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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

広瀬城@富山県南砺市 令和三年(2021)11月20日

2021-11-30 08:28:08 | 城歩き
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広瀬城址
平安初期(794~894)の頃より広瀬郷の山麓一帯は、医王山系の山岳密教修験者が多く訪れ、その拠点(宿坊)となったのが柿谷寺(廃寺・現舘地区神明社辺り)であったといわれる。鎌倉時代に入り、地頭職の藤原氏によって砦が築かれ、加藤右衛門左、上田作兵衛、山口新左衛門、清水将監らの地元郷士によって山城として構築されたとある。
その後、越中国を治めた佐々成政が、天正年間(1573~1591)に加賀の前田利家と戦うための国境の基地として修築された。
頂上(340m)の平坦面は2アールくらいあり、見張りを兼ねた物見櫓があったとされる。刃のような細い包丁峰、土塁や堀切、段差を設けた曲輪など自然を利用した戦国期の山城としての遺構が確認されている。また、向かいの西山には成政が槍で突いて湧き出たと伝えられる水源地があり、現在は上水道に利用され、地元「成政酒造」のお酒はこの水で醸造されている。福光地域公民館連合会、、、現地案内板より



場所は富山県南砺市福光町舘
①先ずナビを真宗大谷派本敬寺(富山県南砺市祖谷510)にセットし、そこから「医王山登山口」に向かいます。




②医王山登山口の三差路突当りを右折



③林道を進み、右手に作業場が見えたら、



その先約800mで城址案内看板が左手にあります。そこが城址登城口です。



④車は登城口手前100m位にある三差路脇に停めるのが良いでしょう。




道案内の看板などはなく、日当たりの良い斜面は下草が茂っています。


曲がったり登ったりが続きます。


足元ばかりに気を取られ、ふと見上げるとヤツがいました💦
カモシカとの遭遇
過去最高に近い距離です。じっと睨み合いが続きました。
いっこうに立ち去る気配が無いので、携帯していた「笛」をピッ!ピッ!ピッ!ピッ~!と何度も警告の意味で吹き鳴らしましたが、何の効果もありませんでした💦
5分ほど(2~3分だったかも知れませんが、とにかく長く感じた)経つとカモシカは山の上に向かって去って行きました💦




ここからは佐伯先生著、越中中世城郭地図Ⅲにて行程を説明します。(ブログ管理者加筆)



尾根を登ったところで大きな堀切にぶち当たりました。多分図面の「E」郭だと思いますが確証はありません(;^ω^)
片側は谷まで延び竪堀へと繋がっているようにも見えます。
堀の中の谷部を通って上段の曲輪を目指します。



その次に現れたのは、山の斜面に彫り込まれた堀


これは竪堀ですね



1本目の竪堀に途中でもう1本の竪堀がYの字に枝分かれしています。


登りきったところは虎口のようです。




A郭の櫓台
こんもりと土を盛り上げた跡があります。



C郭削平地、北側



C郭西側の土塁




A(主)郭下の帯曲輪
階段状になった平坦面、上段の主郭を取り囲むように下段に平坦地が設けられている。



A(主)郭虎口


最上段にある見張り台



主郭から南側の「B」郭へ行くには細い馬の背とも言うべき尾根を通らなくてはならない。
その尾根を断ち切る堀切が三重に施されている。



堀切を過ぎると一つ目の馬の背
ここは難なく突破



最後の難関
『刃のような細い包丁峰』と案内板に書いてあった場所です。
馬の背どころではなく、馬のたてがみみたいな急斜面。左右は深い谷に断崖絶壁!
足場は岩と粘土質の土で滑りやすく、踏ん張りがききません。
ムリです💦(;^_^A アセアセ・・・
また掴まるところは低い草ぐらいしかなく、とても登れません。いや例え登り切ったとしても、帰り降りてくることができないと判断し、3m位登ったところで諦めて途中断念しました😿



ほぼ山頂からの眺望







下山して成政酒造へ
『向かいの西山には成政が槍で突いて湧き出たと伝えられる水源地があり、現在は上水道に利用され、地元「成政酒造」のお酒はこの水で醸造されている。』と案内板にあった「成政酒造」です。


ナント!「前田利家」の空瓶発見!
特大「成政」の4.5Lサイズでしょうか?
最高のツーショットが撮れましたヽ(^o^)丿


成政酒造


本宅でしょうか?
二階の離れが飛び出していますね(@_@)
贅を尽くした造りです


花と紅葉と旧家



どうしても「清酒成政」が欲しくて、近所の酒屋さんを探しました。



趣きのある店内で
清酒成政一升瓶2100円購入


お正月は成政に思いを馳せて、開栓したいと思います♪



【広瀬城】
《ひろせじょう》



名称(別名);
所在地;富山県南砺市福光町舘
城地種類;山城
標高/比高;350m/210m
築城年代;16世紀
廃城年代;16世紀後半
築城者;加藤右衛門佐他
主な改修者;
主な城主;加藤氏
文化財区分;
主な遺構;曲輪、切岸、土塁、竪堀、堀切、横堀、畝状空堀群
近年の主な復元等;


