民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「民俗誌・女の一生」 野本 寛一

2014年04月02日 00時04分36秒 | 民話の背景(民俗)
 「民俗誌・女の一生」 母性の力  野本 寛一 著  文春新書 2006年

 「女たちのことづて」 P-18

 本書は手のとどく過去を生きたこの国の女たちの「民俗誌」である。
海辺のムラ・山中のムラ・平地水田地帯などに生きる人びとの仕事や暮らしに関する誇りに
耳を傾けてきたのである。
が、その間に、女性たちの「体験」と「伝承」の総体がじつに厖大なものであることが
身にしみて感じられるようになった。
その厖大な体験や伝承はこれからどこへ行ってしまうのか、それらは水泡のように消えてしまって
よいものなのか、こうした思いがしきりに胸をよぎるようになった。

 戦前期に生きた女たちは、たしかに陋習(ろうしゅう)に悩まされ、
種々の仕事の厳しさに苦渋を舐めてきた。
しかし、一面、女性としての誇りを持ち、逞しく働き、夫と協力し、
様々な感動を抱いていたのも事実である。
そうした、ふくらみのある彼女たちの人生を、ある側面のみを見て、図式的・観念的に一括して
刻印してしまう傾向はないだろうか。

 大量生産・大量消費、大量の情報、電子化の浸透などによる生活様式の変化の波は、
怒涛のように押し寄せた。
都市集中、農村漁村の過疎化も進んだ。
そのため、生業や生活、村落社会・町内などに網の目のように張りめぐらされ、
生態系のように機能していた多彩な伝承や民族的システムは寸断された。
様々な伝承の中には断絶したものも多く、総じてその水脈は細り、枯渇の危機に瀕している。
個人を結び、イエとイエとを繋ぎ、地域を束ねていた伝承の糸が切れ、価値観の混乱によって、
日本人は様々な面で方途を見失っているのだ。

 中略

 本書に登場する女性たちは、厳しい時代を生きぬく中で、様々な労苦に耐えながらも、
自らに誇りを持ち、家族や隣人を愛し続けてきた。
とりわけその母性は豊かだった。
この国には女性を蔑視する風潮が充満していたように解説されることが多いのだが、
手のとどく過去の民族社会のシステムや民俗の思想を細かく見てゆくと、
実態は決してそんなに単純なものではなく、地域社会や、
イエとして女性と母性を尊び守る潮流が絶えることなく流れていたことに気づく。
その時代はまた、男たちにも厳しい時代だった。
地主・小作・自作農が混在した時代=1946年10月、自作農創設特別措置法・農地調整法改正の
交布によって農地改革がなされる前の時代は、階層差が厳然として存在していた。
多くの小作農においては、男にも女にも厳しい時代だった。
そうした中でも、女性を尊ぶ心は生きていたのだ。
女性について考えることはとりもなおさず男性について考えることであり、
社会について考えることにほかならない。

 後略

「皇后様と『でんでんむしのかなしみ』をめぐって」 末森 千枝子

2014年03月27日 00時12分49秒 | 民話の背景(民俗)
 「新美南吉」 生誕100年記念  別冊 太陽 2013年

 皇后様と「でんでんむしのかなしみ」をめぐって  末森 千枝子(児童図書編集者)

 1998年、皇后様は、インドのニューデリーで開催されたIBBYの世界大会に招かれ、ビデオテープによる基調講演をされました。
講演のテーマは、「子供の本を通しての平和ーーー子供時代の読書の思い出ーーー」です。
思い出の最初にお話になったのが、新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」だったのです。

 「でんでんむしのかなしみ」が、日本だけではなく、海外の絵本に携わる人びとに、関心を持たれるようになったきっかけは、私も、参加者のひとりとして、会場で、皇后さまのお話を聞いておりました。

 「私は、多くの方々と同じく、今日まで本から多くの恩恵を受けてまいりました。(・・・・・・)結婚後三人の子供に恵まれ、かつて愛読した児童文学を、再び子供と共に読み返す喜びを与えられると共に、新しい時代の児童文学を知る喜びも与えられたことは、誠に幸運なことでした。

 中略」

 皇后様の静謐な語りが進むうちに、会場にいた人びとの表情は、真剣になり、ひと言も聞き漏らすまいという張り詰めた雰囲気になっていました。

 「まだ小さな子供であった時に、一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことがありました。不確かな記憶ですので、今、恐らくはそのお話のもとはこれではないかと思われる、新美南吉の「でんでん虫のかなしみ」にそってお話いたします。そのでんでん虫は、ある日突然、自分の背中の殻に、悲しみが一杯つまっていることに気付き、友達を訪ね、もう生きていけないのではないか、と自分の背負っている不幸を話します。友達のでんでん虫は、それはあなただけではない、私の背中の殻にも、悲しみは一杯つまってりう、と答えます。小さなでんでん虫は、別の友達、又別の友達と訪ねて行き、同じことを話すのですが、どの友達からも返ってくる答えは同じでした。そして、でんでん虫はやっと、悲しみは誰でも持っているのだ、ということに気付きます。自分だけではないのだ。私は、私の悲しみをこらえていかなければならない。この話は、このでんでん虫が、もうなげくのをやめたところで終わっています。

