民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「下駄とわらぞうり」 中野 孝次

2015年06月24日 00時14分19秒 | 雑学知識
 「人生のこみち」 中野 孝次  文藝春秋 1995年

 「下駄とわらぞうり」 P-75

 うちに居るときわたしは冬でも夏でも一年中、屋外では下駄、屋内ではわらぞうりを用いる。もう足がそういうふうに成り切ってしまっているので、それ以外では気持ちが悪い。戦後はずっと下駄はすたる一方で、ゴムのサンダルが幅をきかしているが、わたしはサンダルなんて代物は履く気にならないのである。なにより足をつっかけたときの感触が悪い。ベタッとして、人工的で、冷たくて、歩いてもペタペタといやな音をたてる。作り全体がいかにも安物然としていて、あれを履いている人まで安っぽく見えるような気がする。
 わたしはかねてから自分なりの人物鑑定法を作っていて、これはまったくの私家版だから正しいという保証はぜんぜんないが、その一、二をここに内緒で御披露すれば、
 一、サンダル履きにえらい人なし。
 一、男女を問わず肩からカバンをさげている人にえらい人なし。
 一、いま電車に間に合うと駆けだす人は、生涯きっと駆けだしてばかりいるだろう。
 一、これ見よがしにブランドものを持ち歩く女は、それしか誇るものがないのだ。
 というようなものである。

 中略

 下駄というのは、日本の風土の中から生れ代々用いられて来たこの国独特の履き物であって、日本の気候の中ではこれが一番履きよいから愛用されて来たのだろう。実際あの桐の木のかたくてやわらかい肌ざわりは独特のもので、樫や欅のように固すぎず、冷たからず、足にしっとりとくるし、地面からの衝撃をもやわらげる。そしてその乾いた、カランコロンの音もほがらかでいい。履きだしたらこんな履き易い履き物はないとわたしは信じている。

 中略

 わたしはあえて下駄に固執し、サンダルなんてものに目もくれず、毎日下駄を履いて街を歩いている。この街に来て二十年、いまではわたしの下駄の音を聞いて、おや、そこに下駄を履いていらっしゃるのは中野さんと、下駄の音でわたしを識別する人さえ現れるくらいである。
 下駄がとくにいいのは真夏で、足はむれず、足がじかに大地をふみしめている感があり、さわやかで、こたえられない。だからわたしはかつて水虫なんてものにかかったことがない。ただ、困るのは今は街中が全部舗装されているから、音が高いのと歯の減るのが早いことで、これが大方の人が下駄を敬遠する理由かもしれない。

 後略

 

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