民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「『声』はつむぐもの、『音声』はつくるもの」 幸田 弘子

2013年11月25日 00時34分04秒 | 朗読・発声
 「朗読の楽しみ」 幸田 弘子 著   光文社  2002年

 「『声』はつむぐもの、『音声』はつくるもの」 P-28

 「声」という字に「音」がつくと「音声」になります。
どちらも意味としてはほとんど同じでしょうが、私は、声と音声はべつのものではないかと思うのです。

 テレビの音声とはいうけれど、テレビの声とはいいませんね。
つまり音声とは、加工された声のこと。
マイクで拾い、電気的に大きくしたりしてスピーカーから出す、いわば物理的な音波です。

 それに対して、私たちは舞台などで使うものが「声」なのではないか。
声とは、生の声のことではないか。

 朗読、とくに聞き手を前にした朗読は、生の声でするものだと私は考えています。
このことを、初めに述べてみたいのです。

 私はNHKで育ち、ずっと放送の仕事をしてきました。
「声」ではなく、マイクを前にして「音声」を用いてきたわけです。
おそらくその反動があったのでしょう。
私はあるときから声で舞台をつとめようと考え始めました。
舞台は自分の声だけで、マイクなしに作品を伝える場所、そう思って、
これまで自分のリサイタルをやってきたのです。

 ふつう舞台の楽しみといえば、もちろん生身の人間が、
目の前でその役を演じてくれるところにあります。
つまり生の姿、生の声が基本ですね。
でも最近は、芝居にしてもそのほかの舞台にしても、マイクを使うものが増えてきたようです。
役者の声をマイクで拾って大きくする。効果音なども重ねて。

 その効果なのかどうか、声を大事にしない舞台が多いような気がします。
音量はやたら大きいのですが、かんじんのセリフが聞き取れない。
基礎的なトレーニングの問題もあるのでしょうが、
時代的に、声のもつ意味がないがしろにされていることの証明なのではないかとも思います。

 しかし芝居の世界では、「一、声。二、顔。三、姿」というくらいで、
本来、いちばん大切なのは「声」だったのです。