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あみの3ブログ

箕作城@滋賀県東近江市五個荘山本町 令和四年(2022)5月6日

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箕作城は、六角政尭(まさたか)が築城した清水城を前身とし、東海道を挟んで観音寺城に対峙する城郭である。文明3年(1472)に、六角髙頼の攻撃によって政尭が討ち死にし落城した後、観音寺城の支城として東山道を上京してくる勢力に対する監視の機能を果たしていた。
 永禄11年(1568)足利義明を奉じて上洛する織田信長に対し、反信長の立場をとる六角氏は観音寺城を中心として、箕作城・和田山城・佐生日吉城などの支城で対抗したが、9月12日、信長軍の主力、佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・浅井新八らの猛攻を受けた箕作城は、城を守る建部源八郎らの必死の防戦もむなしく開城した。
 元亀元年(1570)9月に石山本願寺は、信長に反旗を翻し、浅井・朝倉両氏に味方すると、この動きに刺激され、各地で反信長勢力が決起する。同年10月に建部城を拠点として一揆が結成されると、箕作・観音寺両城にも六角氏の旧臣や一向宗門徒らが籠って一揆の活動をした。しかし建部一機も同年11月、木下秀吉や丹羽秀長らの強大な軍事力によって鎮圧されてしまう。鎮圧後、箕作城は徹底的に破却され、石垣も崩壊し、安土城築城の時、石は転用されたと考えられる。
 当城は、伝本丸跡付近に立つと、観音寺城の本丸に接する平井丸の正面虎口がハッキリと見通せ、また眼下に佐生日吉城・和田山城・愛知川方向が一望できる。東山道を京都方面に向かう勢力に対する防衛上、非常に重要な城であった。五個荘町発行 五個荘町史から引用、、、現地説明板より


場所は滋賀県東近江市五個荘山本町
清水山遠景



名神高速「竜王IC]下車、国道477号線から「西横関」交差点で国道8号線(旧中山道)に入り、近江八幡方向に進むと「長光寺城」を右手に見てさらに直進。「五個荘南」交差点を右折し、県道209号線(八日市五個荘線)沿いにある「五個荘あさひ幼稚園」角で右折、「百々神社」脇を通って、山の裾野に並ぶ住宅街へと入る。
五個荘山本地区



山の裾野には「新兵衛さんの公園」があり、その先に「貴船神社」の参道が山に向かって伸びている。(城址案内板あり)



参道には城址案内板が設置されています。



登城口はこの「貴船神社」社殿手前にあります。



登城道はじわりと効いてくる登りが続きますが、よく整備され、終始案内板があるので励みになります(^^♪



途中でトレッキングコース(自治会館側登り口)との合流があります。
案内看板に従って、城址方向へ右折



すると城址碑が見えてきました。
(主郭の北東200m)
つまりここから主郭までは、南西に200m


ここからの眺望も素晴らしい!
正面に繖山。観音寺城がすぐ近くに見える場所です。




いよいよ城域です。
ここで当日の行程を縄張り図で示します。
高田先生作図、近江の山城を歩く「箕作城」より (ブログ管理者加筆)



城域は北東から西に伸びる尾根の頂上に主郭を置き、北東尾根に段郭、主郭西側に虎口と石垣を配した直線的な造りです。

「段郭」
Ⅳ、Ⅲ、Ⅱ







段郭の間には浅い堀切が見られます




「主郭」
地形を活かした切岸を登ると鉄塔が建つ削平地に出ます。






現地説明板、城址碑



主郭からの眺望
北方向
写真左手に見える山(北西方向1.2km)に観音寺城・佐生日吉城がある。



虎口



虎口北側に下に降りる道があります




「二段の石垣」
少し降りたところに石垣が残っています



箕作城は徹底的に破却され、石垣も崩壊し、安土城築城の時、石は転用されたと考えられています。







「貴船神社」



麓の「新兵衛さんの公園」


入り口にある説明板「織田信長の合戦史上最多の戦死者を出した 箕作城の戦いの北の口ご案内」箕作城の戦い顕彰会によると
「信長公記」には永禄11年(1568)9月12日、信長は箕作山城の攻撃を指示したことが記録されており、箕作山城には六角氏の軍勢三千人が守備に就いていた。それを攻める「北の口」には木下藤吉郎率いる二千三百人、「東の口」には丹羽秀長麾下三千人と、滝川恒興麾下三千人が攻撃を開始。周辺の集落に火を放ち夜襲をかけた結果、箕作山城は落城。戦死者は六角方200名に対し、織田軍は信長合戦史上最多の1500名の犠牲者を出したとフロイトの記録にある大激戦が行われたそうです。

あの細長い尾根の僅かな郭に六角方3000人の将兵がいたとはとても想像が付きませんね(-_-;)
未だ発見されていない遺構があるのかもしれません。歴史のロマンを感じる所以でもあります。



【箕作城】
《みつくりじょう》

名称(別名);箕作山城、清水山城、清水城
所在地;滋賀県東近江市五個荘山本町
城地種類;山城
標高/比高;324.7m/150m
築城年代;応仁・文明年間(1467年 - 1487年)
廃城年代; 1568年(永禄11年)
築城者;六角 政堯(ろっかく まさたか)
主な改修者;
主な城主;六角氏
文化財区分;
主な遺構;曲輪・石垣・土塁・堀切
近年の主な復元等;


※出典、、、
地図;
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