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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

砕導山城@福井県大飯郡高浜町宮崎 令和四年(2022)3月16日

2022-03-27 10:07:58 | 城歩き
お城検索は→こちら


砕導山城跡(さいちやまじょうせき)は、佐伎治神社(さきちじんじゃ)のすぐ脇から、背後の山全体に遺構が続いており、砕導山砦軍と呼ばれるほど大きな山城跡です。城の規模は若狭国内最大ですが、基本的に曲輪、切岸、堀切を多用した、極めて原始的な山城です。「佐伎治宮曲輪」「愛宕宮曲輪」「妙見宮曲輪」そこから南北に伸びた尾根先の頂上部にある「千丈ヶ嶽曲輪」さらにそこから北東に伸びた尾根にある「天王山曲輪」で構成されています。兵士の見張り所や建物の構築に使われた曲輪や土橋などの保存状態も良く、ロープ伝いで進む部分も楽しめます。そこを到達した頂上からは、高浜の町並みや、美しい海岸線、青葉山を一望できます。砕導山城保存会パンフレットより

砕導山城は450年以上前、若狭守護武田氏の重臣で高浜を治めていた逸見昌経が築いたとされる。逸見氏は永正14年~永禄9年(1507-1517)ごろにかけて、武田氏に対してたびたび反乱を起こしており、山城はその拠点として要塞化していったとみられる。永禄4年(1561)に起こした乱では領民や軍勢8000人を収容するため拡張したと伝えられているが、越前守護朝倉・武田連合軍との合戦で落城した。その後海辺に高浜城ができてからはあまり使われなくなり、天正9年(1581)の昌経死後、砕導山城は放棄されたとみられる。


場所は福井県大飯郡高浜町宮崎
国道27号線「道の駅シーサイド高浜」から3.2kmにある、「JR小浜線若狭高浜駅」手前の「宮崎交差点」を左折、踏切を渡り直進すると突当りに「佐伎治神社」がある。
城跡はこの神社の裏山一帯に広がっています。



車は神社の駐車場に停めさせてもらえます。
境内の休憩所にはパンフレット等が置いてあり、本殿では御城印の無人販売がされていました。



登山の安全と良い出会いを祈念して参拝させていただきました。



なお昨年(2021年5月)発足した「砕導山城跡保存会」の会長を、この佐伎治神社の宮司さんが務めておられ、登山の行と帰りにお話を聞かせて頂きました。
とても気さくな方で、『海の観光資源に目が行きがちな高浜町にあって、故郷に埋もれた山城の歴史を発掘し、多くの町民に知ってもらいたい』と話す。また山の整備については個人の力では及ばないところは企業にお願いしたり、中学校の学習の一環として探索してもらい、若い世代に関心を持ってもらう取り組みも始めているそうです。
砕導山城跡保存会のwebページは→こちら

宮司さんのHP→こちら




駐車場に車を停めると右手の方向に案内看板があるので、そちらから登ってしまいそうになりますが、慌てないでください(笑)
そちらは「降り口」です。
「佐伎治宮曲輪」方面へ行くことができますが九十九折れの急な上り坂が続くので体力を消耗してしまうでしょう。



「登り口」は本殿左手にあります。



暫くすると山に向かって登りとなります。こちらには案内板が設置してあります。




ここで当日の行程をイラストマップで示します。
砕導山城跡保存会発行パンフレットより(ブログ管理者加筆)




登り口からは北に開けた谷の山腹を進みますが、この冬の大雪で倒木が多くシーズン開幕に向け整備が待たれる状況でした。先ほどお会いした保存会会長である宮司さんは、昼から登って現状を確認するとの事でした。倒木の伐採片付け、登山道の整備など地道な活動に頭が下がる思いです。
皆さんのおかげで道に迷う事もなく、安全・安心の城歩きができるのですね。



尾根に到達すると左右に道が分かれています。
左手は「天王山曲輪」方向、右手は「千丈ヶ嶽曲輪」の分岐です。



先ずは「天王山曲輪」を目指すことにします。

天王山曲輪入り口の案内看板



天王山曲輪


西方向


東方向



西方向の先端部に行ってみましたが、半島状に突き出た斜面に小さな平坦地が階段状に築かれています。
斜面をほぼ垂直に削り取って、削平面積を最大に活かすような構造です。



今度は東方向に行ってみましたが、尾根は北東方向に伸びています。



途中に土塁のような土饅頭があったり、



尾根は北東方向に緩やかに下っています。
尾根のピークに天王山曲輪があるという感じです。



尾根の途中に広い削平地があったりします。



緩やかな坂道に平坦な削平地を築くため、壁面の斜面をほぼ垂直に削って階段状に整地しています。



堀切のようなくぼ地



この一画だけ石が多数転がっていました。石垣でも無いようだし、礎石でもないみたいです。
しかし、人為的な痕跡が感じられます。



北東尾根先端
ようやく先端に達しました。先端は急な崖でその下は国道27号線でしょうか?



ここから一旦戻り、北東尾根付け根から東に突き出て二俣に分かれた尾根に向かいます。



こちらも尾根を垂直に切り崩して削平し、階段状に並んでいる状態です。



東尾根先端
やはり眼下に道路が見えます。



二俣に分かれた尾根に戻る途中で気が付いた瓦の破片



この削平地一帯に散らばっており、寺院建築の痕でしょうか?



