goo blog サービス終了のお知らせ 

民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「嫁と姑」 日本残酷物語 編集 下中 邦彦

2012年09月18日 10時14分11秒 | 民話の背景(民俗)
 嫁と姑 「日本残酷物語」一部 貧しき人々のむれ 編集 下中 邦彦 平凡社 昭和34年

 青森県五戸(ごのへ)地方では、女の呼び名が、一生の間に、次のように変わっていくという。能田 多代子「村の女性」

 ワラシ(童)-----4,5才から12,3才、つまり赤ん坊が乳離れして、ひとり遊びができるようになってから、だいたい小学校を終える頃まで、家ではジイサマ、バアサマの手でしつけられ、まだ勝手に遊んでも、そうきびしく文句はつかない。

 メラシ(娘)-----14,5才から17,8才。小学校を終わる頃ともなれば、女の子はことさら行儀作法はもちろん、言葉遣いの端から立ち居振る舞いの末まで、こまかく注意されるようになる。「娘と糸ベソは大きくなるほど邪魔になる」といういいならわしのとおり、なんとかして嫁にやらねばならないので、親達の心も痛むし、本人の気ももめるというものである。糸ベソというのは、麻つむぎの糸巻きのことだが、むかしは暇さえあれば、女たちは麻つむぎにはげんだので、始終、それを身の回りに置いた。いつも目の前にごろごろしているので、大きくなるほどあつかいにくくなるわけだ。東北の村の女たちは早婚である。おそくとも、18くらいまでには片付かぬと、親も娘も世間体が悪く、メタシの会合に出るのも、バツが悪くなる。まして19,20才ともなれば、もうメラシの仲間に勘定されず、嫁にいっても「年寄り嫁」ということで、肩身が狭い。まことに短い娘の期間であった。

 アネ、アネコ(嫁)、アッパ(母)-----跡取り息子の嫁だけがアネで、冷や飯食いの2,3男の嫁はオジヨメとふるくは呼びわけたようだ。アネコの期間は案外短く、子供を持つと、アッパとかわる。ヨメはヘラワタシ(主婦権渡し)をうけて、主婦となるまでのあいだの呼び名だが、アネコの期間は長く、アッパの時代が長い。

 オンバ(祖母)、エヌシ(主婦)-----アッパも孫を持つとオンバと呼ばれる。早婚だから、40前のオンバもできるが、それはナカラオンバと呼び分けている。ヘラワタシをうけて、一家の主婦になるのは、ようやくこの頃で、まだエヌシという古風な呼び名が残っている。やっと気楽にふるまえるようになるのだが、といって、仕事のはげしさがなくなるわけではない。

 ババ(隠居)-----エヌシ(主婦)の権利を嫁に渡せば、ババになる。このころにはもうヒコマゴができ、もっと長命すれば、ヤサゴさえ持つようになる。だからトソリババ(年寄り婆)とワカババとを呼び分ける必要もあるわけで、80過ぎのトソリババはひっそり住んで、死ぬのを待つばかりということになる。

 ワラシ→メラシ→アネコ(ヨメ)→アッパ→オンバ(エヌシ)→ババ。つまりこれが女の一生であった。

「田植えをしながらの女たちの会話」 宮本 常一

2012年09月13日 23時27分20秒 | 民話の背景(民俗)
 田植えをしながらの女たちの会話 「忘れられた日本人」 宮本 常一

「この頃は田の神様も面白うなかろうのう」
「なしてや・・・」
「みんなモンペをはいて田植えするようになったで」
「へぇ?」
「田植えちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行くはせんので、田の神様を喜ばして、田植えを手伝うてもろうたもんじゃちうに」
「そうじゃろうか?」
「そうといの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが、田の神様がニンマリニンマリして・・・」
「手がつくまいにのう(仕事にならないだろう)」
「誰のがええ、彼のがええって見ていなさるちうに」
「ほんとじゃろうか」
「ほんとといの。やっぱり、器量のよしあしがあって、顔の器量のよしあしとはちがうげな」
「そりゃ、そうじゃろのう、不器量でも男にかわいがられるもんがあるけえ・・・」
「顔のよしあしはすぐわかるが、観音様のよしあしはちょいとわからんで・・・」
「それじゃからいうじゃないの、馬にはのって見いって」
 
