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あみの3ブログ

043【国宝】 犬山城@愛知県犬山市 令和元年(2019)7月2日

【犬山城の歴史】
築城から現在までの犬山城の歴史です。


天文6年(1537)
築城
天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康によって木之下城より城郭を移して築いたといわれています。木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」で、中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、戦国時代を通じて重要な拠点となりました。

池田恒興入城
天文16年(1547)、織田信秀が美濃(岐阜県)の斉藤氏を攻めた「稲葉山城攻め」に出陣した信康が死去し、その子織田信清が城主となりますが、織田信長に反抗したため攻められ、織田信長の家臣で乳兄弟、池田恒興(いけだつねおき)が入城しました。

秀吉入城
天正10年(1582)「本能寺の変」で織田信長が倒れて後継者争いで世の中は乱れ、天正12年(1584)に秀吉対徳川家康・織田信長の次男信雄(のぶかつ)との間で「小牧・長久手の戦い」がはじまりました。当時の犬山城主は織田信雄の家臣、中川定成でしたが伊勢へいって不在であり、池田恒興が木曽川をわたり城内に侵入し、落城しました。後に秀吉が入城しました。以後、小牧山城に陣を構えた家康とにらみあいが続きましたが、両者の間で和が結ばれ、犬山城は織田信雄に返還されました。

慶長5年(1600)
小笠原吉次入城
その後、犬山城主はめまぐるしく変わりましたが、文禄4年(1595)秀吉の家臣石川光吉が城主に、慶長5年(1600)、関が原の合戦後、家康側の小笠原吉次が入城。

元和3年(1617)
成瀬氏、犬山城拝領
江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。

明治4年(1871)
天守以外取り壊し
明治4年(1871)廃藩置県で愛知県の所有となり、天守以外のほとんどの建物が取り壊されました。


明治24年(1891)
濃尾大地震で天守半壊
明治24年(1891)、マグニチュード8.4の「濃尾大地震」によって天守が半壊するという大きな被害に会いました。そのため、同28年に修理を条件として県から旧藩主の成瀬家に譲与され、成瀬家と犬山町民が義援金を募り、無事修復されました。

昭和27年(1952)
国宝に指定される
昭和10年、国宝に指定されました。昭和27年規則改正にともない国宝に再指定されました。昭和40年(1965)解体修理完了。全国唯一の個人所有の城として保存されてきましたが、平成16年(2004)、「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となって現在にいたっています。


【犬山城の構造】
天守の構造としくみについてご案内します。

地下一、二階(穴倉)
天守の出入り口があり、


天守を支える石垣や


太い梁をみることができます。



一階
中央部に第一の間、第二の間、上段の間、納戸の間の4室に分けられ、


それらを武者走が取り巻いている。



二階
中央が武具の間で武具棚が備えられ、その周囲を武者走りが巡っている。



三階
南北に施されている唐破風は成瀬氏によって増築されたといわれている。 東西には入母屋破風が施されている


四階(望楼)
回廊は成瀬氏による増築とされ、高欄(こうらん)と廻縁(まわりえん)がまわる望楼(ぼうろう)となっている。









【城郭構造】
犬山城の城郭構造についてご案内します。


木曽川南岸、標高80mの城山に築かれた犬山城は背後を断崖に守られた典型的な後堅固の城である。本丸、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸を南方に階段状に連ねて配置してあった。天守の他に現存する建物はないが、本丸の石垣、空堀が残されている。


※出典、、、国宝犬山城→こちら


【犬山城白帝文庫】、、、→こちら
平成25年4月1日には公益財団法人に認定
国宝犬山城は、成瀬正成が元和3年(1617)に二代将軍徳川秀忠から拝領して以来、代々成瀬家によって守り継がれてきました。成瀬家は三河国足助庄から出て、松平(徳川)家の譜代として働き、徳川家康の命により、尾張徳川家の付家老に任じられ犬山城主となりました。また、明治24年(1891)の濃尾震災の折には市民とともに天守の再建に努め、その後、日本唯一の個人所有の城としても知られるようになりました。
 しかし、国宝を未来に向けて長く保存・公開するという観点に基づき、個人所有から法人による事業展開への道を決意し、平成16年に「財団法人 犬山城白帝文庫」を設立いたしました。その際、成瀬家から犬山城と伝来の資料を犬山城白帝文庫に寄付し、国宝天守は犬山市が管理団体として管理・運営していくことになりました。

 犬山城白帝文庫は、犬山城と成瀬家伝来の美術工芸品・歴史資料を調査研究・保存・公開するため平成16年4月1日に財団法人として設立され、平成25年4月1日には公益財団法人に認定されました。
 名称の由来は、犬山城が白帝城とも称されていることによります。江戸時代の儒学者荻生徂徠は、木曽川沿いの小高い山にそびえる犬山城が、中国の名城白帝城(重慶市奉節県)を思い起こさせるとして白帝城と名付けたと伝えられています。
 犬山城白帝文庫の事務所は旧城内に位置し、資料を展示・収蔵する歴史文化館は「城とまちミュージアム」内にあります。歴史文化館では伝来の美術工芸品と歴史資料を常設展示し、企画展、特別展を年1回ずつ開催しています。


【城下 三光荷稲荷神社】、、、→こちら


三光稲荷神社は、城山の麓に位置する歴史ある神社です。城山の山頂には犬山城があり、犬山城見学のお客様でも賑わいます。可愛いピンクのハート絵馬が女性に人気を集めています。



【城下町 本町通り】、、、→こちら
城下町観光情報、、、→こちら






【犬山城】
《木曽川に臨む要害かつ景勝の地い築かれた城》

名称(別名);白帝城
所在地;愛知県犬山市字北古券65-2
城地種類;平山城
築城年代;天文6年(1537)
築城者;織田信康
主な城主;織田氏、小笠原氏、成瀬氏
文化財区分;国宝(天守)
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;望楼型 三重四階地下二階 木造(現存)
地図;



※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
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