二俣の分岐から南側の尾根



こちらも階段状に削平されています。
下りの尾根の先端までずっとこのような構造が続いているものと思われます。



棚田のような階段状の削平地が無数に連なっていますが、土塁や堀などの城郭施設は見当たりませんでした。
途中2か所で寺院跡のような遺構が見受けられましたが、何時の時代のものか知る由もありません。


次に向かうのは中央の尾根に位置する「千丈ヶ嶽曲輪」
先ほどの分岐からのスタートですが、東側の尾根を約1時間かけて回ってきて勘定になります。



分岐から鉄塔の建つ尾根への登りが続きます。
途中で「この階段を降りないでください。見学ルートではありません」の看板が目を惹きます。
この階段を降りた方向に南尾根と、さらに独立した尾根が存在し、階段状の削平地が築かれているようです。



順路は右の登り階段。



鉄塔の先に順路は続く



馬の背を過ぎると



尾根を断ち切る大堀切が現れます。
見事なV字型をした堀切で、深さは7~8mもあります。



途中2か所に浅い堀切を施し





4番目の大堀切
こちらは尾根の高所側なので切り込みも深くなっています。
攻め手は簡単にはよじ登れないでしょうね。



千丈ヶ嶽曲輪の北郭
主郭のある最高所から北東に位置する細長い曲輪



北郭の南面に築かれた土塁



北郭から見た主郭台地
このままロープを使って直登も可能です。



主郭がある最高所台地の斜面を垂直に近いまで削り、敵がよじ登れないようにした防御施設「切岸」
これが東面から南面にかけてぐるっと加工されています。



切岸の斜面に何ヶ所も直登する「ロープ」が保存会の手により設置されています。
10mほどの崖をロープを頼りによじ登って行く。皮手袋は山城歩きの必須アイテムですね。



何ヶ所にも結び付けられたロープはフィールドアスレチックか、何かの訓練施設のようでもあります(笑)
忍者か(爆)



東郭
主郭南東斜面に広がる階段状曲輪群の先には大堀切があるそうですが、傾斜がきついので上からの見学のみとしました。




主郭南側直下の段郭
藪に包まれ整備されていない感じです。



そこから主郭へよじ登りました。
千丈ヶ嶽曲輪の主郭



主郭削平地
下草も刈られ、美しく整備されています。ほぼ20m三角形をした曲輪です。




主郭北西側にある降り口
ここにはロープが数本取り付けてあり、それにつかまって降りていくしかありませんが、メッチャ急斜面です。長いです。
自分は不覚にもリュックに入れていたペットボトルを落としてしまい、この急斜面をもんどりうって転がり落ちていく姿が忘れられません。結局回収不能となりましたが、不法投棄ではありませんのでご容赦願いたいと思います。また発見された方は、わざわざ送り返して頂かなくても結構ですのでよろしくお願いします(;^ω^)




主郭から降りるといきなり空堀や竪堀が連続して築かれています。







更に土橋で敵の侵入速度と量を抑制している。



こうしてみてくると、「千丈ヶ嶽曲輪」がもっとも城郭としての防御が厳重だったことがわかります。しかも凄く保存状態が良いことも特色です。
主郭が三方向の峰の中心の最高所にあって、それぞれ三方向の峰の尾根を巨大な堀切で切断し敵の侵入を防ぎ、特に「砕導山山上本郭群」方向の北西尾根に対しては土橋や竪堀群を施し防御しているのが特徴です。



北西尾根の馬の背を通って「砕導山山上本郭群」へ進みます。



「砕導山山上本郭群」分岐
現在の名称は仮称ですとパンフレットにあります。
南西に位置する「妙見宮曲輪」が(主郭)、中央の「愛宕宮曲輪」が(二の丸)、北東にある「忠魂碑曲輪」が(三の丸)にあたります。



「妙見宮曲輪」(主郭)への登り道は曲がりくねっており、周囲には段郭が並ぶ



鳥居に続く石段
周囲にも段郭が見受けられます。



「妙見宮曲輪」(主郭)
使われなくなった山城の平坦地に神社を建立したものと思われます。



「砕導山山上本郭群」最高所からは若狭湾が一望できる絶景の地です








「愛宕宮曲輪」(二の丸)



土塁か



こちらからの眺望も素晴らしい







「忠魂碑曲輪」(三の丸)
二の丸方向から



虎口方向から



段郭群



段郭群の端にあたる「佐伎治宮」



段郭の一つにしか見えないが
北東部の峰端に広がる一帯が「佐伎治宮曲輪」なのか?



その後は遊歩道降り口の向かって、九十九折れの急で長い坂が続く。
帰路で良かった。登山早々でこの坂を登ったら、後半バテて気力が失せますね(;^ω^)



降り口の鳥居



駐車場から見た降り口
所用時間2時間半のコースでした。お疲れさまでした。




まとめ
砕導山城は大きく三つの区画に分かれています。
「天王山曲輪」を中心とした東側尾根
「千丈ヶ嶽曲輪」を中心とした中央(南)尾根
「砕導山山上本郭群」がある西側尾根
土の城郭遺構が最もよく残るのが「千丈ヶ嶽曲輪」です。
「砕導山山上本郭群」は各曲輪間の連絡が良く遮断されていないので、連郭式の城郭遺構でしょうか?
そして山腹や尾根には棚田や段々畑のように築かれた削平地が無数にあって、周辺には未踏の峰がいくつもあります。8千人もの領民や将兵を収容したそうですが、その一つ一つに一戸建ての住まいがあったのでしょうか???
巨大な都市のようでもあり、山腹のスラムともいえるのかもしれません。それだけの人数だと食料や水はどうしたんでしょうね?想像するだけで興味は尽きません。

今後も地元に愛され親しまれるよう、保存会の活動を応援したいと思います。




【砕導山城】
《さいちやまじょう》

名称(別名);
所在地;福井県大飯郡高浜町宮崎
城地種類;山城
標高/比高;143m/140m
築城年代;永生4年~14年頃(1507-1517)
廃城年代;永禄4年
築城者;逸見氏
主な改修者;
主な城主;逸見氏(逸見昌経)
文化財区分;
主な遺構;曲輪・堀切・土塁・切岸・竪堀・土橋
近年の主な復元等;案内看板・ロープの設置
         妙見宮・愛宕宮・佐伎治宮が建立されている

