民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「待ち合わせ」 向田邦子との20年 久世 光彦

2014年08月08日 00時06分50秒 | エッセイ(模範)
 「向田邦子との20年」 久世 光彦(くぜてるひこ) ちくま文庫 2009年

 「待ち合わせ」 P-204 「夢あたたかき」より

 前略

 女にかぎらず、人がどう生きるかということは、たとえば待ち合わせの場所であり、物の持ち方なのだと思う。私とあんみつ屋で待ち合わせようが、紙袋を提げて歩こうが、みっともないわけでもないし、人にとやかく言われることでもない。けれど、そんな日常の些細なことにこそ、その人の気性は顕(あらわ)れるものだし、逆にそれらに拘り、一つ一つに気を配ることで、人柄というものは次第にでき上がっていくのかもしれない。向田さんはよく気のつく人だった。心配りの細やかな人だったとよくいわれるのは、ただ他人のことを思ってというだけではなかった。自分のために、していたことである。人に迷惑をかけないほどに我儘だったし、臆面もなく身勝手でさえあった。むしろ、そのことまで含めて、人との間のバランスを考えていたのである。
 向田さんは、たとえば、私なんかに会うずっと以前に、いろんな嫌なことことが人との間にあったに違いない。人と人の間というものは、男と女にかぎらず、いつも崖っぷちを手探りで歩いているようなものである。ちょっとした不注意な言葉一つで、足元はすぐに崩れる。何気なく洩らした一つの溜息のおかげで、いきなり深い霧に包まれ、行く先がわからなくなってしまうことだってある。そういうことを、とても怖がっているところが、あの人にはあった。待ち合わせはおろか、ほんとうは、できることなら人に会わないで暮らしたいとさえ思っていた節さえある。よく陽気な楽天家だと言われる人が、救いようのないくらいペシミストだったりすることは、世の中、よくあることである。あの人がペシミストだったとは言わないが、自分とある人との間を、あえて曖昧にしようとしていたように思ったのは私だけではあるまい。

 後略