 あの頃、私は幾つくらいだったでしょう。母や母の父である祖父、叔父や伯母たちが本を読んだりお話をしてくらたのは、私の小学校二年くらいまででしたから、四歳から七歳くらいまでの間であったと思います。その頃、私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。最後になげくのをやめたと知った時、ああよかった、と思いました。それだけのことで、特にこのことにつき、じっと思いをめぐらせたということでもなかったのです。

 しかし、この話は、その後何度となく、おもいがけないときに私の記憶に蘇ってきました。殻一杯になる程の悲しみということと、ある日突然そのことに気付き、もう生きてはいけないと思ったでんでん虫の不安とが、私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、「ああよかった」だけではすまされなくなりました。生きていくということは、楽なことではないのだという、何とはない不安をかんじることもありました。それでも、私はこの話が決して嫌いではありませんでした。」

 五十分にまとめられたスピーチは、会場にいた世界中から集まった八百人もの聴衆を魅了し、言語や宗教、文化も異なる人たちにとっても、心に響くメッセージとなっていました。
 そして、次のようにむすばれました。

 「前略

 読書は私に、悲しみや喜びにつき、思い巡らす機会を与えてくれました。本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、私が、自分以外の人がどれほど深くものを感じ、どれだけ多く傷ついているかを気付かされたのは、本を読むことによってでした。

 中略

 そして最後にもう一つ、本への感謝をこめて付け加えます。読書は、人生の全てが、決して単純ではないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人の関係においても、国と国との関係においても。」

 皇后様の講演が終わると、会場は割れんばかりの拍手が起こり、拍手をしている多くの人が、感動のあまり、うっすらと涙をうかべていました。

 以下、略

 

「手仕事の日本」 柳 宗悦 その2

2014年03月25日 00時31分46秒 | 民話の背景(民俗)
 「手仕事の日本」 柳 宗悦(やなぎ むねよし) 著  ワイド版 岩波文庫 2003年

 後記 P-239

 この一冊は若い方々のために、今までよく知られていない日本の一面を、
お報(し)らせしようとするのであります。
ここでは手仕事に現れた日本の現在の姿を描くことを主眼としました。
それは三つのことを明らかにするでありましょう。

 第一は手仕事が日本にとって、どんなに大切なものだかを語るでしょう。
固有な日本の姿を求めるなら、どうしても手仕事を顧みねばなりません。
もしこの力が衰えたら、日本人は特色の乏しい暮らしをしなければならなくなるでありましょう。
手仕事こそは日本を守っている大きな力の一つなのであります。

 第二に、この一冊は日本にどんなに多くの手仕事が今なお残っているかを明らかにするでしょう。
昔に比べたらずっと減ってはいますが、それでも欧米に比べますと、
遥かに恵まれた状態にあることを見出します。
それ故この事実を活かし育てることこそ、国民の賢明な道ではないでしょうか。

 第三には地方的な郷土の存在が、今の日本にとってどんなに大きな役割を演じているかを
明らかにするでありましょう。
それらの土地の多くはただに品物に特色ある性質を与えているのみならず、
美しくまた健康な性質をも約束しているのであります。
私たちはそれらのものを如何に悦びを以って語り合ってよいでありましょう。

 吾々はもっと日本を見直さねばなりません。
それも具体的な形のあるものを通して、日本の姿を見守らねばなりません。
そうしてこのことはやがて吾々に正しい自信を呼び醒まさせてくれるでありましょう。
ただ一つここで注意したいのは、吾々が固有のものを尊ぶということは、
他の国のものを謗るとか侮るとかいう意味が伴ってはなりません。
もし桜が梅を謗ったら愚かだと誰からもいわれるでしょう。
国々はお互いに固有のものを尊び合わねばなりません。
それに興味深いことには、真に国民的な郷土的な性質を持つものは、お互いに形こそ違え、
その内側には一つに触れ合うもののあるのを感じます。
この意味で真に民族的なものは、お互いに近い兄弟だともいえるでありましょう。
世界は一つに結ばれているものだということを、かえって固有のものから学びます。