※出典、、、
地図;


土山城@滋賀県甲賀市土山町北土山 令和四年(2022)3月13日

2022-03-24 11:44:18 | 城歩き
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土山城跡は、東海道土山宿の北方にあり、北から平野部に突き出た尾根の先端に位置する。
『甲賀郡志』によれば、文明年間)1469-1487)に土山鹿之助盛忠が築城し、天正年間(1573-1592)に滝川一益によって城が落とされたと伝承されている。
城の構造は、城内の最高所に土塁で四周を囲まれた方形の曲輪Ⅰ(主郭)が存在し、周囲には横堀を巡らしている。
曲輪Ⅰ南側に虎口を設け、その外側には角馬出状の虎口空間Ⅱが存在する。その先の尾根は二つに分かれ、それぞれの尾根上に曲輪Ⅲと曲輪Ⅳが配置され、曲輪Ⅳの先端には角馬出を意識した虎口空間Ⅴが存在する。
角馬出状の虎口は、近江の中でも完成度が高く、天正期に改修が行われていることを示すものであり、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いに際して、羽柴秀吉が東海方面に移動する際の宿所として整備された可能性が指摘されている。甲賀市教育委員会、、、(現地案内板より)


場所は滋賀県甲賀市土山町北土山字鬚屋敷
国道1号線と県道9号線が交差する「土山支所交差点」を、県道9号線「あいの丘文化公園」方面へ左折。1つ目の信号「トラバースロード」を右折。そこから約350m先にある「わらく公園」の交差点を左折します。



その先の3差路に城址入り口があります。石碑や案内板があるので目立ちますが、民家の路地から進入するので車は入れません。



道を尋ねた近所の方から、車は集会場に停めるよう教えていただきました。
「集会所」は、交差点からわらく公園方向に10mほど戻ったところです。



麓の太陽光発電ソーラーパネルのところから城址全景



城址碑脇の登城口



民家脇を通り「見学コース」の立札
この侵入コースは曲輪Ⅳの南端堀切を利用しているようです。



現地案内板



見学コースで城域に入り、まず目にするのは「曲輪Ⅴ 角馬出状虎口空間」の看板。



いきなり虎口の中に放り込まれ、全体の様子が掴めず、その周囲の土塁と堀に圧倒されるばかり。



とりあえず主郭まで行って全体の構造を把握しなければと思い、「曲輪Ⅴ 角馬出状虎口空間」から堀切を渡り、左手の「曲輪Ⅲ」へ移動しました。



曲輪Ⅲを北に向かって歩き始めましたが、自分の動いている方向は城を攻撃する攻め手と同じです。
往路は城攻めの足軽の気分です(笑)

馬出を突破し、平坦な曲輪を攻め進んでいきます。
するとどうでしょう、突然目の前に小山が出現、迂回しようと回り込むと今度は深い空堀の連続。



山と谷がそこら中に出現して、どちらに進めばよいか分からなくなって、



そのうち主郭土塁上や馬出土塁上から狙い撃ちされてしまいます。



何とか生き残った足軽は堀から土橋に這い上がります。



この土橋を渡りきると目指す本丸です。




今度は復路です。
「主郭Ⅰ」から「馬出Ⅱ」を通って、副郭の「曲輪Ⅲ」、「曲輪Ⅳ」、そして二番目の「馬出Ⅴ」から見学コースを通って帰路となります。
各曲輪と周辺の土塁や堀を、構造を確かめながら縄張り図で説明します。
中井先生作図 近江の山城を歩く「土山城」より (ブログ管理者加筆)




「主郭」(曲輪Ⅰ)
ここには現地説明板が設置してあります。

主郭は一辺が約50mの方形で四周には土塁が築かれ、その外周には横堀が巡らされている。
甲賀郡にはこうした単郭方形で周囲を高い土塁で囲む城舘が広く分布しており、甲賀21家、甲賀53家と呼ばれる同盟関係の画一的様式は「同名中」の考え方に由来すると考えられています。






主郭北側虎口



北側虎口から大手道
二重堀切と奥に池が広がる



北側虎口から主郭内側



西面土塁上から主郭内側



南面土塁虎口
主郭内側より馬出方向



虎口東側土塁
馬出側より



虎口西側土塁
馬出側、堀底より






「角馬出Ⅱ」

主郭虎口から土橋を渡り馬出郭へ
一辺約20mの凸型で周囲には土塁と横堀が設けられている。



馬出東側堀
土橋より



堀底より土橋



馬出西側堀
土橋より




堀底より土橋




堀底より西方向



馬出土橋を渡った先には武者隠しのような一辺約20mの削平地とそれを取り囲む土塁、中央部には虎口(開口部)がある。
開口部が左右ではなく正面ではあるが「角馬出」と考えられているそうです。






「曲輪Ⅳ」

主郭馬出の右手(西側)に広がる削平地



馬出方向に掘られた横堀



西面には土塁が築かれ、南側には削平地が広がる





「曲輪Ⅲ」
曲輪Ⅳから見た曲輪Ⅲ
間には少し低い平坦地があって両方の曲輪の堀的役割があるのかもしれない



曲輪Ⅲの削平地は長方形で一直線に馬出に繋がっている。



曲輪Ⅲの東面には土塁が築かれ、その外周には堀が巡らされている。





南側「曲輪Ⅴ 角馬出状虎口空間」

見学コースから最初に目にする景色は
曲輪Ⅲの尾根南端を切断した堀切
この右手(南方向)が馬出虎口となっている、左手(北方向)は曲輪Ⅲ




馬出虎口全体像
曲輪Ⅲ土塁上から俯瞰
これは一種の「枡形虎口」であり、尾根のとっかかりとなるこの場所に防衛力のある虎口が必要だったのだろうと考えられているそうです。



