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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

名古屋城@名古屋市 2023年4月10日

2023-04-29 07:45:14 | 城歩き
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前回のエントリーは→こちら



名古屋に所用があり、その隙間時間での登城でした。目的は(今更ながらですが)御城印を手に入れる事(;^ω^)
しかも同行者は歩くのが苦手ときたもんですから、本丸周辺の観光にとどまりました。
前日の日曜日まで城内では桜祭り的なイベントがあったようで、訪れた日は撤収の真っ最中。観光客もまばらでしたが、名残の桜と青空がお城に映えてとてもよかったです。


榎多聞(正門)


御蔵城宝館



2023年WBCで名古屋入りした大谷翔平選手が、名古屋城木造天守復元に使われる予定の木材の切株にサインしたものです。
大谷選手の故郷である岩手県の「月山神社」が所有する樹齢350~400年とされる「月山松(がっさんまつ)」で、天守三階床を支える最も長い(16m)梁に使用されるそうです。




【本丸西面】
本丸未申櫓(西南)と天守


★明治初期の撮影
撮影当時は四十六間の多聞櫓(具足多聞)が続いていたが、明治24年ごろに撤去された。



空堀と石垣


東南隅櫓




【本丸南二の門(表二の門)】


★明治初期の撮影
手前は南二の門(表二の門)右奥に見えるのが南一の門(櫓門)。厳重な枡形になっていた。



同正面


同城内より
高麗門形式



【本丸御殿玄関・式台】


★昭和期の撮影
正面に唐破風造の式台、その奥に入母屋造の妻入りの玄関。式台右には仕切り門、後方に本丸東一の門が見える。



同入場口と桜



御殿内
天井


ふすま取っ手



【名古屋城天守・小天守】
復原された本丸上台所


★明治期の撮影
天守は五重五階、地下一階の層塔型天守。高さにおいては江戸城天守や大坂城天守には及ばなかったものの、延べ床面積においては両天守よりはるかに広く(姫路城天守の二倍以上)、最大級の天守である。小天守は二重二階、地下一階で天守と橋台で結ばれている。小天守の手前の建物は上台所、その左側に見える屋根は幕倉、数寄櫓。右端に僅かに見える石垣は東一の門(櫓門)である。上台所の屋根に煙り出しが見える。明治中期以降は見られなくなり後に切妻屋根に替わる。




【御深井丸西北隅櫓】
★昭和期の撮影
清洲城の小天守を移築したと伝わる櫓。三重三階の櫓で隅櫓では城内最大の規模を誇る。
現存櫓ですが、今回も見ることができませんでした(>_<)
これからちょくちょく名古屋を訪れることになるので、次回の宿題とさせていただきますヽ(^o^)丿



※参考資料、、、(★印)「古写真で見る幕末の城」山川出版社、、、写真と説明文

【名古屋城】
《徳川氏が西を睨んで築いた東海の巨城》

名称(別名);なごやじょう(金鯱城、金鱗城、金城、鶴が城、亀尾城、柳が城、揚柳城)
所在地;名古屋市中区本丸1-1
城地種類;平城
築城年代;慶長15年(1610)
築城者;徳川家康
主な城主;徳川氏
文化財区分;国指定特別史跡、国指定名勝、重要文化財
近年の主な復元等;2019年本丸御殿の復元工事完了
天守の現状、形態;層塔型、五重七階地下1階鉄筋コンクリート造り(再建)
地図;


※出典、、、日本100名城

【御城印】


販売場所:本丸内売店2か所にて

大阪城@大阪市 2023年4月1日

2023-04-27 06:19:01 | 城歩き
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第4回車中泊お城めぐりの旅@京都大阪編の記事は→こちら

