民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「薬草売り」 口上

2012年11月05日 00時34分37秒 | 大道芸
 「薬草売り」 口上  

 先ほどから、そちらの方(ほう)で、私のやっておりますことをご覧になっていらっしゃる方々、
皆さま方は「あの男は一体何者だ。こんなところで何をしているのか」と、
不思議にお思いになっているかも知れませんが、
私はただいま、神に向かって、皆さまの無病息災をお祈りしていたところでございます。

 なぜ、このようなことをしているのかと申しますと、私はご覧のとおりの山伏でございます。
一年の大半を全国、津々浦々の山々に籠(こも)り、ひたすら修験に励むかたわら、
世の中の平和、とりわけ、人々の健康と病について研究している者でございます。

 その私が、こうして山を下(くだ)り、街中(まちなか)へ出て参りますのも、
会得いたしました成果を、皆さん方にお伝えし、少しでもお役に立ちたいからでございます。
どうか安心して、もうちょっと、前の方へお集まり願います。

 さて、私は最前からここに立って、皆さんのお姿を拝見しながら、いささか気になることがございます。
何かと申しますと、中にはお元気な方もいらっしゃいますが、多くの方々のお顔には生気がなく、
精神的にかなり疲れていらっしゃる方、胃腸や肝臓を患(わずら)っておられる方、
心臓が弱っていらっしゃる方、糖尿で苦しんでいらっしゃる方、
そのほか、足腰や、血行不順でお悩みの方々がたくさんいるからでございます。
長い間、深山幽谷を宿とし、木の根、草の葉を枕に、大自然の中で生活をしております、
私にはようくわかります。

 そういう方には、あとでそれらの病気の治し方や予防法についてお話いたしますので、
どうか、最後まで私の話を聞いていただきたいと思います。
と、こう申し上げますと、「あの男、なんじゃかんじゃうまいことを言って、
最後には高い薬を売りつけるのではないか、あるいは本を買わせる気ではないのか」と、
お疑いになる方もいらっしゃいますが、はじめにお断りしておきます。
私は山伏、いやしくも神に仕える身。そのような卑しい気持ちは毛頭もっておりません。
もし、どうしても心配だというお方がございましたら、どうか今のうちにお引取りを願います。

 さて、これからお話をする前に、まず皆さん方にお聞きしたいことがあります。
今の医療制度のことです。
ただいま、世の中は医療設備も完備され、また保険制度も充実して、
薬の種類も昔とは比べものにならない、便利な世の中になりました。
しかし、それにもかかわらず、病人が一向に減らないのはなぜでしょうか。
病院の数が減るどころか、逆に増えてゆくのはどういうことなのでしょう。
山で修行をし、今の医療体制をじっと見つめてきた私には、この辺がどうにも不思議でならないのです。

 今の医療制度は間違っているからではないのでしょうか。
その証拠に皆さん方は、いざ身体の具合が悪くなると、何の疑いもなく、まず薬屋さんか病院へ行く。
そして、さまざまな検査を受けて血を抜かれて、たくさんの薬をいただいて帰ります。
しかし、それですべての病気が治れば結構ですが、中には、思わしくないと、違う病院へ行って、
検査をされて、血を抜かれて、挙句の果てには、取り返しのつかない身体になったり、
時には、薬害による副作用に苦しんだりする人がいます。

 これでは何のための治療、何のための薬かわかりません。なぜそのようなことになるのか。
答えは簡単でございます。自然の摂理に逆らっているからです。
なぜなら、もともと私たちの身体は自然生態系の中に組み込まれているからです。
神は、この大地、自然の中に、さまざまな医薬の素(もと)を用意されているのです。
ところが、今の医学はそれらに背を向けて、やれ人工薬だ、化学物質だと、
やたらとわけのわからないものばかりを追い求めているように思えてならないのです。