コの字に取り囲んだ土塁は堀切を土橋で繋ぎ、南側の削平地へと繋がる



土橋
南側の削平地から北側馬出方向



同堀切




土山城の特色は、甲賀型の方形単郭構造に加え「馬出」や「枡形虎口」という戦国時代後半の発達した防御施設を供えている点で、これは甲賀の土豪によって築かれたのではなく中央権力によって改修された可能性が極めて高いと中井先生は結ぶ。






この土橋を渡った南側には尾根上を削平した曲輪のような平坦地が伸びていますが、現地案内板や縄張り図でも取り上げられていないので正体不明です???



ちなみに南端は藪に包まれ、10mほどの急斜面で下には民家が建っています。










【土山城】
《つちやまじょう》

名称(別名);
所在地;滋賀県甲賀市土山町北土山字鬚屋敷
城地種類;山城
標高/比高;300m/40m
築城年代;文明年間
廃城年代;天正年間滝川一益によって滅亡
築城者;土山盛忠
主な改修者;天正12年秀吉本陣として廃城の土山城を改修
主な城主;土山氏
文化財区分;
主な遺構;曲輪・堀・土塁・虎口・馬出
近年の主な復元等;案内板


※出典、、、
地図;

星ヶ埼城@滋賀県蒲生郡竜王町鏡 令和四年(2022)3月13日

2022-03-22 11:52:41 | 城歩き
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星ヶ埼城跡は鏡山から派生する丘陵先端尾根頂上部に位置し、長さ約35m、高さ約1~2mで3~5段の石垣と、反対側に少しの石垣が尾根の南西部上に残っています。周囲の地形状況から、この石垣が残っているところは、城の「主郭」部分にあたり規模は現状から、幅約20m×縦約35mと推測されています。竜王町教育委員会、、、現地案内板よりより

星ヶ埼城(星ヶ峯城)の具体的な記録はほとんど存在していない。ただ、竜王町側の山麓部には、六角氏の一族とされる鏡氏が存在したことから、その山城ではないかとする説も存在する。

場所は滋賀県蒲生郡竜王町鏡
名神高速竜王ICから国道8号線に出て(横関交差点)を京都方面へ左折、約1km先左手に「道の駅竜王かがみの里」の看板が見えます。



車は道の駅に停めさせてもらい、帰りにお土産でも買いましょう。車は奥の方に停めたほうが近いです。



城址への登山道入り口は、道の駅向かい側にある民家の一番左端にあります。
害獣侵入防止柵が張り巡らされており、この民家脇のゲートから入ると突当りにもう一つゲートがあります。
どちらもカギはかかっておらず、誰でも自由に出入りできますが、出入りした際は必ず元通りに施錠しておきましょう。



御堂の脇から奥に向かって直進、屋根付き石灯篭の右手から山の上に向かって遊歩道が整備されています。



遊歩道には随所に看板が設置してあるので、それに従って緩い勾配を登るだけ。



途中石切り場でしょうか、矢穴の開いた石をみつけモチベーションが上がるヽ(^o^)丿



ここで縄張り図にて当日の行程を説明します。
福永先生作図、近江の山城を歩く「星ヶ埼城」より転載(ブログ管理者加筆)



【北側削平地】(図面Ⅰ)
遊歩道は北側にある細長い削平地(図面Ⅰ)の西面に取り付く。


北端からの眺望
足元に「道の駅竜王かがみの里」が見えます。
その先は「旧中山道」
星ヶ埼城は中山道を見下ろす要衝の地だったのです。



城址石碑
その先は主郭




石垣は主郭(図面Ⅱ)の南西辺にハッキリと見ることができます。

南西辺石垣には北西隅石と南西隅石が現存し、南側の南東隅石も現存している。さらに東面には石の崩落の痕跡がある事から、主郭(図面Ⅱ)は石垣で囲まれていたものと考えられています。


【南西面石垣】(図面A)
構築された距離が36m、残存する高さが最も高いところで1.6mあります。

北面



北西隅石
直角に屈折し、2m程の長さで北西辺を形成しています。



北西側崩壊落石



崩壊ヶ所
縦40~60cm程度、横60~100cm程度の自然石を、築石の間隔に間詰石を使用し、平らな面を表面に据えて全体の面取りを丁寧に行いながら、一層ずつ積み上げる「整層積み」がなされています



中央部崩壊



中央部から南西部





【南東辺石垣】
南西隅石



南西隅から南東面



まるで鏡石のような巨大な一枚岩
長辺は180cmくらいある


周辺の敷石も巨大でこちらは露出している表面で150cmほど
最初はこちらが虎口かと思った





【北東辺石垣】(図面B)
南東隅石



同南東隅石



北東面石垣崩落跡



【集配石遺構】
主郭東面




【北東面石切り場跡?】










【古相の石垣】(図面E)







【鏡山山頂分岐】



【南西尾根】
最高所


南西尾根



南西尾根石垣?