 こうした話が際限もなく続く。

「見んされ、つい一まち(一枚)植えてしもうたろうが」
「はやかったの」
「そりゃ、あんた、神様がお喜びじゃで・・・」
「わしもいんで(帰って)亭主を喜ばそうっと」

 女たちのこうした話は田植えの時にとくに多い。田植え歌の中にもセックスをうたったものがまた多かった。作物の生産と、人間の生殖を連想する風は昔からあった。正月の初田植えの行事に性的なしぐさをともなうものがきわめて多いが、田植えの時のエロばなしはそうした行事の残存とも見られるのである。そして、田植えの時などに、その話の中心となるのは大抵、元気のよい四十前後の女である。若い女たちにはいささか強すぎるようだが、話そのものは健康である。早乙女の中に若い娘がいるときは話が初夜のことになる場合が多い。

「昔、嫁に行った娘が泣く泣く戻ったといの」
「へぇ?」
「親が、わりゃァ、なして戻って来たんかって、聞いたら、婿が夜になると大きな錐(きり)を下腹にもみこんで、痛うてたまらんけえ、戻ったって言ったげな」
「へえ」
「お前は馬鹿じゃのう、痛かったらなして唾(つば)をつけんか、怪我をしたら「親の唾、親の唾」って傷口へつばをつけると痛みがとまるじゃないか。それぐらいの事ァ知っちょろうがって言うたんといの」
「あんたはどうじゃったの」
「わしら、よばいど(夜這い奴)に鉢を割られれしもうて・・・」
「今、どうじゃろうか。昔は何ちうじゃないの、はじめての晩には柿の木の話をしたちう事じゃが・・・」
「どがいな話じゃろうか」
「婿がのう、うちの背戸に大きな柿の木があって、ええ実がなっちょるが、のぼってもよかろうかって嫁に言うげな、嫁がのぼりんされちうと、婿がのって実をもいでもえかろうかちうと、嫁がもぎんされって、それでしたもんじゃそうな・・・」

 中略

 このような話は戦前も戦後もかわりなく話されている。性の話が禁断であった時代にも、農民の、とくに女たちの世界では、このような話もごく自然に話されていた。そしてそれは田植えばかりでなく、その外の女たちだけの作業の間にも、しきりに話される。近頃はミカンの選果場がそのよい話の場になっている。まったく機智があふれており、それがまた仕事をはかどらせるようである。
 無論、性の話がここまで来るには長い歴史があった。そして、こうした話を通して男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛夫家であるのもおもしろい。女たちのエロ話の明るい世界は女たちが幸福である事を意味している。したがって、女たちのすべてのエロ話がこのようにあるというのではない。
 女たちの話を聞いていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである。

「港をひらく」 宮本 常一

2012年09月09日 22時59分14秒 | 民話の背景(民俗)
 梶田富五郎翁 「忘れられた日本人」 宮本 常一 1960年

 港をひらくちうのは、港の中にごろごろしちょる石をのけることでごいす。
人間ちうものは知恵のあるもんで、思案の末に大けえ石をのけることを考えついたわいの。
潮がひいて海の浅うなったとき、石のそばへ船を二さいつける。
船と船の間へ丸太をわたして元気のええものが、藤蔓(ふじづる)でつくった大けな縄を持ってもぐって石へかける。
そしてその縄を船にわたした丸太にくくる。
潮が満ちてくると船が浮いてくるから、石もひとりでに海の中へ浮きやしょう。
そうすると船を沖へ漕ぎ出して石を深いところへおとす。
船が二はいで一潮に石が一つしか運べん。
しかし根気ようやってると、どうやら船のつくところくらいはできあがりやしてのう。
みんなで喜んでおったら大時化(おおしけ)があって、また石があがって来て港はめちゃめちゃになった。

 こりゃ石の捨て場がわるかったのじゃ、もっと沖の方へ捨てにゃァいかんということになって、今度はずーっと深いところまで持っていって捨てやした。

「日本の闇は濃かったのだ」 斉藤 隆介 

2012年09月05日 11時40分50秒 | 民話の背景(民俗)
 我らの<童話革命>を-----日本の闇は濃かったのだ 斉藤隆介 1969年 斉藤隆介全集 第三巻

