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「僕が色気を感じるとき」 その1 林 望

2015年10月12日 00時13分33秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

 「僕が色気を感じるとき」 その1 P-94

 前略

 男の色気、などと大上段に構えたことを口幅ったくも書くつもりなどない。ただ私自身は、男でありながら、いや男であるからこそ、男の「色気」が、奈辺にあるのかということについては、実はよく分かっていないのだということを言いたいのである。
 逆に言えば、女の色気とはどんなもので、男たちがどのように反応するかということを、たぶん女自身はよく分かっていないだろうということでもある。
 けれども、女たちは、日ごろから、どうしたら自分が魅力的に見えるかということを、おさおさ怠りなく研究しているので(よろずの女性誌を見ればそれが分かる)、よもや自分が自分の色気について分かっていないとは思ってもいない。その結果、そうじゃないよと正直な意見を男が述べても、絶対に聞く耳を持たぬ。これがなにしろ大問題だ。
 私から見ると、女の「色気の自己評価」は多分に同性への視線に依拠し、男の感覚がどうであるかということについて、女たちは驚くほど鈍感である。
 たとえば、藤原紀香という「美人」がいる。女たちの目には、フジワラノリカという存在は、ひとつの「理想形」として映っているらしく、ああいうのに対して男たちは無条件に色気を感じるものだと疑わないのであるが、じつはね、そんなことはないのだよ。
 ああ、たしかに足は驚くほど長い。胸はたわわに大きい。まるで「絵に描いたような肢体」である。
 でもなぁ、と男たちは思うのである。
 あれは、たしかに、驚くような姿形の女であるが、しかしその分、実に現実感が希薄で、あたかもお人形か絵空事みたように感じられる。それ故、色気の面では却って普通一般の男たちの琴線には触れてこないかもしれないのだ。それはちょうど、スーパーモデルが、まったく別世界の存在で、同じ人間としての親しみや色気を覚えないのと良く似ている。


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