発達した技術で石垣が構築されている一方、この城には堀切や土塁と言った敵の侵入を遮断する施設がない。周辺に寺院を象徴する地名が残っている点から寺院の施設の一つという見方もある。
ただ、鏡山を経由した尾根続きに存在する小堤城山城も発達した技術で石垣を多用しており、中山道監視の補完として築城されて可能性も考えられるそうです。




【星ヶ埼城】
《ほしがさきじょう》

名称(別名);星ヶ峰城
所在地;滋賀県蒲生郡竜王町鏡1231-2(道の駅竜王かがみの里)
城地種類;山城
標高/比高;226m/120m
築城年代;15世紀末~16世紀前半
廃城年代;
築城者;鏡氏?
主な改修者;
主な城主;
文化財区分;
主な遺構;石垣・堀切
近年の主な復元等;


※出典、、、
地図;


森寺城・遺構編@富山県氷見市 令和四年(2022)3月12日

2022-03-19 11:28:14 | 城歩き
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富山城郭カードは→こちら

前回の訪問は→こちら


2022年2月26日、積雪の山城を訪ねて「松根城」から「森寺城」へやって来ましたが、どちらも林道の残雪がハンパなく城域に立ち入ることすらできませんでした。
2021年の北陸豪雪と変わらない量の雪が降った今年は、山城巡りのスタートがなかなか切れないでモヤモヤしています。



あれから2週間、ようやく気温も上昇し雪解けが進んだようなので出かけてみました。
前回立ち往生した辺りは工事中だった為除雪されていなかったようです。



林道の雪が解けて進むことができましたが、、、
日陰の部分にはまだ残雪があります。



日陰の部分では40㎝位の湿った雪が残り、ジムニーでも対角線スタックを起して登ることができません。
でも日向の部分では雪が解けているので、装備しているスコップで轍の部分を除雪して進路を確保。



林道上の倒木の枝を装備しているのこぎりで切り払いながら前進、なんとか「森寺城跡駐車場」に到着。



駐車場から城跡入り口
案内看板と熊注意の立札
直進は搦手口、城戸口方面
左手は主郭方面



全長1,300mにも及ぶ城域を北から南に貫いている「城戸道」
木立に覆われているせいか、林道とは打って変わって雪がありません。
2月26日時点でも、もしかしたら雪が無かったのかもしれませんね。



2020年4月に訪問した際は曲輪を中心に歩きやすいルートでの見学だったので、今回は「堀」や「土塁」に絞って藪に分け入ることにしました。

森寺城跡マップ
現地案内板より



当日の行程を縄張り図に表しました。
佐伯先生著、越中中世城郭図面集Ⅲより(ブログ管理者加筆)




先ずは「搦手口」
城戸道を意図的にクランクさせ、敵の侵入速度と量を抑制する防御施設。



搦手口の土塁
喰い違いの土塁で強制的に道を曲げ、土塁上から通行を監視していたのでしょうね。
ここには城門が設けてあったと考えられています。


土塁とセットで設けてある堀切
当時は今より1m以上深かったことが発掘調査で分かりました。




「喰違虎口」
これと同じ防御施設が駐車場付近の「寺崎屋敷」曲輪向かいにも有ります。(図面F)

堀切(図面⑫)
尾根を切断しています。



こちらは主郭に近く城戸道を意図的にクランクさせ、敵の侵入速度と量を抑制し、両側に櫓台を配置し防衛力を強化しています。



喰い違い土塁



堀切(図面⑬)



二重に設けられた堀切(図面⑭)



城戸道から二の丸への登り口(現在の順路)
右手主郭方向
左手は城戸道を見下ろす高台となっており、(図面F)の喰違虎口を警備する櫓台があったと考えられています。(図面 I )



城戸道から二の丸への登り口(現在の順路)
右手の石垣に興奮して、ここが大手かと思ってしまいます。主郭西面の石垣破城の痕跡でしょうか。



「主郭」(図面A)
東方向から見た主郭
右手は二の丸
左手は本丸


御殿の茶井(ゴテンノチャイ) 井戸(図面①)
直径約7m 北陸の山城では破格の大きさと先生は表現しています。



「本丸」(図面③)
東面石垣


同北面石垣



「主郭虎口構造」
佐伯先生著、越中中世城郭図面集Ⅲより(ブログ管理者加筆)



主郭虎口と大手
主郭から見下ろした構図で、左手が櫓台(図面④)



同、下から見上げた構図(図面②)



大手階段の石垣と櫓台(図面⓹)



大手道、通称「石敷き通路」(図面⑦)
権力の誇示が目的だったのか
道は直角に折れ、登り階段に向かう(図面②)
写真左手には「広場」(図面⑥)があり、虎口の警備兵が駐屯していたと考えられています。



城戸道から主郭虎口に至る大手道分岐には中門があったとされる。(図面⑯)




「主郭周辺の防御」

主郭東面の斜面に施された切岸
下は帯曲輪のように移動ができる



堀切(図面⑮)
日当たりが良く藪が茂っているのでわかりにくいが、この時期が一番の見ごろかも知れません。
かなり大きな堀が主郭の直下に掘られています。



同南東隅堀切(図面⑨)



そこからぐるっと南側に回り込む帯曲輪状削平地
ここは日陰のせいか、未だ残雪に覆われています。
主郭大手へと続いています




ここで城戸道に戻り、氷見方面へ南進します。
途中高級家臣団の住居が立ち並んでいたという「本町」(図面C)、「サイダ(家臣斉田氏)屋敷」(図面J)を通り過ぎ、
左手にある「カンジャ屋敷」の方向に立ち入ってみます。



目的はその先にある「金戸山(通称カナドヤマ)曲輪」です(図面B)
この周辺は藪が茂り、曲輪の削平面も荒れたままなので立ち入りを推奨していないことは、案内看板が無いことでもわかりますね。


以下の防御施設は確信がありません。
もしかしたら、もっと崖下の先に本来の防御施設があるのかもしれません。

金戸山堀切?


金戸山畝状空堀群?


金戸山切岸?