※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
地図;






桑山城@富山県南砺市 令和三年(2021)11月20日

2021-11-28 04:56:34 | 城歩き
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富山城郭カードは→こちら


桑山城跡
桑山は旧福光町中心部から北西2.5Kmにそびえる山である。麓に近い西勝寺城よりも100m以上高い山であり、その特徴的な山容で南砺市内の平野部からも良く望むことができる。「闘争記」によると、文明13年(1481)山田川で福満城主石黒右近光義並びに医王山惣海寺の衆徒が井波瑞泉寺の一向衆徒と戦ったという。この時、以前石黒分家として桑山城を預かっていた坊坂四郎左衛門が加賀勢と一味して医王山を焼き払い、石黒氏の居城であった福満城にも火を放った。この結果、石黒勢は総崩れになって滅んだと伝わる。
当時桑山城は石黒氏の支配の一つだったとみられるが、現在残る遺構は戦国期の形態を留めている。城は、頂部南側にある火宮社と堀切で画された北側にあり、周囲に切岸、その下に堀と帯曲輪を巡らしている。主曲輪の南側の塁線に張り出し部が見られることも特徴である。
付近に桑山の石切り場跡がある。福光地域公民館連合会、、、現地案内板より

福満城の記事は→こちら


場所は富山県南砺市福光町桑山
先ず、福光華山温泉(富山県南砺市川西588-1)にナビをセット。




華山温泉の背後にそびえる「桑山」



R304を金沢に向かい、華山温泉手前の交差点を右折し林道に入ります。



林道は下草や樹木に覆われ、すれ違いのできない細い道が続きますので要注意。



何度も曲がりくねってようやく頂上付近に出ると右手に火宮神社鳥居と城址案内板が見えてきます。



その先50m程のところに電波中継所の建物がありますので、その脇に車を停めることができます。



神社鳥居をくぐり、階段を登ります。


火宮神社祠







「横堀」
主郭平坦地の中央部を横断する、長い横堀が明確に遺っています。


横堀の中央よりやや西側に凸状の折れが設けてあります。



「張出」
この折れ曲がった所には、土塁が突き出しているような形状で「張出」と称しています。


「虎口」
主郭の北西隅に虎口と見られる土盛りがあります。


「主郭」
主郭平坦面、北から南方向展望


主郭東側法面


主郭西側法面



「帯曲輪」
主郭下の帯曲輪


主郭下の帯曲輪



「横堀」
主郭法面と帯曲輪の間に横堀が施されています。


同横堀




「竪堀」
帯曲輪法面に施された竪堀







「北側の横堀」
帯曲輪法面の東側には竪堀が、北側には大きな横堀が施されています。




神社の背後には平坦地が広がっています。
その西側には「桑山石の石切り場跡」があります。
石切り場跡からの眺望、真下には車を停めた電波中継所が見えます。



石を切り出した跡でしょうか? 巨石(岩盤?)が露出していました。






この後『桑山城は麓に近い西勝寺城よりも100m以上高い山にあって、、、』と案内板にあった「西勝寺城跡」に立ち寄るハズでしたが、道を間違え気が付けば下山していました。
次回に持ち越しです(;^_^A アセアセ・・・


【桑山城】
《くわやまじょう》



名称(別名);
所在地;富山県南砺市福光町桑山
城地種類;山城
標高/比高;292.5m/210m
築城年代;15世紀
廃城年代;16世紀
築城者;石黒氏
主な改修者;
主な城主;坊坂四郎左衛門
文化財区分;なし
主な遺構;曲輪、切岸、土塁、竪堀、横堀
近年の主な復元等;


※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
地図;

土山御坊/御峰城@富山県南砺市土山 令和三年(2021)11月19日

2021-11-26 06:07:18 | 城歩き
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南砺市指定史跡
土山御坊跡
文明初年に真宗本願寺八世蓮如が、念仏の教えを大衆に広めるため、この地を訪れた際に土山御坊を建てて、次男の蓮乗を住職とした。御坊は、明応3年(1494)に高木場に移り、永生16年(1519)戦火にあったため安養寺(小矢部市)に移った。その後天正12年(1584)に伏木(高岡市)に移り、勝興寺として栄えた。
また同時期、佐々成政が加賀前田氏に備えて国境を守るため、近くに御峰城を築いた。三方が深い谷になっており、敵を防ぐのに適した場所であった。
このように土山は、昔から周辺地域の要所として、重要な役割を果たしてきた。
御坊跡は、土豪杉浦万兵衛の屋敷として栄えたと言われ、現在は蓮如が造作としたという庭園の様子がわかり、地元の行事を行う憩いの場所となっている。南砺市教育委員会、、、現地案内板より

