民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「田植えをしながらの女たちの会話」 宮本 常一

2012年09月13日 23時27分20秒 | 民話の背景(民俗)
 田植えをしながらの女たちの会話 「忘れられた日本人」 宮本 常一

「この頃は田の神様も面白うなかろうのう」
「なしてや・・・」
「みんなモンペをはいて田植えするようになったで」
「へぇ?」
「田植えちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行くはせんので、田の神様を喜ばして、田植えを手伝うてもろうたもんじゃちうに」
「そうじゃろうか?」
「そうといの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが、田の神様がニンマリニンマリして・・・」
「手がつくまいにのう(仕事にならないだろう)」
「誰のがええ、彼のがええって見ていなさるちうに」
「ほんとじゃろうか」
「ほんとといの。やっぱり、器量のよしあしがあって、顔の器量のよしあしとはちがうげな」
「そりゃ、そうじゃろのう、不器量でも男にかわいがられるもんがあるけえ・・・」
「顔のよしあしはすぐわかるが、観音様のよしあしはちょいとわからんで・・・」
「それじゃからいうじゃないの、馬にはのって見いって」
 
 こうした話が際限もなく続く。

「見んされ、つい一まち(一枚)植えてしもうたろうが」
「はやかったの」
「そりゃ、あんた、神様がお喜びじゃで・・・」
「わしもいんで(帰って)亭主を喜ばそうっと」

 女たちのこうした話は田植えの時にとくに多い。田植え歌の中にもセックスをうたったものがまた多かった。作物の生産と、人間の生殖を連想する風は昔からあった。正月の初田植えの行事に性的なしぐさをともなうものがきわめて多いが、田植えの時のエロばなしはそうした行事の残存とも見られるのである。そして、田植えの時などに、その話の中心となるのは大抵、元気のよい四十前後の女である。若い女たちにはいささか強すぎるようだが、話そのものは健康である。早乙女の中に若い娘がいるときは話が初夜のことになる場合が多い。

「昔、嫁に行った娘が泣く泣く戻ったといの」
「へぇ?」
「親が、わりゃァ、なして戻って来たんかって、聞いたら、婿が夜になると大きな錐(きり)を下腹にもみこんで、痛うてたまらんけえ、戻ったって言ったげな」
「へえ」
「お前は馬鹿じゃのう、痛かったらなして唾(つば)をつけんか、怪我をしたら「親の唾、親の唾」って傷口へつばをつけると痛みがとまるじゃないか。それぐらいの事ァ知っちょろうがって言うたんといの」
「あんたはどうじゃったの」
「わしら、よばいど(夜這い奴)に鉢を割られれしもうて・・・」
「今、どうじゃろうか。昔は何ちうじゃないの、はじめての晩には柿の木の話をしたちう事じゃが・・・」
「どがいな話じゃろうか」
「婿がのう、うちの背戸に大きな柿の木があって、ええ実がなっちょるが、のぼってもよかろうかって嫁に言うげな、嫁がのぼりんされちうと、婿がのって実をもいでもえかろうかちうと、嫁がもぎんされって、それでしたもんじゃそうな・・・」

 中略

 このような話は戦前も戦後もかわりなく話されている。性の話が禁断であった時代にも、農民の、とくに女たちの世界では、このような話もごく自然に話されていた。そしてそれは田植えばかりでなく、その外の女たちだけの作業の間にも、しきりに話される。近頃はミカンの選果場がそのよい話の場になっている。まったく機智があふれており、それがまた仕事をはかどらせるようである。
 無論、性の話がここまで来るには長い歴史があった。そして、こうした話を通して男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛夫家であるのもおもしろい。女たちのエロ話の明るい世界は女たちが幸福である事を意味している。したがって、女たちのすべてのエロ話がこのようにあるというのではない。
 女たちの話を聞いていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。