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「外郎売」 解説

2013年07月15日 00時26分07秒 | 名文(規範)
 「歌舞伎十八番」 十二代目 市川団十郎 著  河出書房新社 2002年

 「外郎売」 解説

 七代目団十郎が制定した歌舞伎十八番の名目では「外郎」である。
 「外郎売虎屋藤吉」などと役名をつける表現から、現代は一般に「外郎売」の名で知られている。
市川団十郎が小田原の外郎という薬を売り歩く行商人の扮装で現れ、この薬の由来や効能を、
すらすらとよどみなく述べ立てる。

 享保三年(1718)正月江戸森田座の「若緑 勢曽我(わかみどりいきおいそが)」の中で、
二代目団十郎の扮する畑六郎左衛門という人物が、外郎売の姿で登場し、
長い「言い立て」のせりふを滝の流れるように流暢に、勢いよく述べ立てて大好評を博したと言う。
弁舌に優れていた二代目の特徴を十分に発揮させようとの意図によって創作された役であろう。
頭巾をかぶり薬箱を背負ったユニークな扮装と、長せりふを心地よく聞かせるだけの役だから、
とくに荒事の様式的な演技があるわけではないのに、江戸の外郎家に伝わる伝承によると、
実際に外郎売の行商をしたことはないのだが、
二代目団十郎の懇望によってその扮装で売り歩いたとする創作を許したのだと伝える。
実情はわからない。

 二代目が大阪に上った時「外郎売」を演じたが、いざ眼目の長いせりふにかかろうとすると、
意地の悪い観客が早口で先回りして言ってしまった。
二代目は少しも慌てず、せりふを終わりの方から逆にすらすらと言ってみせ、
観客を一驚させたと伝えられる。
話の真偽は別として、二代目の偉大さ讃仰して語られた逸話であるのは間違いない。

 天保三年(1832)三月、七代目団十郎が「助六」を上演した時、十歳の海老蔵改め八代目団十郎に、
外郎売の藤吉が吉原の廓内に登場する趣向で勤めさせた。
しばらく中絶していたのを、大正十一年九月の帝国劇場で、
市川三升(十代目団十郎)が常磐津の所作事で独立させて上演した(平山晋吉脚本)。
その後、昭和十五年五月の歌舞伎座で、十一代目団十郎が市川宗家の養嗣子になって海老蔵を襲名した時、
「曽我対面」の趣向を借りて「歌舞伎十八番の内 ういろう」の外題で復活した(川尻清潭脚本)。
いずれも眼目の言い立てが所作事仕立てになっていた。

 昭和五十五年五月、海老蔵時代の十二代目団十郎が復活した作(野口達二脚本)が
「歌舞伎十八番」と銘打って現在も行われる。
曽我物の一場面とした設定で、富士山を背景にした初春の大磯の廓で、
外郎売 実は曽我五郎が敵の工藤祐経に対面する趣向の創作である。
この作では、外郎の言い立てを本来のせりふに戻した。
昭和六十年五月の歌舞伎座、十二代目団十郎襲名披露の興行で、七代目市川新之助の初舞台も披露された。
この時の狂言が「外郎売」だった。
野口達二が前作を改訂し、団十郎の外郎売が新之助の扮する貴甘坊と連れ立って登場し、
言い立ては貴甘坊がすべて演じるという趣向にしてあった。


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