物見台(図面K)
城戸道と直接ぶつかる場所で最前線基地ともいえる。



踏段堂(フンダンドウ)
ここで城戸道は屈折し、物見台からの攻撃を受ける仕組み。



踏段堂の武者隠し的「横堀」




「野崎屋敷」(図面D)
物見台から西に位置し、分岐には標識があります。




現在の見学ルートは南西斜面に沿って谷を左に見て進む。
この辺りに二重の竪堀があるハズなんですが、よくわかりませんでした。(図面㉔)




野崎屋敷下西側に広がる帯曲輪状削平地
その北側尾根上には「サイダ屋敷」(図面C)
がある。



独立性が高く明確な虎口や通路は設けられていないそうです。
現在の見学コースに設けられている階段は虎口ではないのか~??



野崎屋敷曲輪



同土塁



井戸
主郭の井戸に比べ一回り小さいが、かなりの深さがあって現在も水を湛えていそうです。
この曲輪に専用の井戸があるとは、居住性抜群の立地ですね。



野崎屋敷大堀切(図面㉑)
曲輪がある山の南側の端っこを、真っ二つに断ち切ったような広大な堀切
堀底から曲輪削平地までの高さも10m位あって凄い!







堀切の西端は二重の竪堀へと続く(図面㉓)





更にその西側の崖下に向かって「畝状空堀群」(図面㉒)で防御を固めています。




佐伯先生はまとめとして
16世紀初めころ、能登畠山氏の越中における拠点として築城
天正4~7年、上杉氏の持ち城として使用
天正6~7年、上杉氏によって防御ラインが構築?
天正9年頃、織田政権によって石敷き通路や主郭虎口・石垣が構築される
天正9年に、織田政権によって防衛ラインが構築される?
天正13年まで佐々成政が使用するが、特段の改修なし
天正13年佐々成政降伏後まもなく廃城

※防衛ラインとは
幾つかの時代に分けて、別々の政権が別々の意図をもって、改修したのではないかと先生は指摘されています。



山城は本当に奥が深いですね。
鉄塔工事や放送施設の建設で破壊された山城もたくさんあると思いますが、開発から免れたことにより400年から500年も前の遺構がそのまま残っていることに驚きです。しかも城は時代の変遷で築城技術が進化し、機能をみればどの時代の?誰の影響によるものか?まで分かるのですから。そしてお城は幾代にもわたって敵も味方もなく(時の為政者によって)改修され使用されてきました。そういう連綿とした歴史を感じることができるのも楽しみの一つです。




【森寺城】
《もりでらじょう》


名称(別名);湯山城
所在地;富山県氷見市森寺
城地種類;山城
標高/比高;167.2m/150m
築城年代;16世紀中頃
廃城年代;天正13年?
築城者;能登畠山氏
主な改修者;佐々成政
主な城主;畠山氏・上杉氏・佐々成政
文化財区分;氷見市指定史跡
主な遺構;曲輪・切岸・土塁・堀切・竪堀・横堀・畝状空堀群・石垣
近年の主な復元等;


※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
地図;






辻ヶ堂城@富山市水橋辻ヶ堂 令和四年(2022)3月5日

2022-03-15 05:35:02 | 城歩き
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越後の上杉勢が織田勢を攻めた天正9年(1581)の「小出城の戦い」では
小出城こちら
の他
「弓庄城」こちら
と共に
この辻ヶ堂城も攻められました。
辻ヶ堂城を守った牛丸氏の軍功が、佐々成政により織田信長宛に報告されているそうです。


場所は富山市水橋辻ヶ堂、市立水橋西部小学校一帯と推測されています。


市立水橋西部小学校校舎


グラウンド



グラウンド背後にある公園
なんとなく当時の城域の端のような雰囲気w



グラウンド横の雑木林
住宅街の一画にポツンと点在する雑木林がいわくありげですw


小学校周辺、白岩川
白岩川は水運の要衝の地だったのです



玉永寺
小出城でも紹介した五輪塔が奉納されている「小出玉永寺」とは、本願寺が東西に分派した際に分かれて一方がこの地に移ったとされています。
越中守護代神保氏の庇護を受けてから、佐々氏・前田氏などからも厚く保護されたそうです。



小学校から南西に400m程離れた常願寺川右岸に建設された水橋浄化センター付近には、奈良から平安時代に都と地方を結ぶ古代の主要道が通り、そこには越中八駅の一つ「水橋駅」(古代の役所)があったと推測されています。


この様に古来から白岩川河口周辺には、役所や城など重要な施設が置かれました。人・物の流れ、陸上と海上の交通の戦略的拠点だったのですね。


※参考資料;とやまお城探検隊(北日本新聞)、富山県教育委員会発掘調査報告書

【辻ヶ堂城】
目標物;富山市立水橋西部小学校
目標住所;〒939-3515 富山県富山市水橋辻ヶ堂1919−2
地図;


水橋金広・中馬場遺跡@富山市水橋 令和四年(2022)3月5日

2022-03-14 04:52:40 | 城歩き
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若王子塚古墳、水橋金広・中馬場遺跡
この古墳は、白岩川中流右岸にある県内最大級の円墳(直径46m)です。墳裾から頂上までの高さは6mあります。古墳周溝から古墳時代前期の土師器が出土しました。
 西方40mには宮塚古墳があります。白岩川流域には、竹内天神堂古墳(舟橋村)や清水堂古墳(富山市)、稚児塚古墳(立山町)などが築かれ、新川平野の耕作開発に貢献した有力者が古墳を築造したと考えられています。
 古墳の南側には、鎌倉時代から江戸時代前期の大集落「水橋金広・中馬場遺跡」が広がっています。方形に区画した屋敷地内には、掘立柱建物や土坑、井戸を配し、陶磁器や漆器などの木製品が見つかりました。安土桃山時代の土坑からは、国内初の完全な厚板状双六盤が出土しました。
 約200基も見つかった井戸のうち、江戸時代前期の井戸の水溜めには農具の木摺臼が転用されていました。臼の側面には漁具の「ヤス」などが刻線され、白岩川での豊漁を祈願したと考えられます。遺跡には中世には城舘、江戸時代前期には、川魚漁や新田開発によるコメ作りを行う集落へと変化したと考えられます。富山県教育委員会、、、(現地案内板より)