巨城を実感させる広大な堀と壮大な石垣
大阪城(明治以降は大坂城)は、水運の便に恵まれた上町台地に豊臣秀吉が天下取りの拠点にすべく、天正11年(1583)に築城を開始。これが豊臣大坂城である。天正13年(1585)には五重八階、黑漆塗りの下見板と金箔瓦、金の飾り金具を付けた豪華な望楼型天守を完成させ、これによって秀吉は天下人の威厳を欲しいままに示した。しかし慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、豊臣大坂城は天守もろとも炎上してしまった。その後、豊臣秀忠は徳川への政権交代を天下に知らしめるために、豊臣大坂城の縄張りの上に盛り土をし、石垣を新たに積み直して城を築いた。そして秀吉の天守を上回る規模で白漆喰総塗籠の徳川大坂城天守が寛永3年(1626)に完成した。しかしこの天守も寛文5年(1665)に焼失。以来昭和6年(1931)に復興されるまで天守は存在しなかった。この大坂城天守の外観は豊臣大坂城の天守の復元を目指したもの。
なお戦後の調査の結果、天守台は徳川大坂城のもので、豊臣時代の天守台は地中に埋もれていることがわかった。(日本100名城 公式ガイドブックより)


場所は大阪市中央区大阪城1-1
大阪府庁の目の前で
南には阪神高速13号東大阪線・森之宮ICがあるという、大阪のど真ん中。

車中泊した大阪府羽曳野市にある道の駅「しらとりの郷羽曳野」は夜間トイレ・洗面所が使えないというハプニング。調査が不十分でした💦
早朝の移動を決行し、高速道路を30分ほど走って、お城の見えるコインパーキングで夜明けを待つことにしました。



東の空が白み始めるころ、コインパーキングから徒歩で出発。
まず最初に向かったのは
大坂城の南約1.5Km先にある、真田丸の抜け穴で知られる「三光神社」。



大坂城外堀の西側を南下、
先ず見えてきたのが
重要文化財「乾櫓」


そして「千貫櫓」


「千貫櫓」と「大手門」



重要文化財「六番櫓」



ここで日の出を迎えました。
櫓がシルエットになり素晴らしい光景でした。



ここからは外堀を外れ、
上町筋を通って長堀通りまで進み、玉造筋手前で南に折れると宰相山公園の一画に「三光神社」があります。



この辺りに「真田丸」が築かれていたと言われており、付近には「真田山公園」とか「真田山小学校」などの地名が残ります。
三光神社にはその「真田丸の抜け穴」と伝わる穴の出口があっって、今なお熱心なファンが巡礼に訪れているそうです。




拝殿の真田幸村


NHK大河のさいの盛り上がりを感じます。




「真田山」周辺には真田幸村にまつわる伝承も多く、明星学園の近くには「真田丸顕彰碑」が建立されています。





この辺りで時刻は7時となりましたので、大坂城に戻ることにしました。
ちなみ真田山横を走る国道308号線は、大坂城惣構の南側にある東西空堀の跡で、西から東に傾斜しています。また交差する玉造筋は大坂城の方向から南に向かって傾斜しており、この交差点辺りがちょうど谷が交差する一番低い場所のようです。本丸の辺りから比べると15mほど低くなっています。


八尾町筋を北上し、中央大通りから大阪城公園に入りました。
噴水広場を抜け内堀沿いに「青屋門」まで行き、「極楽橋」を渡るといよいよ本丸です。
本丸周辺の案内図です。(大坂城パンフレットより)



ヤマップ行動履歴より







東外堀
玉造口から入らなかったため一番櫓を見逃しております💦


東外堀の外側は桜並木となっており、満開を迎えた桜の下では早朝から場所取りするグループでいっぱいでした。




青屋門から外堀を渡りました。
青屋門枡形・石垣


「青屋門」



極楽橋から本丸へ





極楽橋枡形


巨大な鏡石と天守


秀頼公と淀君主演の地・石碑


山里口出枡形


天守台石垣(爆撃跡??)



