「唐代伝奇集 2」 前野 直彬 東洋文庫 16 平凡社 1964年
「くらやみの囲碁」 P-389
囲碁の上手な王 積薪(せきしん)が山の中にある寡婦(やもめ)の婆さんの家に宿を借りた。
その家には姑と嫁が住んでいるきりで、戸はすべてしめ切ったまま、飲み水と火を持って来てくれただけである。
日が暮れたかと思うと、二人とも錠をかけて寝てしまい、積薪は軒下に横になったが、夜更けになってもまだ眠れない。
すると不意に、家の中から姑の嫁を呼ぶ声が聞こえてきた。
「こんなよい晩に、なにも楽しみがないね。お前と一局、囲碁でも打とうか」
すると嫁は、
「いたしましょう」と答えている。
家の中にはあかりもなかったはずだし、二人は東西の部屋に分かれているので、積薪は心の中でふしぎなことだと思い、扉に耳をおしつけていると、嫁の声が聞こえた。
「ホの9に石を置きましたわ」
すると、姑の返事があった。
「ホの12に置いたよ」
嫁がまた、
「ルの10に置きましたわ」
姑もまた、
「ヌの10だよ」
石を一つおろすごとに、どちらもしばらく考えていた。
午前2時を過ぎようというころである。
積薪はその棋譜をいちいち胸の中にたたみこんでいた。
すると36手目に突然、姑が言い出した。
「もうお前の負けだよ。わたしが9目だけ勝ったね」
嫁もそれを承認した。
夜があけてから積薪は、正装して姑に指南を仰ぎたいと申しいれた。
すると姑は、
「お前さんの好きなように一局だけ作ってごらん」と言う。
積薪はすぐに荷物袋の中から碁盤を取り出し、日ごろの秘術をつくして石を置いたが、まだ10あまりしかおろさないうちに、姑は嫁の方をふり返りながら言うのであった。
「この人にはふつうの手を教えてやればいいよ」
すると、嫁が盤を指さしながら、攻めたり守ったり、敵の石を殺したり目を奪ったり、こちらの石を救ったり防いだりする方法を教えてくれたが、その教え方はたいへん簡単であった。
積薪がもっと説明してくれと頼むと、姑は笑いながら答えた。
「これだけでも人間界では無敵の名人となるだろうよ」
積薪はあつく礼を述べて二人に別れ、家を出て10歩あまり行ってから、また引き返そうとしたときには、さっきあった家がかき消えていた。
それから積薪の芸は、まったく肩を並べる者がないほどになったのである。
そしておぼえていた姑と嫁の一局をならべながら、精根の限りをつくして9目の勝ちになる筋道を考えてみたが、どうしてもわからなかった。
そこでこれを「○○の定石」と名づけた。
それは今でも棋譜にのっているが、結論を出すことのできた人は、まだ一人もいない。
「くらやみの囲碁」 P-389
囲碁の上手な王 積薪(せきしん)が山の中にある寡婦(やもめ)の婆さんの家に宿を借りた。
その家には姑と嫁が住んでいるきりで、戸はすべてしめ切ったまま、飲み水と火を持って来てくれただけである。
日が暮れたかと思うと、二人とも錠をかけて寝てしまい、積薪は軒下に横になったが、夜更けになってもまだ眠れない。
すると不意に、家の中から姑の嫁を呼ぶ声が聞こえてきた。
「こんなよい晩に、なにも楽しみがないね。お前と一局、囲碁でも打とうか」
すると嫁は、
「いたしましょう」と答えている。
家の中にはあかりもなかったはずだし、二人は東西の部屋に分かれているので、積薪は心の中でふしぎなことだと思い、扉に耳をおしつけていると、嫁の声が聞こえた。
「ホの9に石を置きましたわ」
すると、姑の返事があった。
「ホの12に置いたよ」
嫁がまた、
「ルの10に置きましたわ」
姑もまた、
「ヌの10だよ」
石を一つおろすごとに、どちらもしばらく考えていた。
午前2時を過ぎようというころである。
積薪はその棋譜をいちいち胸の中にたたみこんでいた。
すると36手目に突然、姑が言い出した。
「もうお前の負けだよ。わたしが9目だけ勝ったね」
嫁もそれを承認した。
夜があけてから積薪は、正装して姑に指南を仰ぎたいと申しいれた。
すると姑は、
「お前さんの好きなように一局だけ作ってごらん」と言う。
積薪はすぐに荷物袋の中から碁盤を取り出し、日ごろの秘術をつくして石を置いたが、まだ10あまりしかおろさないうちに、姑は嫁の方をふり返りながら言うのであった。
「この人にはふつうの手を教えてやればいいよ」
すると、嫁が盤を指さしながら、攻めたり守ったり、敵の石を殺したり目を奪ったり、こちらの石を救ったり防いだりする方法を教えてくれたが、その教え方はたいへん簡単であった。
積薪がもっと説明してくれと頼むと、姑は笑いながら答えた。
「これだけでも人間界では無敵の名人となるだろうよ」
積薪はあつく礼を述べて二人に別れ、家を出て10歩あまり行ってから、また引き返そうとしたときには、さっきあった家がかき消えていた。
それから積薪の芸は、まったく肩を並べる者がないほどになったのである。
そしておぼえていた姑と嫁の一局をならべながら、精根の限りをつくして9目の勝ちになる筋道を考えてみたが、どうしてもわからなかった。
そこでこれを「○○の定石」と名づけた。
それは今でも棋譜にのっているが、結論を出すことのできた人は、まだ一人もいない。