場所は富山市水橋中馬場
国道8号線(滑川富山バイパス)と県道15号線が交差する「北馬場」交差点を南に50mほと行くと「中馬場」交差点があり、そこを右折(富山市方向)すると「若王子塚古墳」と「宮塚古墳」が並んで見えてくる。




両者の真ん中を北に向け県道が建設されることになり発掘調査の結果、8号線をアンダーパスする道路とその周辺が館跡であることがわかりました。



国道8号線より両古墳と県道アンダーパス



発掘調査風景
(富山市教育委員会、調査報告書より引用)



安土桃山時代の土坑からは、国内初の完全な厚板状双六盤が出土しました。



遺跡がある「中馬場」の地名の由来は細川會十郎(越中五大将の一人で室町幕府管領細川氏の一族、松倉城主椎名氏に属しており、舟橋村の仏生寺城主)が白岩川対岸のこの地に馬場をつくったことによるとされています。また、その家臣の金平氏が開墾を行ったことから「金平」の地名となったそうです。

この地は富山県の平野で唯一の古墳群が築かれ、奈良時代から室町時代にかけ荘園や将軍御料所が営まれ、白岩川の水運と領地管理の館が築かれていたそうです。
安土桃山時代の遺物の発見や、戦国期の織田・上杉両軍が激突する最前線の地であったことから、この遺跡から発掘された館の主が誰だったのか?今後の調査が待たれるところです。



※参考資料;とやまお城探検隊(北日本新聞)、富山県教育委員会発掘調査報告書


【水橋金広・中馬場遺跡】
目標物;若王子塚古墳
目標住所;〒939-0566 富山県富山市水橋中馬場115
地図;

小出城跡@富山市水橋 令和四年(2022)3月5日

2022-03-12 08:27:22 | 城歩き
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この城跡は富山市水橋小出地内の小出神社周辺にあったと伝えられています。天正9年(1581)織田方の佐々成政勢と上杉勢が争った「小出城の戦い」では、織田方の前線基地となりました。
平成15~17年度の発掘調査によって、小出神社から北へ約150mのところで堀が見つかりました。堀は幅約5~13m、深さ約0.5~1.8mで、折れ曲がったり、分岐したりしていました。堀からは、かわらけ・珠洲・越前・瀬戸美濃・青磁などの陶磁器類や、漆器・曲げ物・下駄などの木製品、五輪塔・硯などの石製品、鋤先・銅銭などの金属製品が出土しました。また、戦に使用したとみられる腰刀や長刀の柄、火縄銃の弾丸、軍馬とみられる馬の骨、火を受けた陶磁器も出土しました。これらは16世紀後半のもので小出城が神社の北方にあった事を示しています。
中略
小出城がこの地に築かれたのは、金剛寺などを含めた中世居館が既に存在していたからと推定されています。
この付近は、小出川や新橋川など三方を河川で囲まれており、戦国期に軍事の拠点となったのみならず、生活の場や水運、交通の要となる場所であったようです。
新川橋に架かる唐人橋は、天文14年に入城した唐人兵庫にちなんだものと伝えられています。富山県教育委員会、、、(現地案内板より)


場所は富山市水橋小出
国道8号線(滑川富山バイパス)と県道15号線(立山水橋線)が交差する「北馬場」交差点を北上。県道149号線との交差点から50mほど手前に「小出神社」参道があります。



県道15号線からは左折して【小出神社】境内に向かいます。



車はここに停め、神社周辺を散策します。
境内に小出城の現地案内板が設置してあります。



小出神社が城域の南西角にあたり、東側は県道15号線に面し、新橋川手前の「大通寺」が北西角という、方形の城域だったようです。

城域西側(奥は小出神社)


西方向より城域全景(右手が小出神社)


城域東側を平行に走る県道15号線と、北側を流れる新橋川(唐人橋)


城域北西角にある「大通寺」





この四角の城域の真ん中あたりを突き抜ける県道149号線沿いから「堀の跡」が発掘調査により明らかになりました。


発掘調査が行われた場所
現在は埋め戻されています。



発掘当時の写真(富山市教育委員会・発掘調査報告書より引用)


出土品(同上)





【玉永寺五輪塔】
「小出城の戦い」では多くの将兵と共に、周辺の集落からかりだされ亡くなった百姓衆を祀ったと思われる五輪塔が、各村から奉納されています。



玉永寺参道は県道15号線に面して、小出神社参道と民家を挟んで並んでいます。



城域の南を流れる「小出川(白岩川支流)」より
左手が小出神社、右手が玉永寺



神通川右岸の「白岩川」を挟んだ、強者どもが夢の跡。。。しかし犠牲になった地元の百姓も少なくなかったのですね。。。


※参考資料;とやまお城探検隊(北日本新聞)、富山県教育委員会発掘調査報告書

【小出城】
《こいでじょう》

名称(別名);
所在地;富山市水橋小出70
城地種類;平城
築城年代;天文14年(1545)ころ
築城者;唐人兵庫(かろうど ひょうご)
主な城主;唐人氏、揖斐庄(弓庄)助五郎、上杉氏、佐々成政(織田氏)、土肥氏、青山氏(前田利長)
廃城;慶長20年閏(1615年)
文化財区分;指定なし
近年の主な復元等;1996~2005年の発掘調査で堀の跡が発見されるも、現在は埋め戻されています
天守の現状、形態;天守構造なし


地図;