本丸から天守閣(南面)
明治以降陸軍要地として使われていたが、昭和6年市民の熱意によって現在の天守が復興され、平成9年には国の登録有形文化財になった。
豊臣期の天守は推定で約40mの高さ。徳川時代の天守の約70m東、やや北寄りに位置していた。
徳川秀忠の号令で天下普請が始まり、豊臣期本丸地盤・石垣を地中に埋め(地盛して)その上に徳川本丸地盤・天守台石垣・天守閣を築いた。
現在周辺では発掘調査が進み、地下から豊臣期の石垣の一部が発掘されています。
また、豊臣大坂城の石垣公開に向け、現在工事が進められています。



重要文化財の「金蔵」



桜門枡形より天守


桜門石垣より空堀


桜門枡形の巨大な鏡石


空堀に架かる橋と
重要文化財「桜門」


二の丸にある「豊国神社」と太閤さん






重要文化財「六番櫓」(城内より)




重要文化財「多聞櫓・続櫓」(城内より)


狭間




大手門(城内より)


重要文化財「大手門(櫓門)」


「大手枡形虎口 大門と多聞櫓」
枡形に鋼鉄製の大門を備える渡櫓、南に折れてのびる続櫓から成る多聞櫓はほかにもあったが、現存しているのはここだけ。
寛永5年(1628)頃創建、落雷焼失ののち嘉永元年(1848)再建、昭和44年(1969)解体修理。





重要文化財「千貫櫓」
西外堀から
大手門を北から防御する重要な役割を果たした二層の隅櫓。元和6年(1620)創建。
石山本願寺を攻めあぐねた信長が、この辺りにあった櫓を「千貫出しても奪いたい」といったことに由来するという。



重要文化財「千貫櫓・大手門・多聞櫓」
西堀に架かる土橋から


大手高麗門


同城内より





デザイン性を感じる石積み




トイレも



天守閣虎の意匠は見事

天守閣入場口

最上階のショップ

天守閣からの眺望
本丸南方向


西の丸方向



帰路
極楽橋から内掘り沿いに「京橋口」方向に進みました。
内堀遊覧船乗り場付近から豊臣幟旗と天守北面



内堀と天守北西面 


内堀と天守西面



北仕切り門



枡形虎口



巨大な鏡石




当日の行程
ヤマップより
活動時間 5:30-9:56、4時間26分
移動距離 6.8km
高低差  4m-33m 



【大阪城】
《豊臣と徳川が築いた天下人の大城郭》

名称(別名);おおさかじょう 錦城、金城
所在地;大阪市中央区大阪城1-1
城地種類;平城
築城年代;天正11年(1583)、元和6年(1620)
築城者;豊臣秀吉、徳川幕府
主な城主;豊臣氏、松平氏、徳川氏
文化財区分;国指定特別史跡、重要文化財
近年の主な復元等;平成7~9年に天守閣改修
天守の現状、形態;望楼型、五重八階 鉄筋コンクリート造り

※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;



【御城印】


配布場所;大阪城天守閣内1Fミュージアムショップ
webページは→こちら



飯盛城@大阪府大東市他 2023年3月31日

2023-04-23 06:24:15 | 城歩き
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第4回車中泊お城めぐりの旅@京都大阪編の記事は→こちら

飯盛城跡は大東市、四条畷市にまたがる飯盛山の山頂に築かれており、城域は東西約400m、南北約700mを測ります。永禄3年(1560)天下人・三好長慶が居城としました。そして当時の日本の中心であった京都と五畿内を支配する三好政権の拠点や文化交流の場となりました、城は南エリアと北エリアに分かれており、北エリアは防御空間、南エリアは居住空間であったと考えられています。
発掘調査などの結果から、飯盛城は織田信長によって完成される高石垣や天守を備えた「織豊系城郭」に先行して、石垣・礎石建物・瓦の3つの要素を取り入れた城であることが明らかになりました。城を破却した痕跡が認められないことから、城跡は、飯盛城が城郭としての機能を失う永禄12年(1569)頃の姿を留めていると考えられます。、、、飯盛城パンフレットより