安養寺(小矢部市)の登城記事は→こちら
勝興寺(高岡市伏木)の登城記事は→こちら



場所は富山県南砺市土山
先ず、廃校になった旧福光西部小学校(富山県南砺市法林寺1)にナビをセットします。
R304号線から小学校に入る側道には「蓮如上人旧跡 土山御坊跡」の標識が建っています。


旧校舎


その先右折して土山集落に向かいます


左手に土建会社が見え、右手に「蓮如上人史跡」の標識が建っています。


標識に従って山へ上がっていきます。



土山集落に入ると三差路に大きな案内看板が表示してありますので、ここに駐車します。
ここからは案内に従って、徒歩で蓮如上人土山御坊跡に向かいました。




当日の行程を佐伯先生の越中中世城郭地図Ⅲで説明します。(ブログ管理者加筆)

この集落全体が在地土豪杉浦万兵衛の城域で、その中に御坊があったり、佐々成政の土山砦(御峰城)があったりして、とても広く変化に富んでいると感じました。





【土山御坊跡】、、、図面「D」
史跡公園のように整備され、トイレや現地案内板が設置されています。


公園の中には蓮如上人像が建立されています。


在地土豪杉浦万兵衛の墓


歴代の墓石でしょうか




御坊跡の周囲は小高い丘を削平した平坦地で、法面は切岸のような加工が見受けられます。




御坊跡には史跡公園と民家が数件建っていますが、ぐるっと周囲から隔絶した一画だったことがわかります。

案内板では『御坊跡は、土豪杉浦万兵衛の屋敷として栄えた、、、』とありますが、土山御坊が建つ前から土豪杉浦氏の居館があったとも言われ、その一画を与えて御坊を建てさせ、後に前田の治世になってから杉浦氏に旧領が安堵されたとも考えられます。




【オチン】、、、図面「E」
土山御坊史跡公園から道を挟んで南側の、小高い丘に広がる平坦地
オチン(御亭)と呼ばれ、土山御坊を見下ろす高台に位置していることから、土山御坊の離れ屋敷が存在していたのかもしれない。
しかし佐伯先生が指摘するように、周囲には切岸・土塁・横堀が遺り、東側を警戒した純然たる城郭遺構となっている。

御坊向かいに看板と登り口がある


丘の上は登り口を中心に、東西に削平地が細長く伸びている。



◆オチン東側
西側に比べ広く、建物が建っていたと考えられます。
東から西方向を見る



◆オチン西側
西から東方向を見る


細長くくびれた先が高台となっており、斜面は切岸として加工され現在は下に民家が建っています。


オチン西端からの眺望
眼下に御坊、目の前の山は「御峰城」で、見張り台として恰好の位置にあります。






【御峰城・土山城・土山砦】、、、図面「A」
佐々成政が築き、その武将裨田善助・青木孫右衛門が守ったとあり、加賀の前田利家との間の緊張が続く加越国境、脇街道「二俣道」監視の目的があったものと考えられています。

車を停めた大きな看板のある三差路から西に進むと、右手の民家の裏山に御峰城(砦)は築かれています。


途中、左手に見える平坦な一画も城域の曲輪に見えてきます(笑)


左手に脇道があり、ここを登ると城址です。
現在城址には、集落の水道用の貯水槽が建設されています。


城址がある尾根は南側1/3ほどで分断されていますが、南側の削平地も当時の遺構と思われます


◆堀切、、、図面①
これは貯水槽地建設に伴う建設資材運搬用の道で、かつての堀切を掘削(破壊)して整備したものと考えられています。


横堀で分断された南側削平地
主郭側から見た写真


南側削平地
虎口や土塁の跡が残っているそうですが、現在は薮化して自分にはまったく区別が付きませんでした。


◆主郭、、、図面「A」
北側の削平地頂上部
集落の水道用貯水施設となっています。


城址を示す標識が建っていますが判読できません(;^ω^)


虎口の土塁が遺っているのは奇跡的ですが、それを意識して貯水槽を建設したんでしょうか


主郭からの眺望
北から北東部の眺望
緊張が続く加越国境、脇街道「二俣道」監視の目的に叶う眺望です。


◆帯曲輪、、、図面「B」
主郭北端から藪を抜け、下に降りてみました。
1~2m下には僅かながら平坦地が築かれ、尾根を分断する堀切も確認できました。これは竪堀か??