鶯野城跡@富山市水橋 令和四年(2022)3月5日

2022-03-11 09:52:01 | 城歩き
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新川郡を治めていた椎名氏と、射水・婦負郡の守護代神保氏は、白岩川を挟んでにらみ合いが続く緊張状態にありました。かつては神通川左岸までが神保氏の勢力範囲とされていましたが、この鶯野城跡が発見されたことにより、神保氏の勢力が神通川を越え白岩川左岸まで支配に置いていたことが判明しました。
後に上杉景勝と織田信長の勢力がこの地で激突、佐々成政の越中初勝利となりましたが、目と鼻の先にある「小出城」は小出城の戦いの舞台となりました。


場所は富山市水橋三郷、市立三郷小学校から南に下がった国道8号線の付近の水田にあります。



北側からの全景



南側からの全景
城の痕跡を示す絵図もある事がわかり鶯野城跡の場所が特定されました。



土塁西面
2004年6月発見された長さ100mの土塁跡や堀の跡



土塁北側より南方向
小さな側溝はかつての堀か?
この先には小出城がある



※参考資料;とやまお城探検隊(北日本新聞)、富山県教育委員会発掘調査報告書

【鶯野城跡】
目標施設;富山市立三郷小学校
目標施設住所;〒939-3554 富山県富山市水橋小路345
地図;


小西北遺跡@富山市小西 令和四年(2022)3月5日

2022-03-10 10:52:51 | 城歩き
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毎朝楽しみにしている地元紙掲載の「とやまお城探検」ですが、いよいよ佳境を迎えつつあるようです。
石垣や堀、土でできた土塁などの、いわゆる目に見えるお城の遺構の紹介が終わり、
2月2日の第205回「沖塚原東B遺跡」(射水市)以降は、
地上からは目にできない埋蔵遺跡や、発掘調査によって分かってきた新たな事実などが紹介されています。

山城と違って場所が特定しやすく、曲輪や堀などの遺構が地中に埋まっているため、「発掘跡」を訪ねるのみなので時間は遥かに短縮できます。
しかし事前に資料を読み込まないと、形の無いものを想像するのは凄く難しいです。

今回は僅かな晴れ間を縫って、富山市水橋地区を中心に5か所の遺跡を駆け巡ってきました。下調べがほとんどできていないので薄っぺらな内容ですが、久しぶりのお城歩きは新たな発見と出会いを与えてくれました。


【小西北遺跡】
場所は富山市小西、富山市民球場のすぐ近く、



国道8号線から富山県運転教育センターへ向かう途中にある「アルペンハイツ(老健施設)」の建物・駐車場周辺です。
(写真は富山市教育委員会発掘調査報告書より引用)



平成5年5月同施設の建設工事計画に伴う発掘調査によって、古墳時代前期から平安・室町時代の溝や穴、土器や木製品が出土しました。
井戸跡からは多数の箸と共に、越中守護代神保氏の家紋「三巴紋」が付いた漆器が発見されました。
(同上)



また、中世土坑からは櫛などの日用品や子供用と思われる小さな下駄も出土しています。


神保氏は富山県西部に主力を置く守護代でしたが、常願寺川を渡った東側にも勢力を拡大していたのでしょうか。

山城からは海の方向にかなり離れた平地であり、
この辺り一帯に神保氏の館があり、この場所もその候補の一つという事ですが、出土品からは海運と街道の要衝を押さえた立地に建つ平穏な日常が垣間見えるようです。

南東方向からの全景



北西方向からの全景





※参考資料;とやまお城探検隊(北日本新聞)、富山県教育委員会発掘調査報告書

【小西北遺跡】
目標施設;社会福祉法人アルペン会「老健施設」
目標施設住所;〒931-8435 富山県富山市小西170
地図;



沖塚原東B遺跡@富山県射水市 令和四年(2022)2月27日

2022-03-01 05:50:15 | 城歩き
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昨年かな、いや一昨年くらいから、新湊の8号線脇、「射水市斎場」建設現場の向かい側で発掘調査が行われていたのを記憶していた。
工業団地の造成に伴う発掘調査なんだろうなと思って気にはしていた。

それが令和四年(2022)2月2日付けの北日本新聞掲載「とやまお城探検」で『沖塚原東B遺跡』として紹介された。
城跡だったんだ。
いや、そうではなく
13世紀後半から14世紀にかけた有力者の館跡だったようである。

湊を管理する守護所として「放生津城」が築かれ「沖塚原東B遺跡」は神樂川によって放生津城と結ばれており、何らかの関係があるものと考えられているそうです。
今年度の発掘調査の結果、館跡を巡る溝から木簡が出土し、邪気を払う呪文が書かれていたそうです。

放生津城の記事は→こちら


◆場所は富山県射水市沖塚原
国道8号線バイパス「鏡の宮」立体交差点の一つ高岡よりの「朴木口」交差点から、小杉方面に向かい200m程のところです。
昨年完成した「射水市斎場」の向かいにあたります。




◆沖塚原東B遺跡
現在は一旦埋め戻されています。
周囲は工業団地の造営で工事が進められています。



◆射水市斎場
道を挟んだ向かい側には射水市斎場が建設されました。
敷地規模も沖塚原東B遺跡に匹敵するくらいの広さがあり、何と言っても斎場を取り囲んでいる土の壁がどう見ても「土塁」に思えてしょうがない(笑)
広い駐車場と奥まったところに人目を遮るように建てられた施設は、往時の居館を彷彿とさせ興味深いです。




◆妄想
ワタシには現在に蘇った、土塁に囲まれた守護代の居館に見えてきたのでした(笑)




【沖塚原東B遺跡】
目標物;射水市斎場
目標物住所;富山県射水市沖塚原128
地図;