場所は大阪府大東市大字北条、大阪府四条畷市大字南野
阪奈自動車道と国道163号線(学研都市連絡道路)を繋ぐ山岳スカイラインのような県道701号線から、山中に分け入った場所にあります。周辺には大阪桐蔭高校野球部のグラウンドや大阪産業大学の第9グラウンドがあります。
目標にする場所としては
キャンピィだいとう 大東市野外活動センター】webページは→こちら
大阪府大東市龍間1846(電話072-874-5165) 
が分かり易いです。



「キャンピィだいとう」の川向にある「飯盛城跡駐車場」はアスファルトで舗装され、フェンスまで備えた立派な駐車場です。
駐車場から城域までは12分、距離にして約700m、比高約40mです。




当日の行程を縄張り図で示します。(同パンフレットより)


南北の尾根上に主要な郭があり、東にのびる三つの支尾根と西にのびる二つの支尾根に曲輪群を配した広大な山城です。
駐車場からハイキングコースを進むと「楠公寺」に至ります。ここは城域の「Ⅹ郭(馬場)」があった場所です。
ここまで車で来ることができそうですが、境内は関係者以外駐車禁止となっています。
また、境内には公設のトイレが完備され、パンフレットも置いてあるのでありがたいです。


境内左手の墓地の中を抜けて山頂に向かうと「Ⅷ郭(千畳敷郭)」や「Ⅸ郭(南丸)」に至るようですが、自分はハイキングコースを進みました。
しばらくすると、「曲輪群B」と「主郭」の分岐にあたる大きな曲がり角がありましたが、さらに主郭のある頂上を目指しました。



いよいよ南北に走る尾根上の分岐に到達です。
この分岐から一旦南方向に向かいました。

大きな堀切


NHKやFMの送信所が建っているのが「Ⅷ郭(千畳敷郭)です。


南方向に傾斜する尾根を階段状に削平して築いた広い郭です。



その先さらに下って行くと「Ⅸ郭(南丸)」があります。
ここが城域の最南端で、虎口を守備する役割があったと思われます。周囲は空堀や竪堀で強固な守りとなっています。


「Ⅸ郭(南丸)」の虎口土塁と石垣
虎口の左右に土塁を設け、それぞれの法面に石を積んだ跡です。三角形や円形の大きな石が特徴です。




ここで先ほどの分岐まで戻り、尾根上の北側にある主郭を目指します。

分岐から「Ⅸ郭(南丸)」に至るには土橋を通らなければなりません。
尾根の左右を堀切によって通路を狭めて、一気に攻め込まれないようにしています。


土橋を渡り、急な丘を登った先が「Ⅸ郭(南丸)」です。


「Ⅸ郭(南丸)」に建つ城址碑と小楠公銅像



北側に接しているのが「Ⅱ郭(本郭)」です。
現在展望台休憩場が建設されています。


主郭から東にのびる支尾根上に築かれているのが「曲輪群B」
西にのびる支尾根上に築かれているのが「曲輪群A」です。

主郭東側の斜面には数か所に石垣が残っています。
ハイキングコースから見れるものもありますが、多くはそこから外れた斜面上にあり、足場が悪く滑落の危険が伴います。


階段状に曲輪が連なり、その斜面に石垣が築かれていたようです。


階段状の曲輪の法面に築かれた石垣は、麓から見上げると一帯になって一面の石垣のように見えたと考えられています。


堀切




「Ⅲ郭」から「Ⅳ郭(三本松丸)」を経て「Ⅴ郭(御体塚郭)」に至る。


その周辺にも多数の石垣が残っています。


こちらは「Ⅴ郭(御体塚郭)」の北東斜面に築かれた石垣です。権現川沿いの登城道からの視覚効果を狙ったものと考えられています。











「Ⅵ郭」


Ⅵ郭は最北端の曲輪で「飯盛山史跡碑」が建っています。


ここからの眺望はすばらしく、北東から南西方向が一望できます。



近年発掘調査が進むにつれ新たな石垣群の発見が相次ぎ、戦国時代末期では珍しい本格的な石垣を多用する山城であったことがわかってきました。
石垣が築かれているのは北エリアの東側に集中しています。これは登城道から見える位置に石垣を築くことで、城主の威光を示したと考えられています。
石垣の特徴は自然石を垂直に近い勾配で積んだ野面積みです。石垣は勾配が垂直に近くなるほど高く積むのが難しくなります。そのため1段目の石垣を積んだ後に犬走状の平坦面を設け、さらに2弾目を積む段築状石垣として、高く見せる工夫がされています。また、延長の長い石垣では崩れるのを防ぐため隅角部(出隅)が構築されています。(石垣の塁線を外側に曲げて造られた凸部分の角)