城址を後にして西側の斜面に回り込んでみると、城址の山すそを巡る平坦面が確認できました。しかしあまりにもきれいに整備されているので、帯曲輪に見えたのは妄想なのか(笑)






【ゴモン、ゴモンノサカ】、、、図面「F」「G」
御峰城址のある山から田んぼと谷を挟んだ西側にゴモン(御門)、ゴモンサカ(御門の坂)と呼ばれる一画があるそうです。

◆堀切
農道沿いに歩いてみると、先ず気付くのは「堀切」
集落の外れにある農地を繋ぐ道となっています。



◆土塁、、、図面④
農道をさらに西に進むと棚田のようになった景観が現れますが、丘の上の田んぼの端は明らかに「土塁」です。


佐伯先生は喰違虎口の土塁だった可能性を指摘しています。



◆堀切、、、図面③
丘の上の田んぼの端の下は不自然な窪みとなっています。


現在林道で設置で繋がってしまったが、かつては堀切で遮断されていたと考えられています。


土塁、堀切辺りから西側の眺望
棚田の脇には街道が通っていた




◆ゴモンノサカ、、、図面「F」
喰違虎口のような土塁と堀切で守備を固めた向かいに、こんもりとした丘(尾根)がある。小さな祠が入り口です。
左手の道は農道で後年に整備されたもので、かつてはここが土山の城域(御坊)入り口だったようです。



◆ゴモン、、、図面「G」
ゴモンサカの北には門があったのでしょうか
丘(尾根)は東西に細長く伸び、その真ん中を谷のように削り取り道を通していたようで、両脇の高台から下を通る道を監視していたものと思われます。


ゴモンの道にあたる谷間には不法投棄と思えるゴミが見受けられ、とても残念です😿



◆堀切、、、図面「②」
ゴモンのさらに北側には尾根を分断する堀切があった。
現在の農道からゴモンのある丘(尾根)、北から南方向を見る


丘(尾根)を分断する堀切
現在は農道(林道)を通す拡幅工事のため破壊されている


堀切から山腹を通る林道わきに竪堀があるようですが、分かりませんでした。





【大堀切】、、、図面「⓹」
南側の尾根続きには堀切⓹で遮断しているが、これは尾根越えの道跡の可能性がある、、、と佐伯先生は指摘しています。

図面ではここだけが、ずいぶんポツリと描かれているので、どうしても気になり行ってみました。
民家の間の庭先を通って裏山に入る感じですが、



そこは小高い丘(尾根)で、きれいに削平された場所でした。
周囲の斜面にも加工された気配があり、これは第3の曲輪跡ではないかと期待が高まります。




尾根の傾斜に従って北東方向に段廓が設けれ、上段の曲輪を取り巻いているのがわかります。
段廓の堀切


けっこう高低差があります




そして、その先に大きな堀切がありました。
下の民家の裏にあたる場所です。


かなり藪に覆われていますが尾根を断ち切り、東側の平坦地(民家側)にまで伸びています。
段廓までの高さは約3~5m、
堀幅も結構ある(曖昧過ぎるw)





【土山御坊があった場所と言われている地点】、、、図面「C」
土山御坊があった場所はC地点付近と言われているが、後世の破壊が激しく旧地形は判然としない、、、と佐伯先生は指摘。

今ほど歩いてきた「大堀切がある南側の尾根」が背後にある場所です。
丘(尾根)を背に、南に開けたロケーションは庵を結ぶ雰囲気がありますね。

そうみてくると、やはり「大堀切がある南側の尾根」にある削平地が重要な曲輪に思えてくるのですが(妄想です)




もう一度地図を真上から俯瞰してみると
東西に走る土山集落猪メインストリートに対して、
ゴモン、御峰城、マンベエヤシキ、オチン、大堀切が全て北の方向にあります。北を意識した(警戒した)里だったのかもしれません。






【御峯城】
《おみねじょう》



名称(別名);土山御坊(どやまごぼう)土山城(どやまじょう)
所在地;富山県南砺市土山1270
城地種類;山城
標高/比高;260m/20m
築城年代;文明年間(1469年 - 1486年)以降
廃城年代;天正13年(1585年)頃
築城者;蓮誓、もしくは向田孫右衛門尉?
主な改修者;佐々成政
主な城主;一向一揆勢、神保氏、佐々氏
文化財区分;市史跡
主な遺構;曲輪、堀切、土塁、竪堀
近年の主な復元等;現状、庭園


※出典、、、佐伯哲也 越中中世城郭地図Ⅲ、北日本新聞とやまお城探検隊
地図;



城端城@富山県南砺市城端 令和三年(2021)11月19日

2021-11-23 05:27:38 | 城歩き
お城検索は→こちら


毎日楽しみにしている地元紙、北日本新聞連載の「とやまお城探検隊」→こちら
11月10日の記事は「城端城①」だった。
城跡そのものについての紹介では無く、「城端町」と「善徳寺」についての内容だったので気に留めていませんでしたが、翌日の「城端城②」では【移築門】が現存しているとの事。
富山のお城は何百とあるだろうけど、遺構として現存している建物は富山城の「千歳御門」くらいのものではないでしょうか?
外にあったら教えてください、見学に行きます。