 「はなし」が生まれ、語られた頃、日本の闇は濃かったのだ。それをこの頃、私は思う。
「はなし」は、「おとぎ話」などと呼ばれ、やがて「民話」などとも呼ばれるなって、それが語られた頃の、もろもろのものを失った。
 中略
 語るのはばばで、しらがはギラギラとほだ火のてりかえしに銀色に輝き、しわだらけの頬がペラペラ時々まっ赤に染まったりした。菜種油は高いから、貧しい雪深い村の農家では、夜はそんなのもは使わず、
いろりのほだ火のあかりをあかりにしたのだ。
 外はべったりと漆を塗りこめたような闇で、それこそ真の闇だったろう。もの提灯などの灯が動いてくれば、それがもう不気味なはなしになったり、なつかしいなつかしいはなしになったりしたろう。
 雪が降ったり積もったりしていたら、夜の地上だけ明るいふしぎさはまた別のはなしを生んだのだ。
 中略
 私は秋田に十年ほど住んだが、山奥の農家に行った時、そこの表戸をあけて驚いた。入り口から広い土間を横切って、長々と太い木の幹が横たわっていたのだ。燃えるにしたがって引き上げるのだ。
 電灯は消してあった。おそらくあまりつけることはなさそうに思われた。それでも結構用は足りた。ほだ火のてりかえしの中でばさまは茶を入れてくれ、じさまはどぶろくを出してくれた。
 ただし人の影は壁から天井に大きく折れ曲がってうつり、こちらが動くたんびにおどろおどろしくあちこちした。下から火を受けた顔は、下まぶたが明るく上まぶたが暗くて、まるで狐つきのように見えた。おそらくわたしの顔もそう見えたろう。
 ああいう明かりの中で「はなし」は語られたのだ。

「戦場の虫の音」 笠原 政雄

2012年07月05日 12時06分44秒 | 民話の背景(民俗)
  戦場の虫の音 「雪の夜に語りつぐ」笠原政雄 1918年、新潟県柏崎市生まれ、1994年没。

新潟県の語り部、笠原政雄さんがしていた話。 

 おれがさ、戦場に出てるとき、それはものすごい攻撃にあったことがあるの。
耳をつんざくような大砲の音がして、砲弾がつるべ打ちに飛んでくるんだ。
そうして、砲弾が一つ撃ち込まれて炸裂すると、それが安全カミソリぐれえの刃になって飛び散るんだ。
もう、壕から頭なんか出されるもんでない。
二日も三日も壕野中にしゃがまって、じっとしてなきゃならんかった。
 そんときさ、大砲の音に追い払われて 鳥の声もしないのに、虫だけが「チーチーチー」て、
草ん中で 鳴いているのが 聞こえたんだ。
虫は耳がないんだかなあ、なんて思うたりしてるうち、時分が小さいとき、
「こおろぎてやな、こんげに鳴くがんだ」て、母親が言うて 聞かした話を思い出してくるわけなんだ。

 秋仕事(稲の穫(とり)入れ)が終わってね、そろそろ涼風がたつころになると、こおろぎが鳴くんだ。
「つづりさせ、つづりさせ、はさみ切って、つづりさせ。
餅ついて、隣の権兵衛さんと 酒五合とって、きな粉でやらかせ、やらかせ。」
って、鳴くんだって。

 つづり てやさ、夏のうちは、そこらが切れてても 寒さを感じないども、
これから寒くなるから、早く切れた着物の始末をしろ、って言うているんだと。
 そして、それを終えたら、夏のうち、仕事に追われて 近所にもご無沙汰がちだから、
おやじは酒五合買(こ)うてきて、隣のおやじとその酒を飲みながら、ゆっくり世間話でもしれ。
母(かあ)ちゃんたちは餅でもついて、きな粉で食え、って、鳴くがんだと。

 こんな話を、母親の声とともに思い出したの。
そうしると、今まで 張りつめていた気持ちがさ、なんだか なごやかに 変わってくるんだね。
親の話はありがたいと思うたよ。