自分のルールでは、遠征先での山城入山を13時までとしていましたが、快晴に恵まれたこともあって夕方近くの時間帯での登城を強行してしまいました。
道迷いすれば日没となり、遭難する危険が高い行為です。
本来の計画では翌日に「大阪城」と「飯盛城」を訪れるハズだったのですが、初日の行程に余裕ができて、もう一つぐらいいけるやろ!と強行した訳です。
下山時間を気にしながらだったため、支尾根などを端折ってしまい、せっかくの機会を有効に活用できなかったことが悔やまれます。
今後の反省点として活かしていきたいと思います。
ヤマップ行動履歴
S15:43-G16:50 所要時間1:22
距離3.0Km
高低189m



【飯盛城】
《信長に先立つ天下人三好長慶の居城》

名称(別名);いいもりじょう 飯盛山城、河内飯盛城
所在地;大阪府大東市大字北条、大阪府四条畷市大字南野
城地種類;山城
標高/比高;314m/210m(駐車場からの比高51m)
築城年代;享禄年間(1528~32)、永禄3年(1560)
廃城年代; 天正4年(1576年)
築城者;木沢長政、三好長慶
主な改修者;木沢長政、三好長慶
主な城主;木沢氏、安見氏、三好氏
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;曲輪、石垣、虎口、堀、土橋、土塁、切岸
近年の主な復元等;


※出典、、、続日本100名城
地図;



【御城印】


配布先;前述のキャンピィだいとうwebページは→こちら
もしくは、大東市歴史民俗資料館(大東市野崎三丁目6番1号)webページは→こちら



勝竜寺城@京都府長岡京市 2023年3月31日

2023-04-17 09:52:40 | 城歩き
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勝竜寺城は、元亀2年(1571)に、織田信長の命を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を、当時最先端の城郭に大きく造り替えたものです。
土を切り盛りして造った、それまでの中世城舘とは一線を画し、「瓦葺き」「石垣」「天主」といった、その後の城郭の標準となる諸要素が取り入れられています。信長の安土城築城よりも5年も早く、近世城郭の先駆けともいえるものです。
天正6年(1578)信長の意向による、藤孝の嫡子忠興と明智光秀の娘玉(ガラシャ)の婚礼がこの城で執り行われたほか、連歌会や能・囲碁・乱舞が催されたり茶陶の出土が確認されており、文化的交流の場であったことも分かっています。、、、勝竜寺公園パンフレットより

現在は勝竜寺城公園として整備され、櫓を模した管理棟が建っています。
また周囲には水堀や門・城壁が復元されています。

石垣や枡形虎口も残っており、転用石として石垣に使われた石仏・五輪塔なども見ることができます。


南側堀に面した門と、櫓を模した公園管理棟


内堀に囲まれた南東隅


北東隅櫓


同、城内より


北門跡枡形虎口と出土した石仏・五輪塔などの転用石



天主跡と考えられている西面土塁南端から見た大手門方向
南から侵入する敵に対して横矢掛かりとなっています。


西面土塁




細川忠興とガラシャの像



櫓を模した公園管理棟


管理棟内部は1階が休憩所、2回が資料館となっています。



西側に広がる公園は桜が満開で、親子連れでにぎわっていました。


この公園は沼田丸という曲輪があったところです。
細川藤孝の正室・麝香の実家である若狭熊川城主沼田氏にちなんだものと考えられています。熊川城の記事は→こちら



勝竜寺城の合戦
恵解山古墳に本陣を置いた明智光秀は、背後の天王寺山に布陣した羽柴(豊臣)秀吉軍に敗れ、一旦勝竜寺城に逃げ込みますが夜半に北門から脱出し、居城(坂本城)を目指す途中で落ち武者狩りに遭い命を落としたと言われています。



