「はだかのいのち」 障害児のこころ、人間のこころ 高谷 清 著 大月書店 1997年
「正義はいろいろある」 P-122
人は同じ空間と時間のなかで生活しているのであるが、
じつはいろいろな別の世界がその同じ空間と時間のなかにある。
共存していることが分かってきた。
そしてそれぞれの「正義」をもっていることも分かってきた。
たとえば私は私なりに正しいと考えるものがある。
いわば自分の「正義」があり、当然のことながらそれが「正義」であることを疑わず、
他の人に話し訴える。
しかし他の人にはその人の「正義」がり、それが生活の規範になっている。
そうだとすればわたしの「正義」は他の人にとっては「正義」ではないし
(もちろん「正義」が同じであることはありえる)訴えているつもりで、
それは押し付けになっていることが多いのではないかということが見事に分かってしまった。
いろいろな「正義」をお互いに認めあうことが大事であること、
それが人間関係の基本的なことであること、そしてこれが民主主義というものなのだと、
ストンと胸におちた気がした。
相手の眼になってものが見えて、相手の「正義」が分かって、そのうえで自分の主張をしたとき、
それはよく相手の心に入っていくこともまた分かった。
相手と自分の「違いを認めあっていっしょに」ということなんだろう。
「違いがあるからいっしょにしない」というのは駄目であることは分かる。
しかし「違いをのり越えていっしょに」というのではない。
もちろんのり越えられたらそれにこしたことはないが、のり越えるのは時間かかるし、
難しいことでもある。
ならば「違いを認めあっていっしょに」というのが多分真実であろうし、現実的でもあるし、
大事なのであろう。
そしてやがて違いをのり超えていくことにもなろう。
後略
1997年1月 高谷 清 重症心身障害児施設・第一びわこ学園園長、小児科医師
「正義はいろいろある」 P-122
人は同じ空間と時間のなかで生活しているのであるが、
じつはいろいろな別の世界がその同じ空間と時間のなかにある。
共存していることが分かってきた。
そしてそれぞれの「正義」をもっていることも分かってきた。
たとえば私は私なりに正しいと考えるものがある。
いわば自分の「正義」があり、当然のことながらそれが「正義」であることを疑わず、
他の人に話し訴える。
しかし他の人にはその人の「正義」がり、それが生活の規範になっている。
そうだとすればわたしの「正義」は他の人にとっては「正義」ではないし
(もちろん「正義」が同じであることはありえる)訴えているつもりで、
それは押し付けになっていることが多いのではないかということが見事に分かってしまった。
いろいろな「正義」をお互いに認めあうことが大事であること、
それが人間関係の基本的なことであること、そしてこれが民主主義というものなのだと、
ストンと胸におちた気がした。
相手の眼になってものが見えて、相手の「正義」が分かって、そのうえで自分の主張をしたとき、
それはよく相手の心に入っていくこともまた分かった。
相手と自分の「違いを認めあっていっしょに」ということなんだろう。
「違いがあるからいっしょにしない」というのは駄目であることは分かる。
しかし「違いをのり越えていっしょに」というのではない。
もちろんのり越えられたらそれにこしたことはないが、のり越えるのは時間かかるし、
難しいことでもある。
ならば「違いを認めあっていっしょに」というのが多分真実であろうし、現実的でもあるし、
大事なのであろう。
そしてやがて違いをのり超えていくことにもなろう。
後略
1997年1月 高谷 清 重症心身障害児施設・第一びわこ学園園長、小児科医師