最近のお城歩きでは、移築門や移築御殿などの建物を積極的に見学しています。
土の堀や土塁だけでは飽き足らず、つい形のあるものに心が動きます💦



富山県南砺市城端町といえば
麦や祭り(→こちら)と城端別院、曳山と織物の町。それくらいしか知りませんでした、あとアニメの聖地とか(笑)→こちら

富山県の歴史や観光を紹介するサイトによれば→こちら
南砺市城端町(歴史)概要: 
城端町は中世荒木氏が支配した地域だったとされます。荒木氏は永禄2年(1559)善徳寺を城端城に招き以後、善徳寺の門前町として発展します。江戸時代に入ると九斎市が開かれるなど市場町として発展し元禄6年(1693)には700軒近い家屋があったそうです。
特に絹織物製造は加賀藩下で保護され主要産業として発展し大きな富をもたらし多くの絹商人を輩出しました。現在は道路の拡幅工事などで古い町並みは失われましたが、明治時代中期に建てられた蔵(現在は城端町史館)などが当時の繁栄を偲ぶことが出来ます。


富山県民としてお恥ずかしい限りですが
「城端別院」は知っていましたが、「善徳寺」は知りませんでした。ましてや「城端別院善徳寺」だったなんて、今知りました💦



かつて城端地区には城ケ鼻城(城ヶ端城)と言う城があって、城主は荒木大膳(膳太夫・六兵衛)という南砺の有力豪族でした。
福光にあった「善徳寺」を戦国時代の永禄2年(1559)、荒木大膳が城域を提供して招請したと伝えられています。
寛永12年(1800)善徳寺に現在の楼門が造営されることになったため、翌享和元年(1801)砺波市苗加の「萬福寺」に山門が譲られることになったそうです。

砺波市苗加の萬福寺によれば
昭和29年9月26日の台風でこの山門が倒壊し、翌30年に復元されたが、その時に発見された冠木の散らし八双裏の墨書によって、貞享5年(1688)の建立であることが明らかになった。しかし、墨書には「城主荒城六兵衛大手之門」とあり、もともと城ケ端(城ヶ鼻)城の城門であった場所に建立されていたものと思われる。富山県教育委員会・砺波市教育委員会、、、現地案内板より


城端別院山門


隣に建つ善徳寺前には善徳寺前バス停まである観光の中心


善徳寺太鼓楼は県指定文化財となっています


背後には池川が流れ、段丘涯の上に建っていることがわかる


天然の要塞
山田川と池川を堀として、切り立った崖の上に造られ容易に近づくことができない




移築門
萬福寺山門
様式は「薬医門」
『間口5.64m、奥行き2.84m、軒高さ4.62m』、、、(『』内は現地案内板より、以下同)


表右側より
『前側に三本の角柱をやや棟寄りに立て、』


内側より
『後方の二本の控え柱と化粧貫でつなぐ』


屋根
『前側の柱の上に冠木をのせ、その上に梁行に並べた腕木で切妻の屋根を受ける』
『昭和29年倒壊当時は茅葺であったが、痕跡にならって当初の本瓦葺きに復元されている』


くぐり戸
『右脇の小間に潜り戸をつけている』


門扉丁番金具


飾り金具




萬福寺全景


唐門も由緒ありそうです


現在バイパス側から見える、ドーム型の納骨堂を観たらピンとくる方も多いと思います。




今回予想もしなかった城ケ鼻城(城ヶ端城)の現存する移築門を観てきましたが
一番有名な富山城千歳門以外にも、
県内三大山城と呼ばれる高岡市二上の「守山城」、砺波市の「増山城」、魚津市の「松倉城」や、有力守護代の城であった新湊の「放生津城」などでは、城門がどこかのお寺に移築されていてもおかしくないですよね。
見学できる日が来ることを願います。




【善徳寺】

webページは→こちら
住所;富山県南砺市城端405
地図;







♪☆★移築門♪☆★
【萬福寺】

webページは→こちら
住所;〒939-1333 富山県砺波市苗加781
地図;

国宝犬山城@愛知県犬山市 令和三年(2021)11月15日

2021-11-20 04:46:25 | 城歩き
お城検索は→こちら

前回の記事は→こちら


国宝 犬山城
令和三年(2021)11月15日
愛知県犬山市
今回は石垣に絞って観てきました。
それと前回失念した、木曽川越しの段丘涯に建つ姿をリベンジ!

【犬山城 城郭構造】
国宝犬山城HPより引用→こちら




【黒門石垣】






【道具櫓石垣】



【御成櫓石垣】


鏡石?



【小銃櫓石垣】




【樅の丸(もみのまる)西南隅】
犬山城では唯一の切り込み接ぎ
大手道のクランクしたところにあり、屏風櫓が建っていた。






【本丸 南西側鉄門横】
打ち込み接ぎの布積みと乱積み
鏡石、巨石で城主の威厳を見せつける





【天守台石垣】
中央部の高さが6mもある
初期は野面積み
後に打ち込み接ぎ
隅部は算木積み





【穴蔵】と呼ばれる石垣に三方を囲まれた地下部分に入り口がある



2019年訪問時撮影



犬山城の石垣に使われている石は、チャートと呼ばれる石。
放散虫などの殻や骨片が海底に堆積してできた岩石で、大変固いのが特徴。犬山台地や各務原台地に多くみられるそうです。
清洲城の石垣の中には犬山周辺のチャートも含まれているそうで、清洲城の石垣技術が犬山城にも使われいるのかもしれませんね。
出典、、、犬山城の石垣コレクション→こちら