【勝竜寺城】
《織田信長の城造りの理想を現わした京都防衛の要》

名称(別名);しょうりゅうじじょう(小竜寺城)
所在地;京都府長岡京市勝竜寺13-1
城地種類;平城
築城年代;室町時代か延元4年/暦応2年(1339年)
築城者;細川頼春か
主な城主;細川氏、永井氏他
文化財区分;未指定
近年の主な復元等;模擬櫓、管理棟(模擬天主)
天守の現状、形態;梯郭式平城  御主
主な遺構;土塁、空堀、石垣、土橋、虎口
※出典、、、
地図;



【御城印】


京阪・長岡京市駅前の「長岡京市観光案内所」で取り扱っています。
住所;〒617-0824 京都府長岡京市天神1丁目1−2
地図;


丹波亀山城@京都府亀岡市 2023年3月31日

2023-04-16 06:00:55 | 城歩き
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織田信長の命で丹波攻略のために明智光秀が築城した亀山城は、くしくも主君織田信長を討つために出陣した城でもある。
亀山の地(現京都府亀岡市)が京都と山陰・中国地方を結ぶうえで、軍事・政治・経済面から見て要衝の地であることに着目し、山城をやめ平地に城郭を構えた先進性はさすがです。

関ヶ原で勝利した徳川家康は、大阪城を拠点とする反徳川勢力と西国への睨みを効かせるため、亀山城の天下普請を築城の名手藤堂高虎に縄張させた。
このとき高虎は、移封先の伊賀上野城で使用する予定の旧領・今治城の天守資材を家康に献上し、層塔型五重の天守を完成させた。

江戸時代初頭には丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の間違いによって、伊勢国(三重県亀山市)亀山城天守を取り壊されたという話は有名です。→こちら

江戸時代になると譜代大名の形原松平家が治め明治維新を迎える。
明治新政府による廃城令と土地・城郭の払い下げにより解体破却の運命をたどり、石垣の一部は京都鉄道の嵯峨・亀岡間のレールの枕石に転用されたといわれています。

大正期になって転売された城址を宗教法人が取得。この際教祖が土中に埋まっていた石垣の石材を掘り出し、往時の姿に再現した。
昭和期には戦前の特高による宗教弾圧の結果、宗教施設はもとより石垣に至るまで破壊された。終戦後教祖は再び城址一帯を整備し、石垣も積み直された。

現在城址一帯には教団施設が建築され、内堀の周囲には天下普請で築かれた石垣の石材を使って積み直された石垣が往時を偲ばせています。
また、城址見学については教団の拝観許可が必要で、「みろく開館」一階の受付で拝観料300円を支払います。
御城印もこの受付で購入することができます。またロビーの一角には亀山城の資料コーナーが設けられ、ビデオ鑑賞やパンフレットを持ち帰ることができます。

明治5年に撮影された亀山城本丸南面、右端に杉櫓が建つ
(写真で見る幕末の城より)



亀山城古絵図


同城下町(模型)


いずれも亀岡市文化資料館にて展示。


宗教法人大本(おほもと)みろく会館


同会館ロビー内の資料コーナー


苑内案内図


苑内には往時の風情が残る一画もあります。
二の丸あたり?