 そのいい例が、動物たちの生態を見ればわかります。彼らの世界には医者もいなければ薬もありません。
それでも彼らは彼らなりに行き続けられるのはなぜでしょうか。彼らとてケガをしたり、病気になります。しかし、そんな時、彼らの取る道は、自然の薬草や木の実を食べ、太陽の光や水の恵みによって、
自らの健康を取り戻しているのです。すなわち、神から与えられた自然医薬法の恩恵を利用しているのです。一方、人間はと申しますと、先ほども申したとおり、薬や治療はすべて薬屋さん任せ、病院任せ。
これでは神からの授けものをいたずらにムダにするばかりです。

 ここで、念のためにお断りしておきますが、私は今の医療制度がすべて間違いだらけで、
神に逆らう役に立たないものといっているのではありません。
中には貴重なお薬や技術によって、多くの人々が救われているのも事実でございます。
しかし、それらに頼る前に、神からの授けものにも、もっと目を向けるべきだと申し上げているのです。

 そこで今日は、皆さま方にそれらの自然の恩恵を活用した病気の治療法や、
私たちの祖先が数多く残してくれた素晴らしい知識などをご紹介しようと思います。
そして、私の話が終わりましたあとで、こうした知識を、より詳しく知りたいという方々のために、
わずかではございますが、それらの知識をまとめた本を用意してまいりました。
これを、ご希望の方に差し上げますので、なるべく前の方へ寄って、
私の話を聞いていただきたいと思います。

 さて、では一体、私たちの祖先は、病気や怪我をした時に、どのように治していたのでしょうか。
ここに、こんなことが紹介されておりますので読み上げてみましょう。

 風邪を引いたときは、生姜の絞り汁に黒砂糖を加え、熱湯を注いで飲み、暖かくして寝れば治る。
または、水あめに大根おろしを加え、熱湯を注いで飲み、暖かくして寝るとよい。
鼻血が出たら、梔子(くちなし)の実を粉にして、鼻で吸えば止まる。
胃腸の弱いものは、生姜汁を三、四滴入れたお粥を、毎日食べればよくなる。
吐き癖のある乳児には、ミルクの中に生姜汁を、二、三滴加えて飲ませるとよい。
咳で苦しむ時は、乾燥させた大葉子(おおばこ)を煎じて、一日三、四杯づつ飲めば治る。

 いかがですか。これらが事実とすれば、こんなに簡単で便利なものはありません。
どれをとっても、材料はただで手に入るか安いものばかり。
私たちの祖先はみんなこうした方法で軽い病気は治してきたのです。
そして、これらの治療法は、今でも一部のお年寄りたちによって受け継がれ、
多くの人々の命を助けているのです。

 このような例はまだまだたくさんあります。
私が今持っておりますのは、あの黄門さまでお馴染みの徳川光圀公が、水戸藩の名医、
穂積甫庵に命じて書かせた日本最初の家庭医学書「救民妙薬」という書物の写しでございます。
この中には、当時の誰もが簡単に処置できる即席病気治療法が数多く記されておりますが、
その中にこんなのが出ておりますのでこれもお教えしておきましょう。
 
 ひょう疽(そ)にかかったら、どじょうを黒砂糖で煮詰めて塗るとよい。
扁桃腺が腫(は)れたら、鉈豆(なたまめ)の黒焼きを粉にして、管で吹き入れるとよい。
二日酔いには、大根おろしに生姜をすりおろして飲めばよし。ただし、痔病持ちのものは控えるべし。
琵琶の葉は、温熱、消毒、鎮痛の作用あり、よって冷え性、神経痛の治療によし。
松葉は皮膚を刺激し、血行を促すので、神経痛、痛風、リューマチによし。
蜜柑(みかん)、林檎は肌荒れに効く。
万作の葉は、あせもや血止めに効き、無花果(いちじく)は痔の治療に効能あり。

 また、私が持ってる別の本には、こんなおもしろいことも出ておりますのでご紹介しておきましょう。
これは今から約千年の昔、当時の薬学・鍼(はり)博士でありました丹波康頼(やすより)が、
朝延の命を受けて中国から伝わった医学書をもとに編纂いたしました、
わが国最古の医学書「医心方」という書物の写しですが、
その中にアルコール中毒の治し方がでておりますのでご紹介しておきましょう。

