜の名所となっている。、、、日本100名城 公式ガイドブックより

【場所】
場所は長野県伊那市高遠町東高遠城跡
伊那市から国道361号線で高遠の町に入り、国道152号線との突き当たりにある「高遠公園下」交差点を右折、100m程進むと左手の山に登る道がある。三叉路を直進すると「信州高遠美術館」「歴史博物館(御城印)」左折すると山の頂上にある高遠公園(高遠城)に行くことができる。



段丘を走る国道361号線から眼下に広がる高遠の町並み


町内に入ると趣のある建物が軒を連ねる。





駐車場は下から「三の丸グランド駐車場」、「北ゲート駐車場」、グルッと回って高遠美術館側の「南ゲート駐車場」の3カ所があります。
自分は公園の舗装道路を車で上り、搦手門と外堀を見学した後、また車に乗って外堀沿いにグルッと回り「南ゲート駐車場」に駐車しました。


【遺構】
高遠城案内図、、、高遠城パンフレットより




民家を過ぎ、大きなカーブ曲がったところでいきなり石垣と遭遇。



大手道にある「大手門跡石垣」です。



ここから山の頂上に向かって、三の丸、二の丸、本丸と円弧状に曲輪が連なっています。


三の丸手前、大手道沿いに移築された
「旧大手門」
この門は高遠高等学校の正門として個人より寄付を受け移築されたものである。
明治になって売却された門の一つで大手門と言われているが、切り詰められた形で当時の姿ではない。




三の丸グランドゲート側駐車場広場
グランドゲート



現在の駐車場広場は、鍛冶堀(現在は埋め立てられています)を挟んで武家屋敷と勘助曲輪に分かれていました。
高遠城は戦国時代、武田信玄の命により山本勘助が縄張をしたと伝えられています。勘助曲輪の名称はその名に由来しますが、築城当初この曲輪はなく、大手口を東側から西側へ移した際、新たに造成されたのではないかと言われています。
曲輪周辺の堀は埋め立てられ、旧高遠高等学校のグランドとして使われた後、現在は駐車場となっています。
勘助曲輪の広さは769坪(2542㎡)で、櫓や催事事務所、硝煙小屋、稲荷社等がありました。



「中堀」
グランドゲート付近


藩校前の中堀



「外堀」
搦手門橋より


「搦手門跡」
搦手門があったあたりと、外堀に架かる土橋
築城当初、表門である大手は搦手の西にあった。江戸時代初期に城の裏と表の口を入れ替えたと言われている。
この堀に架かっていた橋を渡ると、冠木門(棟門)、枡形に続いて櫓門があり、これと隣接して番所が設けられ厳重な警護がなされていた。



三の丸にある「藩校」


藩校・進徳館



南ゲート駐車場から法幢院曲輪へと向かいました
南ゲート


法幢院曲輪(ほうどういんくるわ)
二の丸から堀内道で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、曲輪の東方には幅約6m、長さ約170mの馬場が続いていた。
かつてここには法幢院というお寺があったが、一般の人も参詣できるように城の東、龍ヶ沢に移り桂泉院と改名して現在に至っている。


法幢院曲輪からの眺望
西に中央アルプス、東に南アルプスが望め、桜のときは残雪が、紅葉のときは新雪が目にも鮮やかです。



法幢院曲輪と南曲輪の間には外堀が巡っています。
両曲輪を繋ぐ橋が
「白兎橋(はくときょう)」です。
藩で酒造業を営み藩の仕送り役を務めていた広瀬氏治郎左衛門(俳号を白兎と称す)の曾孫が、私有地となっていた法幢院曲輪を買い上げ、公園として寄付した。そのとき法幢院曲輪から南曲輪に通じるこの橋を造り、曾祖父の俳号にちなんで「白兎橋」と名付けました。



外堀の堀底からみた白兎橋


白兎橋周辺の石積み



「外堀」
白兎橋から西側の崖に向かっての竪堀


白兎橋から搦手門方向



「二の丸」


二の丸に建つ
「高遠閣」
有志の発案と寄付で昭和11年に完成。平成14年国の登録有形文化財に指定。
現在は地域住民の活動の場として、また城跡を訪れた観光客の休憩所等として利用されている。



二の丸・土塁



二の丸・中堀



二の丸中堀と外堀の境目



「二の丸門跡」
中堀に架かる土橋 (北ゲート付近)



北ゲート




「本丸」
高遠城は天文16年(1574)武田信玄が山本勘助、秋山信友に命じて築かせた城で、後堅固なる三重式の城郭である。
天正10年、攻める5万3千の織田軍と、守る城主の仁科盛信(信玄の五男、勝頼の弟)はわずか3千の兵で壮絶な戦いの末討ち死、落城した。(高遠城の戦い 高遠城本丸)
この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。高遠城の戦いは、強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となった。


本丸からの眺望


本丸土塁


新城藤原神社



笹曲輪にある
「太鼓櫓」
大正2年(1913)本丸南隅櫓跡に建てられた。





本丸内堀と堀底の池



本丸内堀に架かる
「桜雲橋」


堀底からの石積み



本丸「問屋門」と桜雲橋
この門は高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門です。昭和20年代に売却されていた門を地元有志が買い戻し、現在地に移築したものです。
かつては一の門と二の門からなる枡形門であった。









【まとめ】
1.6km、59分間の城歩き。
標高804mから796mまでの比較的ゆるやかなアップダウン。
公園として整備された広大な敷地に、雄大な外堀、中堀が残ります。
橋や門は逆に城下から移築されたもので、直接高遠城と関係ないものも多かったが、公園の景観としてはなじんでいました。

ヤマップ工程データ



ヤマップ3D




【御城印】

販売先;城内にある伊那市立高遠町歴史博物館(絵島囲み屋敷)




保科正之と母静(志津)の像
二代将軍徳川秀忠の子で三代将軍家光の異母弟
信濃高遠藩主保科正光の養子となり養育され、後に高遠藩主。その後は家光の信頼・寵愛を受け幕閣、山形藩主、会津若松藩主。生涯保科の姓を名乗り死後、会津松平家として将軍家補佐の家訓を守る。



【高遠城】
《武田流築城術による「後堅固」の城》

名称(別名);兜城
所在地;長野県伊那市高遠町東高遠城跡
城地種類;平山城
築城年代;不明、天文16年(1547)に改修か
築城者;不明 武田信玄
主な城主;武田氏、保科氏、鳥居氏、内藤氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;平成13年に大手石垣を修理
天守の現状、形態;-

※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;
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