内堀周辺


本丸周辺は教団施設があるため関係者以外の立ち入りは禁止されています。




石垣が積み直された一画
ここは風情があって飽きません




内堀に面した石垣角石部



発掘された石材には、天下普請で献納された「刻印」が残り、矢穴も確認できます。








現地説明板より




【亀山城(丹波国)】
《織田信長の命を受け明智光秀が丹波攻略の拠点とした城》

名称(別名);かめやまじょう(亀宝城、亀岡城、霞城)
所在地;京都府亀岡市荒塚町内丸1-1(現宗教法人大本私有地)
城地種類;平山城
標高/比高;
築城年代;1578年
廃城年代;1877年
築城者;明智光秀
主な改修者;岡部長盛
主な城主;明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部氏
文化財区分;指定なし
主な遺構;石垣、堀
近年の主な復元等;所有者(出口氏)による石垣積み直し


※出典、、、
地図;



【亀岡市文化資料館】
〒621-0815京都府亀岡市古世町中内坪1
webページは→こちら


【御城印】
大本(おほもと)「みろく開館」1階受付



二条城@京都市 2023年3月31日

2023-04-12 18:11:53 | 城歩き
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自宅を午前3時過ぎに出発、目的の駐車場【タイムズ聚楽廻】に到着したのが午前7時30分頃。
こちらはJR山陰本線嵯峨野線の高架下にあるコインパーキングで、二条城西側外堀までは10分ほどの距離にある静かな場所です。



駐車場到着後暫くは本日の予定をナビに入力するなどの段取りを整え、開門1時間前に出発。
住宅街を抜け外堀西門辺りから外堀沿いに、西面→北面→東面と半周し、東大手門から入城待ちの行列に接続。
まずは大休憩所にて御城印をゲット。
二の丸御殿から二の丸庭園を経て本丸内堀を半周。
東橋・本丸櫓門から本丸内に入り、本丸庭園・本丸御殿跡・天守閣址を散策し、西橋から残り内堀を半周して大休憩所へ。
帰路は東大手門から外堀沿いに、往路と反対側の南側を通ってコインパーキングに戻りました。


当日の行程をヤマップで示します。
所用時間2時間22分、歩行距離5.8kmの活動でした。



二条城平面図
(二条城パンフレット 城内マップより)





外堀西側
北から南方向


外堀「西門」
橋は取り払われています。


外堀北西隅


刻印石
「山」と「□」の刻印
松平隠岐守、松平山城守が普請した際の刻印と考えられているそうです。


外堀北面の折れ
二条城拡張の北側境目


外堀北面にある「北大手門」


外堀側


城内より


外堀東側


外堀東側「東大手門」


東大手門正面


「東南隅櫓」


外堀南側「南門」
橋は破却されたようです。


外堀南面の折れ
二条城拡張の南側境目


「西南隅櫓」




入場券の販売・開門待ちの行列





定刻8時45分開門
東大手門より入城







順路から外れ、「番所」から「大休憩所」に向かう




目的は御城印



順路に戻り
「唐門」から「二の丸御殿」に向かう







御殿内はご存知、大政奉還の場面
絢爛豪華な襖絵や欄間を堪能し二の丸庭園へ



本丸内堀をぐるっと一周する
「桃山門」



内堀に架かる「東橋」と「本丸櫓門」


北から南方向


南から北方向


内堀南西隅から天守台



「南中仕切り門」




巨大な丁番金具




内堀に架かる東橋を渡り本丸櫓門から本丸へ


枡形



石垣内側には階段が設けられ、どこからでも石垣土塁上に登ることができ、敵を迎え撃つことができる。


土塁最上部から内堀を挟んで東橋二の丸方向


同「鳴子門」方向



本丸西南隅にある「天守閣跡」


天守台石垣


天守閣跡は現在展望休憩所となっています。


天守台より「西橋」


内堀に架かる「西橋」


「西橋・枡形虎口」



西橋から出たところにある「旧二条城石垣」
織田信長が室町幕府15代将軍・足利義昭のために造営したという、旧二条城の石垣が移築されています。



内堀沿いに北上し北面にある「北中仕切り門」


土塁


同清流園側より



解説(日本100名城 公式ガイドブックより)
二条城は、徳川家康が慶長6年(1601)京都における儀礼施設として築城に着手し、同8年(1603)には、ここで征夷大将軍拝賀の儀式を行っている。この時の城は、現在の二の丸に相当する場所にあった。その後改築が行われ、三代家光の時、御水尾天皇行幸を迎えるため本丸御殿と五重の天守がつくられ、今日の規模となった。しかし天守は寛延3年(1750)落雷で焼失。二の丸御殿が徳川幕府の繁栄を伝えるが、本丸御殿は市中の火災による類焼で失われたため、その場所に明治27年(1984)京都御苑内の旧桂の宮が移築されている。平成6年には「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録された。