 後略

 昭和18年正月  柳 宗悦



「手仕事の日本」 柳 宗悦

2014年03月23日 00時06分53秒 | 民話の背景(民俗)
 「手仕事の日本」 柳 宗悦(やなぎ むねよし) 著  ワイド版 岩波文庫 2003年

 第二章 日本の品物 P-27 

 「現在の事情」

 私はこれから日本国中を旅行致そうとするのであります。
しかし景色を見たり、お寺に詣でたり、名所を訪ねたりするのではありません。
その土地で生まれた郷土の品物を探しに行くのであります。
日本の姿を有(も)ったもの、少なくとも日本でよくこなされたものを見て廻ろうとするのであります。
それもただ日本のものというのではなく、日本のものとして誇ってよい品物、
即ち正しくて美しいものを訪ねたく思います。
そういうものが何処(どこ)にあり、またどれだけあるのでしょうか。
どんな風に作られているのでしょうか。

 何も一種類のものを見て廻ろうとするのではありません。
平常吾々が生活に用いるものを凡(すべ)て訪ねたいと思います。
焼物あり、染物もあり、織物もあり、金物もあり、塗物もあり、
また木や竹や革や紙の細工もあるでしょう。
きっとある国には甲のものがあっても、乙のものがなかったり、
また同じ乙でも地方で材料の性質が違ったりするでありましょう。
またある種類のものはほとんどの県にあるのに、
あるものはわずか二、三の個所によりないということもありましょう。
また同じ地方でも、ある村で立派なものを作るのに、
すぐその隣村では作り方すら知らないというような場合もありましょう。
それ故もののある場所やその技は、万べんなく一様に行き渡っているわけではありません。
日本は今どんな所でどんなものを作っているのでしょうか。
私の筆はこれから全国を廻って、日本がどれだけ誇るに足りるものを有(も)っているかを、
記してゆこうとするのであります。

 解説  熊倉 功夫 P-243

 われわれが毎日、身のまわりで使っている土瓶や湯呑のような道具が美しいかどうか、
それが美しいとしたら、どんな性格の美しさなのか、考えてみる人はかつていなかった。
柳宗悦(1889~1961)はそうした日常の道具の美しさを指摘した最初の人物であった。
そして新しい美の理論の創造であった。
民藝の思想こそ、近代日本が生んだ普遍性を持つ数少ない思想の一つといってよいだろう。

 よい工藝は手仕事から生まれると柳はいった。
彼が工藝の現状を若い人々に知らせるために、いわば手仕事の全国地図を文章で書いたのが、
この「手仕事の日本」(昭和18年に書かれた)である。

「生活を記す学問の可能性」 安藤礼二

2014年03月21日 00時07分17秒 | 民話の背景(民俗)
 「宮本常一」 逸脱の民俗学者 岩田 重則 著

 「生活を記す学問の可能性」 安藤礼二(文芸評論家)  

 本書は、近年再評価が著しい宮本常一の生涯と思想を、貴重な第一次資料に基づきながら概説し、
現在でも色褪(いろあ)せないその可能性を浮き彫りにした労作である。
著者は言う。クロポトキンの『相互扶助論』を読むことから始まった宮本の学問は、
柳田國男の民俗学からも渋沢敬三の民具学からも「逸脱」していた。
「逸脱」はプラスの意味を持っている。
宮本は、客観性を条件とする通常の学問では許されない主観的な記述を決して排除することなく、
人々の「生活誌」を描き続けた。

 宮本は常に「私」から語った。
だからこそ、宮本は繰り返し「故郷」周防大島に還(かえ)っていったのである。
そこには学問の抽象化と体系化に抗(あらが)う人々の生活があった。
無数の島々からなる列島に移り住んだ人々は海と山を生活の場とし、
自然の資源を有機的に活用することで生活を成り立たせていた。
「定着」以前に「漂泊」があり、「稲作」以前に「畑作」があり、漁撈(ぎょろう)と狩猟があった。「民具」はそうした生活全体の中から捉え直される必要がある。
宮本は、柳田民俗学と渋沢民具学を内側から食い破ってしまったのだ。

 「生活誌」を根幹に据えた宮本の学問を、著者は複眼的な視点からなる「総合社会史」とし、
こう記す。
「総合社会史としての畑作農耕文化の把握は、
たとえば、柳田國男がそうであったような稲作単一農耕文化論の日本文化論に対して、
狩猟・畑作農耕文化を対照的に示すとともに、
さらには、農業以外の漂泊民文化、漁業文化をも提示することにより、
複合文化論(多元的文化論)としての日本文化論をおのずと提出することにもなっていく」

 もちろんその過程で、戦争中の宮本の発言が「大日本帝国」を根底から支えた
「根深い次元からの保守主義」に基づいていることを著者は見逃していない。
農村の現実と直結した独自の保守思想を徹底することが戦後の創造的な見解につながっていった。
歴史の暗部をも見据えたフェアな評伝である。