【空堀】
城の南西から西側を守るための空堀。


現在は立ち入り禁止となっていますが、山城ファンとしてはこういう土の遺構を歩いて観てみたい衝動に駆られます(>_<)




【木曽川越しの段丘涯に建つ姿】
木曽川沿いの小高い山の上に建てられた 後堅固(うしろけんご)の城



池田恒興が木曽川をわたり城内に侵入し落城させたそうですが、不可能を可能にしたんですね(@_@)






【限の丸西南隅】
打ち込み接ぎの谷積み
江戸中期以降の積み直し
矢穴跡が残る
※※今回も失念(;'∀')

【七曲門跡】
失念💦

今度行く口実ができましたヽ(^o^)丿




【犬山城】
《木曽川に臨む要害かつ景勝の地に築かれた城》

名称(別名);白帝城
所在地;愛知県犬山市字北古券65-2
城地種類;平山城
築城年代;天文6年(1537)
築城者;織田信康
主な城主;織田氏、小笠原氏、成瀬氏
文化財区分;国宝(天守)
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;望楼型 三重四階地下二階 木造(現存)
地図;



※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)

恵那峡の紅葉2021@岐阜県恵那市大井町 11月15日

2021-11-19 14:08:15 | 紅葉・桜・花など
東海地方屈指の紅葉スポット【恵那峡】に行ってきました。

木曽川をせき止めて造られたダム湖で、天下の名勝として知られた峡谷です。
大井ダムの辺りには、「かんぽの宿」「シアター恵那」「恵那峡グランドホテル」「恵那峡国際ホテル」などのリゾートホテルや民宿が立ち並び、湖畔には森林散策路やビジターセンター、さざ波公園などがあって、四季を通じて自然を満喫できます。




前日の日曜日は紅葉狩りの観光客で大変な人出だったと聞き、一日ずらして月曜日に来て正解でした。
季節外れの汗ばむような陽気の中、ゆったりと紅葉を楽しむことができました。



お目当ての「恵那峡クルーズ」
大井ダムから上流の「源済橋」まで30分のクルージングで、途中奇岩や雄大な景色を楽しむことができます。



恵那峡遊覧船乗り場、背後にはリゾートホテルが立ち並ぶ



★恵那峡遊覧船乗り場に一番乗り♪
9:00始発便の
先頭席、ポールポジションゲットヽ(^o^)丿



操縦席も前方の景色も、バッチリ見えますよ



やはり青空が景色を引き立ててくれますね♪
山の紅葉は少し早かったのか、色づきが少なかったように感じました。








































★さざなみ公園の紅葉は少し見ごろを過ぎたようですが、まだまだ十分楽しめました♪

























昨年はコロナの影響で計画を中止しましたが、今回リベンジすることができて本当に良かったです(^^♪






【恵那峡遊覧船】
住所;岐阜県恵那市大井町奥戸2709-104
電話;0573-25-4800
地図;




庄川峡の紅葉2021@富山県砺波市庄川町~南砺市利賀 11月14日

2021-11-18 09:19:35 | 紅葉・桜・花など
富山県の人気紅葉スポット 【庄川峡】に行ってきました。

庄川をせき止めて造られた庄川町の小牧ダムから、利賀村の大牧発電所に至るダム湖周辺は今が紅葉の見ごろ。
国道156号線沿いの「庄川遊覧船のりば」は、庄川峡クルージング目的の観光客で大賑わい。満車だったのでトンネル手前の予備の駐車場に停めましたが、諦めて帰るドライバーもたくさんいました。

遊覧船乗り場




”船でしか行けない秘境の一軒家” でお馴染みの「大牧温泉」行の定期便に加え、長崎橋周遊コース(短時間遊覧)は庄川の柚子祭り開催期間中増便されていました。

恥ずかしながら大牧温泉へは行ったことが無いので、この機会に一度見てみようと「大牧温泉コース・往復乗船券2800円(込)」を購入。
ただし、『大牧港では、大牧温泉旅館に「日帰り予約」「宿泊予約」をしておられる方以外は下船出来ません。』との事なので要注意!!
大牧温泉のwebページは→こちら

小牧桟橋



古い吊り橋の跡でしょうか



長崎大橋



利賀大橋





滝も随所で見られます
 


大牧発電所



大牧桟橋



大牧温泉
山の奥深いところにあるのがわかる、、、サスペンスではお馴染みの宿



ダム湖にせり出して建っているんですね。
客室の窓から魚釣りができそうです(笑)



行はクルージングのお客さんばかりでしたが、帰りは大牧温泉で宿泊した団体客さんの出発時間と重なり、船内は立錐の余地もないくらいの混みようで展望デッキまでいっぱいでした。
観光客が戻ってきた~という感じでしょうか。

長崎橋で折り返しの時間短縮コースにも観光客が集中し、コロナが落ち着きを見せている今を皆さん楽しんでいるようでした(^^♪




【庄川峡遊覧船】
webページは→こちら
住所;富山県砺波市庄川町小牧73-5
地図;

2年ぶりの民宿@ラ・セリオール 氷見 2021年11月13日

2021-11-16 09:31:03 | ネイチャー・旅行・まつり
新型コロナの影響で民宿へ行く機会が全くなくなった。
忘年会・新年会、歓送迎会、自治会の総会、慰安会、披露宴、法事にと、氷見に住むものとして年に数回は民宿での行事があった。
泊まって、飲んで、食べて、風呂に入って、景色が良くて、安くて、本当にありがたい存在の民宿。


新型コロナウイルス感染症拡大により大きな打撃を受けている宿泊施設等に対し、市内宿泊客の増加を図り、市内観光需要の回復を目指そうと、
氷見市観光協会が
15000円の商品券を10000円で購入できる
「氷見市プレミアム宿泊券」を販売しました。→こちら


じつは8月のお盆期間中に家族の集まりを企画して、春に購入しておいたのですが「第5波」と重なり延期したものの、その後日程の調整がつかず宙に浮いていました。




蔓延防止や緊急事態宣言も解除され、ようやく日の目を見ることになりました(;^ω^)


対象宿泊施設一覧



お盆に予約しながらも、蔓延防止発令でキャンセルせざるを得なかった「ラ・セリオール」に改めて行って参りました。



こちらは部屋数6部屋とこじんまりとしていますが、以前いただいた創作料理も美味しく、静かに楽しめるところが魅力での再訪となりました。

全室オーシャンビュー
到着した時刻には、富山湾越しの立山連峰と、対岸に見える新湊大橋が夕日に映え感動の美しさ。



マジックアワーでしょうか、残照の空のブルーがたまりません(^^)/



お待ちかねの夕食
今夜の献立はこちら



創作料理ではなく、オーソドックスな民宿コース的な内容















もちろん
とりあえず「生」の後は
日本酒
冷酒三種類を飲み比べ、その都度「お猪口」が付いてくるのでズラリと並びました。







部屋に戻り瓶ビールまで飲んで、その後は失念(;'∀')


翌朝はこんな素晴らしい光景に出会えました。
富山湾越しの立山連峰からの日の出、
ご来光で海が金色に輝きました。合掌




朝食も純粋な民宿の朝ごはん


烏賊ソーメンは上品な盛り付け
これじゃご飯にぶっかけられない(笑)

朝から刺身は当たり前(笑)でもビールはお預けです😿


コンロで炊く味噌汁が美味い!!
渡り蟹の脚で採った出汁に「ながらも」の粘りがなんとも健康的
二日酔いには一番です。


そしてご飯はお代わりし放題ヽ(^o^)丿
民宿の朝ごはんは、どうしてこんなにたくさん、お腹に入るんでしょうね?



氷見の宝、「民宿」
コロナ禍に負けず頑張って、存続して頂きたいものです。




【海と湯と宿 ラ・セリオール】
住所;富山県氷見市泊1720
電話;0766-74-7111
地図;



七面堂模型展示会@富山市呉羽地区センター 令和三年(2021)11月7日

2021-11-14 17:30:00 | 映画・コンサート・博物館
お城に興味があるとそれに関連した記事や写真に目が行くわけですが、今回は11月6日付け北日本新聞の朝刊に載っていたこの写真に反応し、居ても立っても居られない思いで現地を訪ねました。


先ず写真ですが、パッと見、これは城郭建築か?しかも、望楼型の天守を供えているような造りではありませんか。
そして、「あすまで」という限定に弱い自分のハートわしづかみのフレーズ
文中の「富山藩士ゆかりの、、、」という藩士→武士→城という興味の連鎖
「七面堂」という初めて目にする文字も好奇心をくすぐります。
これは行くしかないでしょ((^^)/



場所は富山市呉羽町
旧8号線(現県道211号線)沿いで、呉羽小学校近くにある鉄筋コンクリート造りの立派な施設です。
11月6(土)、7(日)の両日は「呉羽地区文化祭」が開催されており、屋外では自衛隊の広報やクラシックカーの展示会、屋内ではバザーなどが催され、多くの住民の方で賑わっていました。








「七面堂模型の展示会」もその一環として開催され、こちらは地元住民の他にも新聞記事を見て駆け付けた、建築や歴史ファンで人だかりができていました。


【展示模型】

正面


正面図(当日配布資料より 職蓺学院作成)




右側面


右側面図




背面




左側面
内部の構造が分かるように、模型の左半分は屋根を葺いていません。
瓦葺きではなく、当時は檜皮葺だったんでしょうね。




【そもそも「七面堂」とは】
日蓮宗の守護神、七面大明神(鬼門を閉ざして七面を開くとされる女神)を安置するための堂のことで、その建築様式を「七面造」と言うそうです。

特徴としては
一階が拝殿、二階が本殿という二階建ての重曹構造。

外観としては
一階の拝殿が、入母屋造で正面中央の向拝(ごはい)が最高の格式である唐破風となっている。
また二階の拝殿は、方形造りで正面と背面が千鳥破風、両側面が軒唐破風という複雑な形になっています。

つまり
寺社建築としては、特異な重層様式であり、大変壮麗な建物であるということです。



【歴史】

場所は
富山市五福、峠茶屋

いつ・誰が
江戸時代の万治年間(1658~1660)に
富山藩士・奥村蔵人が
初代富山藩主・前田利次公から峠茶屋の東側斜面、五時谷を拝領して山上近くに七面大明神を祀る七面宮を建立したのが始まり。

明治維新で、神仏分離令に端を発するとされる、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が全国に広がり
富山では
明治3年(1871)の「合寺令」が発令され、
建物群は取り壊されました。



【復元目的】
一般的な社殿の配置を無視し、拝殿の二階に本殿を載せると言った独創的な発想で造り上げた「七面造」は比類見ない奇想天外な造りであり、建築史上も貴重である。
富山県にこのような貴重な建築物があったことを、後世に伝えことも目的の一つだと思われます。


【全国初の模型復元】
そのような背景で、
匠の技術を伝承する「富山職蓺学院」の授業の一環として、
数年前から生徒や指導員らが図面から起こし、上野教授の指導のもと、1/10模型が造られた。


【展示の目的】
呉羽地区にこのような貴重な建築物があったことを後世に伝え、跡地である呉羽地区に整備復活を期待するという側面もあり、今回の呉羽地区文化祭に展示したことのようです。




展示は終了しています


※出典、、、職蓺学院・上野教授、北日本新聞、呉羽山観光協会

寺家新屋敷館@富山県南砺市やかた 令和三年(2021)11月6日

2021-11-09 06:12:50 | 城歩き
江戸時代の記録に「南北朝(14世紀)のころ、越中国守護であった桃井直常の家臣、田中権左衛門貞行と言う人がいたと伝えている。」とあり、県内でも数少ない南北朝期の姿を留めた館跡とされてきた。
 昭和62年から63年に行われた発掘調査でこの館が南北朝意外に、戦国~江戸時代の初期にかけても利用されていたことが判明した。戦乱の続いた時代を反映し、屋敷の周りに高さ3mを超える土塁を築き、その外周に幅5m深さ2m余りの空堀を巡らせ敵に備えていた姿が明らかになった。館の大きさは堀の外側で東西80m、南北50mをはかる。
 江戸期に神明社が祀られ、ぐるりを取り囲んでいた土塁は「ゴロベエ山」の名で親しまれてきた。なお現在の地名「やかた」はこの遺跡にちなむものである。富山県教育委員会・南砺市教育委員会、、、現地案内板より


場所は富山県南砺市やかた、
南砺市福野文化創造センター「ヘリオス」の斜め向かい、ラヲタ的には「円城」の近くと言った方が分かり易い(笑)
現状は神明社が建っており、その敷地内に土塁が遺っている。

城域の南側に神明社の入り口があり、鳥居が建っています。



◆城址碑
鳥居から入ると左手に城址碑があります。



◆資料館
また右手には神社としては異質な、コンクリート製の建物があります。
六角形をした建物は「六角堂」をイメージしたものでしょうか?
これは昭和62年~63年に行われた発掘調査で出土した遺物の一部を展示している「資料館」的なものです。



内部
南側の一画に展示コーナーが設けられ、休憩スペースもあります。



当時の様子を伝える写真パネルや



出土した陶磁器の破片等が展示されています。




【遺構】
神社北側と東側に土塁が現存しています。

◆北面土塁
北東隅方向(内側より)



同(外側より)



北東隅(外側より)



土塁上から西側を見る




◆東面土塁外観
石垣が積まれていますが、近年のものです。



東面土塁(北から南方向を見る)
奥は資料館、右手は神社本殿



東面土塁内側(南から北方向を見る)
古い絵図には東面に虎口が描かれており、現在も城戸口として使われています。




資料館に展示してある絵図に、東面と南面に虎口が描かれています。





【旧福野町やかた】
この地名の由来にもなった「館跡」
旧福野町が予算を出して神社境内に資料館を建設し、地域のアイデンティティを物語るうえでも貴重な遺産ですね。




【寺家新屋敷館】
《じけあらやしきやかた》

名称(別名);寺家新屋敷館、田中氏第、寺家新屋敷城
所在地;富山県南砺市やかた241
城地種類;平城
築城年代;南北朝期
築城者;田中貞行
主な城主;田中貞行、田中太郎兵衛
文化財区分;南砺市指定史跡
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;なし、現状神社

※出典、、、現地案内板、北日本新聞とやまお城探検隊他
地図;