【二条城】
《天皇の行幸を仰いだ絢爛豪華な京における徳川の城》

名称(別名);にじょうじょう
所在地;京都市中京区二条通り堀川西入二条城町541
城地種類;平城
築城年代;慶長8年(1603)、寛永3年(1626)
築城者;徳川家康、徳川家光
主な城主;徳川氏
文化財区分;国指定史跡、国指定名勝、国宝、重要文化財、世界文化遺産
近年の主な復元等;平成23?25年度、二の丸御殿唐門本格修理
天守の現状、形態;天守台のみ残る

※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;



【御城印】
城内大休憩所・売店


第4回車中泊お城めぐりの旅@京都大阪編 2023年3月31日~4月1日

2023-04-09 06:21:59 | ネイチャー・旅行・まつり
前回のエントリーは→こちら


手元にある企画書は「京都・大阪の城巡り」と「小田原城と静岡の山城巡り」の二本。
天候次第で出発前日にどちらかに決めようと思っていました。

二週間前にえいやっ!で取得した有休日は3月31日金曜日。つまり金土日の三連休(^^)/
あとは天候次第。

3月31日~4月1日は全国的に、曇りから晴天の予報。
ならば満開の桜を背景に、映える天守や御殿の写真を撮りに行こう~♪


自宅を午前3時に出て、向かった先は
京都・二条城 記事は→こちら
丹波亀山城跡 記事は→こちら
長岡京市・勝竜寺城 記事は→こちら

初日行程図



本来のスケジュールでは一日目はここで終了し、道の駅で車中泊して翌日に備えるというものでしたが、
勝竜城を後にしたのが14時30分と中途半端な時間。

ならば翌日に予定していた「飯盛城」を攻めようと大阪府大東市に向かいました。
最初に歴民で資料と御城印をゲットし、飯盛山を降りたのが16時45分。山歩きではギリギリの時間でしたがなんとか無事下山。
飯盛城の記事は→こちら

そして今夜の宿(笑)
道の駅しらとりの郷羽曳野



到着したのが18時30分、案の定施設は閉店
そんなこともあろうかと、道中のコンビニで食料を調達しておいて正解でした。
隣接の駐車場と丘の上のBQ広場はすでに進入禁止。



向側にある駐車場が唯一解放されていて、深夜には満車となっていました



想定外だったのはトイレまでも閉鎖されたこと!
そりゃないでしょ( ゚Д゚)


宿泊モード完了


楽しみにしていた「地のもの」はありません😿
コンビニセット+持参の角瓶(骨董品級のハーフサイズボトル)



よく寝ましたヽ(^o^)丿
4時に目覚めて、渋滞に巻き込まれないうちに大阪城へ移動することにしました。

お城が見えるコインパーキング
【タイムズ大阪城京橋口】
大阪市豊島区片町1-5



5時30分過ぎ、空が明るくなったので行動開始です。



大阪城西外堀沿いに南下し、真田丸があったと言われる三光神社まで行ってきました。


それから再び本丸を目指し北上し、南外堀・東外堀を散策。
本丸・天守と4時間余り滞在。
前日に大東市の飯盛城を攻めておいたので、この日は大阪城に絞ってゆっくり堪能することができました。

大阪城の記事は→こちら(準備中)

晴天に恵まれ、二日間にわたり桜とお城のコラボを満喫することができ、最高のお城めぐりとなりました♪
それにしても外国人観光客の多かったことに驚きです。

二日目行程図
詳細


3月31日03:00出発-4月1日16:30帰宅
全行程;794Km
使用燃料;69.7L





道の駅しらとりの郷羽曳野

webページは→こちら
住所:大阪府羽曳野市埴生野975-3
地図: