民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「再話について」 松谷 みよ子

2012年06月10日 00時09分53秒 | 民話(語り)について
 松谷みよ子----私が民話を再話する時に注意すること---

 もしナタで削るか、細かい彫刻刀を使うかという方法があるとすれば、私はナタで削りたい。
一番、大切なテーマを 大まかに削っていきたいと思う。
彫刻刀は美しく整うかもしれないけど、あまり部分にとらわれると、
何を言ってるのかわからなくなり、表現ばかりが浮いてきかねない。

 また余計なことは綿々と書かない。
そこを語り残してこそ 人生について思いを馳せる楽しみがあるのに、
書き手のイメージを押し付けるように、
これでもかこれでもかと書き加えていく再話は好きでない。

 民話には、呼吸や息づかいが必要だと思う。
文学にしてしまってはいけないと思うのである。
あまりに追求しすぎ、艶布巾で磨き上げた作品には 飽きがくるのではないかしら。

 村々の老人の語り口そのままを記録した再話集が いつまでも新鮮なのに比べ、
ともすれば再話がつまらなく、色あせてくることが多いように思うのは、私のひがみだろうか。

 それは畑の菜を露も泥もつけたまま掘り起こしたものと、八百屋の店頭に、
いやデパートの食品売り場に、ポリエチレンの袋に包まれ、
清浄無垢な顔で並んでいる菜との違いのようでもある。
綺麗だけれども生気がなく、少しするとしなびてくる。
そうではないもの、まだ露も泥も残っているままで、ただ虫食いの葉はとってある、
そんなみずみずしさと未完成さが、むしろ再話には必要かと思う。

 ということは、呼吸や息づかいの残る文体ということも含まれるのであって、
文学にしようと必死で取り組んだあとが残ってはいけないのではないだろうか。

 民話の本質が「語る」ということにある以上、語りには書き直しはできないのだから、
語り始める以前の呼吸に、すでにたっぷりとしたよい語りになるか、
気の進まない語り方になるかの違いがある。

 文章化する場合も、その一息に語り始めるだけの充実感がものをいうのではないだろうか。