 酒中毒を治すには、鷹の糞を白くなるまで乾燥させ、それを酒の中にいれてほんの少し飲ますとよい。
今この中で、どなたかご家族でこの中毒にかかっている方がございましたら、
さっそくお試しになるとよろしいかと思います。
ただし、飲ませる人に、鷹の糞と言ってはいけないと書いてありますので、その点ご注意ください。

 また、ついでにお教えしておきましょう。鷹の糞は眠気覚ましの妙薬でございます。
その昔、甲賀、伊賀の忍者も競って愛用したと伝えられております。
どのようにするかと申しますと、鷹の糞をおへそに塗るだけでございます。
これなども、残業の多い人、受験勉強の学生の皆さん、徹夜マージャンのお好きな方には、
大変役に立つと思いますのでぜひ実行してみてください。

 このほかまだたくさんの治療法が並べられておりますが、全部ご紹介していたのでは時間がかかります。
このように、私たちの祖先がいかに自然の恵みを活かし、しかも身近な材料を活用して、
自らの命と健康を守り続けてきたか、これでおわかりいただけたかと思います。
そこで今日は、これら貴重な資料をまとめましたこの本を、皆さまに差し上げますので、
ぜひとも参考にしていただければと思います。

 そして重ねて申し上げますが、ちょっと風邪を引いたからすぐに医者だ、
病院だと騒ぐのはお止めください。
現代の医療制度には、いろいろな矛盾や問題点があります。
わざわざお金を使って、貴重な時間をさいてまでそのようにすることもないと思います。
軽い怪我や病気ぐらいなら十分これで間に合うこの便利な「秘伝。家庭医学書」を
参考にされていただければと思います。

 それではこの本を差し上げますので、欲しい方は手を挙げてください。
先刻も申し上げましたとおり、ほんのわずかしかありませんので、本当に欲しい人のみにしてください。
では、どうぞ!
 
 ちょ、ちょっと待ってください。
ただいまほとんどといってよいほどの大勢の方が手を挙げていらっしゃいますが、
何度も申し上げているとおり、差し上げられるのは、たったこれだけです。
せいぜい、十二、三人の方々に行き渡るかどうかの部数しかありません。
今、病気で困っている人、身体の調子がよくないという人だけにしてください。

 いや、困りました。
それでもまだ、二、三十人の方が手を挙げておられます。
では、こうしましょう。
この人に差し上げて、あの人にあげないというのでは不公平になりますので、
私は明日からまた山へ戻ります。
そして、再び人間の健康と病について研究を続けます。
その費用の一端として、お一人五百円だけ私に喜捨していただけないでしょうか。
たったの五百円です。
それだけ払ってもいいという方のみ、こちらへ来てください。

 ありがとうございます。
ハイ。ありがとうございます。
一部わずかの五百円でございます。

「曽根崎心中」 道行文

2012年11月03日 00時32分27秒 | 名文(規範)
 この世のなごり 夜もなごり、死にに行く身を たとうれば、
あだしが原の 道の霜(しも)、一足ずつに 消えて行く、夢の夢こそ あわれなれ。

 あれ 数(かぞ)うれば 暁の、七つの時が 六つ鳴りて、残る一つが 今生(こんじょう)の、
鐘の響きの 聞き納め、寂滅為楽(じゃくめつ いらく)と 響くなり。

 鐘ばかりかは 草も木も、空もなごりと 見上ぐれば、雲心なき 水の音、
北斗はさえて 影うつる、星の妹背(いもせ)の 天の川。

 梅田の橋を かささぎの、橋とちぎりて いつまでも、我とそなたは 婦夫星(めおとぼし)、
かならず添うと すがり寄り、二人がなかに 降るなみだ、川の水(み)かさも 増(ま)さるべし。

