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「骨董屋という仕事」 青柳 恵介

2014年04月30日 00時14分44秒 | 雑学知識
 「骨董屋という仕事」 青柳 恵介 著 1999年

 後藤さんは昭和10年生まれ、30年以上勤めた老舗の骨董店を退社して独立した骨董店の主人。

 後藤さんの先輩には幾人ものプロ中のプロという感じの方たちがいた。
そういう人たちに一体どういう教育を受けて目の確信を得たのかと聞くと、
一流の店で修行した人たちが異口同音に語ることは、
「教育」というようなことは何も受けなかったというのである。

 後藤さんも先輩から「小学生に大学院で教えてることを話してもしょうがない」
と言われたこともあったらしい。

 私の推測だが、教えないということが一つの教育だったのではあるまいか。
教えないことが、自主性、自発性を伸ばしたのではなかろうか。
感覚は、いくら知識を注入しても育たない。
むしろ知識は感覚を侵(おか)し、感覚の働きを鈍くさせる。

 まったく活字を読まない人の中に、
光るものを発見する才能の持ち主がしばしばいることも思い合わされる。
これを徹底的に見ろとも言われないで見る視線は「盗み見」あるいは、「垣間見」の視線である。
魅惑的なものを自らのうちに取り込む視線、別の言い方をすれば、見ることの最大の快楽は、
「盗み見」「垣間見」にこそあると言えるかもしれない。

 名品が次から次に流れて行くような環境にあっては、むしろ目が飢えるような環境を作り出すために、
教えない、とりたてて見せないという状況が積極的な意味を持ってくるのである。

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