「八郎の方法」 斎藤 隆介 

2012年11月01日 00時07分52秒 | 民話(語り)について
 「八郎の方法」 斎藤 隆介  斎藤隆介全集 第一巻

 「八郎」は二十年前に書かれた。
発表されたのは「人民文学」というおとなの雑誌である。
 文体は全編秋田弁のナレーションで、内容は八郎潟の形成由来、伝来の形成民話はほかにあり、
私のは全くの創作であった。
 形を民話ふうにしたので、はじめ秋田民話の再話と誤認された。
 原話があるのにこういう創作をするのはけしからんと叱る人もあり、
東京生まれの私がわざわざ秋田弁で書いたのに、また「標準語」に直して教科書にのせた人もあった。
 いずれも賛成しかねる。

 伝承民話は、いま伝承されている形を出来るだけ忠実に、正確に記録し保存されなければならぬ。
それは大切な仕事だが、私の仕事ではない。
 伝承民話を踏まえて、それに重なり、作家の個性を通じて向こう側へ通過し、
新しいものをつけ加える再話の仕事も大切だ。
しかし、それも私の主たる仕事ではない。

 私の仕事は創作民話だ。
 「創作民話」とは耳に熟さない言葉だが、
今はこの言葉を使うしかその作家の姿勢を表明出来ないので意識的に使われはじめたのだと思う。
 面倒な学問的規定もあろうが、私は、「民話」とは、民衆が作り伝えて来た話、と考えて用を足している。

 戦後に、「民話」ブーム」が起こったのは、民主主義、主権在民などという言葉が大きく叫ばれ、
憲法にまで明記された社会情勢から生まれたものだ。
 異民族の占領下に置かれた民族の独立を思う心も無関係ではあるまい。
 開闢依頼、法的にも初めて人民自身が、自身の運命をきりひらいてゆかねばならぬ権利と自覚を持った時、われわれの祖先はどう暮らしどう生き、何を感じ何を考えていたかを、
その伝承の話に探ろうとしたのは当然のことであろう。
 これは、民話を趣味的民芸品あつかいや、ゲテ物として珍重する態度や、
封建日本を恋うるアナクロニズムとは正反対のみずみずしいものだ。

 だから私のいう「創作民話」は、伝承民話の豊かさと力を受け継ぎながら、
それを超える積極的で意思的な姿勢をはっきり持たねばならぬと考えている。
 従来の社会を変革して、人民のための社会を建設しようとする意欲を持たねばならない。
そのたたかいに参加する中で自己の変革もやり遂げてゆくのだ。

 社会変革の中での自己変革-----。
これが自分の「創作民話」に課している私の中心課題だ。
 革命的ロマンチシズムの追求と言ってもいい。
「八郎」はその第一作であった。
 この文学的追求をクッキリと原点で行おうと思った時、私は童話の世界へ来た。

 日本には、まだ真に「国民文学」と呼べるような作品が無いのではないか。
作ってゆかねばならぬのではないか。
 ロマンチシズムの要素を欠いて、特に現代で革命的ロマンチシズムの要素を欠いて、
これからの国民文学と呼べるようなものが完成されようとは思われない。

 その時われわれのいる童話のジャンルの意味は大きい。
 「メルヘン」といい、「民話」といい、もと、子どものものであると共におとなのものでもあった。
 敗戦の大変動から四半世紀を経た七十年代というこの激動の時に、
どの方向をめざしてどう生きるべきかを、新しい民話として創り出してゆきたい。

 併せて、「方言」の問題も考えざるを得ない。
共通語の役割を不充分に果たしながら、標準道徳を流しこむ道具にもされている「標準語」が、
国民の九割が生活の中で日常使用している地域語を蔑視しているのは不当だ。

 地域語が尊重され、そこから出発してやがて真に美しい日本共通語の完成することが願われる。
 「八郎」が全編秋田弁で書かれているのは、秋田弁の豊かさと詩情にひかれ、
そのおのずとにじみ出る生活感にひかれたものだが、以上のような願いも含まれていたのであった。